2005.12.31

やんばる

 所用で恩納村まで出かけた。わたくしは免許をもたないので、移動は電車か、バス。今回は片道2時間半ばかりの路線バスに乗った。以前(25年前)、やはり、同じような経験をしている。ただし、その時は名護まで至ったが、今回はその日のうちに那覇に戻らなければいけない事情もあり、手前で引き返してきた。「やんばる(山原)」というのは今では名護以北をさすようになったと書かれているのをみて、蒼とした樹林の原が年々縮小しているのかとも案じている。しばらく那覇市内にとどまってばかりいると、海をみることがないので、浦添や宜野湾、嘉手納などの市街を過ぎ、左手に碧とした海原をみると、ほっ、ともする。バスの中から気になったことは、北に向かうにしたがって、海が間近に感じることである。わたくしのかすかな記憶の中には、本島中南部(那覇市周辺など)に比べて、北部(やんばる)の方が小高いとあったので、海からの土地レベル(海抜=標高)から考えると、北部に進むにつれて、陸地と海の距離(高さ)は増すものと思っていたが、今、バスの外にみえている状況はその正反対の結果となっている。あれこれ、往復の車内で考えていたが、まともな答えは出てこない。那覇市の方が都市化が進み、護岸工事などで、海が低く(陸地が高く)みえるのであろう、北部が高いといっても、それは相対的な話であって、海近辺は必ずしもそうではないのであろう、走り過ぎていくバスの中から、のんびりと眺めているだけのことであるから、単なる錯覚なのであろう・・・。ろくに調べもしない自分がいけないのであるが、いまだに、あの海の近さが謎として、わたくしの頭の中で、もやもやとしている。沖縄県の資料によると、本島の最高地点は国頭村・与那覇岳の503m、全県一の「お山」は石垣・於茂登岳(おもとだけ)の526m、山羊料理屋さんでも仕入れ始めた同名の泡盛を連夜呑んで、相変わらず、ぷらぷらとしている。

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2005.12.23

みちのくに

 10数年ぶりの雪らしい。その日、秋田に入った。お伴は菅江真澄。いつだったか、仙台の書店で目にした書籍を迷わず買い求め、以来、棚に収め、時々、気が向くと、ページを捲っていた程度のことであったけれど、久しぶりの「東北行」についてきていただいた。著者は田口昌樹氏、裏表紙を見ると、2,060円(本体2,000円)とあるから、ずいぶん前に買ったことになる。真澄の生地はいまだ不詳であるが、一般的には、わたくしが生まれ育った場所にほど近いことを知って以来、その名を冠したとも妄想できる川面を、彼が歩いたかもしれないという空想のもと、道端の石標や草花を覗きこんだように、今また、真澄が歩いただろう秋田の街を辿ろうとしたが、寒い寒いという原始的な思いばかりが先立って、とうてい、かなわなかった。前回、果たせなかった真澄の墓所にも行くことはできないで、短い滞在を了えてしまった。ただ、翌日、さらに雪深い乳頭温泉では素的なお話とお人柄にふれることもできた。いずれ、書こうとも思う。
[乳頭温泉の深雪]
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 真澄が旅立ったのは松尾芭蕉のほぼ百年後のことであるが、芭蕉は象潟(きさかた)を訪れてはいるものの、それ以北には跡を残していないようである。そういう秋田という場所を真澄は、訪れ、生涯の地とした。未だ知られることのない国々、みちのくに。真澄という人物に、そして彼を通して知る秋田のことがらに、ただただ、無知なわたくしは圧倒されるばかりである。

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2005.12.01

公衆がなくなる日

 ありがちな標題をつけてしまった。しかし、なくなりつつあることも事実である。すっかり携帯電話にその場を奪われたのは公衆電話、そして、ウチ(家)風呂におされた公衆浴場がその代表であろう。以前、拙HPで書いていた中で、東京都の公衆浴場の数を調べていたら、今後20年間で「無く」なるペースで減っていた。ただし、これは銭湯のことであって、今ぽこぽこ誕生しているスーパー銭湯の類は除いた事情である。「失われていくモノが新しい」というのは、下手をすれば懐古趣味に陥ってしまうのであるが、黒(ダイアル)電話→携帯、銭湯→S銭湯という流れが、もしかすると、あるいは、現実に、その逆方向の矢印(←)に向かっていくという想いから書いていたけれども、一部にはそういう動きもあろう。現在は、休止中であるが、HPの方で、また、書き直したいとも思っている(期限未定であるけれど)。そもそも、日本(わたくしたち)には公衆という概念があったのだろうか、あるいは、公衆という言葉の意味をどうとらえるのが良いのだろうか。前述の電話、浴場も、公衆という言葉を冠しているが、実際は、街頭電話(以前はそういう表現もあった)、銭湯で良いのではないかと、公衆を和→英で引いてみると、パブリック(PUBLIC)がすぐさま表示されるのであるが、よくよく考えると、和→英ではなく、本来、英→和という順序であって、パブリックを公衆と訳したという経緯が先にある。ただ、英→和とひいても、やはり、公衆・・・。フランスのタルドが定義づけたという公衆とは、意訳すれば『ある一定のルール、符牒によって、つながっている、個々の集まり』と解すことができる。もともと司法畑のタルドらしいとらえ方なのであるが、この説が世に出たのは1901年?(ちなみに前年には新橋駅、上野駅に日本初の公衆電話〔自働電話〕が設置されたらしい)、しかし、四半世紀後の25年にはリップマンという人物にあえなく否定されており、さらに10年後、『大衆』という新語をハンガリー生まれのマンハイムが示している。大衆とは、上記、公衆ほど狭い定義ではなく、むしろ、大雑把な言い方をすれば、もはや公衆という概念では支えきれない「量」としての衆に膨らんだ末のことだったのだろう。多くなった(増えた)分、層化(階級)現象が進んだのであろう、もはや、社会自体が公衆というタルド説でひとくくりできる規模に納まらない器となり、大衆がそれにかわったと考えられる。ローマやギリシャが破綻したのもそれ(公衆→大衆)が原因という説もある。民衆というのは、上記二語を超えた言葉なのかもしれない。あるいは、もう少し柔らかいというのか、上記の定義めいた論の枠外に存在するような気がするが、本日はあまり深入りできない、本題は公衆である。
 公衆トイレはまだまだ元気である、というのか、何故か自治体が作ることに精を出している。最近のニュースでは千代田区のことが話題になっていた、かなりのめりこんでいるらしい。ただ、都心千代田にふさわしいトイレとはどんなものか、想像がつきにくい。どんなモノなのか、『都心千代田にふさわしい公衆トイレへ』をのぞいてみた。・・・なんだか、さっぱり分からなく、5K(暗い、臭い、汚い、怖い+壊れている、だそうだが…)のトイレの現状をふまえて、よりきれいな、清潔なトイレを新設しようという段になって、いきなり、有料トイレの検討に入ってしまったのが残念である。さて、最近、地下鉄駅や↑千代田区の場合もそうであるが、「だれでもトイレ」という表記が目につく。ドラえもんでもあるまいしと思うのだけれど、本意はバリアフリーを謳ったのであろうが、だれでも、という表現が、果たして個室(人)性、安全性を問われるはずのトイレにふさわしいのかどうか、いまひとつ、しくっときていない。ここで公衆が関わってくる。公衆をある一定のルールにそった集まりと定義した場合、トイレは決して5Kにはならないはずであると、管理者の怠慢は横に置くとしても、そう考えたいのであるが、現実は、そうでないところに、千代田区も、そして、わたくしも混乱する原因があるのだが、そもそも(一定のルールの範疇内に存在する)公衆の概念がないわたくし(たち)という前提に立ってしまえば、今あるほとんどの「公衆トイレ」が5Kであっても、さして気にする必要もないのではなかろうかとも考えられる。むしろ、↑「だれでもトイレ」という見方をしておけば、壊れていようと、怖かろうと、それが当たり前のことである、つまりは、マンハイムがいうところの「大衆」トイレとしておけばよいのかという乱暴な考えにいたっている。あるいは、日本において公衆の概念は存在しないと書いたけれども、公衆浴場(つまりは銭湯)は厚生労働省の管轄下における呼称でしか過ぎないし、公衆電話にしても官制時代のNTT(旧・電電公社)がそう名づけていただけのことであり、公衆というのは、公(お上、あるいは官)からみた民のことだと思えば良いのかと、他に公衆を冠する言葉を探しても、…衛生、…道徳しかなく、やはり、官のための衆と置き換えれば、なんでもないことだということに気づいた。公衆トイレというのは、官が民のために、わざわざ設置しているのであって、それを5K状態に貶めるとは何事か、ならば、有料にして、「だれでも(入れない)トイレ」にしてやろうというのが千代田区にふさわしいトイレかと納得している。
 ところで、タルド(ジャン・ガブリエル)という人は『模倣の法則』という著書も出されており、その骨子は世の中は下流と上流があってという前提のもとに、「模倣は上層より下層に移る」という説を唱えている。この場合、模倣をどう解釈すればよいのか戸惑っている最中なのだけれども、いまどきの話題書的にいえば、下層ばかりが増えるとなれば、タルド説は放ってはおけないことかもしれないけれども、わたくしには、タルドの公衆説が否定されたように、この世から公衆トイレがなくなることの方がよほど深刻な問題である。
 もうずいぶん前になってしまったが、トイレに関しての拙ブロがあり、要点は女性用と男性用をシンメトリー、すなわち同じ面積でもって作らないでほしいということを書いている。最近も、羽田(東京国際)空港搭乗待合側にあるトイレの入口付近に貼って(掲示して)ある案内板を何度も確認しているのであるが、女男同面積、ご丁寧に器の配置図まで表示してあるので、数えているのだけれども、当然ながら、個室比率の低い男性用の方の数が多いということに、どうにも納得ができないまま、目的地に向かって搭乗している。上記、千代田区5Kに加えて、(女性用ばかりが)混んでいるを加えた6Kとして、トイレ問題を考えていただきたいと、切に願っている。
[はばかり(トイレ考)]
http://hisada.blog3.fc2.com/blog-date-20050131.html



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