2005.11.25
ぺったり、ぺったら(泉鏡花→芥川龍之介)
本日は、青空文庫から。
『芥川龍之介氏を弔ふ』(泉鏡花)
なお、原文から、括弧書き(ルビ)を勝手に除いて、引用した。※泉鏡花は全著作にルビを付したらしいが、全ての著作を読んで(眺めて)いないので、確認はできていない。
《玲瓏、明透、その文、その質、名玉山海を照らせる君よ。溽暑蒸濁の夏を背きて、冷々然として獨り涼しく逝きたまひぬ。倏忽にして巨星天に在り。光を翰林に曳きて永久へに消えず。然りとは雖も、生前手をとりて親しかりし時だに、その容を見るに飽かず、その聲を聞くをたらずとせし、われら、君なき今を奈何せむ。おもひ秋深く、露は涙の如し。月を見て、面影に代ゆべくは、誰かまた哀別離苦を言ふものぞ。高き靈よ、須臾の間も還れ、地に。君にあこがるゝもの、愛らしく賢き遺兒たちと、温優貞淑なる令夫人とのみにあらざるなり。
辭つたなきを羞ぢつゝ、謹で微衷をのぶ。昭和二年八月》
芥川は1927(昭和2)年7月24日に亡くなっている。
ちなみに生まれたのは1892(明治25)3月1日、上記弔い文を寄せた鏡花は1873(明治6)年11月4日〜1939(昭和14)年9月7日だから、彼のほうがずいぶん年上ということである。しかし、最大級の辞でもって、芥川を送っていることが文章のはしばしから分かる。微衷とは、今ではもうすっかり聞けなくなった言葉であるとおもうが、鏡花にとっては哀悼の意として、これ以上の表現はなかったのかもしれない。別の資料によると、この辞は谷中斎場における葬儀にて読まれたらしく、弔問客は1,500余名(芥川歴史)[芥川龍之介ファンページより]、ただし、他の資料ではその半分の750名という記録もあるが、何人かなどはどうでも良いことであろう。鏡花の代表作『高野聖』は読んでいて、なんだか、身体中がムズムズしていくのが分かり、それでも、ソッチ(鏡花)の世界へと誘われていくのが、同時に感じられる。わたくしは全般に虫(むし)が嫌いなので、読んでいて、抛りだしたくなるような感情を抑えながら、それでも抛ることのできない魅力に、虫酸が走るという表現があるけれども、鏡花の文章では、走らないで、虫酸が歩くような《ぺったり、ぺったら》とした得体のなさを感じていたのであるが、芥川への文章には、それらしさが感じられず、ただただ、感銘、得心するばかりである。もっとも、『城崎を憶う』のような作品もあり、それはそれで堪能するのであるが、只今は、青空文庫で、泉鏡太郎名でお書きになったという『蛇くひ』という短かい作品を、おそるおそる、時間をかけて、ルビ付き(ただし、単語のあとに括弧書き)のまま、ぺったり、ぺったらと、眺めている。
『芥川龍之介氏を弔ふ』(泉鏡花)
なお、原文から、括弧書き(ルビ)を勝手に除いて、引用した。※泉鏡花は全著作にルビを付したらしいが、全ての著作を読んで(眺めて)いないので、確認はできていない。
《玲瓏、明透、その文、その質、名玉山海を照らせる君よ。溽暑蒸濁の夏を背きて、冷々然として獨り涼しく逝きたまひぬ。倏忽にして巨星天に在り。光を翰林に曳きて永久へに消えず。然りとは雖も、生前手をとりて親しかりし時だに、その容を見るに飽かず、その聲を聞くをたらずとせし、われら、君なき今を奈何せむ。おもひ秋深く、露は涙の如し。月を見て、面影に代ゆべくは、誰かまた哀別離苦を言ふものぞ。高き靈よ、須臾の間も還れ、地に。君にあこがるゝもの、愛らしく賢き遺兒たちと、温優貞淑なる令夫人とのみにあらざるなり。
辭つたなきを羞ぢつゝ、謹で微衷をのぶ。昭和二年八月》
芥川は1927(昭和2)年7月24日に亡くなっている。
ちなみに生まれたのは1892(明治25)3月1日、上記弔い文を寄せた鏡花は1873(明治6)年11月4日〜1939(昭和14)年9月7日だから、彼のほうがずいぶん年上ということである。しかし、最大級の辞でもって、芥川を送っていることが文章のはしばしから分かる。微衷とは、今ではもうすっかり聞けなくなった言葉であるとおもうが、鏡花にとっては哀悼の意として、これ以上の表現はなかったのかもしれない。別の資料によると、この辞は谷中斎場における葬儀にて読まれたらしく、弔問客は1,500余名(芥川歴史)[芥川龍之介ファンページより]、ただし、他の資料ではその半分の750名という記録もあるが、何人かなどはどうでも良いことであろう。鏡花の代表作『高野聖』は読んでいて、なんだか、身体中がムズムズしていくのが分かり、それでも、ソッチ(鏡花)の世界へと誘われていくのが、同時に感じられる。わたくしは全般に虫(むし)が嫌いなので、読んでいて、抛りだしたくなるような感情を抑えながら、それでも抛ることのできない魅力に、虫酸が走るという表現があるけれども、鏡花の文章では、走らないで、虫酸が歩くような《ぺったり、ぺったら》とした得体のなさを感じていたのであるが、芥川への文章には、それらしさが感じられず、ただただ、感銘、得心するばかりである。もっとも、『城崎を憶う』のような作品もあり、それはそれで堪能するのであるが、只今は、青空文庫で、泉鏡太郎名でお書きになったという『蛇くひ』という短かい作品を、おそるおそる、時間をかけて、ルビ付き(ただし、単語のあとに括弧書き)のまま、ぺったり、ぺったらと、眺めている。
2005.11.24
雑・に(煮)
実は雑煮好きのわたくしなので、この拙ブロにも、それに近い名前をつけた(雑に)。ところで、まだ、お正月までには、それでも、何日かあるので、その話題について、語ろうとは思っていなかったけれど、21日付の「暗闇で饅頭を喰う…」で、鴎外翁式お饅頭お茶漬けを試してみたが、まだ、その感(寒?)触が舌、口腔内全体に残っている最中であり、そういう状態の中でもって、香川の餡モチ入り雑煮を思い起こした。これについては、もはや有名すぎて、説明も不要なのであろう、わざわざブログにする必要もないのだろうけれど、どうしても書きたくなった。餡モチ入り雑煮については日経ネットの以前はウィークリーエンド版の中にあったはずであるが、今は『食べ物新日本奇行』として、よりマニアックになっていた。おモチに限らず、さまざまな食べ物について真摯に・・・取り組んでいる。食べ物日本地図もあって、もはやグルメの領域を超えている。拙ブログに雑食というカテゴリーを設けたのであるが、前記「奇行」を知ってから、書く意欲をなくしてしまっている、いえ、書く必要もないかと思っている。さて、餡モチ入り雑煮であるが、香川ご出身の方に聞いた情報ではお味噌仕立て、それを知って、少し安心したことがある。わたくしは、焼かない(おモチをそのまま煮る)、四角系(形)出身で、お醤油仕立て、その椀の中に入っているおモチが餡では、と思うと、やるせないが、お味噌であればという、根拠のない許容心が働いた覚えがある。もともと、おミソも餡という表現をすることもある、あるいは、味噌餡というのもある。小さい頃のことであるが、鍋で煮立てた、お味噌にお砂糖を入れて(もらって)、それを温かいご飯が見えなくなるほどに塗(まぶ)して食べたこともあるので、その感覚、感触は理解できたのであろう。当面、香川に行く予定はないけれど、一度、やはり、試してみるべきなのだろうかと、いまだに抜けきれていない饅頭茶漬けの舌がはやしたてている。
ちなみに【香川 雑煮】で検索したら、4万以上ヒットした(YAHOOの場合、Googleでは1万弱)、やはり、有名なのだろう。
ちなみに【香川 雑煮】で検索したら、4万以上ヒットした(YAHOOの場合、Googleでは1万弱)、やはり、有名なのだろう。
2005.11.22
ナタアシア i ソオニア
青空文庫には400人以上の作家、5,000を超す作品が収録されている。閑に任せて、作家別に公開作品数を数えてみた。といっても、エクセルに数値を入力して、ソートしただけ、したがって、間違いも多かろうと思う。
【青空文庫の作家別公開作品数】※05年11月19日現在
ゝ榾槁換膸劭院ぃ娃横
∋田寅彦241
3川龍之介240
ぢ精房196(黒木舜平1含む)
コぬ扈住娃隠苅押粉泙犧缶郛三譯后丘 丘十郎5)
Σ本綺堂135
夢野久作117(含む杉山萠圓、海若藍平、かぐつち みどり、香倶土三鳥、萠圓、萠圓山人、三鳥山人、計19)
与謝野晶子113
森鴎外109(含む森林太郎23)
田中貢太郎107
夏目漱石100
宮沢賢治99
泉鏡花72
岡本かの子69
新美南吉63
いずれも著名な物書きばかりであろう。
10番目の田中貢太郎(たなか・こうたろう)は、怪談噺が得意のようで、わたくしは回避。泉鏡花もそれに近い作品があるけれども、こちらはOK、わがままな読者である。海外作家ではドイル・アーサー・コナン17、グリム・ヴィルヘルム・カール10、グリム・ヤーコプ・ルードヴィッヒ・カール10、ラティガン・テレンス・(メルヴィン)9、ポー・エドガー・アラン8などで、逆、いや、中、後、前の順で読んだ方が分かりやすい。グリムは兄弟(ヤーコプが長兄)、ともに10作品とあるが、共著なので、内容は同じである。
さて、芥川龍之介は作業中129もあり、これからも楽しみであるけれど、本日は、公開中のひとつであるが、作品ではなく、氏の著作がロシヤ語に翻訳された際の短いあいさつ程度の文章である。題名は『露譯短篇集の序』、以下、一部を引用する(青空文庫)。
《わたしの作品がロシア語に飜譯されると云ふことは勿論甚だ愉快です。近代の外國文藝中、ロシア文藝ほど日本の作家に、――と云ふよりも寧ろ日本の讀書階級に影響を與へたものはありません。日本の古典を知らない青年さへトルストイやドストエフスキイやトゥルゲネフやチェホフの作品は知つてゐるのです。我々日本人がロシアに親しいことはこれだけでも明らかになることでせう。(中略)若しわたしの作品の飜譯を機會にそれ等の天才たちの作品もロシア人諸君に知られるとしたらば、それは恐らくはわたし一人の喜びだけではありますまい。この文章は簡單です。しかしあなたがたのナタアシアやソオニアに我々の姊妹を感じてゐる一人の日本人の書いたものです。どうかさう思つて讀んで下さい。》
本日の本題は前著に出ている二人の女性の名前についてである。ナタアシア(ナターシャ)は『戦争と平和』(トルストイ)であろうか。ナタアシアはロシヤではごくふつうの名前であるから、例えば、チェーホフの『三人姊妹』にも登場するように、油断はできない。また、ソオニア(ソーニャ)と聞くとまずワーニャの姪かと思うが、奇を衒って、もしかしたら、『罪と罰』(ドストエフスキー)に登場する方なのかもしれない。拙ブロ『溺れる者…オブローモフとは』(05年11月19日付)に書いたルーヂン(ツルゲーネフ著)は、前記、罪と罰の主人公ラスコーリニコフの妹(ドゥーニャ、あるいはドーネチカ、正式名はィエブドキーヤ)を愛した男の名前でもある。で、ラスコーリニコフ(←は姓、名前はロージャ、正式名はロジオン)が深く関心を抱いた娼婦の名前がソオニア。ソオニアをもっと愛くるしく呼ぶとソーネチカ、惹かれると、そう呼ぶのだろう。ところで、ロシヤ人の名前には正式名称と愛称があり、ふつう後者で呼び合っている。ワーニャ伯父さんの正式名はイワン、ナターシャはナターリア、ソオニアはソーフィア、ツルゲーネフ側のルーヂンの名前(正)はドミートリ(愛称ディーマ)、罪と罰の方はピョートル(愛称ペーチャなど、※宮本百合子には露・ソ連関係の作品も多いが、『ペーチャの話』というのもあった。)オブローモフはイリヤー(愛称イリューシュカ)である。ロシヤの小説を読んでいると、登場人物が多すぎるという印象をよく聞くけれど、その原因のひとつに、一人の人物が名を変えて、出てくることもあろう。あるロシヤ人が「わたしはヴァロージャ 戮函△錣燭し△房己紹介をする、その気でいると、誰かほかの人が来て、彼をウラジーミルい醗曚覆辰震召任發辰董呼ぶ。えっ、と、思わず、ほかに誰かいるのかと振り向くかもしれない。で、別の人間ァ憤幣紊鬚泙箸瓩討くと、わたくし、ヴァロージャ、ウラジーミル、そして、誰かほかの人、と、別の人間)が今度は、やぁ!ヴァロディンカΔ覆匹噺討鵑世蠅垢襪函△發Α△修海砲蓮△笋呂蝓△曚に、わたくしには見えないけれど、誰かがいるのではないかという気もちになっても不思議ではない。小説の展開の中でもそういうことが起きているので、実際よりも多く登場しているように、錯覚し、混乱する。整理すれば、,鉢い鉢Δ脇碓貎擁で、い正式名称、で、´Δ蓮△錣燭しには見えない二人、い琉称である。では、の人が前述したイワンだとしよう・・・複雑になるので、とめておこう、とにかく混乱を招きがちなロシヤ人の名前のしくみである。
(と、書きながら、ナンデあるが)わたくし、また、皆様方も、ブログやサイトあるいはメールアドレスでもって、いくつかの名前を使い分けているわけであり、以前書いた暗誦番号(=パスワード、05年7月16日付)も含めると、ロシヤ人の´きΠ幣紊吠雑な構造に陥っているともいえ、ややこしい世の中になったと、この拙ブログを書きながら、繰り返し、思う次第である。
さて、青空文庫公開中、ロシヤ人作家を数えてみると、ゴーゴリ3、トルストイ2、チェーホフ、プーシキン、ツルゲーネフ、ドストエフスキー各1などである。ほぼ、芥川氏が、前記作品で指摘しているとおりであり、また、その、あいさつ文にゴーゴリが記述されていないところなど、粋でもある。
【青空文庫の作家別公開作品数】※05年11月19日現在
ゝ榾槁換膸劭院ぃ娃横
∋田寅彦241
3川龍之介240
ぢ精房196(黒木舜平1含む)
コぬ扈住娃隠苅押粉泙犧缶郛三譯后丘 丘十郎5)
Σ本綺堂135
夢野久作117(含む杉山萠圓、海若藍平、かぐつち みどり、香倶土三鳥、萠圓、萠圓山人、三鳥山人、計19)
与謝野晶子113
森鴎外109(含む森林太郎23)
田中貢太郎107
夏目漱石100
宮沢賢治99
泉鏡花72
岡本かの子69
新美南吉63
いずれも著名な物書きばかりであろう。
10番目の田中貢太郎(たなか・こうたろう)は、怪談噺が得意のようで、わたくしは回避。泉鏡花もそれに近い作品があるけれども、こちらはOK、わがままな読者である。海外作家ではドイル・アーサー・コナン17、グリム・ヴィルヘルム・カール10、グリム・ヤーコプ・ルードヴィッヒ・カール10、ラティガン・テレンス・(メルヴィン)9、ポー・エドガー・アラン8などで、逆、いや、中、後、前の順で読んだ方が分かりやすい。グリムは兄弟(ヤーコプが長兄)、ともに10作品とあるが、共著なので、内容は同じである。
さて、芥川龍之介は作業中129もあり、これからも楽しみであるけれど、本日は、公開中のひとつであるが、作品ではなく、氏の著作がロシヤ語に翻訳された際の短いあいさつ程度の文章である。題名は『露譯短篇集の序』、以下、一部を引用する(青空文庫)。
《わたしの作品がロシア語に飜譯されると云ふことは勿論甚だ愉快です。近代の外國文藝中、ロシア文藝ほど日本の作家に、――と云ふよりも寧ろ日本の讀書階級に影響を與へたものはありません。日本の古典を知らない青年さへトルストイやドストエフスキイやトゥルゲネフやチェホフの作品は知つてゐるのです。我々日本人がロシアに親しいことはこれだけでも明らかになることでせう。(中略)若しわたしの作品の飜譯を機會にそれ等の天才たちの作品もロシア人諸君に知られるとしたらば、それは恐らくはわたし一人の喜びだけではありますまい。この文章は簡單です。しかしあなたがたのナタアシアやソオニアに我々の姊妹を感じてゐる一人の日本人の書いたものです。どうかさう思つて讀んで下さい。》
本日の本題は前著に出ている二人の女性の名前についてである。ナタアシア(ナターシャ)は『戦争と平和』(トルストイ)であろうか。ナタアシアはロシヤではごくふつうの名前であるから、例えば、チェーホフの『三人姊妹』にも登場するように、油断はできない。また、ソオニア(ソーニャ)と聞くとまずワーニャの姪かと思うが、奇を衒って、もしかしたら、『罪と罰』(ドストエフスキー)に登場する方なのかもしれない。拙ブロ『溺れる者…オブローモフとは』(05年11月19日付)に書いたルーヂン(ツルゲーネフ著)は、前記、罪と罰の主人公ラスコーリニコフの妹(ドゥーニャ、あるいはドーネチカ、正式名はィエブドキーヤ)を愛した男の名前でもある。で、ラスコーリニコフ(←は姓、名前はロージャ、正式名はロジオン)が深く関心を抱いた娼婦の名前がソオニア。ソオニアをもっと愛くるしく呼ぶとソーネチカ、惹かれると、そう呼ぶのだろう。ところで、ロシヤ人の名前には正式名称と愛称があり、ふつう後者で呼び合っている。ワーニャ伯父さんの正式名はイワン、ナターシャはナターリア、ソオニアはソーフィア、ツルゲーネフ側のルーヂンの名前(正)はドミートリ(愛称ディーマ)、罪と罰の方はピョートル(愛称ペーチャなど、※宮本百合子には露・ソ連関係の作品も多いが、『ペーチャの話』というのもあった。)オブローモフはイリヤー(愛称イリューシュカ)である。ロシヤの小説を読んでいると、登場人物が多すぎるという印象をよく聞くけれど、その原因のひとつに、一人の人物が名を変えて、出てくることもあろう。あるロシヤ人が「わたしはヴァロージャ 戮函△錣燭し△房己紹介をする、その気でいると、誰かほかの人が来て、彼をウラジーミルい醗曚覆辰震召任發辰董呼ぶ。えっ、と、思わず、ほかに誰かいるのかと振り向くかもしれない。で、別の人間ァ憤幣紊鬚泙箸瓩討くと、わたくし、ヴァロージャ、ウラジーミル、そして、誰かほかの人、と、別の人間)が今度は、やぁ!ヴァロディンカΔ覆匹噺討鵑世蠅垢襪函△發Α△修海砲蓮△笋呂蝓△曚に、わたくしには見えないけれど、誰かがいるのではないかという気もちになっても不思議ではない。小説の展開の中でもそういうことが起きているので、実際よりも多く登場しているように、錯覚し、混乱する。整理すれば、,鉢い鉢Δ脇碓貎擁で、い正式名称、で、´Δ蓮△錣燭しには見えない二人、い琉称である。では、の人が前述したイワンだとしよう・・・複雑になるので、とめておこう、とにかく混乱を招きがちなロシヤ人の名前のしくみである。
(と、書きながら、ナンデあるが)わたくし、また、皆様方も、ブログやサイトあるいはメールアドレスでもって、いくつかの名前を使い分けているわけであり、以前書いた暗誦番号(=パスワード、05年7月16日付)も含めると、ロシヤ人の´きΠ幣紊吠雑な構造に陥っているともいえ、ややこしい世の中になったと、この拙ブログを書きながら、繰り返し、思う次第である。
さて、青空文庫公開中、ロシヤ人作家を数えてみると、ゴーゴリ3、トルストイ2、チェーホフ、プーシキン、ツルゲーネフ、ドストエフスキー各1などである。ほぼ、芥川氏が、前記作品で指摘しているとおりであり、また、その、あいさつ文にゴーゴリが記述されていないところなど、粋でもある。
2005.11.21
暗闇で饅頭を喰う(ある神秘論)
大仰ではあるけれども、半年ほど、ことあるごとに、標題について思いを凝らしていた。原文(前段)は6月に書き始めたのであるが、多少、書き改めてみた。
神秘…、まるで暗闇で饅頭を喰う、とは、夏目漱石『三四郎』の一節にある言葉である。(青空文庫より)
《それから谷中(やなか)へ出て、根津(ねづ)を回って、夕方に本郷の下宿へ帰った。三四郎は近来にない気楽な半日を暮らしたように感じた。
翌日学校へ出てみると与次郎がいない。昼から来るかと思ったが来ない。図書館へもはいったがやっぱり見当らなかった。五時から六時まで純文科共通の講義がある。三四郎はこれへ出た。筆記するには暗すぎる。電燈がつくには早すぎる。細長い窓の外に見える大きな欅(けやき)の枝の奥が、次第に黒くなる時分だから、部屋(へや)の中は講師の顔も聴講生の顔も等しくぼんやりしている。したがって暗闇(くらやみ)で饅頭(まんじゅう)を食うように、なんとなく神秘的である。三四郎は講義がわからないところが妙だと思った。頬杖(ほおづえ)を突いて聞いていると、神経がにぶくなって、気が遠くなる。これでこそ講義の価値があるような心持ちがする。ところへ電燈がぱっとついて、万事がやや明瞭(めいりょう)になった。すると急に下宿へ帰って飯が食いたくなった。先生もみんなの心を察して、いいかげんに講義を切り上げてくれた。三四郎は早足で追分(おいわけ)まで帰ってくる。》
わたくしは、辛党であるけれども、甘党でもある。饅頭、羊羹の類でもって、十分、お酒を堪能できる。実は、5/23付のブログで三四郎を読み込み、初めて気づいた。もちろん、試してみた。が、才の違いというのか、どうやっても、それが神秘とは感じられなかった。もっとも、その時はあいにく饅頭の類がなく、菓子パンで代用していたせいもあるのだろう。
(ここから本日)
で、今回、改めて、饅頭を購入し、再度試した。昨夜、所用があって出かけた、ひさしぶりの雑繁な街の、渡嘉敷島の「まめや」さんも来られたという百貨店の地下にて、求めた。ふんぱつした。京都南禅寺草川町『京都菓匠 清閑院』の薄皮饅頭である(1ケ60円ちょっと)。早速、暗闇で食べてみたが、さっぱり分からない。
[暗闇での饅頭]※フラッシュ撮影

それでも、甘くて(かつ、ほのかに酒っぽくて、酒粕がはいっている)、美味しいというのは暗くても分かるが、シンピはとうとう分からなかった。この感覚というのは、もちろん才の関わる部分がもっとも大きいのだろうけれど、いくつ食べても体感できないでいる。まだ、いくつか残っているので、寝る前にでも、再度食べてみようかと思っている。
ところで、森鴎外は饅頭を温かいご飯の上にのせて、加えて、お茶漬けでもって食べるのが大好きと、羊羹で有名であるが、饅頭は製造・販売していないはずの虎屋のサイトにあった。↑夏目翁の暗闇実験はまったくの失敗、というよりも、わたくしの才のなさを上塗りしたようなものであるので、ここは森翁の場合も試してみることにした。鴎外は四つ割にして、その一片を、ということであるが(同サイト)、わたくしが買ってきたモノは、もともと小ぶりであったので1/2としたが、もう、ほとんど、無いに近い状態になっている。(↓写真)お茶は煎茶を使ってみた。
[饅頭茶漬け]

…感想として、意外に旨しいということは、決してない。そもそも、わたくしの小さな脳感覚の中にはない味覚である。ただ、ひとつだけ、失敗したと思うことがあった。それは、饅頭の選択である。今回は薄皮を採用したが、本来は、厚皮を用いれば、良かったのではという反省がわたくしの中にある。皮が厚ければ、その部分がお茶に程よく溶けて(ふやけて)、ちょうど、クルトンか、お麩のような具合になって、もう少し、異なった食感を味わえたのかもしれない。とはいえ、もう、厚皮を買ってまで再試行するつもりはないけれど。甲州にホウトウという饂飩のようなキシメンのような麺があるが、そのメニューのひとつに「小豆(あずき)ホウトウ」というのがあって、頼んだことがある。でてきたのはゼンザイ(お汁粉)状態の椀の中にホウトウがおモチがわりに入っている一品であった。これは、「意外に」美味しかったという記憶がある。あるいは、小さいころ、ご飯にお砂糖、または、(お砂糖入りの)きな粉をかけて食べていたこともある。そういうことから考えると、饅頭茶漬けを主食だと思って、面と向かって食べるのではなく、ホウトウや砂糖あるいはきな粉ご飯と同じように、一種の甘味食、スィーツと考えていさえすれば、やはり、もう少し、異なった、もしかしたら、おいしぃ〜、と思えたのかもしれない。とはいえ、もう、二度と試す気にはならないけれど。
食べてみて、暗闇で饅頭の意味がおぼろげながらもつかめたような気になっている。とはいえ、暗闇の饅頭も、茶漬けの饅頭も、なんだか、はっきりしないけれども、心外な心もちが芽生えてきて、それが、シンピという、世界へ引きづり込んでくれているようで、ものごとは、はっきりしない方がヨロシイという、わたくしにとっては、聞き心地の良いことを、両巨匠は仰言っているのだろうか程度の稚拙な感想でしかないけれど。
やはり、
[わたくしには、さっぱり、ワカラナイ]

神秘…、まるで暗闇で饅頭を喰う、とは、夏目漱石『三四郎』の一節にある言葉である。(青空文庫より)
《それから谷中(やなか)へ出て、根津(ねづ)を回って、夕方に本郷の下宿へ帰った。三四郎は近来にない気楽な半日を暮らしたように感じた。
翌日学校へ出てみると与次郎がいない。昼から来るかと思ったが来ない。図書館へもはいったがやっぱり見当らなかった。五時から六時まで純文科共通の講義がある。三四郎はこれへ出た。筆記するには暗すぎる。電燈がつくには早すぎる。細長い窓の外に見える大きな欅(けやき)の枝の奥が、次第に黒くなる時分だから、部屋(へや)の中は講師の顔も聴講生の顔も等しくぼんやりしている。したがって暗闇(くらやみ)で饅頭(まんじゅう)を食うように、なんとなく神秘的である。三四郎は講義がわからないところが妙だと思った。頬杖(ほおづえ)を突いて聞いていると、神経がにぶくなって、気が遠くなる。これでこそ講義の価値があるような心持ちがする。ところへ電燈がぱっとついて、万事がやや明瞭(めいりょう)になった。すると急に下宿へ帰って飯が食いたくなった。先生もみんなの心を察して、いいかげんに講義を切り上げてくれた。三四郎は早足で追分(おいわけ)まで帰ってくる。》
わたくしは、辛党であるけれども、甘党でもある。饅頭、羊羹の類でもって、十分、お酒を堪能できる。実は、5/23付のブログで三四郎を読み込み、初めて気づいた。もちろん、試してみた。が、才の違いというのか、どうやっても、それが神秘とは感じられなかった。もっとも、その時はあいにく饅頭の類がなく、菓子パンで代用していたせいもあるのだろう。
(ここから本日)
で、今回、改めて、饅頭を購入し、再度試した。昨夜、所用があって出かけた、ひさしぶりの雑繁な街の、渡嘉敷島の「まめや」さんも来られたという百貨店の地下にて、求めた。ふんぱつした。京都南禅寺草川町『京都菓匠 清閑院』の薄皮饅頭である(1ケ60円ちょっと)。早速、暗闇で食べてみたが、さっぱり分からない。
[暗闇

それでも、甘くて(かつ、ほのかに酒っぽくて、酒粕がはいっている)、美味しいというのは暗くても分かるが、シンピはとうとう分からなかった。この感覚というのは、もちろん才の関わる部分がもっとも大きいのだろうけれど、いくつ食べても体感できないでいる。まだ、いくつか残っているので、寝る前にでも、再度食べてみようかと思っている。
ところで、森鴎外は饅頭を温かいご飯の上にのせて、加えて、お茶漬けでもって食べるのが大好きと、羊羹で有名であるが、饅頭は製造・販売していないはずの虎屋のサイトにあった。↑夏目翁の暗闇実験はまったくの失敗、というよりも、わたくしの才のなさを上塗りしたようなものであるので、ここは森翁の場合も試してみることにした。鴎外は四つ割にして、その一片を、ということであるが(同サイト)、わたくしが買ってきたモノは、もともと小ぶりであったので1/2としたが、もう、ほとんど、無いに近い状態になっている。(↓写真)お茶は煎茶を使ってみた。
[饅頭茶漬け]

…感想として、意外に旨しいということは、決してない。そもそも、わたくしの小さな脳感覚の中にはない味覚である。ただ、ひとつだけ、失敗したと思うことがあった。それは、饅頭の選択である。今回は薄皮を採用したが、本来は、厚皮を用いれば、良かったのではという反省がわたくしの中にある。皮が厚ければ、その部分がお茶に程よく溶けて(ふやけて)、ちょうど、クルトンか、お麩のような具合になって、もう少し、異なった食感を味わえたのかもしれない。とはいえ、もう、厚皮を買ってまで再試行するつもりはないけれど。甲州にホウトウという饂飩のようなキシメンのような麺があるが、そのメニューのひとつに「小豆(あずき)ホウトウ」というのがあって、頼んだことがある。でてきたのはゼンザイ(お汁粉)状態の椀の中にホウトウがおモチがわりに入っている一品であった。これは、「意外に」美味しかったという記憶がある。あるいは、小さいころ、ご飯にお砂糖、または、(お砂糖入りの)きな粉をかけて食べていたこともある。そういうことから考えると、饅頭茶漬けを主食だと思って、面と向かって食べるのではなく、ホウトウや砂糖あるいはきな粉ご飯と同じように、一種の甘味食、スィーツと考えていさえすれば、やはり、もう少し、異なった、もしかしたら、おいしぃ〜、と思えたのかもしれない。とはいえ、もう、二度と試す気にはならないけれど。
食べてみて、暗闇で饅頭の意味がおぼろげながらもつかめたような気になっている。とはいえ、暗闇の饅頭も、茶漬けの饅頭も、なんだか、はっきりしないけれども、心外な心もちが芽生えてきて、それが、シンピという、世界へ引きづり込んでくれているようで、ものごとは、はっきりしない方がヨロシイという、わたくしにとっては、聞き心地の良いことを、両巨匠は仰言っているのだろうか程度の稚拙な感想でしかないけれど。
やはり、
[わたくしには、さっぱり、ワカラナイ]

2005.11.19
溺れる者…オブローモフとは
標題の一部『オブローモフ』とは何者か、岩波文庫版、米川正夫氏訳による同書(全3巻、品切重版未定とある)の説明文を引用すると、《オブローモフは優しい純真な魂と非凡な才能をもっているが、実際的意力の欠けた青年で遊惰と無為の中に空しい日を送る。熱情的な少女オリガの純な愛に対してさえ、能動的な反応を示すことができぬほど行動の能力を封鎖されている。ロシア文学における無用者の典型をみごとに描ききったゴンチャーロフ(1812‐1891)の代表作》とある。また、同書を扱った評論として名高い『オブローモフ主義とは何か?』(ドブロリューボフ著、金子幸彦氏訳、やはり岩波文庫、在庫はあるらしい)では《オブローモフ。教養のある貴族インテリゲンツィア。高い理想を口にしながら自らは行動せず、無関心、そして怠惰。ゴンチャーロフの小説「オブローモフ」をとりあげて当時のインテリに共通の気質をえぐり出す。農民革命による社会主義社会をもたらすべく精力的に文筆活動を行なったドブロリューボフ(1836‐1861)の代表的文芸評論。》と彼(オブローモフ)を解説している。
まことに大雑把にいうと、19世紀における貴族の出であり、その当時としては教養も知識もある御仁だけれども、「言うだけ」、すなわち不言実行の真反対の位置にいる、有言不実行のモデル(代名詞)として扱われている。初めて、この書を読んだ時、ああ、なんて、うらやましいことか、と正直思った。ただし、それはみかけのこと、内面をのぞきみると、複雑な個としての特質ととりまく社会背景という状況の中で、単なるオバカさんでは済まされない魅力をもった人物でもあり、それゆえに、うらやましい、と思ったわけでもある。書かれたのは1859年、今から1世紀半ほど前のことである。多少、ロシヤの歴史にふれておく必要があろう。ロマーノフ朝が成立したのが1613年、そこを基点として数えると、約2世紀半後のことである。ちなみに、(王朝発足の)10年程前には徳川幕府ができている。1861年に農奴解放がある(実際の開放はそれより数年先)が、その背景には王朝の凋落、直接的にはクリミア戦争(53〜56年)の敗北があるといわれている。この頃、ロシヤはある段階まで、社会そのものが疲弊しており、特に貴族中心の搾取社会の持続が難しい状態に陥っている。貴族だけではない、役人、市井の人々、もしかしたら、農奴まで(?)を含めて、下降線(堕落)の一途を辿っていたことは、ロシヤ文学の始祖であるゴーゴリの数々の名・作品に描かれている(ただし、ゴ氏はそのことを書きたかったわけではないと、個人的には思っている)。…というような大雑把な歴史説明をふまえて、その社会に生まれたのがオブローモフ≒オボレルモノ(溺れる者)と呼んでみたのが標題の意味である。ツルゲーネフの「ルーヂン」(1856年)もまた、彼(オブローモフ)の近似値である。流(りゅう)人と違訳しておこう。うき草と名訳をしたのが二葉亭四迷である。残念ながら、訳本を読んだことはなく、書店でも探してみたが、主要な版元目録にもなかった。いつも、お世話になっている青空文庫にもなく、今のところ、八方ふさがりである。ちなみに、よく似た作題で、やはり四迷の作である「浮雲」という代表作があるが、青空では作業中ということ、手持ちの文庫版を眺めているが、内海文三にそれ(浮き草あるいはルーヂン)を彷彿させる部分も見られる。オブローモフやルーヂンのような人物を経て、やがて、ロシヤ社会は変化への機運が高まり、05年そして、17年の10月革命となる。ただし、これもまた、両者(オやルと、革命)を直接的に結びつける必要はまったくないと考えている。
NEET(Not in Employment, Education or Training=ニート)という言葉が最近踊っている。意味は、「職業に就かず、学校・教育機関に所属にもせず、かつ就労に向けた具体的な動きをしていない若者」だそうである。若者というには幅広で15〜34歳、パラサイトという言葉もはやった。まさに、この世代と重なり合うのも偶然だけではないのだろうけれど、そんな些細な分析をしても致し方がない。一説には70万とも100万ともいわれている。で、厚生労働省がこれらニートの就業支援をするというような記事も見かけたけれど、その前提には「ニートで在る」ことは悪いという条件でもあるのだろうか。でなければ、自分たち(コウローショーのお役人はじめ、その他もろもろ)と異なったのっぺらぼうでない(拙ブロ05年6月7日付『公らはタイプ・ライターにすぎず』)ニートたちを己れたちの領域に引きずりこんで、積み移しによる「変化のない」歴史の繰り返しの中に埋没させようとしているのだろう。わたくしの中では、オブローモフもルーヂンも、そしてニートも、それはそれで良いのではないかというのが、正直な気持ちであり、何度読み返しても、ゴンチャーロフも、ツルゲーネフも、オブローモフやルーヂンを支援しようなどという莫迦げた所業にはでていないように思う。それはそれで、お好きなようにどうぞという、まことにもって、自然な形でもって、対面しているように感じている。それを浮き草と題じた四迷も同様である。溺れる者は藁をもつかむというが、彼らにはつかむ藁など存在せず、ただただ、自分流に生きている(いた)、ただ、それだけのことで良いのではないか、オブローモフを初めて読んで以来、わたくしにも、ただ、ひたすら浮いている草であることにプラスでもマイナスでもない、上記「それはそれで」に近い思いしかもてない。むしろ、わたくしには彼らより、N’NEET《職業に就かず、学校・教育機関に所属にもせず、かつ就労に向けた具体的な動きをしていない若者→ヒト}でない》の方がよほど、それはそれではすまない感情をもつことが多いような気がする。もちろん、余計なお世話の浮き語りであり、だからナニ?ということは何もない。あるいは、わたくしが徴税者側ではないからだという明確な事実もあるから、そう思うのかもしれない。
それはそれで、・・・。
[ニートの就業支援に関する記事]
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/kyousei/geneki/20050928ik08.htm
まことに大雑把にいうと、19世紀における貴族の出であり、その当時としては教養も知識もある御仁だけれども、「言うだけ」、すなわち不言実行の真反対の位置にいる、有言不実行のモデル(代名詞)として扱われている。初めて、この書を読んだ時、ああ、なんて、うらやましいことか、と正直思った。ただし、それはみかけのこと、内面をのぞきみると、複雑な個としての特質ととりまく社会背景という状況の中で、単なるオバカさんでは済まされない魅力をもった人物でもあり、それゆえに、うらやましい、と思ったわけでもある。書かれたのは1859年、今から1世紀半ほど前のことである。多少、ロシヤの歴史にふれておく必要があろう。ロマーノフ朝が成立したのが1613年、そこを基点として数えると、約2世紀半後のことである。ちなみに、(王朝発足の)10年程前には徳川幕府ができている。1861年に農奴解放がある(実際の開放はそれより数年先)が、その背景には王朝の凋落、直接的にはクリミア戦争(53〜56年)の敗北があるといわれている。この頃、ロシヤはある段階まで、社会そのものが疲弊しており、特に貴族中心の搾取社会の持続が難しい状態に陥っている。貴族だけではない、役人、市井の人々、もしかしたら、農奴まで(?)を含めて、下降線(堕落)の一途を辿っていたことは、ロシヤ文学の始祖であるゴーゴリの数々の名・作品に描かれている(ただし、ゴ氏はそのことを書きたかったわけではないと、個人的には思っている)。…というような大雑把な歴史説明をふまえて、その社会に生まれたのがオブローモフ≒オボレルモノ(溺れる者)と呼んでみたのが標題の意味である。ツルゲーネフの「ルーヂン」(1856年)もまた、彼(オブローモフ)の近似値である。流(りゅう)人と違訳しておこう。うき草と名訳をしたのが二葉亭四迷である。残念ながら、訳本を読んだことはなく、書店でも探してみたが、主要な版元目録にもなかった。いつも、お世話になっている青空文庫にもなく、今のところ、八方ふさがりである。ちなみに、よく似た作題で、やはり四迷の作である「浮雲」という代表作があるが、青空では作業中ということ、手持ちの文庫版を眺めているが、内海文三にそれ(浮き草あるいはルーヂン)を彷彿させる部分も見られる。オブローモフやルーヂンのような人物を経て、やがて、ロシヤ社会は変化への機運が高まり、05年そして、17年の10月革命となる。ただし、これもまた、両者(オやルと、革命)を直接的に結びつける必要はまったくないと考えている。
NEET(Not in Employment, Education or Training=ニート)という言葉が最近踊っている。意味は、「職業に就かず、学校・教育機関に所属にもせず、かつ就労に向けた具体的な動きをしていない若者」だそうである。若者というには幅広で15〜34歳、パラサイトという言葉もはやった。まさに、この世代と重なり合うのも偶然だけではないのだろうけれど、そんな些細な分析をしても致し方がない。一説には70万とも100万ともいわれている。で、厚生労働省がこれらニートの就業支援をするというような記事も見かけたけれど、その前提には「ニートで在る」ことは悪いという条件でもあるのだろうか。でなければ、自分たち(コウローショーのお役人はじめ、その他もろもろ)と異なったのっぺらぼうでない(拙ブロ05年6月7日付『公らはタイプ・ライターにすぎず』)ニートたちを己れたちの領域に引きずりこんで、積み移しによる「変化のない」歴史の繰り返しの中に埋没させようとしているのだろう。わたくしの中では、オブローモフもルーヂンも、そしてニートも、それはそれで良いのではないかというのが、正直な気持ちであり、何度読み返しても、ゴンチャーロフも、ツルゲーネフも、オブローモフやルーヂンを支援しようなどという莫迦げた所業にはでていないように思う。それはそれで、お好きなようにどうぞという、まことにもって、自然な形でもって、対面しているように感じている。それを浮き草と題じた四迷も同様である。溺れる者は藁をもつかむというが、彼らにはつかむ藁など存在せず、ただただ、自分流に生きている(いた)、ただ、それだけのことで良いのではないか、オブローモフを初めて読んで以来、わたくしにも、ただ、ひたすら浮いている草であることにプラスでもマイナスでもない、上記「それはそれで」に近い思いしかもてない。むしろ、わたくしには彼らより、N’NEET《職業に就かず、学校・教育機関に所属にもせず、かつ就労に向けた具体的な動きをしていない
それはそれで、・・・。
[ニートの就業支援に関する記事]
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/kyousei/geneki/20050928ik08.htm
2005.11.18
本日の足攣り情報
相変らず芳しくない、わたくしの足である。ユビ十本は、常に半攣り状態であり、立っているときも、座っているときも、起きているときも、寝ているときも、ユビを反らせてみたり、屈ませてみたりしているが、一向に良くならない。加えて、右足はふくらはぎ一帯が1/4攣りという具合である。前記のユビ反・屈運動の際に、ぴぃくふぃく、と半攣り一歩手前までになることもある。左はというと、少し分かりづらいけれど、くるぶしに近い部分が1/5攣りぐらいだろうか、足首をひねると、たちまち、攣り度数があがる。そういった危うい状況でもって、日ごと、過ごしており、本日も、足を気遣いながら、ネットを眺めていると、「納豆コーヒーゼリーサンド」という文字が飛び込んできて、ピンときたので、その元である『鞍馬サンド』という会社のサイトをのぞいてみた。何故、ピンかといえば、納豆+コーヒー+サンド(パン)という組み合わせに対して、直感的にマグネシウムの大量含有を感じたからである。拙ブロ『原子番号12、元素記号Mg、語源地ギリシャ』では、足攣りに効果のあるマグネシウムというところまでたどり着き、以後、インスタントコーヒーやココアを普段にもまして飲むように努めているが、どうも効果はまだらしいので、この際、足攣り防止の増強策として、考えたいと思った次第で、改めて、『五訂増補日本食品標準成分表』のマグネシウム含有量をみている。お茶も良いらしいが、ココア、そして、何故か、インスタントコーヒーがよろしいようである(ここまでは実践済み)。お酒にはほとんど含まれておらず、むしろ、足攣りに直結する因子でもある(これも実践中)。豆類はマグネシウムを多く含んでいると以前知ったが、小麦粉も、全粒粉にはそこそこ含有しているのであるが、パンになってしまうと意外に消滅してしまうようではあるものの、ま、あるとして、↑上記の、《納豆∧コーヒー∧サンド》というコンビネーションはもしかしたら、わたくしの足攣りにとって救世主になるのではないかという、まったくもって、わがままなことを考えている。メニューページをクリックして、実物(写真)を見るが、実態がよく分からない。この際、実際に買い求めるしかないかと、店舗ページに、東京新宿でも販売しているとあったので、ついでがあったら試してみようと思うところである。ところで、同サイトのトップにある秋限定『ペ・サンド』が気になったのだが、メニューにはない。試しに店長さんのブログを拝見すると、本当に何がなんだか分からないけれども、どうやら、辛いということらしい。辛い→キムチ(これはメニューにもある)→韓国→ペ・ヨンジュン(ヨン様)・・・?。これも、お店に寄った際に訊いておこう。
[五訂増補日本食品標準成分表]
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu3/toushin/05031802/002.htm
[こちらは本日の足摺岬の情報です]※天然ニガリが特産
http://www1.quolia.com/sea/ashizuri/
[五訂増補日本食品標準成分表]
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu3/toushin/05031802/002.htm
[こちらは本日の足摺岬の情報です]※天然ニガリが特産
http://www1.quolia.com/sea/ashizuri/
2005.11.16
公園の宴(koen no en)…那覇中心徒歩記
2日に那覇入りして、しばらく淀んでいたことは9日「西向く侍(士)」に書いた。ただ、中心をあてもなく歩き、以前見た場所を確認したり、少し、迷って、新たな場所を見つけたり、そういう、堕落(だら)〃とした時間を過ごしていた。その行動は一行あれば足りる。
起床→カフェ→イチバ→定食屋→イチバあるいは新発見→ヤギ屋さん。
以上の繰り返しを何日かしただけのことである。さらに書けば、カフェ→イチバの経路には希望が丘公園→桜坂が必ず入り、公園への何ヶ所もある入り口、通路はその都度変えて、歩いてみた。劇場前は毎度通ることになる。前回、『海流』を観た時にも気になっていた昭和28〜30年頃の桜坂を中心とした地図が頭から離れなくて、今回は携帯写真に納めてきた。まったく、もって、小さすぎるので、貼る必要もないとは思うのであるが、つけてみた。
[桜坂劇場のドアに貼ってある地図]※大雑把に表わせば地図の上が東にあたる

↑写真中央、やや右下にピンクがかった箇所が桜坂劇場である。同館から上に二本大きな通りがあるのが分かるだろうか。下がテンブス横を通り、桜坂社交街の一角に突き進む道、今は中途半端な拡幅工事段階で、ほぼ無料青空駐車場となっている。その上の道がグランドオリオン通りである。ついでにいうと、地図の左端に縦方向に延びている(実物をみるとよく分かるけれど)のが、現在の国際通り、当時は牧志大通りといったらしく、そのように記されている。ところで、グラ・オリ通りも「市役所通り」と標記されていて、そこに旧那覇市役所があったことが分かる。その後、役所跡地はグランドオリオンとなり、通りの名前も、いつのまにか、市民によって、親しみをもって、呼びかえられたのだろう。上記地図の中で、今もなお認められるのは、国際通りとの角地にある「りゅうぎん」(琉球銀行)の店舗ぐらいだろうか。先のテンブスとは、おへそのことだそうで、牧志、桜坂周辺往時の繁栄ぶりをもう一度、当地にという意味を込めて、つけられたらしい。上地図のピンク(劇場)の左側から上側にかけては小さな飲食店街がひしめきあっているのは、当然として、中には大きそうなキャバレーやピンポン場もあったりして、当時の賑わいぶりが何となく感じられる。今の桜坂一帯もその原形を思い起こさせる片・端形はとどめてはいるものの、人の数がまったく異なっている。また、おもろまちという新都心にシネコンやショッピングセンターなどができて、市役所も一部移転している。どうも、役所の全面移転はない模様ではあるものの、「まち」が移ろいでいく兆し(不安)が徐々に忍び寄っていることも事実である。さて、公園はのどかである。いくどか、いくにんかの人が車座でもって、四合ビンを真ん中に、市場で買ってきた肴をあてに、歓談しながら、美味しそうに、過ごしているのを遠目から眺めながら、咽喉を鳴らして、劇場の方へと、あるいはテンブス方向へと歩いている、卑しい、わたくしがいた。たぶんに気候のせいもあるのだろうけれど、それ以上に、風土がそうなのであろう。例えば、東京の日比谷公園あたりで昼食を摂っている人たちは多く見かけるものの、宴はない。上野公園ですら、ある特定の時季(お花見)以外で、車座を見たことはあまり記憶にない。那覇の街ではそのようなことが茶飯に行なわれている、うらやましさ、あるいはねたみから、このことを書き留めておきたかった次第である。本日は十五夜、希望が丘公園ならびにテンブスでは満月夜会が催されているはずである。ちなみに那覇のお天気は曇り、やや風が強く、寒そうである。(20℃前後だけど)
起床→カフェ→イチバ→定食屋→イチバあるいは新発見→ヤギ屋さん。
以上の繰り返しを何日かしただけのことである。さらに書けば、カフェ→イチバの経路には希望が丘公園→桜坂が必ず入り、公園への何ヶ所もある入り口、通路はその都度変えて、歩いてみた。劇場前は毎度通ることになる。前回、『海流』を観た時にも気になっていた昭和28〜30年頃の桜坂を中心とした地図が頭から離れなくて、今回は携帯写真に納めてきた。まったく、もって、小さすぎるので、貼る必要もないとは思うのであるが、つけてみた。
[桜坂劇場のドアに貼ってある地図]※大雑把に表わせば地図の上が東にあたる

↑写真中央、やや右下にピンクがかった箇所が桜坂劇場である。同館から上に二本大きな通りがあるのが分かるだろうか。下がテンブス横を通り、桜坂社交街の一角に突き進む道、今は中途半端な拡幅工事段階で、ほぼ無料青空駐車場となっている。その上の道がグランドオリオン通りである。ついでにいうと、地図の左端に縦方向に延びている(実物をみるとよく分かるけれど)のが、現在の国際通り、当時は牧志大通りといったらしく、そのように記されている。ところで、グラ・オリ通りも「市役所通り」と標記されていて、そこに旧那覇市役所があったことが分かる。その後、役所跡地はグランドオリオンとなり、通りの名前も、いつのまにか、市民によって、親しみをもって、呼びかえられたのだろう。上記地図の中で、今もなお認められるのは、国際通りとの角地にある「りゅうぎん」(琉球銀行)の店舗ぐらいだろうか。先のテンブスとは、おへそのことだそうで、牧志、桜坂周辺往時の繁栄ぶりをもう一度、当地にという意味を込めて、つけられたらしい。上地図のピンク(劇場)の左側から上側にかけては小さな飲食店街がひしめきあっているのは、当然として、中には大きそうなキャバレーやピンポン場もあったりして、当時の賑わいぶりが何となく感じられる。今の桜坂一帯もその原形を思い起こさせる片・端形はとどめてはいるものの、人の数がまったく異なっている。また、おもろまちという新都心にシネコンやショッピングセンターなどができて、市役所も一部移転している。どうも、役所の全面移転はない模様ではあるものの、「まち」が移ろいでいく兆し(不安)が徐々に忍び寄っていることも事実である。さて、公園はのどかである。いくどか、いくにんかの人が車座でもって、四合ビンを真ん中に、市場で買ってきた肴をあてに、歓談しながら、美味しそうに、過ごしているのを遠目から眺めながら、咽喉を鳴らして、劇場の方へと、あるいはテンブス方向へと歩いている、卑しい、わたくしがいた。たぶんに気候のせいもあるのだろうけれど、それ以上に、風土がそうなのであろう。例えば、東京の日比谷公園あたりで昼食を摂っている人たちは多く見かけるものの、宴はない。上野公園ですら、ある特定の時季(お花見)以外で、車座を見たことはあまり記憶にない。那覇の街ではそのようなことが茶飯に行なわれている、うらやましさ、あるいはねたみから、このことを書き留めておきたかった次第である。本日は十五夜、希望が丘公園ならびにテンブスでは満月夜会が催されているはずである。ちなみに那覇のお天気は曇り、やや風が強く、寒そうである。(20℃前後だけど)
2005.11.15
晩秋のハバロフスクからの便り(六花・りっか)05年秋号公開
2002年から毎年4回、ハバロフスクからの便りが届く。黄金の秋から晩秋へと向かっているだろう極東の街香を感じる一瞬でもある。わたくしの怠惰さでもって、夏(15)号も秋(16)号に遅れること一日、あわててアップした。同号の巻末にもお詫びの言葉を加えた、そして、今も、そのまま、反省の標しとして残したままである。
「ハバロフスク日本人会会報2005秋(16)号」
「ハバロフスク日本人会会報2005秋(16)号」
2005.11.13
首里文化祭(11・3)…那覇中心徒歩記
標題のお祭りは首里一帯で催されるお祭りで、ブンカサイとあるが、いわゆる文化祭とは異なり、「まち」に古くからある「祭禮」のひとつである。正確には首里通りの首里高校からJA(農協)事務所までの1km余りを各町が旗頭と呼ばれる竿灯のような、江戸火消しの纏いのような、そのような状況の物体を男たちが腕と腰と膝とでもって抱えて、練り歩くという、みているだけで、体が壊れてしまいそうな祭りである。つい一週間前には「首里まつり」というのがあったらしい、那覇は毎週お祭り、という地元の人の声が真実味を帯びてくる。わたくしが滞在している間、していない間を含めて、この一ヶ月あまりを並べてみると、首里城仲秋の宴(SEP.16〜18)、那覇まつり(大綱挽、OCT.8〜10)、産業まつり(OCT.21〜23)、首里城まつり(OCT.28〜30)、そして文化祭(NOV.3)、26日にはモンパチも出演するチャリティコンサートがあると、山羊屋さんに宣伝に来られた(呑むついでに)人から教えていただいた。
さて、文化祭は旧首里市内「町」の若衆が旗頭を掲げながら、「揺さぶり」ながら、通りを練るのであるが、その様子を少し離れて、観客と同じように路傍で、心配げにみつめている旗守の腕章をつけた長老と思しき方に、アレはどの程度の重さですかとお尋ねしたら、(あなたには無理でしょうね)という顔でもって、50・60キロかねぇ、昔はもっと重くて、70キロはあったかねぇ、と、かつて、ご本人は70を担いでいたんだという自信が、その声から感じられた。ほぼ米一俵分を、しかも単に重さにだけ気を遣うのではなく、長さ(5メートルほどか?)とのバランス感覚を要する荒業でもある。これはのちほど、山羊屋さんの常連の方に確かめたことであるが、旗頭は琉球各地で行なわれている「行事」で、以前は、持ったまま、百メートルも前に進んだという、これをもって、成人(あるいは、ユイマールに加えられる)と認められたというそうで、なんだか、バスク人の石かつぎであるとか、パプアニューギニア?のバンジージャンプの素に近い所業のようである。そのことはあとで教えられたので、現場では、旗頭をもつ衆(3〜4人)の周りを二股に分かれた長〜い把手(熊手か)でもって、衆の力不足から倒れそうになる旗を支えている姿や↓写真でも、よ〜くみると、旗頭の上方から下方に向けて3筋の線が流れているが、三方から綱でもって、あらかじめ旗の平衡感覚を保っているのを見ながら、安全対策(フェイルセーフ)のためかと思っていたが、前述の長老に言わせれば、今の若い衆は熊手や綱に頼ってしまって、だらしないとでも言いたいのであろう、時折、長老の足、体が旗に向かおうとしている仕草が物語っていた。とはいえ、わたくしには端から、無理なことであり、ただただ、感心しながら、そして、時折、倒れそうになるのを案じながら、気がつくと、首里高校の前まで歩いており、これが最後だという旗を見届けてから、山川の交差点にさしかかると、前方には那覇の中心街が開けて見え、これから、向かうユイレール市立病院前駅までの道のりが、前回、首里を訪ねた際に下った博物館から儀保駅までをさらに上回る(下回る?)坂道を旗頭の若衆同様にふらつきながら、途中、自転車を牽いて、元気よく上がってくる高校生を、息を切らしながら目で追って、振り返って、彼らはこれから旗頭をもつ身、わたくしは、彼らの齢頃から一切、その類をもたずにきたんだと、何度も何度も下る坂を留まりながら、坂上に遠のいていく姿をながめていた。
[旗頭]

[ある小学生の旗頭体験記]
http://www.edu-c.open.ed.jp/iinkai/syurei/syou4/4-34syurijo.pdf
さて、文化祭は旧首里市内「町」の若衆が旗頭を掲げながら、「揺さぶり」ながら、通りを練るのであるが、その様子を少し離れて、観客と同じように路傍で、心配げにみつめている旗守の腕章をつけた長老と思しき方に、アレはどの程度の重さですかとお尋ねしたら、(あなたには無理でしょうね)という顔でもって、50・60キロかねぇ、昔はもっと重くて、70キロはあったかねぇ、と、かつて、ご本人は70を担いでいたんだという自信が、その声から感じられた。ほぼ米一俵分を、しかも単に重さにだけ気を遣うのではなく、長さ(5メートルほどか?)とのバランス感覚を要する荒業でもある。これはのちほど、山羊屋さんの常連の方に確かめたことであるが、旗頭は琉球各地で行なわれている「行事」で、以前は、持ったまま、百メートルも前に進んだという、これをもって、成人(あるいは、ユイマールに加えられる)と認められたというそうで、なんだか、バスク人の石かつぎであるとか、パプアニューギニア?のバンジージャンプの素に近い所業のようである。そのことはあとで教えられたので、現場では、旗頭をもつ衆(3〜4人)の周りを二股に分かれた長〜い把手(熊手か)でもって、衆の力不足から倒れそうになる旗を支えている姿や↓写真でも、よ〜くみると、旗頭の上方から下方に向けて3筋の線が流れているが、三方から綱でもって、あらかじめ旗の平衡感覚を保っているのを見ながら、安全対策(フェイルセーフ)のためかと思っていたが、前述の長老に言わせれば、今の若い衆は熊手や綱に頼ってしまって、だらしないとでも言いたいのであろう、時折、長老の足、体が旗に向かおうとしている仕草が物語っていた。とはいえ、わたくしには端から、無理なことであり、ただただ、感心しながら、そして、時折、倒れそうになるのを案じながら、気がつくと、首里高校の前まで歩いており、これが最後だという旗を見届けてから、山川の交差点にさしかかると、前方には那覇の中心街が開けて見え、これから、向かうユイレール市立病院前駅までの道のりが、前回、首里を訪ねた際に下った博物館から儀保駅までをさらに上回る(下回る?)坂道を旗頭の若衆同様にふらつきながら、途中、自転車を牽いて、元気よく上がってくる高校生を、息を切らしながら目で追って、振り返って、彼らはこれから旗頭をもつ身、わたくしは、彼らの齢頃から一切、その類をもたずにきたんだと、何度も何度も下る坂を留まりながら、坂上に遠のいていく姿をながめていた。
[旗頭]

[ある小学生の旗頭体験記]
http://www.edu-c.open.ed.jp/iinkai/syurei/syou4/4-34syurijo.pdf
2005.11.12
census
今から2500年前、ローマにCensor(センゾール)という役職があって、人口やら何かを調べていたらしい、それがセンサスの語源だとある。今年は5年に一度の国勢調査にあたるが、初めて記載回答後の返却用封筒が閉じられるようになったと話題にもなった。前回までは調査員が、目の前で、内容をチェックしていることに、小さな疑問をもちながら、黙ってみていたが、おそらく、黙っていられない方(かた)が多かったのだろう、封印可能となった。それ以上に、調査員騙(かた)りが問題になったのも調査以来初のことであろう。ところで国勢調査の内容はかなり簡易なものになったと回答欄を埋めながら感じていた。以前は、年収であるとか、学歴など、事細かに、まるで身辺調査のような気配があったと記憶している。で、今回の場合は、世帯の状況(誰が住んでいるか)、住んでいる場所は持ち家か借家か、広さは、職業は、直近1週間の勤労時間は・・・程度の内容であった。まあ、これだけでも十分個人情報ではあるけれども、検めてみると、収入や学歴についての問いかけは平成12年にはあるものの、7年にはなかった。そして、今回もなかった。さらに総務省のHPを探ると、国勢調査には大規模調査と簡易調査があって、交互に行なわれるようである。で、今回は簡易、前回(12年)は大規模、7年は簡易ということになり、わたくしが思っていた今回は簡単だったなぁというのが事実だったことが判明した。総務省による「調査事項の変遷」から
このことを前述の詐欺まがいを企てた者たちが知っていたならば、おそらく、今回の犯行には及ばなかったのではないかと、勝手に想像しており、及んだものの、成果が少なく、落胆しているのだろうと、妄想している。ところで、調査員には回答1世帯あたり数千円の報酬が支払われるらしいが、身分は非常勤の国家公務員、12年時には80万人が動員されたらしい。1人当り50世帯というのが目安である(同省HPによる)12年の確定報によると全国の世帯数は約47百万世帯、仮に1世帯当りの報酬額を5千円として、乗じると、2350億円が投じられたことになる。さて、それだけの大金を投じた(それ以外にも用紙の印刷代やら、役人の人件費もあろうが)結果は、いつ出てくるのだろうか。平成12年を例にとると、もっとも早い発表が2ヵ月後、人口と世帯数の速報がでてくる。「平成12年国勢調査 結果の公表状況」よりその後はどうかとみると、もっとも遅いのは平成16年12月20日とある。なんと、5年間かけて集計していることになる。で、翌年(つまり今年のこと)また、新たに調査を行なって、そして、5年かけて集計・・・の繰り返しを大正9年の第1回調査から続けていることになる。結果の集計について平成17年国勢調査の案内には「調査終了後は、すべての調査票が、総務省統計局に集められ、独立行政法人統計センターにおいて、コンピュータを使って集計し、統計表として取りまとめ・・・」とあり、コンピューターのない大正ロマンの時代はともかく、つい1回前(平成12年)まで、国勢調査は手でもって一票ごと集計していたのかと思うと、愕然とするが、そのようなことはないはずで、おそらく機械でもって集計していたものと信じてはいるものの、たかだか5000万(世帯)にも満たない母数を対象とした処理に5年も要するとは、もし、どこかの処理専門業者が業務受託でもすれば、ものの数分でと思うのであるけれど。例えば、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、また、他の資料でも、国勢調査にかける費用は約650億円とあるが、これを前述の調査員の日当と比較すると、とても足りないので、おそらく、日当は都道府県などが負担しているのであろう、と、調べると、各市町村が予算を計上していた。このことを前提として考えれば、650億円は主に集計作業に使われるのだから、これを5年(準備期間もあるので実際には6年ぐらいか)かけて、集計するという「お仕事」であれば、どこも、わが社で是非と思うに違いない。ここまで、書いて、遅まきながら思うのは、結局、国勢調査も、一部のお役所、お役人を食べさせるための道具ではないかと、この間、総務省あるいは国の役人、都道府県、市町村の役人はなにをしていたかというと、何もせず、ただ、調査員に指示をするばかりで実際の緒作業は彼らにさせる、以上が、セン(しない)・サス(させる)の目的、実態である。
(補遺)
※せん=西日本では「しない」は「せん」という
※さす=文語:助動詞のひとつ使役「さす」の終止形、口語では「させる」
[独立行政法人HPより〜結構な労力をかけている]
http://www.nstac.go.jp/release/pdf/16nen05_2-1.pdf
[鳥取県のHPから〜報酬は8020円らしい]
http://www.pref.tottori.jp/tokei1/toukei_index/toukeityousa.htm
このことを前述の詐欺まがいを企てた者たちが知っていたならば、おそらく、今回の犯行には及ばなかったのではないかと、勝手に想像しており、及んだものの、成果が少なく、落胆しているのだろうと、妄想している。ところで、調査員には回答1世帯あたり数千円の報酬が支払われるらしいが、身分は非常勤の国家公務員、12年時には80万人が動員されたらしい。1人当り50世帯というのが目安である(同省HPによる)12年の確定報によると全国の世帯数は約47百万世帯、仮に1世帯当りの報酬額を5千円として、乗じると、2350億円が投じられたことになる。さて、それだけの大金を投じた(それ以外にも用紙の印刷代やら、役人の人件費もあろうが)結果は、いつ出てくるのだろうか。平成12年を例にとると、もっとも早い発表が2ヵ月後、人口と世帯数の速報がでてくる。「平成12年国勢調査 結果の公表状況」よりその後はどうかとみると、もっとも遅いのは平成16年12月20日とある。なんと、5年間かけて集計していることになる。で、翌年(つまり今年のこと)また、新たに調査を行なって、そして、5年かけて集計・・・の繰り返しを大正9年の第1回調査から続けていることになる。結果の集計について平成17年国勢調査の案内には「調査終了後は、すべての調査票が、総務省統計局に集められ、独立行政法人統計センターにおいて、コンピュータを使って集計し、統計表として取りまとめ・・・」とあり、コンピューターのない大正ロマンの時代はともかく、つい1回前(平成12年)まで、国勢調査は手でもって一票ごと集計していたのかと思うと、愕然とするが、そのようなことはないはずで、おそらく機械でもって集計していたものと信じてはいるものの、たかだか5000万(世帯)にも満たない母数を対象とした処理に5年も要するとは、もし、どこかの処理専門業者が業務受託でもすれば、ものの数分でと思うのであるけれど。例えば、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、また、他の資料でも、国勢調査にかける費用は約650億円とあるが、これを前述の調査員の日当と比較すると、とても足りないので、おそらく、日当は都道府県などが負担しているのであろう、と、調べると、各市町村が予算を計上していた。このことを前提として考えれば、650億円は主に集計作業に使われるのだから、これを5年(準備期間もあるので実際には6年ぐらいか)かけて、集計するという「お仕事」であれば、どこも、わが社で是非と思うに違いない。ここまで、書いて、遅まきながら思うのは、結局、国勢調査も、一部のお役所、お役人を食べさせるための道具ではないかと、この間、総務省あるいは国の役人、都道府県、市町村の役人はなにをしていたかというと、何もせず、ただ、調査員に指示をするばかりで実際の緒作業は彼らにさせる、以上が、セン(しない)・サス(させる)の目的、実態である。
(補遺)
※せん=西日本では「しない」は「せん」という
※さす=文語:助動詞のひとつ使役「さす」の終止形、口語では「させる」
[独立行政法人HPより〜結構な労力をかけている]
http://www.nstac.go.jp/release/pdf/16nen05_2-1.pdf
[鳥取県のHPから〜報酬は8020円らしい]
http://www.pref.tottori.jp/tokei1/toukei_index/toukeityousa.htm
2005.11.10
那覇中心徒歩記ぁ素析∋埔
市場の一筋に大平通りというのがあって、そこにある食堂には何度か通った。不思議と女性客が多く、だから、行っていたわけではないけれども、店の前に立て看板があって、今日のランチというお品書きがある。例えば、わたくしの行った日のメニューは、天丼(コッチのとは少し異なるが)、テビチ(汁または煮込み)、パパイアのヨーグルト和え・・・だった。市場には毎日行っていたので、中には入らないものの、この食堂のランチメニューだけは、都度確認を怠らなかった。鯖味噌煮(これは珍しいメニュー)+ソーミン汁(ソーメンの入ったお吸い物)…、うな丼+おかず…、(他はもう忘れたが)。ランチだけれども、いつなんどき注文しても、材料がありさえすれば、食べることができる〜他の食堂でもほぼ同じようであり、那覇式ランチの常識なのかもしれない。その大平通りから開南せせらぎ通りを渡った側に農連市場はある。この名前は従前に知っていたが、それがどこにあるかまでではなかった。社団法人那覇市観光協会発行のナハナビ2005というリーフレットには詳しく那覇中心情報が掲載されていて、各所で無償配布されているが、以前頂いたモノは、もうとっくに沖縄を離れているので、手元にはなかったが、さいわい、食堂にも置いてあって、その中で、農連の位置を確認して、早速向かおうと思った。あいにく、その日は日曜日であるので、休みではという気持ちはあったものの、食堂からの距離は近く、誰もいない、そして、何も売っていない市場を訪ねるのも、歩くのも良いだろうと、進んだ。当然ではあるが、誰もいない、何もない市場には思いのほか昨日までの余熱、雰囲気が残っているようで、ここまで来て良かったと思うと同時に、明日もう一度訪ねて、直(じか)熱にあたろうと、戻った。ところが、市場というのはおおむね朝が中心活動帯であり、わたくしのような、いい加減モノには冷たい場所であるから、翌昼、行った頃には、すっかり、昨日と同じ気配、ただ、先ほどまで開かれていたようなので、余熱感はやや強く感じられる。まだ、何人かが残っていらして、帰り支度をしていたり、中には、できるだけ荷を軽くしたいのであろう、我慢強く売っていらっしゃる方もいらした。他の市場でも見かけられるが、まーみなー(もやし)のヒゲを一筋一筋、丹念に剥いでいる方もいらした。しばらく、歩いていると、朝駅食堂という看板を見つけ、中に入ると、こあがりに買物帰りの袋をいくつも周りに置いた女性が一人、二つあるテーブル席は空いており、奥の卓には野菜煮(炊き)と天ぷらを乗せたお皿がラップで覆われている。わたくしは、ビールでもという気持ちで軽く入ったけれども、メニューを見回している間におかゆというのを見つけ、頼んでみると、厨房の方(女性です)が二つあるご飯釜の一方を覗き込んで、最後の一杯をこそぎ取るように小椀に落とし込んで、もってきてくださった。すでに保温をやめたあとなのか、それとも、もともとそうなのか冷たいおかゆは、沖縄の気候に妙に合い、美味しく頂いた。ついでに、向こうの卓にある野菜を頼んだら、天ぷらもついてきて、これが、太平通りの食堂メニューにもあった『おかず』というメニューなのかと思いながら、これも頂いた。途中で顔なじみらしい女性客二人が入ってきて、一人はおかずのある卓へ、もう他方は、わたくしの前に座った。ひととおり抱えてきた荷物を脇に置くと、立ち上がり、厨房に近づいて、さきほど、おかゆを盛ってくれたのとは別(わたくしから見て右側)の釜をあけ、小椀に自分ですっすっと、ご飯を盛りつけ、再び、席へ戻ってきて、私は牛汁ね、ワタシは・・・と、注文していた。まるで飯場だなぁと、イチバもハンバも働く現場そのもの、職住接近という言葉を耳にするけれども、両“バ”では職食接近が基本である。第一牧志公設市場2階にある食堂も、もともとは、そこで働く人たちのモノであったのだろう。東京築地もそうだろうし、函館や他のイチバも、おおかた、そのはずである。スローフードというのも耳に入る。北イタリアの片田舎で生まれたこの言葉(活動)は、今では少なくなりつつある農作業の合間に自宅に戻って食を摂るのが当たり前の時代が日本にもあったことを想い起こすと、その再現、ゆり戻しである(にしかすぎない)ともいえる。ただし、イチバにおける職食には「住」は存在しない(ハンバや農作業には、それがある)から、オフィス街と周辺のランチ屋さんという関係に近いのかもしれないが、その雰囲気はまるで異なっている。
イチバが見直されているのは、そこでしか買えないという購買欲をそそる部分や、イチバ自体の活気あるいは売る人と買う人のふれあいに心地よさを感じる部分も大きいけれども、「ま、そんなにせかせかしないで、のんびりやりましょう」という本来ヒトが有しているはずのだじょう(堕状)的な発散場所として受け容れられているような気がしてならない。そのようなゆったり(すろ〜な)とした味わいがイチバにはあるから、ヒトはイチバに向かうのだろうか(都会の商業ビルやショッピングセンターでは感じることがむずかしいと、思うけれども)。あるいはイチバには農産、水産、林産の品々が並んでいるけれども、何を買って帰ろうかと、あちこち、迷い、さまよっているうちに、これら産品から発せられている不思議な力を浴びて、元気になっているのかもしれない、「イチバ浴」とでもいうのだろうか、ヒトがイチバに惹かれる一因がそういうことにあるのかもしれない。加えて、人産とでもいうのか、繰り返しになるけれども、人と人のふれあいがイチバを包んでいて、帰る頃には思わぬ買物もしてしまったという小さな後悔と来てよかったという大きな充足感でもって、たくさん詰った買物袋同様に、心を膨らませているから、足どりもさほど重くは感じない、イチバの一光景として、わたくしが勝手に想像しているだけのことである、なんといっても、そのイチバが開いている時間を知らないのだから。一度ぐらいは早起きして、イチバをめざしてみようか?
イチバが見直されているのは、そこでしか買えないという購買欲をそそる部分や、イチバ自体の活気あるいは売る人と買う人のふれあいに心地よさを感じる部分も大きいけれども、「ま、そんなにせかせかしないで、のんびりやりましょう」という本来ヒトが有しているはずのだじょう(堕状)的な発散場所として受け容れられているような気がしてならない。そのようなゆったり(すろ〜な)とした味わいがイチバにはあるから、ヒトはイチバに向かうのだろうか(都会の商業ビルやショッピングセンターでは感じることがむずかしいと、思うけれども)。あるいはイチバには農産、水産、林産の品々が並んでいるけれども、何を買って帰ろうかと、あちこち、迷い、さまよっているうちに、これら産品から発せられている不思議な力を浴びて、元気になっているのかもしれない、「イチバ浴」とでもいうのだろうか、ヒトがイチバに惹かれる一因がそういうことにあるのかもしれない。加えて、人産とでもいうのか、繰り返しになるけれども、人と人のふれあいがイチバを包んでいて、帰る頃には思わぬ買物もしてしまったという小さな後悔と来てよかったという大きな充足感でもって、たくさん詰った買物袋同様に、心を膨らませているから、足どりもさほど重くは感じない、イチバの一光景として、わたくしが勝手に想像しているだけのことである、なんといっても、そのイチバが開いている時間を知らないのだから。一度ぐらいは早起きして、イチバをめざしてみようか?
2005.11.09
西向く侍(士)
などという悠長なことを書いている場合ではないのかもしれない。気がつけば、火星はまだ見えるけれども、東の夜空にはいつのまにかオリオン座が幅を利かせている(午後11時ぐらいまでだけどね、そのあとは南天へ)。どんなに星座音痴なわたくしにでもオリだけはまず判別できる、それほど分かりやすい親切な星である。この星が目立ってきたということは冬が近づいてきたということでもあり、もう今年も数えて残り少ない時期にまで差し迫ってきたということでもある。そのこと自体は毎年同じように繰り返しているのだから、驚きはしないけれども、その速度が年々早まっていることには、いささかの戸惑いを感じている。つい、この前までは・・・だったのにぃという思いが強く、光陰矢の如し(光陰如箭)というけれど、この言葉を創った李益が生きていた1200年前とでは、光(day)も陰(month)もそして矢(箭)も早くなったのだろうし、それにもまして、ヒトの速度が高まったのだろうか。できることならば、1年365日をせめて500日ぐらいに増やしていただいて、のんびりとしたいものである。
2日(nov.)からしばらく那覇にいた。相変わらずで、市場や山羊屋さんを行ったり来たりの毎日で変化のない、光陰(陰はないけれど)矢の如しでない日々を過ごしていた。そのことはまだ書くことが沢山あるのだけれども、泊まったホテルの部屋はグランドオリオン通りに面していて、窓越しのグランドオリオン跡を撮ってみた。新都心おもろまちのシネコンへの移転統合で永く親しまれてきた映画館が消えたのであるが、その惜しいと思う気持ちさえも、いつのまにか、ヒトの心から消えていくのかと思うと、やはり寂しいだけであるし、切ない、昨夜、帰りながらオリオン☆☆☆+外周☆いくつか、を見上げながら想ったことである。
[閉館したグランドオリオン]

2日(nov.)からしばらく那覇にいた。相変わらずで、市場や山羊屋さんを行ったり来たりの毎日で変化のない、光陰(陰はないけれど)矢の如しでない日々を過ごしていた。そのことはまだ書くことが沢山あるのだけれども、泊まったホテルの部屋はグランドオリオン通りに面していて、窓越しのグランドオリオン跡を撮ってみた。新都心おもろまちのシネコンへの移転統合で永く親しまれてきた映画館が消えたのであるが、その惜しいと思う気持ちさえも、いつのまにか、ヒトの心から消えていくのかと思うと、やはり寂しいだけであるし、切ない、昨夜、帰りながらオリオン☆☆☆+外周☆いくつか、を見上げながら想ったことである。
[閉館したグランドオリオン]

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