2005.05.30
n(えぬ)のくに
わたくしは長い間勘違いしていたが、加賀藩というのは現在の金沢あたり(だけ)をさすのではなく、広く、越中、能登、加賀三国の総称としてあると最近知った。もう少しみると、加賀藩というのがあって、そのモト締めが金沢藩(=加賀藩なのだけど)、で、その支藩として、大聖寺藩(加賀国)、能登国には下村藩と西谷藩(これは2年ぐらいだけ)、そして越中に富山藩とがあって、これを総じてカガハンというらしい。さらに大聖寺藩には新田藩という支(孫)藩もあったそうである。
小納(こな)さんの著作を引き続き読ませていただいている。まだ天売島沖の遭難にひっかかっており、中々前に進まない、そこばかり、繰り返し読んでいるのだけれど、ほかに送っていただいた『焼尻島残影』という正次さんのお父様(政吉さん)が大正末から昭和初期にかけて撮影された島の風景、光景を懐かしむ?ように拝見させていただいている。98(平成10)年に小納正次さんがお父様の撮った角度、心情になるべく近いように自らもカメラに納めた画像もあり、わたくしが行った当時にも間近である。(前年97年である)
小納家の在は羽幌町HPなどの資料から、明治期に石川県塩屋村から渡ったとある。塩屋村を調べても、今では存在しないから、加賀市塩屋町だと推測してでのことであるが、ここは、いわゆる北廻(前)船の基地として、栄えた場所でもある。北國新聞社の04年10月16日付け記事に「ありし日の」塩屋村の記述があった。
《北前船主、栄華の証し 小松の瀬戸家 豪華花嫁衣装を公開へ》と題した内容を抄略(訳)すると、明治期に塩屋村の北前(廻)船主である塩浜屋から嫁いだミネさんが鉄道の客車を貸切って大聖寺から小松まで運んだという嫁入り道具の一部をご子孫が公開されたと書かれている。両家ともにニシン漁で財を成したのであるが、これが明治39(1906)年であった。小納家の塩屋先祖である小納宗吉さんが焼尻村(島)に渡ったのが明治34(1901)年であるから、まさに、塩屋が村全体で沸きあがっていた頃であり、それは島原遊郭の移転どころの騒ぎではなかったのであろう。小納家については検めて書くこととして(今、拝読中)、本日は塩屋村、あるいは小納政吉さんが生まれた月津村を包んでいた江沼(えぬま)郡について想っている。(※政吉さんは塩屋先祖の流れにある、ミヨさん=正次さんの祖母にあたる、のもとへ入夫している。)今、属するのは温泉地として有名な山中町のみである。さかのぼると、もともと江沼は越前の国であり、のちに加賀国になる。チョット、駆け足ではあるが、昭和33(1958)年1月1日に旧江沼郡のうち大聖寺町、山代町、片山津町、動橋町、橋立町、三木村、三谷村、南郷村、塩屋村の9か町村が合併して加賀市が誕生した。一方、月津村は小松市に組み入れられた。もう一度、時を戻すと江沼は「えぬの国」として延喜式にも現われる、らしい。また、針を一気に進めると、月津村には興宗寺という真宗大谷派(東本願寺)の古寺があり、そのご住職のHPを見つけた。実は、塩屋村⇒月津村⇒江沼郡という検索過程の中での偶然ではあるけれど、その響き(わたくし的にはnの国)にいっとき、小納家を擱いてでもと、想うに至った。島原遊郭が二条から朱雀野に移る手前(1602=慶長7年)に東本願寺ができると同時にその北側に遊郭を移したと、拙ブログ5・5付で書いたが、その年は、いわゆる東西分派で、もともと同筋であった月津の興宗寺は東派に、福井(えつの国)にある興宗寺は西派(浄土真宗本願寺派)に分かれたと別のサイトにあった。加賀といえば、あるいは江沼もそうであるが、一向一揆がある。これを制圧したのは北の庄(えつの国)生まれの織田信長である。東派を寄進したのは徳川家康であった。たいへん、とりとめのない文章であるけれども、´えつ´という非常に興味深い国と隣り合わせに´えぬ´の国が存在していたとは、モノ知らずであるがゆえに、少し、得をした気分でいる。また、ひとつ、妄想の類ができた思いである。これも、小納さんのお陰と考えている。
[真宗大谷派・(月津)興宗寺のHP]
http://www.ne.jp/asahi/ishikawa/enunokuni/
小納(こな)さんの著作を引き続き読ませていただいている。まだ天売島沖の遭難にひっかかっており、中々前に進まない、そこばかり、繰り返し読んでいるのだけれど、ほかに送っていただいた『焼尻島残影』という正次さんのお父様(政吉さん)が大正末から昭和初期にかけて撮影された島の風景、光景を懐かしむ?ように拝見させていただいている。98(平成10)年に小納正次さんがお父様の撮った角度、心情になるべく近いように自らもカメラに納めた画像もあり、わたくしが行った当時にも間近である。(前年97年である)
小納家の在は羽幌町HPなどの資料から、明治期に石川県塩屋村から渡ったとある。塩屋村を調べても、今では存在しないから、加賀市塩屋町だと推測してでのことであるが、ここは、いわゆる北廻(前)船の基地として、栄えた場所でもある。北國新聞社の04年10月16日付け記事に「ありし日の」塩屋村の記述があった。
《北前船主、栄華の証し 小松の瀬戸家 豪華花嫁衣装を公開へ》と題した内容を抄略(訳)すると、明治期に塩屋村の北前(廻)船主である塩浜屋から嫁いだミネさんが鉄道の客車を貸切って大聖寺から小松まで運んだという嫁入り道具の一部をご子孫が公開されたと書かれている。両家ともにニシン漁で財を成したのであるが、これが明治39(1906)年であった。小納家の塩屋先祖である小納宗吉さんが焼尻村(島)に渡ったのが明治34(1901)年であるから、まさに、塩屋が村全体で沸きあがっていた頃であり、それは島原遊郭の移転どころの騒ぎではなかったのであろう。小納家については検めて書くこととして(今、拝読中)、本日は塩屋村、あるいは小納政吉さんが生まれた月津村を包んでいた江沼(えぬま)郡について想っている。(※政吉さんは塩屋先祖の流れにある、ミヨさん=正次さんの祖母にあたる、のもとへ入夫している。)今、属するのは温泉地として有名な山中町のみである。さかのぼると、もともと江沼は越前の国であり、のちに加賀国になる。チョット、駆け足ではあるが、昭和33(1958)年1月1日に旧江沼郡のうち大聖寺町、山代町、片山津町、動橋町、橋立町、三木村、三谷村、南郷村、塩屋村の9か町村が合併して加賀市が誕生した。一方、月津村は小松市に組み入れられた。もう一度、時を戻すと江沼は「えぬの国」として延喜式にも現われる、らしい。また、針を一気に進めると、月津村には興宗寺という真宗大谷派(東本願寺)の古寺があり、そのご住職のHPを見つけた。実は、塩屋村⇒月津村⇒江沼郡という検索過程の中での偶然ではあるけれど、その響き(わたくし的にはnの国)にいっとき、小納家を擱いてでもと、想うに至った。島原遊郭が二条から朱雀野に移る手前(1602=慶長7年)に東本願寺ができると同時にその北側に遊郭を移したと、拙ブログ5・5付で書いたが、その年は、いわゆる東西分派で、もともと同筋であった月津の興宗寺は東派に、福井(えつの国)にある興宗寺は西派(浄土真宗本願寺派)に分かれたと別のサイトにあった。加賀といえば、あるいは江沼もそうであるが、一向一揆がある。これを制圧したのは北の庄(えつの国)生まれの織田信長である。東派を寄進したのは徳川家康であった。たいへん、とりとめのない文章であるけれども、´えつ´という非常に興味深い国と隣り合わせに´えぬ´の国が存在していたとは、モノ知らずであるがゆえに、少し、得をした気分でいる。また、ひとつ、妄想の類ができた思いである。これも、小納さんのお陰と考えている。
[真宗大谷派・(月津)興宗寺のHP]
http://www.ne.jp/asahi/ishikawa/enunokuni/
2005.05.29
東京投資
ひところは公共投資が地方を潤していたと思う。もちろん、依然「中央」から「地方」への資金流出は多い。島根県は相変わらず県民1人当りの行政投資額ではトップである。(02年度)、以下鳥取県、高知県、石川県、北海道、山梨県…と続く。逆に少ない方からみると、埼玉県、神奈川県、千葉県、大阪府、愛知県、東京都となる。これだけをみると、公共投資は地方のためという乱暴な言い方もできよう。(資料は総務省自治行政局「行政投資実績」)ただし、95年頃から行政投資そのものの額は年々減っている。おそらく中央の役人が自らの益(組織として、あるいは個人の俸給として)を確保したあとに残った分をばら撒いているのだから、入ってくる金額が減れば、ばら撒きにも影響するだろう。(自らの益は変わっていないというか、むしろ、増えているハズ)
それはさておき、地方への資金流入が減っていく中において、公共事業などの蜜・ビジネスが成り立ちにくくなっていることから、このブログでも何回かふれたように地方の惨状は想像以上に深刻である。ただし、個々をみると、まだ地方の消費は大都市部に較べると、家賃、物価などの有利さから、多少ではあるが年間にすると、若干「使う」余裕がある。地方へ行くと、お屋敷やお車がたいそう立派なのはそういう面をあらわしている。一方で地方は都市部と比すと、上記の家や車といった耐久財(≒モノ)への消費が多く、レジャーなどへのサービス消費はまだまだ少ないという現実もあるが、これも徐々にではあるが都市部並みになりつつある。もう、買い替えはともかくとして、地方でもモノはあふれている状態にあるといってよいのだろう。それでは、モノに向かえない地方マネーはどこへ?と考えた場合、どうも東京へ放出しているという思いがするし、また、そうするしかないのかなという感もする。
有名な話ではあるが、東京を一国としてみると、GDPは世界1位にあたる。具体的に示せば、2003年における国民1人当りのGDPはルクセンブルクがNO.1で、58,440US$。日本はというと、第9位(33,727US$)に位置している。何故、GDP(国内総生産)かというと、ひところ前まではGNP(国民総生産)がこの種のランクづけに用いられていたが、"N"の方には海外に住んでいらっしゃる国民の方の分まで入っているので、実勢を反映していないということで、公式に"D"に切り替えられたからであり、わたくしの判断では決してない。
Dは単純にあらわせば、
《一国の総生産額÷同人口》を米ドル表示したものであり、これを、02年の数値ではあるが、東京都に置き換えてみると、
《84兆円÷1250万人=6720万円》となり、仮に110円=1米ドルとすると、約61,000US$であり、ルクセンブルクを抜いて堂々、世界第一の座に就くことになる。ちなみに、日本の総生産は460兆円だから、18%ほどが東京ということになる。(人口比は10%程度)
※資料は内閣府経済社会総合研究所ホームページ「平成15年度 国民経済計算確報」
そのような国に、周りの、しかも地続きで、パスポートもビザも要らない他国から流入しない手はない。50年代に東北や九州などから一斉に上がってきた集団就職とは異なり、今は地方も当時に比して裕福なはずである。しかし、裕福と満足は必ずしも一致しておらず、後者を求めて、東京へ向かう数は底知れないと言ってよい。新幹線東京駅の乗車人員は1日当り10万人、年間で3650万人を運んでいる計算になる。JR東海によれば、平日は7対3でビジネス利用客が多いが、休日は比率が逆転するという。平日休日同数乗るとしても、平日735万人、245日×10万人=2450万人の30%)と休日840万人(120日×10万人=1200万人の70%)、1575万人もの人が「東京見物」に来ていることになる。あるいは、(社)日本観光協会の推計によれば1年間に国民1人当り2回の宿泊旅行(観光)をするそうで、単純に人口を乗ずると約2億5000万人回となる。そのうち5%が東京に向かうとあるので、年間1250万人が東京観光にという勘定になる。いずれにしても、新幹線に乗ったり、泊りがけの観光だけをみても東京都民並みに人間が「地方」から東京に来ていることになろう。1回当りの旅行に1人が一体いくら遣っているか、01年の古いデータであるけれど、交通費を除くと約2万5000円と同協会の資料にある。仮に1250万人としても3000億円が東京(あるいは周辺)に流れていることになる。個人だけでない、企業もそうである。不動産投資(例えば、地方の資産家などが東京のビルをもつ、マンションを買うという)は以前から存在していたものの、走りはラーメン屋さんだったと思う。全国から志を抱いて(ただし、山っ気も含んで)、東京での成功をめざして向かったのが、今では大阪、神戸、名古屋などで老舗の、あるいは人気の店が相次いで東京に舗を構えている。お笑舗ヨシモトもそうなのかもしれない。地方から東京へ出てきた者には、地元の懐かしい味にふれられるという楽しみができた程度であるが、構えた方は東京人を相手に勝負を挑んでいる、大仰にいえば、そのぐらいの気概であろうか。裏を返せば、地方ではもう商いにならないと考えた末のことかもしれない。
…今はkokyo-tohshiからtokyo-tohshiの時代である。
それはさておき、地方への資金流入が減っていく中において、公共事業などの蜜・ビジネスが成り立ちにくくなっていることから、このブログでも何回かふれたように地方の惨状は想像以上に深刻である。ただし、個々をみると、まだ地方の消費は大都市部に較べると、家賃、物価などの有利さから、多少ではあるが年間にすると、若干「使う」余裕がある。地方へ行くと、お屋敷やお車がたいそう立派なのはそういう面をあらわしている。一方で地方は都市部と比すと、上記の家や車といった耐久財(≒モノ)への消費が多く、レジャーなどへのサービス消費はまだまだ少ないという現実もあるが、これも徐々にではあるが都市部並みになりつつある。もう、買い替えはともかくとして、地方でもモノはあふれている状態にあるといってよいのだろう。それでは、モノに向かえない地方マネーはどこへ?と考えた場合、どうも東京へ放出しているという思いがするし、また、そうするしかないのかなという感もする。
有名な話ではあるが、東京を一国としてみると、GDPは世界1位にあたる。具体的に示せば、2003年における国民1人当りのGDPはルクセンブルクがNO.1で、58,440US$。日本はというと、第9位(33,727US$)に位置している。何故、GDP(国内総生産)かというと、ひところ前まではGNP(国民総生産)がこの種のランクづけに用いられていたが、"N"の方には海外に住んでいらっしゃる国民の方の分まで入っているので、実勢を反映していないということで、公式に"D"に切り替えられたからであり、わたくしの判断では決してない。
Dは単純にあらわせば、
《一国の総生産額÷同人口》を米ドル表示したものであり、これを、02年の数値ではあるが、東京都に置き換えてみると、
《84兆円÷1250万人=6720万円》となり、仮に110円=1米ドルとすると、約61,000US$であり、ルクセンブルクを抜いて堂々、世界第一の座に就くことになる。ちなみに、日本の総生産は460兆円だから、18%ほどが東京ということになる。(人口比は10%程度)
※資料は内閣府経済社会総合研究所ホームページ「平成15年度 国民経済計算確報」
そのような国に、周りの、しかも地続きで、パスポートもビザも要らない他国から流入しない手はない。50年代に東北や九州などから一斉に上がってきた集団就職とは異なり、今は地方も当時に比して裕福なはずである。しかし、裕福と満足は必ずしも一致しておらず、後者を求めて、東京へ向かう数は底知れないと言ってよい。新幹線東京駅の乗車人員は1日当り10万人、年間で3650万人を運んでいる計算になる。JR東海によれば、平日は7対3でビジネス利用客が多いが、休日は比率が逆転するという。平日休日同数乗るとしても、平日735万人、245日×10万人=2450万人の30%)と休日840万人(120日×10万人=1200万人の70%)、1575万人もの人が「東京見物」に来ていることになる。あるいは、(社)日本観光協会の推計によれば1年間に国民1人当り2回の宿泊旅行(観光)をするそうで、単純に人口を乗ずると約2億5000万人回となる。そのうち5%が東京に向かうとあるので、年間1250万人が東京観光にという勘定になる。いずれにしても、新幹線に乗ったり、泊りがけの観光だけをみても東京都民並みに人間が「地方」から東京に来ていることになろう。1回当りの旅行に1人が一体いくら遣っているか、01年の古いデータであるけれど、交通費を除くと約2万5000円と同協会の資料にある。仮に1250万人としても3000億円が東京(あるいは周辺)に流れていることになる。個人だけでない、企業もそうである。不動産投資(例えば、地方の資産家などが東京のビルをもつ、マンションを買うという)は以前から存在していたものの、走りはラーメン屋さんだったと思う。全国から志を抱いて(ただし、山っ気も含んで)、東京での成功をめざして向かったのが、今では大阪、神戸、名古屋などで老舗の、あるいは人気の店が相次いで東京に舗を構えている。お笑舗ヨシモトもそうなのかもしれない。地方から東京へ出てきた者には、地元の懐かしい味にふれられるという楽しみができた程度であるが、構えた方は東京人を相手に勝負を挑んでいる、大仰にいえば、そのぐらいの気概であろうか。裏を返せば、地方ではもう商いにならないと考えた末のことかもしれない。
…今はkokyo-tohshiからtokyo-tohshiの時代である。
2005.05.28
彽徊(ていかい)
難しい字、そして、考え方である。彽(てい)という文字の意味を知りたいのであるが、手元に漢和辞典の類がなく、知る術を塞がれている。ちなみに「低」は「人(ニンベン)」と「邸」(家、屋敷、あるいは建物)が同サイズ(高さ)ほどだから、その建物は低いというところから来ているらしい、と、以前、何かの用で調べたことがある。これから、類推すると、行ニンベンは「(人が)行ったり来たり」で、それが低いので、「彽徊」=「思いに沈みながら(≒沈思か)、行ったり来たりすること」というところから来ているのではと、手元にある国語辞典で確認できる。わたくし的に勝手に解すると、好きな女性の家(もちろん、低いので平屋)の前で、デートに誘おうかどうか、行ったり来たり…であるが、先の辞書にはこうある。【彽徊−趣味】夏目漱石がとなえた文学上の立場。人情の世界に自分が直面することなく、ちょうど舞台の劇をみるように、第三者として世の中をみるところに美の世界が成立するという。『草枕』にみられる「非人情」というのも、これと同じ、とある。わたくしのは全く違う。
《…三四郎は勉強家というよりむしろ彽徊家(ていかいか)なので、わりあい書物を読まない。その代りある掬(きく)すべき情景にあうと、何べんもこれを頭の中で新たにして喜んでいる。そのほうが命に奥行(おくゆき)があるような気がする。…》
いってみれば、手前勝手な妄想の類なのであろうが、三四郎の場合は、両手で水をすく(掬)うよう、丁寧に掬しているから、単なるでは済まされない。まだ、二十歳そこそこのコゾウの言葉とは思えないとも言える。このあたりが、彽徊なのであろう。また、三四郎には三つの世界ができたと、述べている。
要約すると、一つは脱ぎ棄てた過去であり、故郷(あるいは母)である。二つは苔むした煉瓦造り周りで繰り広げられている現在である。このなかに入る者は、現世を知らないから不幸で、火宅(かたく)をのがれるから幸いであると学府のことを述べている。第三の世界は、さんとして春のごとく動いており、電燈、銀匙、歓声、笑語、泡立つシャンパンの杯があり、そうして、すべての上の冠として美しい女性(にょしょう)がある。のちに、美禰子の出現となる、未来あるいは、ひょっとしてという期待、神秘の領域である。彼は、この三つの世界について彽徊するが、結局、全てをいったん丼の中に一緒くたに放り込んで、がらがらぽんとしてみると、《――要するに、国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、そうして身を学問にゆだねるにこしたことはない。》という平凡な答えを自嘲的に導いている。もちろん、以上のことは、彽徊家である三四郎の独り善がりの妄想であることには違いないけれど、あるいは、たかが田舎出の青二才の戯言かもしれないけれど、いざ、わたくし自身に返してみると、丼の中から取り出すものは何か、平凡な答えさえ、出せない気分に陥るばかりである。
「三四郎」(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/794_14946.html
《…三四郎は勉強家というよりむしろ彽徊家(ていかいか)なので、わりあい書物を読まない。その代りある掬(きく)すべき情景にあうと、何べんもこれを頭の中で新たにして喜んでいる。そのほうが命に奥行(おくゆき)があるような気がする。…》
いってみれば、手前勝手な妄想の類なのであろうが、三四郎の場合は、両手で水をすく(掬)うよう、丁寧に掬しているから、単なるでは済まされない。まだ、二十歳そこそこのコゾウの言葉とは思えないとも言える。このあたりが、彽徊なのであろう。また、三四郎には三つの世界ができたと、述べている。
要約すると、一つは脱ぎ棄てた過去であり、故郷(あるいは母)である。二つは苔むした煉瓦造り周りで繰り広げられている現在である。このなかに入る者は、現世を知らないから不幸で、火宅(かたく)をのがれるから幸いであると学府のことを述べている。第三の世界は、さんとして春のごとく動いており、電燈、銀匙、歓声、笑語、泡立つシャンパンの杯があり、そうして、すべての上の冠として美しい女性(にょしょう)がある。のちに、美禰子の出現となる、未来あるいは、ひょっとしてという期待、神秘の領域である。彼は、この三つの世界について彽徊するが、結局、全てをいったん丼の中に一緒くたに放り込んで、がらがらぽんとしてみると、《――要するに、国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、そうして身を学問にゆだねるにこしたことはない。》という平凡な答えを自嘲的に導いている。もちろん、以上のことは、彽徊家である三四郎の独り善がりの妄想であることには違いないけれど、あるいは、たかが田舎出の青二才の戯言かもしれないけれど、いざ、わたくし自身に返してみると、丼の中から取り出すものは何か、平凡な答えさえ、出せない気分に陥るばかりである。
「三四郎」(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/794_14946.html
2005.05.23
手オル と タ(ta)拭い
お風呂に浸かったあと、バスタオルでお湯気を拭っている時に、思い出すのだけれど、西洋人というのは、さすがにバスタオルの使い方が巧い、遣いこなしているという感じでタオルを駆使して、身体を身ぎれいにしている。わたくしなどは、拭いたつもりでもアチコチを濡らしたままの状態で、そのことは、いつまで経っても、進歩がない、今もって、バスタオルをこなしていない。
タオルはスペイン語のトアーリャ(Toalla)かフランス語のティレール(Tirer)からきた言葉だそうで(四国タオル工業組合HPより)、もともとは浴布といった意味であったが、今ではハンドタオル、フェイスタオルというのもあるから、普及していくうちに、用途が広まっていったのであろう。一方、日本には「風呂」敷というのもある。風呂敷は、文字通り風呂に敷くことから「風呂敷」と呼ばれた。『語源由来辞典』によると、《室町時代の風呂は蒸し風呂のようなもので、蒸気を拡散させるために「むしろ」「すのこ」「布」などが床に敷かれていたものが風呂敷の起源であるが、現在の「風呂敷」にあたるものは「平包(ひらづつみ)」と呼ばれていた。足利義満が大湯殿を建てた際、大名達が他の人の衣服と間違えないよう家紋入りの絹布に脱いだ衣服を包み、湯上りにはこの絹布の上で身繕いをしたこという記録があり、これが「風呂敷」と「平包」の間に位置するものと考えられる。江戸時代に入り、湯をはった銭湯が誕生し、衣類や入浴用具を四角い布に包まれるようになったのが、現在の風呂敷に最も近いもので、風呂に敷く布のようなもので包むことから、「風呂敷包み」や「風呂敷」と呼ばれるようになった。銭湯が発展したのに伴ない、江戸時代の元禄頃から「平包」に変わり「風呂敷」の呼称が一般に広まっていった。》とある。
昔の絵をみていると、お風呂から出た衆がバスタオルで身体を拭いている光景はなかったように思うし、第一、わたくしが小さい頃には銭湯へ行くにも手拭い一本で出かけていたように思う。(これは学生時代、安アパートには当然ながらお風呂はないから、銭湯へ通っていたが、その時も変わっていなかった)しかし、正確に言うと、小さい頃のは手拭いで、木綿のサラサラとした鉢巻にもなるものであったと記憶しているが、学生時代のは、今のタオルであったと思う。
《団子がそれで済んだと思ったら今度は赤手拭(あかてぬぐい)と云うのが評判になった。何の事だと思ったら、つまらない来歴だ。おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極(き)めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及(およ)ばないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛(でかけ)る。ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。この手拭が湯に染(そま)った上へ、赤い縞(しま)が流れ出したのでちょっと見ると紅色(べにいろ)に見える。おれはこの手拭を行きも帰りも、汽車に乗ってもあるいても、常にぶら下げている。それで生徒がおれの事を赤手拭赤手拭と云うんだそうだ。…》
長い引用であるが夏目漱石の『坊ちゃん』の一説である。彼が持って(ぶら下げて)いるのは手拭いではなく、タオルではないだろうか。その頃には、もうタオル(西洋手拭)があったのだろうか、今一度、四国タオル工業組合に戻ると、タオルが日本に持ち込まれたのは明治5(1872)年とあるから、同作が書かれた明治39(1906)年には、あったわけである。とすれば、わたくしの記憶にある晒し木綿の手拭いは錯覚なのだろうか?いや、あの方(N氏)はハイカラだから進んでいて、わたくしのような、田舎育ちの人間はおそらく、昭和の時代でも手拭いを使っていたのだろうと、思うことにしておこう。
『三四郎』にも西洋手拭(タウエル)が出てくる。これは、坊ちゃんより、はるかに印象的である。
《三四郎はついと立って、鞄の中から、キャラコのシャツとズボン下を出して、それを素肌(すはだ)へ着けて、その上から紺(こん)の兵児帯(へこおび)を締めた。それから西洋手拭(タウエル)を二筋(ふたすじ)持ったまま蚊帳の中へはいった。女は蒲団の向こうのすみでまだ団扇を動かしている。
「失礼ですが、私は癇症(かんしょう)でひとの蒲団に寝るのがいやだから……少し蚤(のみ)よけの工夫をやるから御免なさい」
三四郎はこんなことを言って、あらかじめ、敷いてある敷布(シート)の余っている端(はじ)を女の寝ている方へ向けてぐるぐる巻きだした。そうして蒲団のまん中に白い長い仕切りをこしらえた。女は向こうへ寝返りを打った。三四郎は西洋手拭を広げて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、その上に細長く寝た。その晩は三四郎の手も足もこの幅の狭い西洋手拭の外には一寸も出なかった。女は一言(ひとこと)も口をきかなかった。女も壁を向いたままじっとして動かなかった。》
翌朝、別れ際に《あなたはよっぽど度胸のないかたですね》という件(くだり)ばかりに気を取られて、うっかりしていたが、三四郎の西洋手拭は、坊ちゃんの西洋手拭の大きな奴とは種類がもしかしたら異なっているのかということに、先ほど読み返して、悩んでいる。何しろ、蒲団一枚を半々に割って、そこへ2枚広げても狭いというのが「三四郎」のモノ、対して「坊ちゃん」は大きな奴といっている、単純に読めば、三四郎<坊ちゃんと理解できる。しかし、西洋手拭の大きい奴というのはバスタオルのことなのか?とした場合、バスタオルをぶら下げて、お風呂に行く者がいるのかという新たな悩みが生じてしまった。…それとも、三四郎のは今でいうハンドタウエルか、あるいはフェイスタウエルか?
再び、四国タオル工業組合に戻る。同HPにタオルの種類という項がある。まず、三四郎のタウエルを検証すると、男ひとりが二枚使って、狭い思いをするとあるから、以下のような推測をしてみた。ちなみにサイズは幅×長さである。
×タオルハンカチ
(15cm×15cm〜40cm×40cm)タオル生地を使用したハンカチ。ポケットに納まるサイズです。
△スポーツタオル
(15cm〜45cm×100cm〜130cm)汗をふき取るのにちょうど良い幅のタオルです。大きいサイズのものはシャワー後にバスタオルとしてご使用ください。
×おしぼりタオル
(28cm〜34cm×35cm〜42cm)食事前のお手ふき、汗ふき、キッチンクロス、テーブルふきなどにどうぞ。
○浴用タオル
(33cm〜36cm×80cm〜90cm)背中を楽に洗うことができる少し長めのサイズです。すすぎが簡単で、絞りやすい少し薄手のタオルです。
△ハンドタオル
(40cm〜50cm×75cm〜100cm)手や顔をふくのに便利なサイズです。フェイスタオルより幅広く、厚めに織られています。
×バスタオル
(50cm〜75cm×100cm〜130cm)シャワーや入浴後に体の水分をふき取るために使います。
×ワイドバスタオル
(75cm〜100cm×130cm〜200cm)体を包んだりふいたりできる余裕のサイズです。海辺やプールでの敷物や、お昼寝の肌がけにしても便利です。
×タオルケット
(130cm〜230cm×180cm〜280cm)保温性や通気性、吸水性に優れたタオルの特性を活かした寝具です。肌触りの良さを実感してください。
………………………
わたくしの動かない頭うちでは、以上のような結果である。浴用かハンドかということになる。スポーツというのも△であるが、これはサイズから、そう評価しただけで、あの頃はなかっただろうと思うので、候補から外した。ちなみに手持ちの浴用を試してみたが、いかにも狭すぎる、この狭さが、どうも三四郎の心情にあっていそうなのである。とはいえハンドの疑いも、まだ、晴れていない。
女と別れて、再び東京に向かう三四郎が車内で本を読もうとしたところ、ズックの鞄(かばん)を開けると、《昨夜の西洋手拭が、上のところにぎっしり詰まっている》とあるが、他に大きな行李は新橋まで預けてあるからと記されているから、ズック鞄はせいぜい手提げ程度の大きさ、まさかバスタオル級をぎっしり詰めているとは思えない。ハンドタオルなら詰められるかと思うので、その疑いも否定できないけれど、ここに、坊ちゃんの「大きな奴」を加味すると、どうやら、決着がつきそうである。
ところで、わたくしが普段使っているバスタオルは表に意匠(デザイン)かなんかがされていて、裏は無(白)地(織りのまま)というであるけれど、その場合、いったい、どちらで拭くのが正当なのか、未だに、分からず、結局、裏表、返し返し使っているけれども、果たして、何か、正解、作法みたいなものはあるのだろうか。四国タオル工業組合HPにも、そのことはふれていないので、もしかしたら、もう、どちらを使うかは常識なのかもしれないが、わたくしには依然、謎のままである。
…………………
青空文庫で三四郎を読みいってしまった。そのことは、近いうちに、タウエルとは関係ないことで書きたいと思う。
[四国タオル工業組合HP]
http://www.stia.jp/navi/history/index.html
[語源由来辞典]http://gogen-allguide.com/hu/furoshiki.html
[坊ちゃん](青空文庫)…3章(節?)の後ろの方
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/752_14964.html
[三四郎](青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/794_14946.html
タオルはスペイン語のトアーリャ(Toalla)かフランス語のティレール(Tirer)からきた言葉だそうで(四国タオル工業組合HPより)、もともとは浴布といった意味であったが、今ではハンドタオル、フェイスタオルというのもあるから、普及していくうちに、用途が広まっていったのであろう。一方、日本には「風呂」敷というのもある。風呂敷は、文字通り風呂に敷くことから「風呂敷」と呼ばれた。『語源由来辞典』によると、《室町時代の風呂は蒸し風呂のようなもので、蒸気を拡散させるために「むしろ」「すのこ」「布」などが床に敷かれていたものが風呂敷の起源であるが、現在の「風呂敷」にあたるものは「平包(ひらづつみ)」と呼ばれていた。足利義満が大湯殿を建てた際、大名達が他の人の衣服と間違えないよう家紋入りの絹布に脱いだ衣服を包み、湯上りにはこの絹布の上で身繕いをしたこという記録があり、これが「風呂敷」と「平包」の間に位置するものと考えられる。江戸時代に入り、湯をはった銭湯が誕生し、衣類や入浴用具を四角い布に包まれるようになったのが、現在の風呂敷に最も近いもので、風呂に敷く布のようなもので包むことから、「風呂敷包み」や「風呂敷」と呼ばれるようになった。銭湯が発展したのに伴ない、江戸時代の元禄頃から「平包」に変わり「風呂敷」の呼称が一般に広まっていった。》とある。
昔の絵をみていると、お風呂から出た衆がバスタオルで身体を拭いている光景はなかったように思うし、第一、わたくしが小さい頃には銭湯へ行くにも手拭い一本で出かけていたように思う。(これは学生時代、安アパートには当然ながらお風呂はないから、銭湯へ通っていたが、その時も変わっていなかった)しかし、正確に言うと、小さい頃のは手拭いで、木綿のサラサラとした鉢巻にもなるものであったと記憶しているが、学生時代のは、今のタオルであったと思う。
《団子がそれで済んだと思ったら今度は赤手拭(あかてぬぐい)と云うのが評判になった。何の事だと思ったら、つまらない来歴だ。おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極(き)めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及(およ)ばないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛(でかけ)る。ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。この手拭が湯に染(そま)った上へ、赤い縞(しま)が流れ出したのでちょっと見ると紅色(べにいろ)に見える。おれはこの手拭を行きも帰りも、汽車に乗ってもあるいても、常にぶら下げている。それで生徒がおれの事を赤手拭赤手拭と云うんだそうだ。…》
長い引用であるが夏目漱石の『坊ちゃん』の一説である。彼が持って(ぶら下げて)いるのは手拭いではなく、タオルではないだろうか。その頃には、もうタオル(西洋手拭)があったのだろうか、今一度、四国タオル工業組合に戻ると、タオルが日本に持ち込まれたのは明治5(1872)年とあるから、同作が書かれた明治39(1906)年には、あったわけである。とすれば、わたくしの記憶にある晒し木綿の手拭いは錯覚なのだろうか?いや、あの方(N氏)はハイカラだから進んでいて、わたくしのような、田舎育ちの人間はおそらく、昭和の時代でも手拭いを使っていたのだろうと、思うことにしておこう。
『三四郎』にも西洋手拭(タウエル)が出てくる。これは、坊ちゃんより、はるかに印象的である。
《三四郎はついと立って、鞄の中から、キャラコのシャツとズボン下を出して、それを素肌(すはだ)へ着けて、その上から紺(こん)の兵児帯(へこおび)を締めた。それから西洋手拭(タウエル)を二筋(ふたすじ)持ったまま蚊帳の中へはいった。女は蒲団の向こうのすみでまだ団扇を動かしている。
「失礼ですが、私は癇症(かんしょう)でひとの蒲団に寝るのがいやだから……少し蚤(のみ)よけの工夫をやるから御免なさい」
三四郎はこんなことを言って、あらかじめ、敷いてある敷布(シート)の余っている端(はじ)を女の寝ている方へ向けてぐるぐる巻きだした。そうして蒲団のまん中に白い長い仕切りをこしらえた。女は向こうへ寝返りを打った。三四郎は西洋手拭を広げて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、その上に細長く寝た。その晩は三四郎の手も足もこの幅の狭い西洋手拭の外には一寸も出なかった。女は一言(ひとこと)も口をきかなかった。女も壁を向いたままじっとして動かなかった。》
翌朝、別れ際に《あなたはよっぽど度胸のないかたですね》という件(くだり)ばかりに気を取られて、うっかりしていたが、三四郎の西洋手拭は、坊ちゃんの西洋手拭の大きな奴とは種類がもしかしたら異なっているのかということに、先ほど読み返して、悩んでいる。何しろ、蒲団一枚を半々に割って、そこへ2枚広げても狭いというのが「三四郎」のモノ、対して「坊ちゃん」は大きな奴といっている、単純に読めば、三四郎<坊ちゃんと理解できる。しかし、西洋手拭の大きい奴というのはバスタオルのことなのか?とした場合、バスタオルをぶら下げて、お風呂に行く者がいるのかという新たな悩みが生じてしまった。…それとも、三四郎のは今でいうハンドタウエルか、あるいはフェイスタウエルか?
再び、四国タオル工業組合に戻る。同HPにタオルの種類という項がある。まず、三四郎のタウエルを検証すると、男ひとりが二枚使って、狭い思いをするとあるから、以下のような推測をしてみた。ちなみにサイズは幅×長さである。
×タオルハンカチ
(15cm×15cm〜40cm×40cm)タオル生地を使用したハンカチ。ポケットに納まるサイズです。
△スポーツタオル
(15cm〜45cm×100cm〜130cm)汗をふき取るのにちょうど良い幅のタオルです。大きいサイズのものはシャワー後にバスタオルとしてご使用ください。
×おしぼりタオル
(28cm〜34cm×35cm〜42cm)食事前のお手ふき、汗ふき、キッチンクロス、テーブルふきなどにどうぞ。
○浴用タオル
(33cm〜36cm×80cm〜90cm)背中を楽に洗うことができる少し長めのサイズです。すすぎが簡単で、絞りやすい少し薄手のタオルです。
△ハンドタオル
(40cm〜50cm×75cm〜100cm)手や顔をふくのに便利なサイズです。フェイスタオルより幅広く、厚めに織られています。
×バスタオル
(50cm〜75cm×100cm〜130cm)シャワーや入浴後に体の水分をふき取るために使います。
×ワイドバスタオル
(75cm〜100cm×130cm〜200cm)体を包んだりふいたりできる余裕のサイズです。海辺やプールでの敷物や、お昼寝の肌がけにしても便利です。
×タオルケット
(130cm〜230cm×180cm〜280cm)保温性や通気性、吸水性に優れたタオルの特性を活かした寝具です。肌触りの良さを実感してください。
………………………
わたくしの動かない頭うちでは、以上のような結果である。浴用かハンドかということになる。スポーツというのも△であるが、これはサイズから、そう評価しただけで、あの頃はなかっただろうと思うので、候補から外した。ちなみに手持ちの浴用を試してみたが、いかにも狭すぎる、この狭さが、どうも三四郎の心情にあっていそうなのである。とはいえハンドの疑いも、まだ、晴れていない。
女と別れて、再び東京に向かう三四郎が車内で本を読もうとしたところ、ズックの鞄(かばん)を開けると、《昨夜の西洋手拭が、上のところにぎっしり詰まっている》とあるが、他に大きな行李は新橋まで預けてあるからと記されているから、ズック鞄はせいぜい手提げ程度の大きさ、まさかバスタオル級をぎっしり詰めているとは思えない。ハンドタオルなら詰められるかと思うので、その疑いも否定できないけれど、ここに、坊ちゃんの「大きな奴」を加味すると、どうやら、決着がつきそうである。
ところで、わたくしが普段使っているバスタオルは表に意匠(デザイン)かなんかがされていて、裏は無(白)地(織りのまま)というであるけれど、その場合、いったい、どちらで拭くのが正当なのか、未だに、分からず、結局、裏表、返し返し使っているけれども、果たして、何か、正解、作法みたいなものはあるのだろうか。四国タオル工業組合HPにも、そのことはふれていないので、もしかしたら、もう、どちらを使うかは常識なのかもしれないが、わたくしには依然、謎のままである。
…………………
青空文庫で三四郎を読みいってしまった。そのことは、近いうちに、タウエルとは関係ないことで書きたいと思う。
[四国タオル工業組合HP]
http://www.stia.jp/navi/history/index.html
[語源由来辞典]http://gogen-allguide.com/hu/furoshiki.html
[坊ちゃん](青空文庫)…3章(節?)の後ろの方
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/752_14964.html
[三四郎](青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/794_14946.html
2005.05.22
nINgen kaNkei と INterNet
この間、人間関係について考えていた。東京だけで1千万人、国内で1億2千万人、世界は65億かぁ〜、と、想像すると、ヒトは独りではないんだなぁと思うけれど、いったん、東京のど真ん中に立たせられると、自分は独りなんだなぁと思う。それでも、寂しさはない、むしろ、独りの方が心地よい。そして、周りの、あるいは昔の、未来の人間たちをみつめながら、想像の中での人間関係を追っていた方が、よほど楽しい。インターネットというのは、その妄想行為と仕組みが似ているかもしれない。ただし、あくまでもの虚像の域を出ないことは忘れてはいけないのであろうが、実像よりはるかに真実っぽい部分もある。例えば、数ある日記の類は、日常に起こった、さまざまなデキゴトを、その人なりの解釈でもって、『×部長はAと言ったが、本当はBである』というようなことを、もはや実像世界では否定されてはいるものの、虚像の世界では堂々とBを肯定することができる。傍からみる(読む)と、虚像の世界で言われていることが真実で、実像の方がウソということが多々ある。しかも、居酒屋で酔っ払いながら、部長の悪口を言っている程度のノリとは誰も受け止めない。こうなると、どちらが実像であるか、判断がつきかねるが、これほどインターネットが発達した時点においては、もはや、実像が虚像であり、虚像が実像であるといってもよさそうである。
だとしても、冒頭の、わたくしの妄想は虚像であり、実像には人間関係など全くない。
せめて、目の前のパソコンさんとは上手な関係をもちたいものである。
だとしても、冒頭の、わたくしの妄想は虚像であり、実像には人間関係など全くない。
せめて、目の前のパソコンさんとは上手な関係をもちたいものである。
2005.05.16
May Stream(×) ∩ Meryl Streep
小納さんの著作を読んでいる中で、五月の嵐、May_Stormについて調べていた。この時期、日本海側に発生する低気圧で、海も山も大荒れになることが多いのも、これが原因である。そういえば、昨日か雷が鳴っていたようであるが、これも、そのせいらしい。詳しく知ろうと思い、ネット検索をしても、思ったような結果が出ないので、自分が打ち込んだ検索語を確認すると、大間違いであることに気がついた。それが《May Stream》、これでは、出るはずがない。とはいえ、メイストリームで、メイストームのことを書いていたサイトに当たり、その方もやはり、メイストリームと表現していて、ああ、同好の志がいたかと安心した。言い訳でしかないけれど、わたくし的には、ストームより、ストリームの印象なのだけど、ま、某FM番組ではあるまいし…。あらためて、May_Stormで検索しなおすと800件ほどあり、↑の低気圧の話を承知した次第である。ついでに書くと、この時期(5月中旬)は南から移動性高気圧が北上して、いわゆる、走り梅雨、もう沖縄、奄美地方では梅雨入りしたそうである。さらに、ついでではあるが、メイストリームで13件HITした。
Meryl Streepは、メイストリームから想いだした。最初に観たのがディア・ハンターだったと思う。マディソン群の橋もちゃっかり観ている。ほかにも何作か観ているのだから、お気に入りなのだろうか?わたくし自身は最近、映画を観ていないのであるが、偶然とはいえ、拙blog5・14付「小山さん」で『水の中の八月』という映画を紹介した。昨日、これは拙HPの方に、やはり5・14にアップした「ハバロフスク日本人会会報・六花(りっか)」を責任編集されている同市在住で、わたくしの畏友・飲友でもある岡田さんからメールがあり、当地で開催された日本映画祭で『水…』が上映されたのを鑑賞されたと書いてあったのを拝読して、この際だから、この週末にでも、映画館で映画でも観ようかと、これから、上映スケジュールを調べてみるつもりである。
[ハバロフスク日本人会会報(六花)/2005年・春号・通巻14号]
http://hisgan.fc2web.com/rikka14.htm
Meryl Streepは、メイストリームから想いだした。最初に観たのがディア・ハンターだったと思う。マディソン群の橋もちゃっかり観ている。ほかにも何作か観ているのだから、お気に入りなのだろうか?わたくし自身は最近、映画を観ていないのであるが、偶然とはいえ、拙blog5・14付「小山さん」で『水の中の八月』という映画を紹介した。昨日、これは拙HPの方に、やはり5・14にアップした「ハバロフスク日本人会会報・六花(りっか)」を責任編集されている同市在住で、わたくしの畏友・飲友でもある岡田さんからメールがあり、当地で開催された日本映画祭で『水…』が上映されたのを鑑賞されたと書いてあったのを拝読して、この際だから、この週末にでも、映画館で映画でも観ようかと、これから、上映スケジュールを調べてみるつもりである。
[ハバロフスク日本人会会報(六花)/2005年・春号・通巻14号]
http://hisgan.fc2web.com/rikka14.htm
2005.05.15
富のくに
大分というのは島根(松江・出雲)を訪れる前年(03年2月)に、44番めにうかがった都道府県ということになるが、まことに標題の「富」という文字が似合うと思った。所用は別府にあり、小倉から、かわいらしいJR九州(ここの列車は皆かわいい)の特急に乗って、用先へ直行した。所用でお会いしたAさんがとてもすばらしい方で、用件もそこそこに、では、チョット、出かけましょうか、と、四輪駆動の車でもって、わたくしを助手席に座らせると、山の奥へと、連れて行ってくれた。とにかく、見せたいから、と、着いた先は山の中腹にある野天風呂だった。
[別府・山すそにある、手づくり野天風呂]

まだ、陽も落ちず、辺りが明るい中であったが、先客がいらして、山肌から湧き出す湯泉をそばにゴロゴロ転がっている石・岩で囲んだ手づくりの野天風呂を楽しんでおられた。カップ酒を手にし、美味しそうにしている湯客も…、思わず、素裸になって、隣に跳びこもうとも思った。しばらく、咽喉(お酒)と身体(お湯)が欲するのを我慢しながら、離れがたい気持ちに陥っていたけれど、Aさんに導かれながら、渋々そこを去り、あとをついて歩くと、そこそこにポコポコ・ボコボコと地下から勢いよく出ているのが見られる。Aさんに確認してから湯だまりに手をそっと沈めると、心地の良い、肌ざわりの良い湯度が指先から伝わってきた。
[pocopoco・bokoboko]

「別府にはこういう場所がアチコチにあるんです」というAさんの説明を聞くと、そして、実際に目、手でもってふれた湯を前にすると、ふるさと創生ナントカで一億円もかけて苦心して、アチコチで温泉掘削している各地のことがアダ花のようにも思えてきた。山だけではない、海に注目すれば、これもまた富に満ちている。関サバ・関アジというと、今では高級魚の代表みたいな感がして、とても、食べる気にはならない(食べられない)が、その夜、氏が連れて行って下さったお店では、生け簀で泳いでいるサバをまるまるさばいてくれて、芋焼酎一升を空けた。ふだん油っ気の多いモノには手を出さないわたくしも、食べなれているのだろうか、Aさんが焼酎ばかりに手がいって、サバにいかないのをよいことに、大半をご馳走になってしまった。四国最西端の佐田岬と関崎(佐賀関半島)という狭い潮域の急流でたくましく育ったサバの適度な油と意外にスッキリ味な芋焼酎のバランスが良いのだろう。大分といえば、前知事の平松守彦氏が中心となって推進した一村一品運動が有名であるが、今でいえば村おこしの原点にあたるといえよう。中でも「梅・栗植えてハワイに行こう!」は大山町の名を全国的にした。同町は今年の3月22日に日田市と合併、あの中津江村(日韓ワールドカップのカメルーン代表との交流)とお仲間になった。
………
Aさんのおかげでもって、以上のような思いがけない良い思いをしたうえに、わたくしにとっては、長年お会いしたいと願っていた「おヒトたち」と、とうとう対面できるというおまけつきの旅行(仕事のはずだけど)であった。別府駅から柳ヶ浦駅までは鈍行電車でも1時間程度、予想したとおり、何日か分の所帯道具を詰め込んだリュックを預かってくれるような場所もなく、といってタクシーに乗ることもないので、両肩に重みを背負い、途中、小雨に降られながらも、二十分ほどの道のりを歩くと、ようやく目的の東光寺「五百羅漢」にたどり着いた。これもまた、授業中、話を聞かずに教科書(地理か歴史か?)をぼぅっと眺めていた経験に基づく妄想から始まっている。大分には国東半島という、その筋では超A級の「おヒトたち」が別に存在する。また、臼杵には国宝の磨崖(まがい)仏(ぶつ)というのも在る。これらにもいつか行きたいとは思うけれど、まずは宇佐である。近づくと、窓を閉め切って、人気のない小さな建物があり、うっかりすると、見逃しそうな、弱々しいなりの拝観料箱があって、確か100円(以上か?)お願いしますとあったように記憶している。重たい荷物を預かっていただく分を上乗せしたと思う。預かるといっても小屋の前に置くだけのことであるが、ここまで来て、黙って持っていくような人はいないだろうと、安心しきれるのもココらしい空気である。肩の荷を下ろしたせいか徒歩の疲れも散り、これから羅漢さんたちに会えるという期待感ばかりが膨らんだ。
十段ばかりの雛壇のような設(しつら)えに521体(524、538という記述もある)の羅漢さんたちが一斉に、わたくしをみている。
「こんにちは」
わたくしは人ひとり通るのも難儀な隙間をぬって、一人一人にあいさつして回った。それだけで十分の思いであった。わたくしは、ただ、これだけのことをしに、ココへ来ているのだろうけれど、では、ほかに何をしにココへ来ればよいのだろうかと考えても、一切答えは出てこない。ただ、彼らに会うことができさえすればよい、そういう思いを強くして、最後に彼らの最後列にお邪魔すると、522体目となって、しばらく、座していた。おそらく、わたくしがこの先どれほど「勉めて」も、お釈迦様のご供養に最初に集まったと伝えられる五百羅漢と同列になりようはなく、ただ、そういう夢か現を見させていただいた一瞬のために、ココに来たということだけで、すっかり満たされていたのだと思う。
[宇佐市・東光寺の五百羅漢:後姿が素的である]

羅漢さんたちと別れを告げ、その帰りがけに庭の、病にでも罹ったのか幹の大半を切り取られた脇から、けなげにも花を咲かせている梅が気にかかった。東光寺の羅漢さんは当時のご住職が世相及び庶民の生業を案じて、日出(ひじ)町の石工に依頼して、造ったとある。文久3(1863)年というから、もう明治へのカウントダウンが始まっており、中央(江戸)では、ご一新の熱波が渦巻き、さぁ立国だという勢いがあったのだろうが、宇佐あるいは、いわゆる地方はそうでもなかったのだろうか。もしかしたら、寺庭の梅が、患いながら、それでも新たな芽を起こし、開花させたように、維新にいたるまでの地方の苦しみが支幹となって、明治という華を咲かせたのか、そういう思いでもって、梅さんにもお暇した。
[東光寺に咲く梅]

梅の季節ではあるけれど、中津では桃の節句を楽しむことができた。これは旅行中に、たまたまネットで知ったのであるが、旧家のお雛飾りを公開するというもので、例えば、日田、佐賀、など、九州各地であるらしい。で、今回は、帰途に福沢諭吉ゆかりの中津へ寄った次第である。駅前を少し歩いたところに昔からの通りがあり、その両脇の何軒かが自宅あるいは事務所の一部を開放して、伝来の雛飾りを展示していた。わたくしも古くからの醤油屋さんのそれはたいそう立派なお雛様たちを拝見した。
[中津のお雛飾り]

…………
五百羅漢とお雛様を同列に語る必要はないけれど、お雛様はある意味、その家の格を著しているようで、わたくしのような貧乏家の人間には縁遠いものではあるとしても、醤油屋さんから頼まれて、作ったという近郷の人形職人といい、羅漢を明治14(1881)年までの19年間(安政6年から明治24年までの24年間という説もある)かけて彫ったという吉野覚之丞という石工職人にしても、いずれも、名工、名匠として、後世に名を知らしめたというわけではないかもしれないけれど、その身も心も、篤い信仰、大きな慈愛、あるいは、エンカにも通ずる庶民の深い悲哀を歌のかわりに仏や雛の姿として著していたのかもしれない。
もちろん、全国各地にそういう例はいくらもあるのだろうが、わたくしには、この早春のできごとが、繰り返すけれども、大分はまことに富の国、すなわち豊の国であるという想いをより強くさせたに違いないのであろう。そのことが、決して富んでも、豊かともいえない、わたくしという素性、品性をより浮き上がらせて、このまま再び南下すれば、わたくしにとって46、47番目の都道府県となる、いずれも「ヒ」の国である熊本(肥)、宮崎(日)が広がっているが、それはいずれの機会としなければと、Aさんのお生まれになった佐伯市も含めて、必ず行くからと、またひとつ妄想をいただいて、北へと逃げる思いで、帰途の電車に乗った。
[別府・山すそにある、手づくり野天風呂]

まだ、陽も落ちず、辺りが明るい中であったが、先客がいらして、山肌から湧き出す湯泉をそばにゴロゴロ転がっている石・岩で囲んだ手づくりの野天風呂を楽しんでおられた。カップ酒を手にし、美味しそうにしている湯客も…、思わず、素裸になって、隣に跳びこもうとも思った。しばらく、咽喉(お酒)と身体(お湯)が欲するのを我慢しながら、離れがたい気持ちに陥っていたけれど、Aさんに導かれながら、渋々そこを去り、あとをついて歩くと、そこそこにポコポコ・ボコボコと地下から勢いよく出ているのが見られる。Aさんに確認してから湯だまりに手をそっと沈めると、心地の良い、肌ざわりの良い湯度が指先から伝わってきた。
[pocopoco・bokoboko]

「別府にはこういう場所がアチコチにあるんです」というAさんの説明を聞くと、そして、実際に目、手でもってふれた湯を前にすると、ふるさと創生ナントカで一億円もかけて苦心して、アチコチで温泉掘削している各地のことがアダ花のようにも思えてきた。山だけではない、海に注目すれば、これもまた富に満ちている。関サバ・関アジというと、今では高級魚の代表みたいな感がして、とても、食べる気にはならない(食べられない)が、その夜、氏が連れて行って下さったお店では、生け簀で泳いでいるサバをまるまるさばいてくれて、芋焼酎一升を空けた。ふだん油っ気の多いモノには手を出さないわたくしも、食べなれているのだろうか、Aさんが焼酎ばかりに手がいって、サバにいかないのをよいことに、大半をご馳走になってしまった。四国最西端の佐田岬と関崎(佐賀関半島)という狭い潮域の急流でたくましく育ったサバの適度な油と意外にスッキリ味な芋焼酎のバランスが良いのだろう。大分といえば、前知事の平松守彦氏が中心となって推進した一村一品運動が有名であるが、今でいえば村おこしの原点にあたるといえよう。中でも「梅・栗植えてハワイに行こう!」は大山町の名を全国的にした。同町は今年の3月22日に日田市と合併、あの中津江村(日韓ワールドカップのカメルーン代表との交流)とお仲間になった。
………
Aさんのおかげでもって、以上のような思いがけない良い思いをしたうえに、わたくしにとっては、長年お会いしたいと願っていた「おヒトたち」と、とうとう対面できるというおまけつきの旅行(仕事のはずだけど)であった。別府駅から柳ヶ浦駅までは鈍行電車でも1時間程度、予想したとおり、何日か分の所帯道具を詰め込んだリュックを預かってくれるような場所もなく、といってタクシーに乗ることもないので、両肩に重みを背負い、途中、小雨に降られながらも、二十分ほどの道のりを歩くと、ようやく目的の東光寺「五百羅漢」にたどり着いた。これもまた、授業中、話を聞かずに教科書(地理か歴史か?)をぼぅっと眺めていた経験に基づく妄想から始まっている。大分には国東半島という、その筋では超A級の「おヒトたち」が別に存在する。また、臼杵には国宝の磨崖(まがい)仏(ぶつ)というのも在る。これらにもいつか行きたいとは思うけれど、まずは宇佐である。近づくと、窓を閉め切って、人気のない小さな建物があり、うっかりすると、見逃しそうな、弱々しいなりの拝観料箱があって、確か100円(以上か?)お願いしますとあったように記憶している。重たい荷物を預かっていただく分を上乗せしたと思う。預かるといっても小屋の前に置くだけのことであるが、ここまで来て、黙って持っていくような人はいないだろうと、安心しきれるのもココらしい空気である。肩の荷を下ろしたせいか徒歩の疲れも散り、これから羅漢さんたちに会えるという期待感ばかりが膨らんだ。
十段ばかりの雛壇のような設(しつら)えに521体(524、538という記述もある)の羅漢さんたちが一斉に、わたくしをみている。
「こんにちは」
わたくしは人ひとり通るのも難儀な隙間をぬって、一人一人にあいさつして回った。それだけで十分の思いであった。わたくしは、ただ、これだけのことをしに、ココへ来ているのだろうけれど、では、ほかに何をしにココへ来ればよいのだろうかと考えても、一切答えは出てこない。ただ、彼らに会うことができさえすればよい、そういう思いを強くして、最後に彼らの最後列にお邪魔すると、522体目となって、しばらく、座していた。おそらく、わたくしがこの先どれほど「勉めて」も、お釈迦様のご供養に最初に集まったと伝えられる五百羅漢と同列になりようはなく、ただ、そういう夢か現を見させていただいた一瞬のために、ココに来たということだけで、すっかり満たされていたのだと思う。
[宇佐市・東光寺の五百羅漢:後姿が素的である]

羅漢さんたちと別れを告げ、その帰りがけに庭の、病にでも罹ったのか幹の大半を切り取られた脇から、けなげにも花を咲かせている梅が気にかかった。東光寺の羅漢さんは当時のご住職が世相及び庶民の生業を案じて、日出(ひじ)町の石工に依頼して、造ったとある。文久3(1863)年というから、もう明治へのカウントダウンが始まっており、中央(江戸)では、ご一新の熱波が渦巻き、さぁ立国だという勢いがあったのだろうが、宇佐あるいは、いわゆる地方はそうでもなかったのだろうか。もしかしたら、寺庭の梅が、患いながら、それでも新たな芽を起こし、開花させたように、維新にいたるまでの地方の苦しみが支幹となって、明治という華を咲かせたのか、そういう思いでもって、梅さんにもお暇した。
[東光寺に咲く梅]

梅の季節ではあるけれど、中津では桃の節句を楽しむことができた。これは旅行中に、たまたまネットで知ったのであるが、旧家のお雛飾りを公開するというもので、例えば、日田、佐賀、など、九州各地であるらしい。で、今回は、帰途に福沢諭吉ゆかりの中津へ寄った次第である。駅前を少し歩いたところに昔からの通りがあり、その両脇の何軒かが自宅あるいは事務所の一部を開放して、伝来の雛飾りを展示していた。わたくしも古くからの醤油屋さんのそれはたいそう立派なお雛様たちを拝見した。
[中津のお雛飾り]

…………
五百羅漢とお雛様を同列に語る必要はないけれど、お雛様はある意味、その家の格を著しているようで、わたくしのような貧乏家の人間には縁遠いものではあるとしても、醤油屋さんから頼まれて、作ったという近郷の人形職人といい、羅漢を明治14(1881)年までの19年間(安政6年から明治24年までの24年間という説もある)かけて彫ったという吉野覚之丞という石工職人にしても、いずれも、名工、名匠として、後世に名を知らしめたというわけではないかもしれないけれど、その身も心も、篤い信仰、大きな慈愛、あるいは、エンカにも通ずる庶民の深い悲哀を歌のかわりに仏や雛の姿として著していたのかもしれない。
もちろん、全国各地にそういう例はいくらもあるのだろうが、わたくしには、この早春のできごとが、繰り返すけれども、大分はまことに富の国、すなわち豊の国であるという想いをより強くさせたに違いないのであろう。そのことが、決して富んでも、豊かともいえない、わたくしという素性、品性をより浮き上がらせて、このまま再び南下すれば、わたくしにとって46、47番目の都道府県となる、いずれも「ヒ」の国である熊本(肥)、宮崎(日)が広がっているが、それはいずれの機会としなければと、Aさんのお生まれになった佐伯市も含めて、必ず行くからと、またひとつ妄想をいただいて、北へと逃げる思いで、帰途の電車に乗った。
2005.05.14
小山さん
小納さんのことではない。小山俊治さんのことを書きたいと思う。一昨昨日=二昨日(05.05.11付)成果主義とは)もふれたが、わたくしは元タイイク会系であったことから、スポーツ・運動モノにもアンテナを張ってきた、というよりも、担当教師の命によって、見るようにといわれていた所為かもしれないけれど、アマチュアスポーツをよく見ていた。といってもTVが中心であったが、中には「放送陸上」というのがあって、全国の会場で中学生が走ったり、投げたりするのを、nhkラジオの各局が中継しあって、男子百メートル走●※県の△凹く〜ん、11秒…、■×県の何某く〜ん、…というアナウンスを延々と聞いていた記憶もある。当時は各都道府県ごとに競技会を開き、その結果を全国集計して、総合順位をつけるという方法でもって、全国大会に代えていた。で、わたくしのように、そういう大会に出られないフツウの子はラジオで結果だけを聞いているという、おマヌケなこともしていた。(TV中継もあったと思う)今でも、ラジオでマラソン中継や他のスポーツ中継があるけれど、それはそれとして経過を伝えているからまだしも、結果だけを聞いているというのは、何か意味があったのだろうか、おそらく、何もなかったと思うが。ま、それは別として、アマチュア!スポーツの最高峰オリンピックもそこそこ見てきたが、近頃は「!」の前(アマチュア)的精神が薄れてきたこともあり、また、見なさいという教師の命もないことから、ほとんど見ることはなかったが、96年のアトランタの時だと思うが(記憶が薄れているので不確かではある)、何気なく見た「飛込み競技」(DIVING)に惹かれてしまい、仕事も遊びも一時中断して、テレビの前に釘づけ状態になったことがある。それが小山さんとの出会いであった。他の解説者のように日本選手を応援したり、よく言ったりしないのは当然として、その解説ぶりには頭が下がった。中国はもともと、この競技が強く、ほとんどのオリンピックで表彰台に上がっているようであるが、中国選手の素人(=わたくし)目には満点と思う試技においても、小山さんは「着水はさすがですね、完璧です。ただ〜、着水寸前の際に、右足のコユビが離れているのが惜しかったですね・・・」という。わたくしは当然であるが、同席のアナウンサーも(・・・?)、飛込み板から着水までの時間は高飛込み(およそ10メートルの落下)でさえ、たった1秒チョットの世界である、その瞬間でもって、小山さんは全てを見ているのだから、その動体視力というのは測りしれない。なるほどスローモーション再生をみると、右足のコユビが不揃いであり、同席のアナウンサーも「たしかに、そうですねぇ」、と感心というか、納得というか、そういうコメントしか返しようがないのがよく分かるほど、小山さんの解説は精緻であり、素的であった。
以来、新聞に日本選手権とか、アジア大会といった文字を見つけると、TVをつけて、「小山さんを聴く」のが、わたくしのヒソカな楽しみとなった。2000年のシドニー大会でも大変楽しみにしていた。他の競技にはまったくノータッチ、とにかく飛込み、いや小山さんオッカケである。しかし、この大会では別の方が解説を担当していたと記憶していて、小山さんは登場しなかったように思う、今、記憶を頼りに書いているが、ここ数日間、ネットで小山さんを調べているけれど、残念ながら、情報が少ない。水連などの関連団体に問い合わせることも可能であるが、そこまでする理由がないし、一オッカケのわがままに応じてくれるかどうかもはなはだ怪しい。したがって、以上のことは、わたくしの記憶違いもあるという前提のうえで、読み流していただくと嬉しい。ただし、小山さんの解説ぶりは事実である。
ほぼ唯一の情報として、脚本家(エースをねらえ!など)で、児童文学分野でも活躍されており、「DIVE!!」(全4巻、講談社)という「飛込み」モノ児童文学を書かれた森 絵都(もり えと)さんの、もうすでに終了されたが、理論社HP内にある「森絵都日記」2002年4月29日の中で、小山さんが同年4月22日に亡くなられたことを知った。もちろん、わたくしはTVでの声でしか知らないが、お声からすると、失礼ながら、結構おじいさんかなと思っていたが、享年66歳、まだ、早すぎると思う。同年同月(4月1〜3日)に室内選抜飛込競技大会兼国際大会代表選手選考会というのが辰巳国際水泳場(東京)で開かれていて、小山さんは、その審判長を務められていたという記事もあった。おそらく、突然の訃報だったのだろう。
…ネットの少ない情報の中に「水の中の八月」(96年公開 )という福岡を舞台とし、飛込みをテーマとした映画(監督は石井聰亙:イシイ ソウゴさん)が見つかり、飛込み監修に小山さんとあるのが、たいへん嬉しかった。おそらく、撮影中も、役者さんたちに向かって、あ〜ぁ、右足のコユビが・・・と呟いていたのだろうかと、勝手に想像している。もう、遅すぎるけれど、ご冥福をお祈りしたい。
小山俊治さんについて(森絵都さんの日記より)
http://www.rironsha.co.jp/web/02/index.html
元nhkアナウンサー島村俊治(同名)!さんと小山さんとの対談記事なのだが、まだUPされていない。(待ち遠しい)
http://www.shimamura.ne.jp/acalte/acalte.htm
映画「水の中の八月」
http://www.nazuna.com/~bun/data/sakuhin/9609mizu.htm
以来、新聞に日本選手権とか、アジア大会といった文字を見つけると、TVをつけて、「小山さんを聴く」のが、わたくしのヒソカな楽しみとなった。2000年のシドニー大会でも大変楽しみにしていた。他の競技にはまったくノータッチ、とにかく飛込み、いや小山さんオッカケである。しかし、この大会では別の方が解説を担当していたと記憶していて、小山さんは登場しなかったように思う、今、記憶を頼りに書いているが、ここ数日間、ネットで小山さんを調べているけれど、残念ながら、情報が少ない。水連などの関連団体に問い合わせることも可能であるが、そこまでする理由がないし、一オッカケのわがままに応じてくれるかどうかもはなはだ怪しい。したがって、以上のことは、わたくしの記憶違いもあるという前提のうえで、読み流していただくと嬉しい。ただし、小山さんの解説ぶりは事実である。
ほぼ唯一の情報として、脚本家(エースをねらえ!など)で、児童文学分野でも活躍されており、「DIVE!!」(全4巻、講談社)という「飛込み」モノ児童文学を書かれた森 絵都(もり えと)さんの、もうすでに終了されたが、理論社HP内にある「森絵都日記」2002年4月29日の中で、小山さんが同年4月22日に亡くなられたことを知った。もちろん、わたくしはTVでの声でしか知らないが、お声からすると、失礼ながら、結構おじいさんかなと思っていたが、享年66歳、まだ、早すぎると思う。同年同月(4月1〜3日)に室内選抜飛込競技大会兼国際大会代表選手選考会というのが辰巳国際水泳場(東京)で開かれていて、小山さんは、その審判長を務められていたという記事もあった。おそらく、突然の訃報だったのだろう。
…ネットの少ない情報の中に「水の中の八月」(96年公開 )という福岡を舞台とし、飛込みをテーマとした映画(監督は石井聰亙:イシイ ソウゴさん)が見つかり、飛込み監修に小山さんとあるのが、たいへん嬉しかった。おそらく、撮影中も、役者さんたちに向かって、あ〜ぁ、右足のコユビが・・・と呟いていたのだろうかと、勝手に想像している。もう、遅すぎるけれど、ご冥福をお祈りしたい。
小山俊治さんについて(森絵都さんの日記より)
http://www.rironsha.co.jp/web/02/index.html
元nhkアナウンサー島村俊治(同名)!さんと小山さんとの対談記事なのだが、まだUPされていない。(待ち遠しい)
http://www.shimamura.ne.jp/acalte/acalte.htm
映画「水の中の八月」
http://www.nazuna.com/~bun/data/sakuhin/9609mizu.htm
2005.05.12
Misia ∩ MISIA
ポルトガルには、たとえ、それがロカ岬の夕陽を観にいくだけでも良いと以前書いた(05.03.07)。
ファドという音楽世界があるけれど、彼女ほど素的な人はいないと個人的に決めつけており、元気がない時に、わざと彼女の曲を聴くように努めている暗い性格な、わたくしである。で、今日は、そのMisia(ミージア)さんを聴きながら、こちらは全て大文字(?)のMISIA(ミーシャ)さんのお話を。昨年の暮れ近くにリリースされた彼女のアルバム『MISIA/SINGER FOR SINGER』を聴いた。久保田利伸さんという素晴らしく才をもった方の曲から始まる(Let It Smile、詞はMISIAさん)。そして、3曲目に収録されている、わたくしはとんと知らなかったけれど、某映画の挿入歌ともなっているTAKUROさん(GLAY)の詞曲による『冬のエトランジェ』を聴いて思ったことは、ああ、この人(MISIAさん)がエンカ界へ本格的にのめりこんでしまったら、他の歌手は敵わないなだろうなぁと、全くの素人考えであるが、そういう気持ちで聴いていた。もっとも、この曲のサビ?にあたる『男…揺りかご…、女…揺りかご…』の部分は(たいそうなことはいえないけれど)演歌の詞として、心にグッサリと来てしまう、ツボにはまった詞だなぁという事情もある。もともと、Gさんは演歌系が似合うなと思っていたけれど、MISIAさんのアルバムで再認識させられた。他に、耳をかすめたのは『…はシマシマ模様…」(虹のラララ)、MISIAさん自身による詞に、軽快な玉置浩二さんの曲だった。行ったことはないけれど、LAの乾いた空気のような、そういう場所でしか、シマシマな模様は感じられないのかなぁ、と、行く気にはならないけれど、LAに対する独り善がりの印象をもった。
と、本日は、まるで、わたくしらしくないことを書いてしまっているが、なぜかというと、ある記事で、世代間の違いという表現を改めてみて、演歌(以下、エンカ)を通して世代間の違いを考える気になったから。一般にエンカは人気がないという印象があるが、これはデータの採り方によって、どうにでもなろう。オー社は演歌健闘という、ピー社は依然売上は低迷と分析している。(巻末の両社サイト参照)
エンカにも当然ながら世代間格差があり、AさんとBさんとではまったく異なったエンカを好み、口ずさみ、それぞれの人生におけるエンカをもっていても不思議ではない。上記2社のデータには、「我が家の、お風呂で口ずさむエンカ」まではカウントしていないから、量(売上)が減った増えたは容易に判断できないけれど、口ずさむ歌(エンカ)の内容は世代によって、異なっているだろうというのは想像できる。ただ、だからといって、口ずさむエンカが異なるから生き方も、考え方も異なり、つまりは、BさんはAさんとは相容れない、それを世代間格差と簡単に処理して良いものかどうかの判断がつきかねる思いがする。件の記事は、ある企業の体たらくに対して、世代の異なるOB間の対話として、よりOB(つまり年上)からの提言に対して、年下のOBが返した言葉が、「今の若い(現役)子はOBとは世代が異なり、われわれ(OB)がうるさく言っても、かえって逆効果だから、何も言わないで自主性に任せた方が良いのでは」というモノであった。年下OBの言い分は年上OB≠年下OB≠現役なのだから、全てに関して「≠」というトーンを感じ、その部分に、「腑」が落ちなかったところから、このブログへとなった。
もう、30年目も前か、五木寛之さんが書かれた『艶歌』という著作があって、その中でか、他でか、演歌<艶歌<怨歌という氏の筋立てが面白く、のちにTVドラマ化されたのをみていた。エンカというのは、ヒトが口に出せないヤルセナサを、啼くかわりに歌うというようなことを仰言っていた。さらに、(かなりの曲解かもしれないけれど)エンカは怨み節、怨みだから、決してHAPPYな方向でない人から発せられるウラミの声であり、いつの世でも、それは存在する…エンカはナショナル(庶民)歌、というようなことを表わしていたような(あくまでも)気がする。さらに、そのことは、Misiaさんの声も奏でているfadにも共通しているとも、また、ブルース、JAZZも然り、というような趣旨のことを仰言っていたと記憶している。(ただし、かなり勝手かつアイマイ、独善的な記憶である)
そのエンカが今、あまり受け容れられなくなったというピー社の分析に沿えば、ひょっとして、今のニンゲンにはウラミが生じていないから、という憶測もできる。あるいは、上記、年下OBの言う世代が異なるからということにつながるかもしれない。ただ、五木氏の言葉やMISIAさん、あるいはGLAYさんのことを併せもつと、確かに、生き方、考え方あるいは価値観は移ろいでいるのかもしれないけれど、わたくしには単にゼネレーションギャップだけでは片づけられないエンカというタマシイが世代を超えて、姿形を変えても、なお存在しているという思いがしてならない。もっとも、有史で表わせば数千年の歴史において、社会(トキ)という流れはあるものの、人間(ヒト)というモノは根本でほとんど変わっていないのではという、かすかな望みをもつこと自体、おかしいことなのかもしれないけれど。「ゆく河の流れは絶えずとして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」高度成長期の京の都に住まう鴨長明ではないが、ヒトというのは絶えず淀んでいなければならないような気がしてならない。
MISIAさんのアルバムを聴いて、こういう、普段にも益して、たいへん青っぽい考えが浮かんだ。これも、非・成果(決して実にはなれない)の、わたくしっぽくて、良いのかもしれない。青葉繁れる五月(皐月)は稲苗月、多草月ともいうそうである。元気を、失ったので、引き続きMisiaさんを聴くことにしよう。
[Misia]のサイト
http://www.misia-online.com/
[オー社の見方]
http://www.oricon.co.jp/music/business/050228/spe_01.html
[ピー社の分析]
http://www.pia.co.jp/pia/release/2004/release_040707.html
鴨長明「方丈記」(青空文庫)※ただし、上文は岩波文庫「方丈記」(市古貞次校注)より引用
http://www.aozora.gr.jp/cards/000196/files/975_15935.html
ファドという音楽世界があるけれど、彼女ほど素的な人はいないと個人的に決めつけており、元気がない時に、わざと彼女の曲を聴くように努めている暗い性格な、わたくしである。で、今日は、そのMisia(ミージア)さんを聴きながら、こちらは全て大文字(?)のMISIA(ミーシャ)さんのお話を。昨年の暮れ近くにリリースされた彼女のアルバム『MISIA/SINGER FOR SINGER』を聴いた。久保田利伸さんという素晴らしく才をもった方の曲から始まる(Let It Smile、詞はMISIAさん)。そして、3曲目に収録されている、わたくしはとんと知らなかったけれど、某映画の挿入歌ともなっているTAKUROさん(GLAY)の詞曲による『冬のエトランジェ』を聴いて思ったことは、ああ、この人(MISIAさん)がエンカ界へ本格的にのめりこんでしまったら、他の歌手は敵わないなだろうなぁと、全くの素人考えであるが、そういう気持ちで聴いていた。もっとも、この曲のサビ?にあたる『男…揺りかご…、女…揺りかご…』の部分は(たいそうなことはいえないけれど)演歌の詞として、心にグッサリと来てしまう、ツボにはまった詞だなぁという事情もある。もともと、Gさんは演歌系が似合うなと思っていたけれど、MISIAさんのアルバムで再認識させられた。他に、耳をかすめたのは『…はシマシマ模様…」(虹のラララ)、MISIAさん自身による詞に、軽快な玉置浩二さんの曲だった。行ったことはないけれど、LAの乾いた空気のような、そういう場所でしか、シマシマな模様は感じられないのかなぁ、と、行く気にはならないけれど、LAに対する独り善がりの印象をもった。
と、本日は、まるで、わたくしらしくないことを書いてしまっているが、なぜかというと、ある記事で、世代間の違いという表現を改めてみて、演歌(以下、エンカ)を通して世代間の違いを考える気になったから。一般にエンカは人気がないという印象があるが、これはデータの採り方によって、どうにでもなろう。オー社は演歌健闘という、ピー社は依然売上は低迷と分析している。(巻末の両社サイト参照)
エンカにも当然ながら世代間格差があり、AさんとBさんとではまったく異なったエンカを好み、口ずさみ、それぞれの人生におけるエンカをもっていても不思議ではない。上記2社のデータには、「我が家の、お風呂で口ずさむエンカ」まではカウントしていないから、量(売上)が減った増えたは容易に判断できないけれど、口ずさむ歌(エンカ)の内容は世代によって、異なっているだろうというのは想像できる。ただ、だからといって、口ずさむエンカが異なるから生き方も、考え方も異なり、つまりは、BさんはAさんとは相容れない、それを世代間格差と簡単に処理して良いものかどうかの判断がつきかねる思いがする。件の記事は、ある企業の体たらくに対して、世代の異なるOB間の対話として、よりOB(つまり年上)からの提言に対して、年下のOBが返した言葉が、「今の若い(現役)子はOBとは世代が異なり、われわれ(OB)がうるさく言っても、かえって逆効果だから、何も言わないで自主性に任せた方が良いのでは」というモノであった。年下OBの言い分は年上OB≠年下OB≠現役なのだから、全てに関して「≠」というトーンを感じ、その部分に、「腑」が落ちなかったところから、このブログへとなった。
もう、30年目も前か、五木寛之さんが書かれた『艶歌』という著作があって、その中でか、他でか、演歌<艶歌<怨歌という氏の筋立てが面白く、のちにTVドラマ化されたのをみていた。エンカというのは、ヒトが口に出せないヤルセナサを、啼くかわりに歌うというようなことを仰言っていた。さらに、(かなりの曲解かもしれないけれど)エンカは怨み節、怨みだから、決してHAPPYな方向でない人から発せられるウラミの声であり、いつの世でも、それは存在する…エンカはナショナル(庶民)歌、というようなことを表わしていたような(あくまでも)気がする。さらに、そのことは、Misiaさんの声も奏でているfadにも共通しているとも、また、ブルース、JAZZも然り、というような趣旨のことを仰言っていたと記憶している。(ただし、かなり勝手かつアイマイ、独善的な記憶である)
そのエンカが今、あまり受け容れられなくなったというピー社の分析に沿えば、ひょっとして、今のニンゲンにはウラミが生じていないから、という憶測もできる。あるいは、上記、年下OBの言う世代が異なるからということにつながるかもしれない。ただ、五木氏の言葉やMISIAさん、あるいはGLAYさんのことを併せもつと、確かに、生き方、考え方あるいは価値観は移ろいでいるのかもしれないけれど、わたくしには単にゼネレーションギャップだけでは片づけられないエンカというタマシイが世代を超えて、姿形を変えても、なお存在しているという思いがしてならない。もっとも、有史で表わせば数千年の歴史において、社会(トキ)という流れはあるものの、人間(ヒト)というモノは根本でほとんど変わっていないのではという、かすかな望みをもつこと自体、おかしいことなのかもしれないけれど。「ゆく河の流れは絶えずとして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」高度成長期の京の都に住まう鴨長明ではないが、ヒトというのは絶えず淀んでいなければならないような気がしてならない。
MISIAさんのアルバムを聴いて、こういう、普段にも益して、たいへん青っぽい考えが浮かんだ。これも、非・成果(決して実にはなれない)の、わたくしっぽくて、良いのかもしれない。青葉繁れる五月(皐月)は稲苗月、多草月ともいうそうである。元気を、失ったので、引き続きMisiaさんを聴くことにしよう。
[Misia]のサイト
http://www.misia-online.com/
[オー社の見方]
http://www.oricon.co.jp/music/business/050228/spe_01.html
[ピー社の分析]
http://www.pia.co.jp/pia/release/2004/release_040707.html
鴨長明「方丈記」(青空文庫)※ただし、上文は岩波文庫「方丈記」(市古貞次校注)より引用
http://www.aozora.gr.jp/cards/000196/files/975_15935.html
2005.05.11
成果主義とは
五月も半ばとなり、新緑もあでやかに、そして、これからはさまざまな自然の恵みがいただける時節でもあり、ありがたい。もう、梅もそうだし、順不同ではあるが、桃、梨、杏、葡萄、林檎、無花果、そういう実が続々とたわわになっていく。
数日前に電車内の広告で成果主義という言葉をみかけた。ネットで検索すると、その定義は、平たく言えば、ある一定期間の目標値にどれだけ近づいたか、あるいは超えたかという物差しでもって、例えば給与などの査定に採り入れることのようである。ま、よりベッタリと表わせばノルマそのものとなんら変わらないのではないかとも思う。堕ちきった企業体質を少しでも変えようというのであろうか、上記の内容は、貴社でもどうぞ人事システムを導入しませんか、というようなPR記事だったような気もする。なるほど、景気低迷以来、労働意欲も落ちているだろうから、あるいは、企業側からみれば不要な雇用者もいるのだろう、このあたりでバッサリとコトを進めるためには好都合な道具なのかもしれない。ノルマといえば旧社会主義国において、そのシステムが「確立」及び「徹底」されていて、顕著な例では出版物がある。計画経済というのは当初目標があるから、たとえ、ある作品が予想以上に評判が良く、出せば売れると分かっていても、年初に1万部と決められれば、もう、それ以上増刷することはなく、みすみすベストセラーを逃すこととなる。あるいは、トルストイであるとか、ドストエフスキーであるとか、お馴染みの作家であろうと、その才は評価せず、他の無名作家と同じ扱いのうえで、出版計画がなされていた。したがって、日本ではニ大作家の作品(書籍)は洪水のごとく出回っているが、意外にもモスクワの書店ではなかったりした。そういう変な現象が生じてしまうのが計画経済であり、ノルマ、そして、ひいては、成果主義へと逆引きできる。今、成果主義といわれるのは、たかだか1年のサラリーを丁か半かで決める程度のことであるから、始めから低いノルマを設定すれば良いことである。他の事情は知らないけれど、わたくしには高校時代にその経験がある。体育の授業で百メートル走の実技試験(タイムトライアル)があった。教師は何を思ったのか、実技の前、生徒一人一人に白紙のメモを渡し、自分自身で何秒で走ることができるか、想定時間を記入せよと命じた。各人、自身の走力なぞ測ったことがないので、戸惑いながら、自分なりの秒数を書き込んでいたと思うのだが、わたくしは、2・3年前までタイイク会系で、しかも短距離走専門だったことから、ある程度の推測はついていたので、(自分の走行可能な時間より)+3秒ほど上積みして、提出し、実技に向かった。結果は予想どおりで、ストップウォッチとメモを交互に見ながら、驚いていた先生の顔が今でも浮かぶ。そのことが、学業成績簿に結びついたかどうかは分からないが、成果主義という中には、そのような問題もはらんでいるということは容易に想像できる。あるいは、得意の護送船団式で、ノルマを引き下げることは、十分ありうる事態であるし、長年それをし続けてきた例も多数あろう。
冒頭のたわわな実たちは、できあがった、良い結果を得た実だけを見ているから、そう思うのであって、前提には、着果しないものや、すんでのところで落果せざるをえないものもあろう。事実、梅の木の下にはたまらず落ちてしまった赤茶けた姿がいくつもある。成果とは、そういう仕組みのことであって、むしろ落ちこぼれが存在するからこそ、成る実(果)もあると考えることもできるであろう。一本の果樹から成果したモノだけが市場に卸され、値がつき、商品として世に出回っていく。樹下に残されたモノには決して買い手はつかない。成果主義にはこういう仕組みを看過しなければいけない部分もあろう。おそらく、成果を獲る狩猟や漁撈には馴染む仕組みかもしれないけれど、成果に育てる農耕、牧畜の上に立って、考えると、多少無理があるのかもしれない、とするのは言い過ぎか。ただし、今の日本では農も牧も重要な位置から外れており、わたくしも含めて、日常的にはめったに関わることもないので、成果主義の問題というのはよほどのことがない限り、意外にすんなりと受け容れられるのだろうか、過小ノルマ設定という、かつて、わたくしも使った手を巧みに操りながら。
※また、漁撈を悪く言ってしまった…。
数日前に電車内の広告で成果主義という言葉をみかけた。ネットで検索すると、その定義は、平たく言えば、ある一定期間の目標値にどれだけ近づいたか、あるいは超えたかという物差しでもって、例えば給与などの査定に採り入れることのようである。ま、よりベッタリと表わせばノルマそのものとなんら変わらないのではないかとも思う。堕ちきった企業体質を少しでも変えようというのであろうか、上記の内容は、貴社でもどうぞ人事システムを導入しませんか、というようなPR記事だったような気もする。なるほど、景気低迷以来、労働意欲も落ちているだろうから、あるいは、企業側からみれば不要な雇用者もいるのだろう、このあたりでバッサリとコトを進めるためには好都合な道具なのかもしれない。ノルマといえば旧社会主義国において、そのシステムが「確立」及び「徹底」されていて、顕著な例では出版物がある。計画経済というのは当初目標があるから、たとえ、ある作品が予想以上に評判が良く、出せば売れると分かっていても、年初に1万部と決められれば、もう、それ以上増刷することはなく、みすみすベストセラーを逃すこととなる。あるいは、トルストイであるとか、ドストエフスキーであるとか、お馴染みの作家であろうと、その才は評価せず、他の無名作家と同じ扱いのうえで、出版計画がなされていた。したがって、日本ではニ大作家の作品(書籍)は洪水のごとく出回っているが、意外にもモスクワの書店ではなかったりした。そういう変な現象が生じてしまうのが計画経済であり、ノルマ、そして、ひいては、成果主義へと逆引きできる。今、成果主義といわれるのは、たかだか1年のサラリーを丁か半かで決める程度のことであるから、始めから低いノルマを設定すれば良いことである。他の事情は知らないけれど、わたくしには高校時代にその経験がある。体育の授業で百メートル走の実技試験(タイムトライアル)があった。教師は何を思ったのか、実技の前、生徒一人一人に白紙のメモを渡し、自分自身で何秒で走ることができるか、想定時間を記入せよと命じた。各人、自身の走力なぞ測ったことがないので、戸惑いながら、自分なりの秒数を書き込んでいたと思うのだが、わたくしは、2・3年前までタイイク会系で、しかも短距離走専門だったことから、ある程度の推測はついていたので、(自分の走行可能な時間より)+3秒ほど上積みして、提出し、実技に向かった。結果は予想どおりで、ストップウォッチとメモを交互に見ながら、驚いていた先生の顔が今でも浮かぶ。そのことが、学業成績簿に結びついたかどうかは分からないが、成果主義という中には、そのような問題もはらんでいるということは容易に想像できる。あるいは、得意の護送船団式で、ノルマを引き下げることは、十分ありうる事態であるし、長年それをし続けてきた例も多数あろう。
冒頭のたわわな実たちは、できあがった、良い結果を得た実だけを見ているから、そう思うのであって、前提には、着果しないものや、すんでのところで落果せざるをえないものもあろう。事実、梅の木の下にはたまらず落ちてしまった赤茶けた姿がいくつもある。成果とは、そういう仕組みのことであって、むしろ落ちこぼれが存在するからこそ、成る実(果)もあると考えることもできるであろう。一本の果樹から成果したモノだけが市場に卸され、値がつき、商品として世に出回っていく。樹下に残されたモノには決して買い手はつかない。成果主義にはこういう仕組みを看過しなければいけない部分もあろう。おそらく、成果を獲る狩猟や漁撈には馴染む仕組みかもしれないけれど、成果に育てる農耕、牧畜の上に立って、考えると、多少無理があるのかもしれない、とするのは言い過ぎか。ただし、今の日本では農も牧も重要な位置から外れており、わたくしも含めて、日常的にはめったに関わることもないので、成果主義の問題というのはよほどのことがない限り、意外にすんなりと受け容れられるのだろうか、過小ノルマ設定という、かつて、わたくしも使った手を巧みに操りながら。
※また、漁撈を悪く言ってしまった…。
2005.05.05
シマバラ界隈
一様に京都という町は外モノには居心地が良いとはいえない雰囲気が漂っている。そのことは「大手筋界隈(伏見桃山)(04/18)」でも書いた。もちろん、個々の事象、人柄をとらえれば、そうとは限らないのは当然のこととしても、全体を大まかに断じてしまうと、冒頭の言葉になってしまう。もっとも、それだけ、わたくしが、これまで京都という町に積極的に関わってきたわけでもなく、いつまで経ってもヨソモノ面して、立っていたことも影響しているとも思うが。(それはどこへ行っても同じなのだが)
豊臣秀吉という人は不思議なオヒトで、出自さえ、あいまいである。名古屋の中村あたりの貧農の出というのが定説ではあるが、そういうコゾウが、どうして、矢作橋を知りえたのか、それすら、筋の通った説明がないような気もする。今ならば、名鉄電車で新名古屋から東岡崎まで特急電車で30分程度であるが、歩けば、そこそこの距離である。また、放浪するにしても、わたくしなら、何もない三河よりも美濃をめざしてみようかと思うのだけど。むしろ、何もない場所に鼻が利くのが才なのかもしれないが。
それはそれとして、秀吉は京にはご執心で、良くも悪くも随所にモノ・コトを残している。醍醐寺というのは、今では間近に住宅開発もあり、そろそろ、その影響をも負いそうな気配があり、案じているが、訪ねてみると、思った以上の広さに辟易とした。醍醐寺そのものは秀吉によるものではないが、彼がド派手な花見の宴を催したことが醍醐寺=秀吉という印象を、より強くしている。五重大塔は見事で、しかも、周りには樹木があるだけの一区画をまるまる占めており、他に何もなく、しばらく、首を上にしたまま、その容姿に惚れ込んでいられる。もう、これ以上、上(醍醐)には行く気力がなかった、そもそも、冬のまだ凍結した山道(参道)を昇るほど、わたくしには体力も、信仰心もなかったということだけのことではあるが、やはり、一度は上醍醐に行きたいという気持ちだけはある。
ただし、今回は醍醐寺が本筋ではない。いずれ、また、書き留めたいとは思うけれど。
もう今では残堰程度しか認められないのだが、御土居(言い方は他に、御土居堀、土居堀)という、それまでは「惣構」(そうがまえ)といわれた塁を築いたのもHIDEである。(天正19=1591年)江戸城で言えば外堀だの内堀などといわれているのと同じで、外敵から衛るうえでの城砦(城塞)にあたり、確定はされていないものの、今の図版に照らし合わせると、北は鷹峯、南は九条、賀茂(鴨)川が東極で、本日の本筋に近い紙屋川が西極だったらしい。いわゆる洛内と洛外との関わりをサイトなどで確かめてみたが、おおむね、二つは、ほぼ一致していると解釈できる。したがって、堀の内が洛内、それ以外は洛外といっても差し支えはないと思われる。JR西日本に嵯峨野線(ま、山陰本線の別称なんだが)丹波口という駅がある。同駅を東に歩くと島原遊郭跡である。遊郭址といっても痕跡は皆無に近い。江戸千束のような風俗のなりわいがあるわけでもなく、名古屋・中村遊郭跡のような雑然とした街があるわけでもない。ただ、門と碑がわずかに往時を想い起こさせるように残っているだけのことである。
[島原大門]

1641(寛永18)年開業(開設)とあるから、葭原(元吉原、1618・元和4年)に較べ、ずいぶんあとなんだなぁと、調べてみると、島原は京都の遊郭地でいうと三代目らしい。初代は現在の京都御所や二条城に近い地域で、南北の寺町通(東端)、柳馬場通(西端)と東西の二条通(南端)及び夷川通(北端)に囲まれた4ヘクタール余りであり、京都駅ビルの用地(敷地)とほぼ等しい範囲である。秀吉より許可を得たのが1589(天正17)年、HIDEが天下統一を果たす前年のことである。
秀吉没後のことであるが、二条城造作のため、また、御所に近いという理由もあり、二代目は六条三筋町あたりに移る。(1602・慶長7年、江戸幕府開闢の前年)ここは、今でいうと東本願寺真上になる。お城や御所の邪魔になるからと移転させた先がお寺の上ということ自体、わたくしなど不思議に思ったのだが、徳川家康の寄進により、今の地に東本願寺が移ったのも同年だったということを知って、京から江戸へ勢いが遷るハザカイでの混乱とでも解釈できるのだろうか。「島原」というのは正式な地名ではなく、二代目遊郭の移転(替地)が決定(1640・寛永17年)、翌年、朱雀野(島原)遊郭グランドオープンとなる運びであるが、急な移転騒ぎで戸惑うさまが37年に遠く肥前で勃発した島原の乱に似ていたとか、遊郭に向かう♂どもが島原攻略・・・と囃したてながらいったことからだという説があるが、どちらにしても、本来の地名とはかかわりがない。地理的には現在の西新屋敷一帯をさし、西本願寺と先の丹波口との中間にあたる。今でも、島原の名をとどめる施設もあり、当時の置屋「輪違(わちがい)屋」や揚屋(宴席、料亭)「角(すみ)屋」などが現役あるいは記念館として機能している。たまたま、nhkが新撰組を放映していたことから、大勢の観光客が歩いていたが、夜ともなると、ひっそりとした商店街があるだけで、呑み屋さんも数えるほどしかなく、先に入っていた地元客が帰ると、店主ご夫婦とわたくしだけ、敷居の高い店ではないが、フリ客が来るような場所でもないことから、そもそも何故、ここに来たのかを説明しながら、手づくりの肴でもって、伏見は洛外であるけれど、洛内の南西端に追いやられたシマバラもまた、居心地の良い場所であることは、一夜限りでも感じることができた。
ところで、森鴎外の『高瀬舟』にも紙屋川の文字が登場する。
《わたくしは弟と一しよに、西陣の織場に這入りまして、空引(そらびき)と云ふことをいたすことになりました。そのうち弟が病氣で働けなくなつたのでございます。其頃わたくし共は北山の掘立小屋同樣の所に寢起をいたして、紙屋川の橋を渡つて織場へ通つてをりましたが、わたくしが暮れてから、食物などを買つて歸ると、弟は待ち受けてゐて、わたくしを一人で稼がせては濟まない/\と申してをりました。》
弟殺しの罪を背負って高瀬舟で送られる喜助が同心庄兵衛に語りかけるシーンである。しばらく、電子地図を眺めながら、一体どのあたりかを探ったが、とうとう、分からずじまいであったが、北山あたりから西陣までとは、またずいぶん遠いなぁと思いはしたものの、先に書いたHIDEの名古屋・中村→参州・岡崎から較べると、そうでもないかとも思う。紙屋川沿いには紙屋さん(製紙業)が多くあったそうで、かつては清流であったのだろう、今でも上流では川床があるそうで、「今夏」もそろそろ始まるらしい。喜助は紙屋川の橋を渡ってと告げていることから、洛外に住んでいたのかと思うが、確信はない。
……………
そもそもHIDE(秀吉)というのは何モノなのか、未だによく分からない。朝鮮征伐といい、どう考えていいものか、わたくしのような浅はかな者には、なおいっそう分からない。I have nothing to hide、とHIDEさまは仰言るかもしれないが、ひま任せに考えるに値することだと、わたくしは思っている。
……………
島原に来たついでに、堀川通りを五条通りとの交叉を斜めに横切って、狭隘な町並みに迷い込んでみた。天使突抜という突飛な通り名である。
[天使突抜]

島原もそうであったけれど、地名というのは何の拍子(弾み)でできあがるか分からない。この二間(?)あまりの小さな路地が南北に細々(ほそぼそ)細々(こまごま)とつながっている。西洞院通りと松原通りの交叉する付近に五条天神という小さな神社があるらしく(近くまで行ったのに知らない)、「天使(子)の杜」(テンジン→テンシか?)と呼ばれたらしい。この境内を突き抜けて拵えた通り(町)だから、テンシ・ツキヌケ。偶然ではあるが、今nhkが放映している義経と弁慶の最初の出会いはこの天(使)子様という記録もある。
わたくしは、もちろん存じあげていなかったが、通崎睦美(つうざき むつみ)さんという著名なマリンバ奏者がおられ、彼女の生まれ育ったのが天使突抜一丁目、同名の著書もある。「突抜」という名は他にもみられる。例えば、西本願寺から島原遊郭に向かう途中(突抜一・二丁目)、北野天満宮の東(突抜町)、烏丸通の丸太町駅と烏丸御池駅中間にある仁王門突抜町など、しかし、いずれも、ツウザキさんのには敵わない。
テンシ・ツキヌケは五条通りをまたいで、北に一・二丁目、大通りを渡って、三・四丁目、残りの二キロ弱を町屋風の通りを眺めながら歩くと、京都駅にいたる。シマバラ界隈は、また訪ねたいと思っている。特に何があるわけでもないが、その「なさ」が、あるいは、かつて「あった」という、おぼろげさがなんとも肌ざわりがよい。
御土居の範囲(京都市HP)
http://www.city.kyoto.jp/bunshi/bunkazai/odoi.htm
青空文庫どすえe。(森鴎外・高瀬舟)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/691_15352.html
豊臣秀吉という人は不思議なオヒトで、出自さえ、あいまいである。名古屋の中村あたりの貧農の出というのが定説ではあるが、そういうコゾウが、どうして、矢作橋を知りえたのか、それすら、筋の通った説明がないような気もする。今ならば、名鉄電車で新名古屋から東岡崎まで特急電車で30分程度であるが、歩けば、そこそこの距離である。また、放浪するにしても、わたくしなら、何もない三河よりも美濃をめざしてみようかと思うのだけど。むしろ、何もない場所に鼻が利くのが才なのかもしれないが。
それはそれとして、秀吉は京にはご執心で、良くも悪くも随所にモノ・コトを残している。醍醐寺というのは、今では間近に住宅開発もあり、そろそろ、その影響をも負いそうな気配があり、案じているが、訪ねてみると、思った以上の広さに辟易とした。醍醐寺そのものは秀吉によるものではないが、彼がド派手な花見の宴を催したことが醍醐寺=秀吉という印象を、より強くしている。五重大塔は見事で、しかも、周りには樹木があるだけの一区画をまるまる占めており、他に何もなく、しばらく、首を上にしたまま、その容姿に惚れ込んでいられる。もう、これ以上、上(醍醐)には行く気力がなかった、そもそも、冬のまだ凍結した山道(参道)を昇るほど、わたくしには体力も、信仰心もなかったということだけのことではあるが、やはり、一度は上醍醐に行きたいという気持ちだけはある。
ただし、今回は醍醐寺が本筋ではない。いずれ、また、書き留めたいとは思うけれど。
もう今では残堰程度しか認められないのだが、御土居(言い方は他に、御土居堀、土居堀)という、それまでは「惣構」(そうがまえ)といわれた塁を築いたのもHIDEである。(天正19=1591年)江戸城で言えば外堀だの内堀などといわれているのと同じで、外敵から衛るうえでの城砦(城塞)にあたり、確定はされていないものの、今の図版に照らし合わせると、北は鷹峯、南は九条、賀茂(鴨)川が東極で、本日の本筋に近い紙屋川が西極だったらしい。いわゆる洛内と洛外との関わりをサイトなどで確かめてみたが、おおむね、二つは、ほぼ一致していると解釈できる。したがって、堀の内が洛内、それ以外は洛外といっても差し支えはないと思われる。JR西日本に嵯峨野線(ま、山陰本線の別称なんだが)丹波口という駅がある。同駅を東に歩くと島原遊郭跡である。遊郭址といっても痕跡は皆無に近い。江戸千束のような風俗のなりわいがあるわけでもなく、名古屋・中村遊郭跡のような雑然とした街があるわけでもない。ただ、門と碑がわずかに往時を想い起こさせるように残っているだけのことである。
[島原大門]

1641(寛永18)年開業(開設)とあるから、葭原(元吉原、1618・元和4年)に較べ、ずいぶんあとなんだなぁと、調べてみると、島原は京都の遊郭地でいうと三代目らしい。初代は現在の京都御所や二条城に近い地域で、南北の寺町通(東端)、柳馬場通(西端)と東西の二条通(南端)及び夷川通(北端)に囲まれた4ヘクタール余りであり、京都駅ビルの用地(敷地)とほぼ等しい範囲である。秀吉より許可を得たのが1589(天正17)年、HIDEが天下統一を果たす前年のことである。
秀吉没後のことであるが、二条城造作のため、また、御所に近いという理由もあり、二代目は六条三筋町あたりに移る。(1602・慶長7年、江戸幕府開闢の前年)ここは、今でいうと東本願寺真上になる。お城や御所の邪魔になるからと移転させた先がお寺の上ということ自体、わたくしなど不思議に思ったのだが、徳川家康の寄進により、今の地に東本願寺が移ったのも同年だったということを知って、京から江戸へ勢いが遷るハザカイでの混乱とでも解釈できるのだろうか。「島原」というのは正式な地名ではなく、二代目遊郭の移転(替地)が決定(1640・寛永17年)、翌年、朱雀野(島原)遊郭グランドオープンとなる運びであるが、急な移転騒ぎで戸惑うさまが37年に遠く肥前で勃発した島原の乱に似ていたとか、遊郭に向かう♂どもが島原攻略・・・と囃したてながらいったことからだという説があるが、どちらにしても、本来の地名とはかかわりがない。地理的には現在の西新屋敷一帯をさし、西本願寺と先の丹波口との中間にあたる。今でも、島原の名をとどめる施設もあり、当時の置屋「輪違(わちがい)屋」や揚屋(宴席、料亭)「角(すみ)屋」などが現役あるいは記念館として機能している。たまたま、nhkが新撰組を放映していたことから、大勢の観光客が歩いていたが、夜ともなると、ひっそりとした商店街があるだけで、呑み屋さんも数えるほどしかなく、先に入っていた地元客が帰ると、店主ご夫婦とわたくしだけ、敷居の高い店ではないが、フリ客が来るような場所でもないことから、そもそも何故、ここに来たのかを説明しながら、手づくりの肴でもって、伏見は洛外であるけれど、洛内の南西端に追いやられたシマバラもまた、居心地の良い場所であることは、一夜限りでも感じることができた。
ところで、森鴎外の『高瀬舟』にも紙屋川の文字が登場する。
《わたくしは弟と一しよに、西陣の織場に這入りまして、空引(そらびき)と云ふことをいたすことになりました。そのうち弟が病氣で働けなくなつたのでございます。其頃わたくし共は北山の掘立小屋同樣の所に寢起をいたして、紙屋川の橋を渡つて織場へ通つてをりましたが、わたくしが暮れてから、食物などを買つて歸ると、弟は待ち受けてゐて、わたくしを一人で稼がせては濟まない/\と申してをりました。》
弟殺しの罪を背負って高瀬舟で送られる喜助が同心庄兵衛に語りかけるシーンである。しばらく、電子地図を眺めながら、一体どのあたりかを探ったが、とうとう、分からずじまいであったが、北山あたりから西陣までとは、またずいぶん遠いなぁと思いはしたものの、先に書いたHIDEの名古屋・中村→参州・岡崎から較べると、そうでもないかとも思う。紙屋川沿いには紙屋さん(製紙業)が多くあったそうで、かつては清流であったのだろう、今でも上流では川床があるそうで、「今夏」もそろそろ始まるらしい。喜助は紙屋川の橋を渡ってと告げていることから、洛外に住んでいたのかと思うが、確信はない。
……………
そもそもHIDE(秀吉)というのは何モノなのか、未だによく分からない。朝鮮征伐といい、どう考えていいものか、わたくしのような浅はかな者には、なおいっそう分からない。I have nothing to hide、とHIDEさまは仰言るかもしれないが、ひま任せに考えるに値することだと、わたくしは思っている。
……………
島原に来たついでに、堀川通りを五条通りとの交叉を斜めに横切って、狭隘な町並みに迷い込んでみた。天使突抜という突飛な通り名である。
[天使突抜]

島原もそうであったけれど、地名というのは何の拍子(弾み)でできあがるか分からない。この二間(?)あまりの小さな路地が南北に細々(ほそぼそ)細々(こまごま)とつながっている。西洞院通りと松原通りの交叉する付近に五条天神という小さな神社があるらしく(近くまで行ったのに知らない)、「天使(子)の杜」(テンジン→テンシか?)と呼ばれたらしい。この境内を突き抜けて拵えた通り(町)だから、テンシ・ツキヌケ。偶然ではあるが、今nhkが放映している義経と弁慶の最初の出会いはこの天(使)子様という記録もある。
わたくしは、もちろん存じあげていなかったが、通崎睦美(つうざき むつみ)さんという著名なマリンバ奏者がおられ、彼女の生まれ育ったのが天使突抜一丁目、同名の著書もある。「突抜」という名は他にもみられる。例えば、西本願寺から島原遊郭に向かう途中(突抜一・二丁目)、北野天満宮の東(突抜町)、烏丸通の丸太町駅と烏丸御池駅中間にある仁王門突抜町など、しかし、いずれも、ツウザキさんのには敵わない。
テンシ・ツキヌケは五条通りをまたいで、北に一・二丁目、大通りを渡って、三・四丁目、残りの二キロ弱を町屋風の通りを眺めながら歩くと、京都駅にいたる。シマバラ界隈は、また訪ねたいと思っている。特に何があるわけでもないが、その「なさ」が、あるいは、かつて「あった」という、おぼろげさがなんとも肌ざわりがよい。
御土居の範囲(京都市HP)
http://www.city.kyoto.jp/bunshi/bunkazai/odoi.htm
青空文庫どすえe。(森鴎外・高瀬舟)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/691_15352.html
2005.05.05
こどもの日なんて要らない
拙ブロ2/15で狂育と題して、モンカショウ(文科省)の体たらく及び子供は嫌いというようなことを書いた。今日は、こどもの日なので再びふれる。わたくしがこども嫌いなのは、わたくしが、「こどもである(あった時分の)わたくしが嫌いであった」ことに起因していると思う。ろくな大人にならない、そういう感想を自らに思っていた。ただし、それは、教育が悪いとか、親が悪いとかではない、むしろ、今より、まだマシな教育のように思えるし、親にも感謝、は、している。ただ、今思うに、小→中→高と進んでいくことは、その分、同級生の居住地域が広がり、大げさにいえば、それまでの慣習と異なる人間とつきあうことでもあった。たった、数キロの違いでも、住み場所が異なれば、風土・文化も違う、そのような印象を進学するたびに感じていたけれども、その違いは、広く社会を知るという作用よりも、広い社会に対する、あたりさわりのない、つきあいを覚えていったという力の方がより大きくて、自身の中で、こどもの心をせばめていった、あるいは、世の中という現実を前にして、自分の眼、心にフィルターをかけていく思いがたいへん強かった。そういう、こどものわたくしが嫌いであった。また、イロメガネをかけさせた一端は、おとなにもあったと勝手に解釈している。※■しては×(ダメ)、もう「おとな」なんだから、あるいはオニイチャンだから、という一言一句が影響しているとも思う。断じて、おとなのせいにするつもりはないけれど、今のこどもだって、その程度、いや、もっと感性鋭く、そういう、おとなの所作に反応して、外からうかがえしれないぐらい濃度の強いサングラスで、眼だけでなく、心も閉じ、自分世界に没入していく。わたくし自身は、そのこと自体、まったく悪いことばかりではないと思うので、ここは、おとなのことを、もう少し大目に見てもらってほしいという気がする。
教育を地方にという声もあがっている。わたくしも、前提をいえば、例えば藩校のような、地域に根づいたシステムの方が、よほど良いと考えていたが、行政の地方分権もそうであるが、一体、誰が担うことができるのか、そのことを思うと、とても、地方(のおとな)になんか任せられない、というのが現在の考えである。
こどもの日なんて不要で、むしろ、わたくし達、おとなの(反省)日があってもおかしくない。以上、とりとめのない文章ではあるけれど(いつもと同じ)、自省をこめて。
教育を地方にという声もあがっている。わたくしも、前提をいえば、例えば藩校のような、地域に根づいたシステムの方が、よほど良いと考えていたが、行政の地方分権もそうであるが、一体、誰が担うことができるのか、そのことを思うと、とても、地方(のおとな)になんか任せられない、というのが現在の考えである。
こどもの日なんて不要で、むしろ、わたくし達、おとなの(反省)日があってもおかしくない。以上、とりとめのない文章ではあるけれど(いつもと同じ)、自省をこめて。