2009.11.06

王紋と越後菓子

 越後酒の続きである。
 市島酒造の銘柄は諏方(訪)盛だったと記した。造り酒屋の馥郁を引きづりながら向かいにある「おすわさま」に。前回にも記したが新発田は新たに発(ひら)いた田であり、もともとは周辺を泥土層が囲んでいた。しかも市内を流れる加治川は荒れ川で氾濫を起こすことも度々あったという。独立行政法人防災科学技術研究所のサイトに「加冶川周辺低地の地形と1966年氾濫域」という項があり、干拓した潟のほとんどが浸水している。これをみると、新発田が州端(すばた)であることが明白となる。66(昭和41)年というのを気象庁データによる「新潟」で検めると7月に400ミリ以上の雨が降っており、さらに17日に100ミリを超えるとある。この日が上記の浸水時と推測できる。あとに下越水害といわれた。ただし、同庁の「観測史上1〜10位の値(年間を通じての値)」という項をみても66・7・17は見当たらない。もっとも多く降ったのは98年8月4日(新潟豪雨ともいわれる、265ミリ)、次いで165ミリとあり、67年8月28日、つまり二年続けて此の地は災難を被った。翌年の被害はより甚大で、羽越水害といわれる。

66年の月毎降水量
観測史上の豪雨

 新発田に封じた溝口秀勝はもともと尾張中島の出で、木曽川の猛威に曝される中での治水・干拓事業に長けていたのだろうか、ここ新発田でも、また二本松(福島県)などにおいてもその経験を活かしている。お陰でもって、新発田は意外とうねくねしている新潟に較べ”極楽”のような坦とした土地に恵まれている。
 諏訪神社の御由緒の項に越後開拓のため信州から民が移ったとある。もともと住むには至極とはいえなかった越後に開拓人(屯田兵)として入った信の衆が拠りどころとして「おすわさま」を分壐(じ)いただく。大化4(648)年、つまり大化の改新(大化1年〜)が始まり、由緒にもある渟足(ぬたり)柵、磐舟(いわふね)柵の中間あたりに元の諏訪社は建立された。現在の北蒲原郡聖籠(せいろう)町諏訪山である。
 以上は諏訪神社(おすわさま)の由緒をもとにしている。

[諏訪神社境内]

 元禄1(1688)年、現在地に遷る。

諏訪社?画像0048   諏訪社2画像0050

[御柱]

 諏訪大社より。

諏訪社御柱画像0049

 境内は3,000坪を超えるとあるからそれなりに広く、新潟への電車待ちには居酒屋(駅前にてすでに開いていた)に入るより真っ当かと想い、しばらく佇んだ。しかし、お酒が目に飛びこんでくる。

[新発田‘発’のお酒]※境内にて

諏訪社酒画像0051

 「諏方(訪)盛」、「菊水」(菊水酒造)そして「初花」(金升酒造)の三酒が新発田にて醸(つく)られている。ほかに旧紫雲寺町には「ふじの井」(ふじの井酒造)がある。

 さて、諏方盛は只今の銘を「王紋」という。この後うかがった新潟駅近くの居酒屋ではカウンターに座ったが、眼の前に何本も一升瓶が置かれていて、もっともわたくし寄りにあったのがコレで、これも何かの縁かと一瞬迷ったが、眺めるだけにした。
 市島家の四代目は長松さんといって、欧州遊学を果たし、帰国後、彼の地で受けた心の響きを酒造りに仕込ませ、銘柄を王紋と決めた。一般的な日本酒の銘刻字は明朝というのか、「和」調である。見づらいが、新潟県のお酒一覧(全てかどうかは分からないが)をさっと眺めると、やはりそのようである。(前列左より4番目のスキー正宗は微妙であるが、和調か?スキーの板のようにも。高田のお酒である)

 新潟の酒蔵(にいがた観光ナビ/(社)新潟県観光協会サイト)

 比して王紋(新潟淡麗倶楽部/新潟県酒造組合)は一見、骸(むくろ)骨のようにもというのはたいへん失礼であるが、まことに王家の紋章である。四つの星は何を意味するのであろうか。長松さんを含む四代(秀松、謙、友松さん)を表しているのだろうか。であれば、あと三つ星を輝かせてもよいだろう。工場でお会いした現社長がサイトの中で「(新発田の)米と水と気候と技術(杜氏)」とご挨拶されている。もしかしたら、このことかもしれない。
 王紋のお話は「地酒の旅 蔵元紀行」(地酒蔵元会)に新発田の歴史とともに紹介されている。
 
 うっかり、お礼も言わずに去ってしまった。どうも、ありがとうございます。いつか、向き合う時が来ましたら、もう一度うかがいたいと思います。

 所用の近くにブルボンの工場があった。戻り、地図をみると、ほかに三幸製菓、栗山製菓の工場も市内にあって、日ごろわたくしがお世話になっている三菓が勢ぞろいである。

[↓これは三幸製菓]

三幸製菓

 下校途の学生さんがひっきりなし乗り降りする3両列車で新潟市に戻る。その夕べに居酒屋さんにうかがったことはすでに記した。終わりの近い新潟名産エダマメとこれから始まるギンナン焼きをいただいた。
 明日(10月1日)はある場所に出かけるつもりである。

Posted at 23:59 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2009.11.04

田の神が降ってくる頃

 携帯電話の具合がオカシイ。現在の機種に変えてから2年経過しているためか電池(バッテリー)がそろそろイケナイのである。それにしても、たった2年というのはオカシイ。確かに、パソコンでも2〜3年でイカレタこともあるので、そもそも、そこらあたりが技術の限界か、あるいは、販売戦略なのか。最近は1、2通話していると(決して長電話ではない)、たちまちlll⇒l。もっとも、わたくしの場合、常に充電しておくクセがある。これがダメらしい。加えて充電口に付着している保護蓋もイカレテいる(もともとヤワにできているが)。只今は常時充電を控え、ケイタイに輪ゴムをかけて、保護蓋を固定(元の状態に戻すため)している。

 替え時デスね〜ぇと、お店に行けば勧められるに決まっている。ドウシタモノか悩んでいる。

 ヒサカタブリにキレイなユウ焼けとブルーモーメントをミタ。17時10分頃である。

画像0032

 数日前、所用の帰途、月と木星のランデブーを南天に仰ぎミタ。うっかりして、豆名月(十三夜)は見逃した(10月30日)。芋名月(十五夜)もミテいないからイイカ(両不見月)。今月26日は十日夜(とおかんや、旧暦の10月10日)。地域によっては春(旧暦4月10日)、秋2度の場合もあり、田の神が田植えの号令と収穫の具合をミニ降ってくる。
 その頃ニモ木星が月と逢瀬する。(国立天文台サイトより)

Posted at 22:34 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2009.10.31

越後酒

 数年間まともに日本酒と向き合っていない。拙ブロふなべた(05年1月28日付)で新潟にふれていた。そして、その際に日本酒と向き合ったのが最後かもしれない。もちろん、それ以外にも口にしたことはあるが、「まとも」ではない。
 新潟駅前にとった宿の部屋から街を望むと薄暮の中で一軒のお店が気になった。取り急ぎうかがった。5時を過ぎたかどうかであったが、さいわい開いていらした。他にお客さんはいない、10名ほどのカウンターと卓席や小あがりがあって、1時間後には20数名ほどの定員がほぼ埋まっていた。周りの方は最初はビールでもそのうち日本酒に変わっているのだが、わたくしはやはり向き合うことができないままで終わった。

 ところが、どういうわけか「お酒」と二日連続して、出逢った。

 所用のあと新発田駅近くまで送っていただいて、降りた。足軽長屋といって新発田藩のアシガルたちが暮らした住居跡というのが清水園(藩主溝口家の下屋敷)の向かいにある。
 新発田(しばた)というのは新たに発(お)こした耕地(田)と覚えたはずであるが、そういうことだけではないらしい。(財)新発田市まちづくり振興公社のサイトによると、「この地方が海岸州の近くだったことから「州端(すばた)」が「しばた」になったという説」があるという。(新発田ってどんなところより)現在の新発田駅から海岸線までは直線距離で10キロほどで近いとも云いがたい。ただし、05年5月1日に加治川村とともに新発田市とあわさった旧・紫雲寺町の多くは「潟」であったという。塩津(紫雲寺)潟は享保年間(KH13/1728年着手〜KH20/1735年完了のようである)に干され、農地・村として拓かれる。旧新発田市との境を流れる加治川はより西側(新潟市寄り)の阿賀野川に比していかにもひ弱な河脈で、後者は奥会津に深く力強く入り込んで、源流は尾瀬にまで及ぶというのに、前者は新発田市内で果てている。その割りに力はあって度々洪水を招いたそうである。沼め沼め(ヌメヌメ)とした潟に意地っ張りな河が直前に迫った様を指して、新発田=「洲」端という説もあながち捨てることができない。(ちなみに阿賀野川は総延長569キロ、加治川は48キロ;新潟県の河川一覧〜新潟県サイトより)もっとも新発田氏という揚北(あがきた)衆が存在していて、鎌倉時代には阿賀野川の部一帯を支配していた。この頃からすでにシ(ス)バタという通り名であったのだろう。その新発田氏は上杉景勝に落とされ、上杉の会津移封ののち、越後には越前北条の堀秀治が、新発田には溝口秀勝(若狭高浜⇒加賀大聖寺)が入る。(慶長3年〜1598年)

[清水園と足軽長屋]

 狭い通りの側を流れているのは新発田川。秀勝が加治川から水を導き、開鑿した。

足軽長屋と清水公園画像0042  足軽長屋画像0041

[実りの秋]

 収穫の時節である。所用先までの道のり、その感覚を味わった。標題は越後酒であるが、本来は越後米である。

[左:稲穂がぬっ垂(た)り、右:もみ殻が畦に。]

稲穂新発田画像0030  籾2画像0035

[左:中途半端な刈り方が気になる、中:畦の風景、右:スミレ?]

 まだ、稔りのほどが気に入らなかったのか、それとも、どこかへ遊びにでも行ってしまったのか?

稲穂新発田中途半端な刈り画像0031  ノウドウ画像0038  すみれ画像0037

 秀勝は越前、加賀以来の商人を引きつれて新発田入りした。

 《当社の総本家「市島家」は、約400年前の慶長年間(1598年)に、加賀大聖寺より越後新発田藩に移封された溝口侯に随伴して当地に移住しました。市島家は薬種問屋を始め、酒造、金融、回船業などで商業資本を蓄積する一方、沼澤の多い荒蕪の土地を意欲的に開拓し、最盛時には2800町歩の田畑山林を所有する全国屈指の大地主となりました。
 当社は初代市島秀松が寛政年間(1790年代)に宗家より分家し、現在の地に創業しました。初代秀松と2代謙は、少より学を好み江戸の学者梁川星厳に師事。江戸文人との交流を通 して言志社を起こし、後進を指導しながら藩の文化に貢献しました。現在は7代目が伝統ある蔵の歴史を受け継いでいます。また、酒蔵を開放しており、毎年各地方から多数の人々が見学に訪れています。》

 足軽長屋を観終え、落ち着いた町屋の佇まいを過ぎた先に市島(いちしま)酒造株式会社があった。上記の文章は同社のサイト(沿革)より引用している。勝手に中へと進み、工場を覘いていたら、どうぞ、と、今係りの者を呼んできますからと、ご主人なのであろうか、背広を着こなした「しゃき」とした若い方がそう仰言られた。(サイトで確認するとやはりそのようであった)係りの方に詳しい案内を受けてから、工場内にある展示施設を観させていただいた、その中にも上記文を含んだ詳しい歴史が記されていて、そのとき初めて、新発田という小藩(当時6万石)のことを少し知ることができた。

[ご城下の静けさ]

家並新発田画像0043

[市島の松]

王紋2画像0044

「酒林=杉の玉が青いので、新酒ができたようである]

 利き酒を勧められたが、向き合わなかった(呑まなかった)。

王紋3画像0045

[左:諏方(訪)盛がもともとの銘柄のようである、右:展示室に納まっている古伊万里大皿]

王紋4画像0046  王紋古伊万里画像0047

 諏方のことも含め、以降は次回記す。これから、芋焼酎と向き合おうと思うのでΩ

 [見えないと思うがサギが何羽も舞っている]

 本物のサギは地方でも見ることが少なくなったが、都会ではうようよ、ぞろぞろしている。ああ、コッチは地方でも多いらしいから、気をつけましょう。

鷺画像0039  鷺2画像0040


Posted at 23:58 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2009.10.29

継続は厭なり〜海辺の継続考

 海辺の人が、何て厭な名前をつけるんでしょう、継続だんごだなんて・・・・・・。(以上、林芙美子さん著『放浪記』新潮文庫より)
 彼女には年譜というものは存在しない。したがって、追うことは仲々(※)むずかしい。
 芙美子さんの生まれは北九州市門司区と新潮文庫にあり、ほかに下関という説もあるが、そのことはどうでもよい。また、尾道および因島(彼女にとって因果な島)、叔母(伯母かも?)のいる岡山、そして、古里温泉(母親の原籍、鹿児島県、ここを生まれとする〜BIGLOBE STATiON50より〜説もある)。もちろん、生まれがどこであるかには関心はないが、ほぼ、海っ縁(ぺり)を流離(さす)らっていることには興味がある。ほかは東京や大阪など「喰うための都会(まち)」で蠢(うごめ)いているしかない芙美子さん。鉄道でいうダイアグラムを作成すれば、少しは譜(つ)ながるのであろうが、その意味はない。房総にひと月ほどゐたことは前著で分かっているが、他地と違いゆったりとした文章と感じるのは気のせいだろうか。
 直江津はどうも一泊である。とにかく、海辺に行きたかった、ただ、それだけのことであったのかもしれない。いえ、山でも海でも、汚れきった都会を避けて、とにかく自然な息が吸えさえすれば、どこでも良かったのであろうか。でも、青い時刻表から選んだのは直江津(海)であった。彼女の中に山という概念があったのか、放浪記だけでは分からないが、芙美子さんは海っぺりと街っぺりの往来だけを前著の中で書いていらっしゃる。
 海辺で継続だなんて、海辺を放浪してきた彼女にとって、海辺はどう映っていたのであろうか。海辺は猟師の生きる場所、彼らに明日はなく、空も海も魚も待っていてくれない。その日の漁獲が命綱である。(山の)農家が一年我慢して、今日より明日、明日より明後日、その積み重ねでもって実りを待つのとでは180度異なる。芙美子さんの心の中にそのような仕切りがあったのかもしれない。あるいは死ぬつもりでたどり着いた果てで、継続だなんてね、と、それを口にほおばると、存外、悪水(都会)の中に戻る決心がつくきっかけに「だんご」がなったのだろうか。
 大正期の終わりは恐慌の時代である。まともな人間は皆、貧乏している。

「継続だなんてね」

 越後より山麓に向かう途に直江津で時間があった。というか、作った。そして、芙美子さんの継続だんごを買い求めに、駅を出て、雁木の街まで出かけた(歩いてすぐだけど)。

[三野(みの)屋の継続だんご]

継続団子画像0030

[4ケがつながっている]

 団子というのは五つが本筋で、三つが副筋、四つというのは珍しいと思っていたが、そうでもないらしい。(Potoraランキングより)だいいち、四(死)は縁起も悪いと思うのは齢のせいか?

継続2画像0030

[だんごのイメージを超越している]

 白餡好きのわたくしにはタマラナイ。

継続画像0031

 11月3日(だんごぶんかの日)の「どまん中ふくろい全国だんごまつり」(袋井市サイトより)に継続だんごが初登場という情報も入った。こちら(まつり)については永く継続していてほしいと切に願っている。残念ながら、うかがうことは叶わないが、頑張ってください。ついでに、出品だんごの一串あたりの個数も数えておいてほしい。法多山(はったさん)の厄除だんごは5つだね。
 ウェザーニュースによると当日の天気(袋井市豊沢付近)はおおむね晴れ、ただし、ぐっと冷え込みそうなので、皆さん、お気をつけください。
 
 すこし、先を急ぎすぎたが、だんごまつりのことをお知らせしたかった。
 
 次回より、改めて、越後について、記したい。

※わたくしの中では、ナカナカは仲々(仲仲)のつもりであったが、そうではなかったのかと思い始めていたが、芙美子さんは、たまに、中々とも書いているが、多く、仲々を用いていらっしゃる。心強かった。


Posted at 23:45 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2009.10.26

越後へ、新潟市へ

 新潟市についてはあまり記した憶えがない。拙ブロの検索機能を使ってみたが、やはり「ない」。9月30日〜10月1日は所用もあり越後・新潟にうかがった。
 新潟市はわたくしの中では素的な街のひとつである。好き(素的)な基準のひとつに川があり、街の真ん中を流れるのをみていると幸せな気分に落ちる。もちろん、川があるからには橋もある。萬代(ばんだい)橋は駅周辺の新・町と通称新潟島とも呼ばれる古・町を結ぶ大橋である。初めて、渡ったのはもうずいぶん昔のことであるが、おそらく、それまででもっとも大きな橋を見た!渡った!ということで何度も往復した。以来、幾度となく渡っているのであるが、今回はどういうわけか「ない」。すなわち、旧い街の方には行かなかったということである(宿は駅前)。
 大坂橋のことで「社団法人土木学会関西支部/日本の橋」にはたいへんお世話になった。ありがとうございます。その情報は松村博さんの提供であったと前回紹介したが、松村氏のお仕事のひとつに「日本百名橋」というのがあるそうだ。早速調べてみると、萬代橋も入っていた。そして、わたくしが好きと想っている松江市の大橋も。(拙ブロ;松江・・・あらゆる水をもつ町05年2月6日付)残念ながら盛岡市の「二度泣き橋(開運橋)」(ウェブもりおか;盛岡市市長公室広聴広報課)は漏れていたが、同じ市内の「上(かみ)の橋」は擬宝珠がカワイイ。ごろりんとならず、今年400年を迎えるそうである。(盛岡タイムス09年 3月 23日付
 橋さんたちには失礼なことだが、わたくしにとっての日本三大がっか(く)り橋もそろって入っていた。徳島・祖谷(いや)の蔓(かずら)橋、土佐のぅ〜高知のぅ〜播磨屋(はりまや)橋、長崎市の眼鏡橋(思案橋はその存在すら認められないので除外)。もっとも、甚大な期待をもつのがイケナイ、彼らは彼らなりに頑張っているのだろうから、百名橋にあがっているのである。
 直江津橋は「山椒大夫」でお馴染みである。たしか、林芙美子さんも訪ねたと思うが、もう忘れている、あとで読み直してみよう。東福寺偃月(えんげつ)橋は仲々シブイ、紅葉は1ヶ月先のことか。
 きりのないことである。
 新潟について、すこしづつ、記していく。

[新潟漁港(信濃川沿い)に放置されたブイ?]
港のブイ画像0064


Posted at 22:39 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2009.10.25

大坂橋

 天満天神さんをあとにして、いよいよ川筋に向かう。あとで知ったのだが、天神橋筋商店街というのは日本一長い商店街ともいわれ、帰りはJR大阪環状線「天満駅」で降り、ふと見るとそこも天神橋商店街(四番街)であったことを憶えているので、やはり、長い。検めると2キロはゆうにある。心斎橋が数百メートル(長堀通〜戎橋)、また東京銀座通り(1〜8丁目)はその倍程度であるから、やはり長〜い。
 南に下ると、大川がちょうど堂島川と土佐堀川とに分岐するあたりに天神橋がある。社団法人土木学会関西支部の「土木のギャラリー/日本の橋」を観ると文禄3(1594)年に架けられたとある(ただし、今の架け位置とは異なるようだ)。この年は元の伏見城へ秀吉が移っている(4年後、新たな伏見城で歿)。もとは単に新橋と呼ばれていたらしく、天満天神さんが管理することからテンジン橋となったとある。架橋の推定(文禄3)年は秀吉の大坂城着工〜天正11(1583)年から12年、お城本体からご城下の整備も進んでいた頃である。天満橋、難波橋とともに重要な橋として架けられたのであろう。なお、天満、難波の2つについては架橋年がはっきりしない。天満については天神と同じとする記事を見つけた(大阪日日新聞のサイトより)が、おそらく、難波も含めて同時期と考えても良いだろうか。
 水都大坂(10月12日で終了、この文は9月18日のできごと)で賑わう八軒家浜(はちけんやはま)の河岸を天満橋まで歩き、それを渡って、大川右岸に回って、川沿いをさらに進むと、川崎橋がある、歩行者と自転車のみの橋である。上記「日本の橋」に江戸時代には川崎橋はなく、そのかわりに渡しがあったという。明治10年(1877)年に架けられ、通行料を徴ったところから「ゼニトリ橋」と呼ばれたともある。江戸や大坂では幕府直轄の橋を「公儀橋」、それ以外を「町橋」と区分していて、先の天神、天満、難波橋は前者にあたる。川崎橋は個人が架けたものだから、町橋である。明治18(1885)年に起きた淀川の洪水(淀川河川事務所サイトより)により多くの橋が流され、その後再建されているが、川崎橋は例外であった(昭和53〜1978年に再架、日本の橋より)。よほど評判が悪かったのであろう、もっとも今では公儀でもゼニを徴っている。
 天保8(1837)年、大塩平八郎の乱が起きた。この時幕府は天神、天満、難波橋を壊したという(日本の橋/天神橋より)。以前も書いたが橋というのは攻撃にも防御にもなる武器としての力がある。攻めるためには敵陣に入って橋を架ける勇気も必要である。また、守るためには壊す度胸も要る。
 偶然であるが末広という町名を見つけた際(拙ブロ;大阪天満宮09年10月13日付)、その先に成正寺があった。天神橋筋商店街に向かう時である。そこに平八郎の墓所があるが、お墓に無暗に行くものではない。ふと斜向かいにある堀川戎神社に伺ったことを今思い出した。

 川崎橋のほぼ中央付近から一枚撮ってみた。ここらあたり(写真中央)が中央区と北区および都島区の界に当たる。

[川崎橋より天満橋方向]

大川三区差交
←中央区  →北区
    ↓都島区

 背後は都島(備前島;宇喜多秀家の屋敷があった)、地名は網島、心中天網島の終の舞台である。

 さあ目的地は近い。東海道は江戸日本橋から始まり、今日の三条大橋で終わる。しかし、街道はその先も続く。伏見(山城)、河内国を経て、京橋を渡ると、ご城内である。江戸日本橋を発った旅人は次の京橋に立って、さあ京へとでも思ったのであろうか。大坂京橋から京へ向かう時、お城を振り返って無事に戻ることを祈ったのだろうか。旅の始まりは橋から彼岸へと、いつも緊張と期待に包まれるものである。(もっとも旅でない場合もあるが)

[京橋よりOBPを]※流れるのは寝屋川

寝屋川画像0045
    ↑OBP(大阪ビジネスパーク)
←網島   →大坂城
    ↓天満橋

[京橋〜頭上あたりが某(あ)る橋]

京橋景画像0049
 
 拙ブロけふ橋(06年4月28日付)で記した。おおげさに申せば3年と半年の想いが叶った。

 大坂橋である。

 その際は電子地図を眺めるだけで、そのまま大阪橋と記したが、やはり大坂橋がふさわしい。

[大坂橋]

大阪橋画像0043

[大坂橋ほぼ全長景]

大阪橋景画像0044

 ただし、素っ気がない。ただの歩道橋(自転車も可)である。

 しかし、物語がある。「日本の橋」を引用する。

《大正14年3月、東横堀川の浚渫中に、末吉橋と九之助橋の間の川底から「大坂橋 天正拾三年」(1585)の銘が刻された擬宝珠(高さ60センチ×外径35センチ、重さ15キロ)が発見された。しかし、この「大坂橋」は過去のいずれの文献にも見あたらず、橋の所在・規模については、後にさまざまの議論が展開することになる。
 この立派な擬宝珠は、昭和6年に再建された大阪城天守閣に保存され、市民に公開されていた。しかし、終戦後の昭和23年7月に、天守閣がアメリカ軍から大阪市に返還された時には、この擬宝珠は既になくなっており、戦争の混乱時に行方不明になったようである。現在は、当時の写真と拓本が残されているのみで、橋の所在と同様に幻の擬宝珠となってしまった。
 幻の「大坂橋」の名前は、昭和48年大阪城公園と毛馬桜宮公園を結ぶ自転車・歩行者専用橋として390年ぶりに復活された。(以下、略)》※なお、「日本の橋」には記事については松村博氏より提供とあることを付け加えておく。

 擬宝珠(ぎぼうし、ぎぼし)の刻が正しいとすれば天神橋、天満橋よりも古く、大坂城築城の3年目にあたる、もし現在の位置に架けられたとしたら、お城内と外を結ぶ最初の橋であったのかもしれない。上記文中にある末吉橋および九之助橋とは東横堀川(阪神高速1号線の下)に架かる。ちょうど「オモチャのマッチャマチ(松屋町)」の南北の両端に位置している。大坂橋から大川を下り、土佐堀川からの枝川(運河)である東横堀川へと15キロの擬宝珠が流された可能性もある。先の淀川洪水か、ただ、これはもう近代のことだから所在程度は分っているだろう。安政南海地震(安政1〜1854年)か、この時の揺れで頭(ぎぼし)が取れてとも考えることができる。この年(途中から嘉永から安政に改元された)は嘉永地震もあり、留め具合が緩んでいたのかもしれない、で、ごろりん。

 確かめようがないらしい。だいいち、どの時点(時代)に戻ってよいものか、分らない。

[大坂橋から大坂城を望む]

大阪橋と大阪城画像0042

 長々と書いた。以上で9月半ばの大阪行は終わった。大坂橋より京阪天満橋駅に向かい、最近開通したという中之島線にでもと思ったが、どうせなら京へと、本線に乗った。ただ、車中で気が変わり、京橋で環状線に乗り換えて天満駅で降りたことはすでに記した。この夜は旧知と呑む約束もしていた。

Posted at 23:45 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2009.10.23

tenn_jin(大阪天満宮・のぞ記〜その3)

 うっかりしていたが、天神祭は6月のまだ梅雨の明けない頃から始まっていた。どうも、あてにならない気象庁のような情報で申し訳ないΩ
 天神祭はやはり西のご祭礼という印象がある。江戸のほうは少し気が逸(はや)くて5月にはもう祭っている。それにはもちろん祀られている方の事情にも縁るのであろうが、天神の頃には(江戸は)祭よりも花火に夢中となる気質がある。(天神祭にも花火はあるが)
 「講」というのはさまざまあって、説明が難しいが、もともとは講義〜仏の精神を弟子に伝える専門(学問)的な集まりであったらしい。それが仏や神を仰ぐ衆の集まりとなって、お伊勢講、富士講などを生み、詣でるための資金を積み立てたり、また、無尽講といわれる持ち回りの資金捻出組織(SNS)を併せもつようになった。ネズミ講やマルチ商法はこれに近いが、資金は無尽でなく、構成員が無尽であるところに問題がある。
 仮に一人の者が乏しい財布の中からひと月5千円を1年間積み立てると、(利息を除き)年6万円になる。しかし、来月急な出費の予定があり6万円用立てる必要があった場合、12名で構成される無尽に入り、5千円を用意すると、12名分の6万円を手にする可能性がある。もともとはくじ引きにより手にする人が決められるのだが、中には話し合いで、どうしてもという人が優先される講もある。運良く6万円をGETしたゴンベイさんは明くる月より5千円+利子分を講に差し出し続け、以降、(次の新しい回まで、12名であれば1年が1回となる)受け取る権利はないが、当面の金策に成功したことになる。くじでと書いたが、競る講もあり、これは怖いらしい。月の掛け金10万円×12名分を利子の吊り上げで落とし、120万円を手にして、そのまま、ドロン。無尽の仕組みが一瞬にして崩れる瞬間である。
 さて、大阪天満宮にも多くの講がある。こちらは講社という。もちろん、上記のドロン講とは違う。
 『山車・だんじり悉皆調査』という作業のほどを考えると恐ろしく「素的」なサイトがあり、そこに天満宮の講社について紹介があり、道修町御湯講もあった(同サイトの大阪天満宮の)。
 御湯(お湯かけ)というのは無病息災を祈願して煮立ったお湯を笹やら榊(さかき)でもって、周りの祈願者に降り掛ける儀式で、わたくしの遠い記憶の中にもそのような経験がある。ただ、いつ、どこでかは憶えていない。わざわざ節分会(で行なわれることが多い)に出かけたということもないし、単なる記憶違いの可能性が高いが、わたくしが神社に詣でたという唯一の経験は「七五三」なので、その時なのかもしれない。ま、詣でたというのか無理やり連れて行かれたというのがより適切な表現である。もとはより宗教的な意味合いが強かったようであるが、次第に柔らかくなり、八坂さんのオケラ詣(まい)りのように持ち帰ると縁起が良いという風習へと変化していった。
 道修町の講社ご一行は毎年1月8日に御湯講の神事を執り行ない、献湯したと、上記サイトにある。その標として、石碑を残したのであろう。道修町といえば神農(シンノウ)さんと少彦名(スクナヒコナ)さんを祀っているが、11月(神農祭のため)を除く23日(本日)に献湯祭があると初めて知った。(くすりの道修町資料館より)降り掛けに用いているのは御幣(ごへい)である。天満天神さんと道修町は大川(途中より堂島川と土佐堀川に岐れる)からほぼ同距離(数百メートル)にある。川を基点と考えると天満宮さんは丑、道修町さんは未の方位に当たる。道真と牛は縁が深いからなるほどと思い、では薬(道修町)と羊はと思うも特段ないが、神農さんには張子の虎が付き物である。丑のお隣は寅、そのようなご縁もあって、年明け早々に御湯を献(さ)しあげに皆でうかがっているのであろうか、と、勝手に解釈している。
 享保18(1733)年、薬種中買仲間の親睦団体「伊勢講」結成と、資料館サイトにあった(神社の沿革)。300年近く前の「お伊勢講」が現在の講社の始まりと考えてよいものなのだろうか。天神祭については社横にある繁盛亭の関連サイト?(天満天神繁盛亭まんねん)に詳しく紹介されている。(天神祭の様子)享保といえば、薬種仲間の伊勢講結成前年に大飢饉が発生している。そういう想い(願い)もあって、講が生まれるのであるのか、このことは、もう少し考えたい。
 
 道真の命日は2月25日で、左遷が決まったのが1月25日、そして生まれたのが6月25日ということである。そして、天神祭は7月25日、本宮(ほんみや)を迎える。まだ、目にしたことはないが、大川を往き交う船渡御(ふなとぎょ)は、いつか観たいものである。

 次は、ようやくというか、大阪の某(あ)る橋のことについて、記す。

 でわ、わたくし以外誰もいない無人講を、これから執り行ないたい。


Posted at 23:23 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2009.10.22

Twister(Twitter風〜その割りに長いが)

 「おたくの履歴書」という情報を作日知って覘いていたのだけれども、今となってはもうオタクというのは限定的な属性ではなく、かなりフツーの塊りになっているのではないかと、拙いブログを書いているのも、そういうことではないのかと、こじつけて、あてにならないことを想っている。

 先ほど、闇の中に出て、天を見上げてみたが、あいにく曇っていて、夜空はなかった。仕方がないというのか、ついでにというのか、コッチが目的だったというのか、芋焼酎を買ってきた。どういうわけか、油揚げも。

 戻って、揚げが納まっている袋をみると、行田市にある製造会社の名が。

 まさかねと、思ったけれども稲荷山古墳に因んでいるわけではないようである。


 「で、揚げはどうするつもり?」

 明日にでも、どうにかしようと。

Posted at 23:59 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2009.10.19

白太夫様(大阪天満宮・のぞ記〜その2)

 白太夫(しらたゆう/しらだゆう/しらたいふ)というのは菅原道真公の誕生に深く関わった人物だそうで、伊勢神宮宮司である。菅原家には世継ぎが仲々できなかったようで、すがる想いで太夫のご祈祷を受けたのであろうか、たちまち阿呼(あこ)が生まれた。後の道真である。祖父から続く文章博士(もんじょうはかせ)の任を33歳で命じられ、以降、西遷する57歳まで学者として、政治家(むしろ官僚か)として長く就く。”生みの親”白太夫こと渡会(わたらい)春彦は生涯道真に仕えたという。伊勢市のお隣に度会郡度会町という山あいの町がある。もっとも、渡会町は合併の際に公募で決まった郡名を採った名なので、もとの渡会郡(ごおり)のどこかと考えたほうがよいのだろう、もしかしたら、その辺りに白太夫の祖がいたのかもしれない。ひょっとして渡会≒渡来とするには無理があろうか、ただ、菅原氏の祖は土師氏で、その可能性を否定もできない。
 わたくしが長く育った町にもワタライさんがいて、お肉屋さんを営んでいた。そこで、揚げたてのコロッケを「買い食い」していた。1ケ5円か10円であったと思う。

 ただし、松本春彦とする説もある。高知市大津にある白太夫神社(しらだゆうじんじゃ)は父道真とともに都を追われた高視(たかみ)のゐる土佐へ父の死を知らせるため白太夫は向かい、無事遺言と遺品を渡すことができたが、帰途、斃れたのが大津村雲門寺であったという。79歳というから長旅が堪(こた)えたとしか書きようがない。(高知新聞大津販売所/大津の歴史〜下元 正清著「大津の歴史−はばたけ大津2−」)道真は59歳歿だったというから、白太夫とはほぼ20も歳が違う、つまり、お伊勢さんで誕生祈願をした頃はほんとうに若造だったということで、菅原家も神宮もほとほと困った末のことだったのか。それとも白太夫にはそれだけの力が備わっていたと思われていたのだろうか。とにかく、以来、二人は最期まで運命をともにする。
 
 拙ブロ、梅田・朝ぼら記〜お旅社09年9月29日付で西に遷る道真が喜多埜(現在の梅田辺り)で白太夫の孫ら一族を留め置いたと記したが、この際、白太夫本人は随っていたのであろうか。とすれば、一族とここ(お旅社)で別れたのであろうか。お旅社で頂いた社報にあわせ綱敷天神社のサイトを参考にすると、どうも、そのようである。ついでに記せば、残ったのは子の春茂という記述もみつけた。
 現在の禰宜様の姓が白江さんであるとも。
 
 以上には白太夫が道真に随ったという前提がある。

 大宰府天満宮に「飛梅」にまつわる伝説がその梅とともに残っている(大宰府天満宮サイト)。「東風(こち)吹かば・・・」は道真の有名な詩(うた)であるが、やはり彼は相当の梅好きであったらしい。西に配流される際、愛でていた梅を持参することもできず、気にかけていたが、ある日、その想いが通じてか、都より飛来したという。ところが、実際には都にとどまった白太夫が道真より預かった梅の様子がおかしいのをみて、主(あるじ)を案じ、梅を抱えて大宰府に向かったとする説がある。(風に吹かれて白太夫と飛梅伝説
 
 こちらの方がわたくしの白太夫像に合う。わたくしが高校生の頃、ひとつ上の男子生徒に美事な全白髪の方がいらした。顔をよく見ると、若造であるが、遠目にみれば白太夫である。思慮深く、物腰の柔らかい上級生で、より若造のわたくしにも優しかった。その印象が春彦(彼も若くして白髪頭であったから、その名〜白太夫〜が付けられたという)に重なっている。普通に考えれば、謂われなき流罪に消沈する道真のもとにゐるのが主従の関係であろう。しかし、あえて、都に残り、主を慕い、案ずる心身の立ち処のほうが彼には相応しいと勝手に決めつけている。今とは異なり、メールもなく、お互いにとってつらい遠距離恋愛である。梅を言い訳にして向かった白太夫といい、そのことを照れ隠し、梅が勝手に飛んできたと周りに吹いて回った道真といい、ほのかに漂う梅の香のように繊細で、愛らしい。
 もちろん、そのようなことではなくて、二人が会うことは藤原側にきつく禁じられていた状態での危険な逢瀬であったと上記サイト(風に吹かれて)から想像がつく。
 
 大阪天満宮の西門横に白太夫社がある。由緒板を覗くと白太夫は大宰府で仕えたと書かれている。そのことは、もう、どうでもよい。説はさまざまであってこそ悦ばしい。

[大阪天満宮の白太夫社]

白太夫社画像0037  白太夫社画像0035

 以下は、その社前で見つけた石碑である。左側に「道修町御湯講」とある。

[道修町薬種商による奉納碑?]

道修町薬種商寄進2画像0032  道修町薬種商寄進社画像0031

 梅雨明けの7月中旬、天神祭の季節である。講社と呼ばれる衆による船渡御が始まると、祭は最高潮を迎えるそうである。

 話が反れた。次は、このことについて、記す。

Posted at 22:52 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2009.10.17

気象業務法

 気象庁がウェザーニューズに一言付けた。

 「庁と異なる予報をしてはならぬ」

 このことがよく分からなくて、只今、標題の中身を眺めている。

 例えばTVや新聞の予報はどこに責任の所在があるのかも分からない。気象予報士の方が予報しているのであろうか、そうだと考えると、庁と異なる予報になりかねないので、やはり、庁の予報を伝えていらっしゃるのであろうか。ならば、予報士である必要はない、単なる予報氏でよかろうとも。

 あまり気象に関係なく暮らしているが、たまにお出かけの予定がある場合はウェザーニュースさんでさりげなく、地点ごと、時間ごとの予報を何日か前から覘いて、一喜一憂している。
 予報が外れたという記憶はない。明日は晴れる所が多いらしい。(関係ないけれど)

Posted at 23:45 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2009.10.15

白餡太夫

 本日は白太夫についてと思っていたが、まだ、できていない。白紙ではないけれども、奥が深いため、途惑っている。道真公の左遷事情については天満天神さんで学んだつもりであったが、やはり脳が薄い。まったくもって、菅公とかけ離れた位置にわたくしはゐる。
 替わりに所用の帰り、マーケットに立ち寄った際のことを報告をする。拙ブロ(四刻八刻:09年9月24日付)に白餡好きだと、そして、山崎製パン蠅稜皮白あんぱんが仲々無いとも記した。

 ”あった”

 しかも大量の白アンパンを見つけてしまったので、消費期限が明日とあるにもかかわらず2袋(各5ケ入り)をレジにお連れした。正直いうと、もう何袋かを手元に置きたかったが、そうもいかない。明日までに食べなければという分別も必要である。とはいえ、消費期限などは(わたくし的には)イイ加減なものだから、2袋ぐらいは多くたってと後悔もしている。

 待望の白あんぱんである↓

[もう一袋ある。]

白アンパン

 白あんぱん系はほぼ3週間ぶりである(拙ブロ:あんぱんや断層記:09年9月22日付)。実は、その間(約2週間前)に別の白餡系を食しているが、そのことについては、これもまだ、できていないため、いずれ書きたいと思っている。

[再び断層を調べよう](奥左2ケは水平割、手前は垂直割・・・どうでもよいが)

白アンパン断層

 山崎さんには悪いが、食感(撮影後、2ケ食す)は見た目(画像)ほど詰まっていない、すかすか、真っ白という状態で、ほぼ、わたくしの脳内に近い。
 これから、白太夫について、もう少し耽っていたい。

Posted at 23:41 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2009.10.14

ガラス様(大阪天満宮・のぞ記)

 以前といってもおそらく20年ほど前、ある倉敷の工房でずいぶん迷ったけれども買い求めてきたガラスが”あった”。用は一輪挿しであるようだったが、何も挿さずに飾っておいた。全体が深く濁り、しかも鮮やかな青色で発泡が細かく注(さ)した様が暗い室内(工房)に射し込む夕時の一筋の光が映えて、気に入ったのである。うっかりして、今は”ない”。

 大阪天満宮の西門?脇に「大阪ガラス発祥之地」碑が”ある”。

[硝子碑]

大阪天神ガラス発祥画像0038

 建立したのは大阪硝子製品協同組合で設立30周年を記念したものだそうである。
 「宝暦年間に長崎の商人、播磨屋(久米)清兵衛が天満天神鳥居前ニ工場ヲ設ケ、当時ノ玉屋ヲ開業、大阪ガラス商工業ノ始祖トナル」播磨屋は本名久米清兵衛、長崎へ行きオランダ人からガラス製法を学び、天満へ来て玉屋を開き、珍しい色のガラス玉細工を始めている。
 以上、M’HOMEPAGEさんの「大阪市内の石碑発見/北区界隈」から引用させていただいた。
 日本ガラスの歴史は西へ行くほど古いようで、16世紀後半にポルトガル人が長崎に工場を建てたと社団法人東部硝子工業会の「硝子の歴史」サイトにある。もちろん古代より製(つく)られていたが、産業としてのという意味であろう。ただ、彼らが何のためにガラスをというのがよく分からない。その3年後(1573〜天正元年)にはオランダ人の指導によってガラス技術が導入されたと同サイトにある。ただし、異説もあり、以下、長崎文化ジャンクションの長崎ガラスの項(長崎県地域文化推進室)より引用すると、
 『・・・由水常雄「江戸期のガラスー形と技法―」によれば、ポルトガルやイスパニアのガラスはソーダ・ガラスであるのに、長崎で作られていたガラスは鉛ガラスである。南蛮のガラス職人が、長崎の工人にガラス製法を教えて、再び日本でもガラスが作られるようになったというのは、実情に反するという。
 当時、鉛ガラスを一貫して作り続けてきたのは、中国であった。したがって、南蛮法が入ってくる以前に、中国流のガラス製法が長崎に伝わっていて、そこへ南蛮のガラス工人が、新しい吹きガラス技法を導入して、いわゆる長崎ガラスと呼ばれる素文の吹きガラスを作り出していったに違いない、というのである。』
 まず、ソーダとか鉛だとかが分からないため上記東部硝子工業会のサイト(ガラスの種類)および日本板硝子テクノリサーチ株式会社(初級編 ガラスの組成と化学的性質)を睨んだが、ますます分からなくなったので、説明は省略する。日本板硝子のほうはアレで初級編かと思うとやはり理系の方を敬うしかない。
 さて、長崎のガラスであるが、由水(よしみず)氏の中国説は「ガラスの歴史」(東硝会)の中にも記述があるが、順番から申せば葡(工場)⇒蘭(技術指導)⇒明朝末期と書かれている。
 《江戸時代に入って寛永年間(1624〜1643)には中国のガラス工が長崎に来てガラスの製法を伝えたという。》という
 繰り返しになるが、歴史的なつき合いから察すれば中国が先である。ただ後者(東硝会)はあくまでも近代産業という条件付きでの考え方なのであろう。少し時代が進むが、1819(文政 2)年、石塚岩三郎は長崎でオランダ人からガラス製造技術を習得し、岐阜県可児郡土田村(可児市)でガラス製造を始めると、その生業を引き継ぐ石塚硝子株式会社の沿革サイトにもあるようにこの頃の日本は色々なことを外国から学ぶ時代であったから、コッチが先で、アッチがあとというようなことではなかったように思う。現在と違い、アッチコッチとの交流が盛んであったということである。只今は物や情報の行き来は頻繁にあるけれども、当時のような技であるとか芸というのか、平たく申せば文化・文明の受け渡しが今よりはるかに活発であったと感心する(だけではいけないのだが)。
 薬もそうである。
 ガラスで話が止まってしまった。次回は天満天神さんにある白太夫社ついて記したいが、本町から宿まで歩いた(大阪・川歩き09年10月12日付)際に寄ってみた道修(どしょう)町の文字をそこで見つけた。

Posted at 23:21 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2009.10.13

大阪天満宮

 「犬も歩けば棒にあたる」とは『何事も順調に進むものではない』の譬えから転じて、『何事も挑(やっ)てみなければ進まない』となったらしい。いつの間にかネガティブ⇒ポジティブに変わっている。わたくしなど古いうえに堕落しない人間は前者のことしか知らなかった。少しが長くなるが手許の「暮らしの中のことわざ辞典」(折井英治氏編、集英社)を引く。
 《もともとの意味はイヌもそこらを出歩くと、ひょっとすると人のために棒で撲られたりするかもしれぬというところから、じっとしておればなんでもないのに、なまじっか何かしたり、でしゃばったりするから災いに遭うのだというのであるが、この頃ではこれとは反対に、じっとしていないで、何かやれば思いのほかの幸せにぶつかることもあるという意味に使っている。(略)》とある。同書は1962(昭和37)年第一刷とあるから後者としての使われ方もかなり以前からということになる。歩く足には棒当たる(泥がつく)とも謂う。
 以前、8万社ある神社のうち1万社は天神様だと記した。(湯島神社、浮き足記09年9月21日付)歩く足も天神様に当たるはそのとおりで、宿を出て、目的の橋をめざす道すがらで思い切りぶつかった。大阪天満宮である。扇町通りを東に向かい、途中、阪神高速の下を南に向かって歩きながら曽根崎通りへと。大阪市営地下鉄の南森町駅(東西に谷町線、南北の堺筋線)の手前に末広町の町標を見つけて、うろうろしていた。拙ブロ(八・・・末広町09年9月23日付)で末広町が気になっていて、そのことは新潟で一応充たしたが(いずれ記す)、大阪市北区末広町の方には丁(目)はなく、番も1〜3までであったので、もやもやを募らせていた。と、向こうにアーケード街を見つけた。今朝から飲み残しのペットボトル紅茶以外何も口に入れていなかったのでこの天神橋筋商店街の喫茶店でカフェオレを頼み、最初の補給休憩を摂る。小一時間ほど呆けていると時計は正午を過ぎており、外に出ると、昼食を求めて付近に勤めていらっしゃる方たちが好き好きにお店を択んで潜っていくので、わたくしもと、おそらく今が粉モンを食べる唯一の時間であろうと、角にあった看板に釣られてお店へと。焼きそば定食である。同じ値段でお好み焼きもあったが、腹具合は前者のような気がした。カウンターの鉄板にもっとも近い場所に座ったため体温度が上がってビールでもと思ったが我慢した。よほど「熱い」とあってせっせと焼いているおねぇさんは首にタオルを巻いて頑張っているし、今呑めば、この先のことがすべて無になる可能性もある。ご飯を半盛りにしていただいて、何とか平らげた。ごちそうさまで、再び外に出て、先をめざすが、通りのあちらこちらに喫茶店があることに気づく。10歩に1軒の程度で、後ほど調べると確かに多い気もする。(喫茶・軽食のお店天神橋筋商店街サイトより)
 犬も歩けばの類である。
 さて、天神様はことのほか賑わっていた。隣地に「天満天神繁盛亭」という小屋があって、文字どおり繁盛している様子で昼席をお待ちの方が数十人いらして、それと合わせて参拝客も多い。三大天神というと大宰府(福岡)、北野(京都)、防府(山口)らしいが、時と場合によって大阪が滑り込むこともある。まぁ、それぐらい地位の高い天神様であるということで、実際、人といい規模といい昨日お邪魔した綱敷天様とは較べようがない。もちろん、だからといって、どちらがということではない。

[御神輿蔵]

 天神祭りは夏盛りの7月下旬に行なわれる。ここに納められている御神輿はしばらくご休憩。

大阪天神御輿蔵画像0029

[人知れず刻石]

 境外(正確に記せば東門?の脇)で見つけた。しっかりと置かれているわけでもなく、ぼさっと置かれているという感じでもって、なんだか不安であるし、謎がいっぱいである。

誰がおいたか天神石画像0030

 天満の天神さん(大阪天満宮の愛称)にいらっしゃるお牛様はとずいぶん探した。ゐらした。境内の隅っこに菅公が京から西遷されるまでのジオラマ風展示室があって、勉強させていただいた。

[お牛様]

大阪天神探した牛さん画像0039

 天天さんの「散索」はさらに続く。

Posted at 23:39 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2009.10.12

大阪・川歩き

 所用の帰り、本町から宿(梅田)まで歩こうと思った。なに、たいした距離ではない。例えば東京駅から水天宮。那覇であればリウボウで涼んで、国際通りを歩き、途中公設市場を冷やかして、牧志の宿に戻っても2キロ弱。米沢の皆さんであれば、駅から上杉神社まで程度である、たいしたことではない、ですよね。
 御堂筋を避けて、裏通りを進む。以前幾度か歩いた筋である。宿へ戻る以外特に目的がないものだから右に折れたり、返ったりして、宛てもない。大雑把に表せば半分ほどの路程で川にぶつかる。栴檀木橋(せんだんのきばし)を渡って、土佐堀川と堂島川とにはさまれた中之島に明治期の建物があって、そのひとつが大阪図書館(大阪府立中之島図書館)。水都大阪2009という催しが行なわれていて、ここもその会場のひとつとなっている。本日(10月12日)が最終日のようである。「森の映画館」が気になっていたが、わたくしに元気がなかった。そのまま、向こう岸へと。水晶橋(すいしょうばし)を渡ると西天満、曽根崎、兎我野町(とがのちょう)、太融寺町(たいゆうじちょう)と夕夜の帷(とばり)とともにディープな空気が漂い始める宿付近へと。元気がないものだから、少し、呑んで、早々と夢の中へ。
(上記橋のリンクは社団法人土木学会関西支部サイトより)

 翌朝である(18日)
 
 わたくしには今回の大阪行にひとつだけ目的があった。

 某(あ)る「橋」を確かめたかった。ただ、その前に、いくつか立ち寄ったこともあり、引き続き、記したい。いずれにしても、まだ残暑の厳しい日のことであった。

[天神橋際から天満橋へと向かう川筋にミストシャワーのサービスが]

 わたくしの悪癖で歩く際に水分を携えていないものだから、ありがたいことである。

大川のミストシャワー八軒家浜画像0040


Posted at 22:28 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2009.10.05

北国游

 9月最終日の朝、上野を発って、新潟へ。新発田(しばた)という町の土を初めて足でもって踏んだ。JR白新線「西新発田」駅で降り、所用を済ませた。そのまま、新発田駅まで。建前的なモノの考えなのかもしれないが、その町の名を冠する駅をみておきたかった。距離的にはほぼ同じであるし、どうせ、今夜は宿で寝るだけである(新潟市内)。歩いても大したことないだろうと。幸いというのか、所用先の方が「でわ」送りましょうと仰言られるので、甘えた。途中、信号待ちで、「ここが唯一の名所ですかねぇ」と言われて、「折角なので、寄ってみます」と、そこで降ろしていただいた。
 そのことは、引き続き、記したい。
 只今(1日夜〜)は山麓でもたもたしている。炬燵にあたりながらポケッである。「でわ」

Posted at 22:43 | 雑に | COM(0) | TB(0) |