2006.02.28
火の国、通りすがりの記・番外
昨日の拙ブロ内にある熊本駅の写真は、空港へ行くまでに待っていた停留所から携帯で撮ったものである。前日、玉名から戻り、初めて、明るい中でみた駅の姿は、わたくしにとって印象的に映えていたが、火の国を離れる間際に、ふとバス停に立ったまま、振り返ると、そのシャナリとした容姿があった。思わず、撮っておいたというのが気持ちの半分を占めており、おそらく、残りの気持ちは、ブログで使おうという、意地汚いものであったのだろう。今夜、確認のため、毎度お世話になっているフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で熊本駅を探してみたところ、そこに掲載されている熊本駅のお姿が、わたくしが、意地汚く撮ったモノと、ほぼ同じ角度から撮られていることに気づいた。内容まで確認できないが、ほぼシンメトリックに形づくられている同駅の向かって左側に2本、そして右側に1本、幕が垂れているのも同じである。撮影時期は04年9月8日とあるから、ま、中身(書いてある内容)は異なっているかもしれない。多少、わたくしのモノは地上部分、つまりタクシー乗り場などを省いているので高低差はあるものの、おそらく、ウィキの撮影氏も駅前交番のおまわりさんの視線を気にしながら、こそっと撮ったのであろうか。何もそんなところでと思うかもしれないけれど、他にウマイ具合の場所がない、という事情もある。正面から撮ろうと思えば、駅前通りの真ん中に立って、市電を停めることになる、それこそ、おまわりさんが飛び出してくるであろう。その通りの向こう側から撮ればとも思うが、わたくしが泊まったホテルから駅への道が微妙に曲がりながら、変則Tの字で交差しているものだから、場所が見つからないうえに、途切れることのない交通量の中、撮影好機はほぼゼロに等しいとも思える。では、逆角度は?と思い、電子地図上で駅の右側方向に眼を移すと、これも駐車場にかかる場所に立つことになり、おまわりさんが・・・。結局、わたくしの場合は、たまたまバスを待っている間に、振り向いてであるが、撮影氏にとってのベストポイントが、おまわりさんの間近でありながら、叱られることなく、しっかり撮れる「あの」場所であったと想像するしかない。もっとも、ウィキの中で、鹿児島本線上熊本駅〜熊本駅〜川尻駅の写真を見ると、いずれも左斜め方向から撮影されているので、この方のお好きな角度なのかもしれない。(同一人物かどうかは分からないけれど)
わたくしのと、撮影氏との大きな差異は撮る技術であるが、二つめはお日柄であろう。わたくしのは、ヘルンさんが嫌って(体のために)去ったという松江の空のようである。ちなみに、駅構内で見かけて、思わず買い求めてしまった「香梅(こうばい)きんつば屋」の『まるきんつば』はたいへん美味しかったので、撮る間もなかった。
わたくしのと、撮影氏との大きな差異は撮る技術であるが、二つめはお日柄であろう。わたくしのは、ヘルンさんが嫌って(体のために)去ったという松江の空のようである。ちなみに、駅構内で見かけて、思わず買い求めてしまった「香梅(こうばい)きんつば屋」の『まるきんつば』はたいへん美味しかったので、撮る間もなかった。
2006.02.27
火の国、通りすがりの記(春日駅⇒熊本駅)
江戸時代を中心として築きあげられた城郭と明治と時代が変わって、全国に鉄の網を拡げていった、のちの省線(以降、国鉄、JRへ)の波は、ある場所によっては住民との衝突の場面ともなっていたらしい。もちろん、わたくしは知らないが寫真が(たとえば真ん中で写った人は亡くなるなどの)忌み嫌われたように、鉄道の増勢期においても、同じような状態であったと、聞いている。できれば、すべての御城下を調べて、報告すべきではあるけれども、わたくしには、それほどの根性もなく、とりあえず、あげてみたが、全国には、確かにお城と駅(JRであるが)の距離が相当あるなぁという例がいくつもある。実は下記事例の中で弘前にはまだ訪れたことがないので、今回、初めて、電子地図上で、その距離を知ったが、他は、かつての訪問経験の中で、遠いなぁというところ(▲)と、そうでない(●)ものを思いつくままに、改めて、測ってみた。遠いと思うか近いかの、身勝手な尺度は1.5キロ(≒徒歩10〜15分、それ以上歩きたくないという目安)が分岐路となる。したがって、江戸城と東京駅というのは存外近いということが分かる。(距離は本丸を基本としているので、江戸城は各ナントカ門を基点とすれば、東京駅とは異常に近い)昔、地理か社会の授業(中学か高校?)で、駅と繁華街が離れている町(都市)はこれから伸びる可能性をもっているということを、半分睡眠状態で聞いていた記憶があるが、もう、それも時間切れ、拡大が望まれた昔と今、あるいは、鉄道中心の昔と車の今ということを思えば、「城・駅遠隔都市発展説」は成り立たないのであろう。あるいは、東京はやはり思い切った都市計画を企てたものだなぁと、お城の咽元に忌み嫌われていたはずの鉄道の切っ先(駅)をもってきた大胆さには感心させられる。
[お城と駅の距離]
弘前城(鷹岡城)〜弘前駅2キロ▲
仙台城(青葉城)〜仙台駅2.5キロ▲
江戸(千代田)城〜東京駅1.4キロ●
金沢城(尾山城)〜金沢駅1.8キロ▲
岡崎城(龍城)〜岡崎駅3.5キロ▲
名古屋城(金鯱城)〜名古屋駅2.3キロ▲
京都御所〜京都駅4.3キロ▲
二条城〜京都駅3.4キロ▲
伏見桃山城〜京都駅5.5キロ▲というか、ないしは、対象にすべきではないかも
大阪城(金城、錦城)〜大阪(梅田)3.3キロ▲
岡山城(烏城)〜岡山駅1.7キロ●
広島城(鯉城)〜広島駅1.5キロ●
福岡城(舞鶴城)〜博多駅3.5キロ▲
熊本城(銀杏城)〜熊本駅2.5キロ▲
鹿児島城(鶴丸城)〜鹿児島中央駅(西鹿児島駅)1.7キロ ●
鹿児島城〜鹿児島駅1.4キロ ●
※距離はあくまでも直線上
※( )内は別名(他にもあるけれど、代表的なモノ)
※お城でなく、繁華街と駅の距離という見方もあるが、ちょっと面倒ぅくさいので省略
熊本駅も、お城まで歩くには、少し、躊躇がある。むしろ、ひとつ博多寄りの上(かみ)熊本駅の方がお城に近い(1.4キロ、●)。この「上熊本」は、前日(2・8)、黒川からのバスを降りて、玉名に向かう際、最初にホームに入ってきたリレーつばめ号に乗り、玉名でさえ、15分ほどの乗車で過ぎない距離なのに、熊本駅から乗り、ヨッコラショとする間もなく、『まもなく〜、カミ〜』と、アナウンスされる間近さである。わざわざ停まるほどの重要な駅であるのだろうかどうかは判断つきかねるけれども、お城に御用のある方はコチラで降りた方がよさそうである。さて、熊本駅周辺は今でも、どちらかといえば、サッパリと した繁華さで、とても九州第三の都市の玄関とは思えない寂しさも漂っている。熊本駅は1891(明治24)年7月1日「九州鉄道」門司〜熊本間開通に伴ない春日停車場として開いた、現在の熊本駅である。その4ヶ月後にヘルンさん(ラフカディオ・ハーン、小泉八雲)は松江より熊本第五高等中学校に赴任するため、同駅に降りたっている(11月19日)。その際の感想を、ヘルンさんは「やや、がっくりさせられる。小屋や兵舎、そればかりか、でかい兵営の立ち並ぶ荒野と言うべきものだった」、と、記している。
[熊本駅、やや、がっかくりさせられる]

八雲が松江から熊本に移った理由は、家族を養うために不可欠な俸給の良さを求めて、は当然のこととしても、ほかに、曇よりとした松江と異なり、ここ(熊本)は暖かく、気候が良いからということがあったそうである、よほど、体調がすぐれなかったのだろう、10代の頃光を失った左目の分まで働いてきた右目をも患ったのだろうか(熊本には91〜94年、同年神戸に移り、新聞社に就職、翌年、過労により眼を患う)、96年に帰化し、小泉八雲となり、就いた東京帝大講師の身分を当時日本が罹っていた外国人排除という悪病の被害による心労も重なり、1904年に歿している。したがって、ヘルンさんは3年ほど、熊本に居したことになる。今回は、あくまでも、通りすがりの火の国であるので、予め、向かうべき場所は決めてあった。そこにさえ、という気持ちでもって、残した仕事のこともあ り、宿は川向こうの、やや辺鄙な場所を選び、夜、出かけることを阻むような条件を自分に課し、熊本駅からいったんバスでもってホテルまで向かい、荷物を預けると、ヘルンさんの住処であった「小泉八雲熊本旧居」へ(ただし、元の場所からの移転である)。熊本のご城下とそれ以外を分けるように流れる白川を渡っている新代継橋を上り、熊本のおへそである上通り・下通りのそば(安政町)に居はある。余談ではあるが、白川は途中南北に分かれて、南は白川(源流)、北は黒川となる。ただし、あの黒川温泉に行きつくわけではない。安政町というからには、その時代にできたのであろうか、ちなみにヘルンさんの安政時代は両親の離婚などもあった4〜9歳までにあたる。 拙ブロ「松江・・・あらゆる水をもつ町」(05年2月6日付)でヘルンさんと同じアイルランドつながりでENNYAさんの曲が流れていたと書いたけれど、熊本には迷わず彼女のMDを選択して、ずっと聴いていた、その前兆は、 「かんかん(函館)」 (06年2月4日付)を書いているときにあった。イザベラ・バード女史が著書「日本奥地紀行」の中で青函地域の気候をアーガイルシアにたとえており、ま た、他の箇所では、アイルランド 南部のチッペラリにふれられていた。(後日、書きます)わたくしには、さっぱりなので、いろいろと地図も含め、調べていたら、ドニゴールに行きついた、というようなことを同ブログで書いた。ENNYAさんはこのアイルランドでも最北端の地で生まれたということを以前、彼女自身の出演によるドキュメンタリードラマで知っていたので、ずっと南にあるチッペラリをなぞっているうちに、指がそちらの方に向いた。ヘルンさん⇒バード女史⇒エンヤさん、そのような架空のご縁を、函館にいる時から、妄想していた。そのままの気分でもって、火の国に通りすがった。
熊本に戻ろう。九州第三の都市は次々と市勢を拡げ、今では石高を超える人口を抱えている(65万人)。空港周辺も含め、今後も版図は延びるのであろう。ついでに、ではあるが、水前寺公園にもうかがった。 そこまでが、せいぜいであった。市内にはまだまだ訪ねたい場所がある。ハンセン病研究所として建てられたリデル・ライト両女史記念館、徳富記念館(蘇峰、蘆花)、ヘルンさんの痕を辿るように五高、そして、ヘルンさんを追いはらうように帝大講師となる夏目漱石・内坪井旧居(ヘルンさんの旧居は後年、移転したもので、もとは手取本町にあった借家、 漱石が気に入っていたという旧居とは1キロほども離れていない。)ヘルンさんがたっての願いで神棚を造作したという西外坪井町掘端35番地(現・坪井1丁目9−8)の借家にいたっては漱石旧居とは300メートル、お城と駅との間遠さに比すれば、お隣ということであろう。帝大講師となったヘルンさんのお江戸での住居は市ヶ谷富久町21番地、漱石の生家、牛込馬場下横町(現在の喜久井町)にほど近い(1.5キロ)。 もちろん、現在とは違って、行動範囲(主に歩いての)が限られ、しかも文士・文化人の集まる面・地という事情を考慮するべきなのであろうが、ふたりが生涯面識がなかったという運命については、ヘルンさん旧居の資料にあった記録をもちだすことも、いまさら必要ないであろう。(ただ、本当に接点がなかったかどうかは、断定できないので、調べてみる必要があろう)通りすがりの街は、徒者(タダモノ)ではなかった、とても凡(およ)そ一日で回ることのできる浅さではないだろうし、反して、浅いことには自信のある、わたくしという取りあわせでは勝負にはならないのであろう。そのことを、十分に承知しながら、通りすがりを認めて、その通り、縋ったという言い訳は別として、重い課(架)題を両肩に載せられて、紐あるいは手拭をきつく絞って、頭に架せられたような、おかしな気分でもって、この地を去ってきた。帰り途、この辺りが練兵町というのかと、住居表示をぼんやり眺めていると、バスの右隣に市電が滑り込んできて、一瞬、並んで、行き先に「健軍町」とあるのを、これまた長目ながら、あぁ熊本というのは勇ましい街でもあるのなのだなぁと、過ぎてきた瀬の本峠や阿蘇連山を再び想いだしながら、ヘルンさんの『熊本精神・・・それは簡易、善良、素朴を愛し、日常生活において無用の贅沢と浪費を憎む精神である』というくだりとを小さな脳の中に並べてみて、いずれも、わたくしに備わっていない、ということだけを学んできたのであろうと、そのように思いがいたれば、熊本(春日)駅の無繁華さも、ただただ、稀少な事象である。あと数年もすれば、新幹線が通り、駅も改装されると聞いたが、できれば、今のままが良い、と、身勝手ながら切に望んでいる。熊本は、やはり、重い、通りすがるしか、今は術がない。
[お城と駅の距離]
弘前城(鷹岡城)〜弘前駅2キロ▲
仙台城(青葉城)〜仙台駅2.5キロ▲
江戸(千代田)城〜東京駅1.4キロ●
金沢城(尾山城)〜金沢駅1.8キロ▲
岡崎城(龍城)〜岡崎駅3.5キロ▲
名古屋城(金鯱城)〜名古屋駅2.3キロ▲
京都御所〜京都駅4.3キロ▲
二条城〜京都駅3.4キロ▲
伏見桃山城〜京都駅5.5キロ▲というか、ないしは、対象にすべきではないかも
大阪城(金城、錦城)〜大阪(梅田)3.3キロ▲
岡山城(烏城)〜岡山駅1.7キロ●
広島城(鯉城)〜広島駅1.5キロ●
福岡城(舞鶴城)〜博多駅3.5キロ▲
熊本城(銀杏城)〜熊本駅2.5キロ▲
鹿児島城(鶴丸城)〜鹿児島中央駅(西鹿児島駅)1.7キロ ●
鹿児島城〜鹿児島駅1.4キロ ●
※距離はあくまでも直線上
※( )内は別名(他にもあるけれど、代表的なモノ)
※お城でなく、繁華街と駅の距離という見方もあるが、ちょっと面倒ぅくさいので省略
熊本駅も、お城まで歩くには、少し、躊躇がある。むしろ、ひとつ博多寄りの上(かみ)熊本駅の方がお城に近い(1.4キロ、●)。この「上熊本」は、前日(2・8)、黒川からのバスを降りて、玉名に向かう際、最初にホームに入ってきたリレーつばめ号に乗り、玉名でさえ、15分ほどの乗車で過ぎない距離なのに、熊本駅から乗り、ヨッコラショとする間もなく、『まもなく〜、カミ〜』と、アナウンスされる間近さである。わざわざ停まるほどの重要な駅であるのだろうかどうかは判断つきかねるけれども、お城に御用のある方はコチラで降りた方がよさそうである。さて、熊本駅周辺は今でも、どちらかといえば、サッパリと した繁華さで、とても九州第三の都市の玄関とは思えない寂しさも漂っている。熊本駅は1891(明治24)年7月1日「九州鉄道」門司〜熊本間開通に伴ない春日停車場として開いた、現在の熊本駅である。その4ヶ月後にヘルンさん(ラフカディオ・ハーン、小泉八雲)は松江より熊本第五高等中学校に赴任するため、同駅に降りたっている(11月19日)。その際の感想を、ヘルンさんは「やや、がっくりさせられる。小屋や兵舎、そればかりか、でかい兵営の立ち並ぶ荒野と言うべきものだった」、と、記している。
[熊本駅、やや、がっ

八雲が松江から熊本に移った理由は、家族を養うために不可欠な俸給の良さを求めて、は当然のこととしても、ほかに、曇よりとした松江と異なり、ここ(熊本)は暖かく、気候が良いからということがあったそうである、よほど、体調がすぐれなかったのだろう、10代の頃光を失った左目の分まで働いてきた右目をも患ったのだろうか(熊本には91〜94年、同年神戸に移り、新聞社に就職、翌年、過労により眼を患う)、96年に帰化し、小泉八雲となり、就いた東京帝大講師の身分を当時日本が罹っていた外国人排除という悪病の被害による心労も重なり、1904年に歿している。したがって、ヘルンさんは3年ほど、熊本に居したことになる。今回は、あくまでも、通りすがりの火の国であるので、予め、向かうべき場所は決めてあった。そこにさえ、という気持ちでもって、残した仕事のこともあ り、宿は川向こうの、やや辺鄙な場所を選び、夜、出かけることを阻むような条件を自分に課し、熊本駅からいったんバスでもってホテルまで向かい、荷物を預けると、ヘルンさんの住処であった「小泉八雲熊本旧居」へ(ただし、元の場所からの移転である)。熊本のご城下とそれ以外を分けるように流れる白川を渡っている新代継橋を上り、熊本のおへそである上通り・下通りのそば(安政町)に居はある。余談ではあるが、白川は途中南北に分かれて、南は白川(源流)、北は黒川となる。ただし、あの黒川温泉に行きつくわけではない。安政町というからには、その時代にできたのであろうか、ちなみにヘルンさんの安政時代は両親の離婚などもあった4〜9歳までにあたる。 拙ブロ「松江・・・あらゆる水をもつ町」(05年2月6日付)でヘルンさんと同じアイルランドつながりでENNYAさんの曲が流れていたと書いたけれど、熊本には迷わず彼女のMDを選択して、ずっと聴いていた、その前兆は、 「かんかん(函館)」 (06年2月4日付)を書いているときにあった。イザベラ・バード女史が著書「日本奥地紀行」の中で青函地域の気候をアーガイルシアにたとえており、ま た、他の箇所では、アイルランド 南部のチッペラリにふれられていた。(後日、書きます)わたくしには、さっぱりなので、いろいろと地図も含め、調べていたら、ドニゴールに行きついた、というようなことを同ブログで書いた。ENNYAさんはこのアイルランドでも最北端の地で生まれたということを以前、彼女自身の出演によるドキュメンタリードラマで知っていたので、ずっと南にあるチッペラリをなぞっているうちに、指がそちらの方に向いた。ヘルンさん⇒バード女史⇒エンヤさん、そのような架空のご縁を、函館にいる時から、妄想していた。そのままの気分でもって、火の国に通りすがった。
熊本に戻ろう。九州第三の都市は次々と市勢を拡げ、今では石高を超える人口を抱えている(65万人)。空港周辺も含め、今後も版図は延びるのであろう。ついでに、ではあるが、水前寺公園にもうかがった。 そこまでが、せいぜいであった。市内にはまだまだ訪ねたい場所がある。ハンセン病研究所として建てられたリデル・ライト両女史記念館、徳富記念館(蘇峰、蘆花)、ヘルンさんの痕を辿るように五高、そして、ヘルンさんを追いはらうように帝大講師となる夏目漱石・内坪井旧居(ヘルンさんの旧居は後年、移転したもので、もとは手取本町にあった借家、 漱石が気に入っていたという旧居とは1キロほども離れていない。)ヘルンさんがたっての願いで神棚を造作したという西外坪井町掘端35番地(現・坪井1丁目9−8)の借家にいたっては漱石旧居とは300メートル、お城と駅との間遠さに比すれば、お隣ということであろう。帝大講師となったヘルンさんのお江戸での住居は市ヶ谷富久町21番地、漱石の生家、牛込馬場下横町(現在の喜久井町)にほど近い(1.5キロ)。 もちろん、現在とは違って、行動範囲(主に歩いての)が限られ、しかも文士・文化人の集まる面・地という事情を考慮するべきなのであろうが、ふたりが生涯面識がなかったという運命については、ヘルンさん旧居の資料にあった記録をもちだすことも、いまさら必要ないであろう。(ただ、本当に接点がなかったかどうかは、断定できないので、調べてみる必要があろう)通りすがりの街は、徒者(タダモノ)ではなかった、とても凡(およ)そ一日で回ることのできる浅さではないだろうし、反して、浅いことには自信のある、わたくしという取りあわせでは勝負にはならないのであろう。そのことを、十分に承知しながら、通りすがりを認めて、その通り、縋ったという言い訳は別として、重い課(架)題を両肩に載せられて、紐あるいは手拭をきつく絞って、頭に架せられたような、おかしな気分でもって、この地を去ってきた。帰り途、この辺りが練兵町というのかと、住居表示をぼんやり眺めていると、バスの右隣に市電が滑り込んできて、一瞬、並んで、行き先に「健軍町」とあるのを、これまた長目ながら、あぁ熊本というのは勇ましい街でもあるのなのだなぁと、過ぎてきた瀬の本峠や阿蘇連山を再び想いだしながら、ヘルンさんの『熊本精神・・・それは簡易、善良、素朴を愛し、日常生活において無用の贅沢と浪費を憎む精神である』というくだりとを小さな脳の中に並べてみて、いずれも、わたくしに備わっていない、ということだけを学んできたのであろうと、そのように思いがいたれば、熊本(春日)駅の無繁華さも、ただただ、稀少な事象である。あと数年もすれば、新幹線が通り、駅も改装されると聞いたが、できれば、今のままが良い、と、身勝手ながら切に望んでいる。熊本は、やはり、重い、通りすがるしか、今は術がない。
2006.02.19
火の国、通りすがりの記◆覆蹇
露天を堪能し、すっかり温まった身体でもって、組合事務所へ戻る。これから、熊本行きのバスまでざっと4時間はある。食事は軽く、事務所前の豆腐料理屋さんで湯豆腐と田楽(豆腐+蒟蒻)、定食もありますが、と言われたけれど、もう、これだけで十分、何しろ、今朝も由布院の宿で食べている。調べてみると、由布院の年間観光客数は400万人(旧湯布院町)、一方、黒川は所在する南小国町全体でも45万人、ヒトケタ違っている。ちなみに両町の人口は南小国が5千人弱、湯布院は12千人(合併前)、それぞれの観光客数を365日で除すと、黒川(南小国町)は1200人、由布院(湯布院町)は11000人、単純すぎるかもしれないけれど、自分が住んでいる町で二人にひとりが観光客というのは、やはり、わたくしであったら、その町に住みきれないだろう。
さて、4時間である。食事後に、少し明るさも見えた空を頼りに温泉街を歩いてみた。坂の多い、国道(バス停のある)から緩やか、そして、時折急となって、組合事務所あたりまで下ってくるというのが、大雑把な黒川の地形であるが、事務所の裏にはさらに急峻な坂道があり、その窪んだ土地に、宿やお店が並んでいる。途中、お地蔵さんが祀ってある場所まで下りてくると、その正面にあったのが、下の町湯である。もう、記憶があいまいであるが、前の祠にちなんで地蔵湯だったかと思う。念のため、調べてみると、黒川温泉の発祥はここにあった。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)・・・組合事務所で買った絵葉書の中にも地蔵様の図柄があった。その事務所内に無防備のままリュックごと置いてきたので、急いで、戻り、午前中うかがったお宿でお風呂にでも(卑しい心がけであるが)と思い、そこ(事務所の売店)で買い求めたタオル(手ぬぐい)だけを持って、再び、お地蔵さんに向かった。
[地蔵湯前景]

地蔵湯は本来、黒川の地元の方のお風呂であり、それ以外の方は午後7時以降、ご遠慮くださいと、その旨、入り口に記されていた。みると、100円コインがちょうど納まる程度の切り込み口があって、強く押して入れてくださいと、かなり年季の入っている様子で、無い力をふり絞ると、つ、つぅ、さぁっ、と、その先の自動ドアが横に滑ったので、いつ閉まるとも分からないので、あわてて、中に飛び込んだ。(今回の旅は飛び込んでばかりいる)右が女性用、男子は左に、すぐに下足場があり、住民以外は、ここで、もう100円、設置してある箱に入れる。自己申告制である。夕方が近く、内部は照明もついていなかったため、多少暗いものの、お風呂に入るのに明るさは要らない、素足になり、浴槽とは数十センチも離れていない、長・細い(狭い)脱衣所へ。先客はなく、結局、出るまで、隣の女湯のほうに会話の調子からの推測でしかないけれど、地元の人らしい二人組みが入ってきただけ、その時、ぱぁっと、天井から明るさが降りてきた。最初に入った者が電灯を点けるらしい。
[地蔵湯の中 脱衣所と浴槽が近い!]

浴槽は上下あり、原泉がなみなみと注ぎ落ちている写真手前が上、注意書きに下から入ってくださいと書いてあるので、素直に従い、とりあえず、飛び込む。露天風呂と違い、身体も建物の内部に入った時点から、その籠っている湯気でもって、慣らされているものだから、浴槽内の湯の温度を冷静に感じとることができる、「かなり熱い」。ぬるま湯育ちだからだろう、わたくしは熱いお風呂が苦手である、短い時間身体を沈めるだけで、残りは浴槽の縁でもって、足湯状態を維持するのが精一杯であった。
[地蔵湯の中◆奥が下湯、手前が上湯]

下湯がその程度の熱さである、上湯はと思い、手でもって、確かめてみた。度を超えていた。それでも、せっかくだから、と気をふり絞り、飛び込む・・・秒速でもって、飛び出した。それほどの熱さである。すっかり熱さにめげて、それでも、身体のほうも、すっかり温められており、帰り途は、湯気を出しながら、事務所まで戻ることができた。
前回、「火の国、通りすがりの記∩鞍勝覆)」でもふれたことであるが、由布院といい、黒川といい、急激な観光地化(=外来客の増加)が、そろそろ、二つの温泉場に、ボディブローを受けるような遅く、しかし確かなダメージとして、さまざまな問題が浮きだし始めているようだ。まったくの通りすがり、通り過ぎの、わたくしのようなものが言うことはないのであろうけれど、鄙びた温泉地が評判となり、いつのまにか、荒らされて、その結果、温泉地が鄙びてしまってはならない。ただ、その足音が、少しずつだけれども、近づき、迫っているような、まことに非礼なことだけれども、そういう風に、バスまでの2時間あまりを過ごした事務所界隈の気配からも感じられた。
これから、阿蘇を経て、熊本城下に入る。ただし、今夜は、通り過ぎるだけ、明朝、再び戻る予定でいる。
さて、4時間である。食事後に、少し明るさも見えた空を頼りに温泉街を歩いてみた。坂の多い、国道(バス停のある)から緩やか、そして、時折急となって、組合事務所あたりまで下ってくるというのが、大雑把な黒川の地形であるが、事務所の裏にはさらに急峻な坂道があり、その窪んだ土地に、宿やお店が並んでいる。途中、お地蔵さんが祀ってある場所まで下りてくると、その正面にあったのが、下の町湯である。もう、記憶があいまいであるが、前の祠にちなんで地蔵湯だったかと思う。念のため、調べてみると、黒川温泉の発祥はここにあった。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)・・・組合事務所で買った絵葉書の中にも地蔵様の図柄があった。その事務所内に無防備のままリュックごと置いてきたので、急いで、戻り、午前中うかがったお宿でお風呂にでも(卑しい心がけであるが)と思い、そこ(事務所の売店)で買い求めたタオル(手ぬぐい)だけを持って、再び、お地蔵さんに向かった。
[地蔵湯前景]

地蔵湯は本来、黒川の地元の方のお風呂であり、それ以外の方は午後7時以降、ご遠慮くださいと、その旨、入り口に記されていた。みると、100円コインがちょうど納まる程度の切り込み口があって、強く押して入れてくださいと、かなり年季の入っている様子で、無い力をふり絞ると、つ、つぅ、さぁっ、と、その先の自動ドアが横に滑ったので、いつ閉まるとも分からないので、あわてて、中に飛び込んだ。(今回の旅は飛び込んでばかりいる)右が女性用、男子は左に、すぐに下足場があり、住民以外は、ここで、もう100円、設置してある箱に入れる。自己申告制である。夕方が近く、内部は照明もついていなかったため、多少暗いものの、お風呂に入るのに明るさは要らない、素足になり、浴槽とは数十センチも離れていない、長・細い(狭い)脱衣所へ。先客はなく、結局、出るまで、隣の女湯のほうに会話の調子からの推測でしかないけれど、地元の人らしい二人組みが入ってきただけ、その時、ぱぁっと、天井から明るさが降りてきた。最初に入った者が電灯を点けるらしい。
[地蔵湯の中 脱衣所と浴槽が近い!]

浴槽は上下あり、原泉がなみなみと注ぎ落ちている写真手前が上、注意書きに下から入ってくださいと書いてあるので、素直に従い、とりあえず、飛び込む。露天風呂と違い、身体も建物の内部に入った時点から、その籠っている湯気でもって、慣らされているものだから、浴槽内の湯の温度を冷静に感じとることができる、「かなり熱い」。ぬるま湯育ちだからだろう、わたくしは熱いお風呂が苦手である、短い時間身体を沈めるだけで、残りは浴槽の縁でもって、足湯状態を維持するのが精一杯であった。
[地蔵湯の中◆奥が下湯、手前が上湯]

下湯がその程度の熱さである、上湯はと思い、手でもって、確かめてみた。度を超えていた。それでも、せっかくだから、と気をふり絞り、飛び込む・・・秒速でもって、飛び出した。それほどの熱さである。すっかり熱さにめげて、それでも、身体のほうも、すっかり温められており、帰り途は、湯気を出しながら、事務所まで戻ることができた。
前回、「火の国、通りすがりの記∩鞍勝覆)」でもふれたことであるが、由布院といい、黒川といい、急激な観光地化(=外来客の増加)が、そろそろ、二つの温泉場に、ボディブローを受けるような遅く、しかし確かなダメージとして、さまざまな問題が浮きだし始めているようだ。まったくの通りすがり、通り過ぎの、わたくしのようなものが言うことはないのであろうけれど、鄙びた温泉地が評判となり、いつのまにか、荒らされて、その結果、温泉地が鄙びてしまってはならない。ただ、その足音が、少しずつだけれども、近づき、迫っているような、まことに非礼なことだけれども、そういう風に、バスまでの2時間あまりを過ごした事務所界隈の気配からも感じられた。
これから、阿蘇を経て、熊本城下に入る。ただし、今夜は、通り過ぎるだけ、明朝、再び戻る予定でいる。
2006.02.17
火の国、通りすがりの記◆覆ろがわ・黒川)・(ぃ)
瀬の本峠というのは、およそ九州という概念から外れた土地であり、通りすがった、その日もまた、氷点下の世界を目の当たりして、樹氷っぽい現象もあって、乗客の中から思わず歓声も。横断バスの中では通過していく風景を時々ナレーションで説明してくださって、民謡なども流れてくる。それによると、この峠は900メートル程度らしい、他の資料などではキリがよいのか千メートルという表示が多いが、この際バス説を信じよう。別府から由布院バスターミナルを経て、黒川温泉、阿蘇駅、熊本空港、そして、熊本駅を結ぶバスは九州産業交通(産交バス)の時刻表によると日に5本運行されている。ただし、わたくしが乗った9時47分由布院発には昼食付、遊覧付とあるが、この時期は、そうでもないらしい。バスのニックネームは「くじゅう」と「あそ」、いずれも九州では高峰である九重山、阿蘇山がネーミングライツのもとである。ただし、どちらも「山」と呼ぶこともあるが、単一の、例えば富士山、九州でいえば昨日から今朝にかけて通り過ぎてきた由布岳(頂上付近は双つに割れているけれど)のように独立した単座式ではなく、いくつもの山が連なって座している。もっとも高いのは、くじゅう、では中岳(なかだけ)1791m、あそ、では高岳(たかだけ)1592m、沖縄の於茂登岳(おもとだけ;525m)に比べれば3倍ほど高いけれど、本州には20数座も3000m級があることを思えば、「たいした」高さではないのだけれども、東の豊後、西の肥後、それぞれの平坦な地から見上げる山相は、同じく真っ平らな関東平野で筑波山をみるような威風堂々としたものなのであろう。
黒川というのは、数分の休憩をとったあと、峠を発ち、やまなみハイウェイを離れて、数キロさらに奥に進んだ田の原川沿いに、比較的、緩慢に30軒ほどの宿が散らばっている。ほかに満願寺、田の原、小田などの離れ湯を含めて黒川温泉と総称することもあるそうだ。バスは狭隘な温泉街には、はいりきらず、降りた客は国道脇の停留所に放り出される。予め、宿が決まっている方は所定の迎えがやってきて、すすっと街に向かっていくのだが、わたくしのような日帰り組には、その術がない。地図といっても、サイトから刷り出した、まったく大雑把な類しかもっておらず、といって、バス停の待合室付近に案内となるような表示もない。・・・と、防犯パトロール車と白いボディに表記されたワンボックスカーが近づいてきて、迎えは来るんですかと聞かれ、わたくしの宙ぶらんりんな状態をお伝えすると、では、温泉組合事務所まで、行きましょうと仰言って、同類お二方と三人、先客にご挨拶をして、乗り合わせた。帰り道は件の事務所から歩いたが10分強、車であれば5分もかからない距離ではあるけれど、行きはヨイヨイ帰りは・・・の逆ではあるけれど、交通弱者に対して地方は依然として冷たい、氷点下の中、歩いた帰り途で、自分の体力の減退をあわせ、考えたことである。(それはそれとして)所用で訪れた、あるお宿で図々しくも、お風呂に入れてください、と甘え、「うちのお湯でよかったら、どうぞ、お入りください」と快く、露天のある場所まで連れていってくださって、まだ、誰も利用していない更衣室のストーブに暖を入れて下さって、わたしはこれから出かけますので、と、ごゆっくりと、忙しく、もときた宿の中へと向かっていかれたので、わたくしは、お礼もそこそこに、心は、お風呂に。6畳あまりの脱衣所を、せわしなく、抜け出して、外へ。
[手前の露天風呂、まず、ここで寒さに慣れる]

↑は飛びだした目の前にある屋根付き露天風呂(東屋風)で、ここで、まず、慣らし運転。それでも外気は冷たく、昨夜の由布院の比ではない。そろそろという頃合を見計らって、第二の、本当の露天、吹きさらしの中、街に着いてから降ったりやんだりの雪が、また、激しくなってきた頃に、ご主人から、滑らないよう、注意を促されていたので、温まった身体も、元に戻って、細かく震わせながら、慎重に雪道を下り、↓へ向かう。
[川面にある本当の露天、吹きさらし、一応屋根付き]

川沿いに風が走り、雪をつれてくるので、視界がぼやけているが、負けずに進んで、第二に跳び込む。もちろん、数秒後には心地よい温かさが全身に伝わってくる思いで、しばらく長湯を決めこんでいると、頭部の違和感に気づき、手をかざすと、頭髪⇒凍髪状態に、お行儀の悪いことであるが、頭ごと湯の中に浸けるしか術がなかった。
函館の「湯の川ブログ」ではあまり自慢できなかったので、黒川(地元の方=宿のご主人だけではあるが、クロガワと濁る。軽井沢を「かるいさわ」というようなものであろうか)ブログではその分も含めて書いている。予定を変えて、次もKUROGAWA風呂ぐを書くことにしよう。(この項続く)
黒川というのは、数分の休憩をとったあと、峠を発ち、やまなみハイウェイを離れて、数キロさらに奥に進んだ田の原川沿いに、比較的、緩慢に30軒ほどの宿が散らばっている。ほかに満願寺、田の原、小田などの離れ湯を含めて黒川温泉と総称することもあるそうだ。バスは狭隘な温泉街には、はいりきらず、降りた客は国道脇の停留所に放り出される。予め、宿が決まっている方は所定の迎えがやってきて、すすっと街に向かっていくのだが、わたくしのような日帰り組には、その術がない。地図といっても、サイトから刷り出した、まったく大雑把な類しかもっておらず、といって、バス停の待合室付近に案内となるような表示もない。・・・と、防犯パトロール車と白いボディに表記されたワンボックスカーが近づいてきて、迎えは来るんですかと聞かれ、わたくしの宙ぶらんりんな状態をお伝えすると、では、温泉組合事務所まで、行きましょうと仰言って、同類お二方と三人、先客にご挨拶をして、乗り合わせた。帰り道は件の事務所から歩いたが10分強、車であれば5分もかからない距離ではあるけれど、行きはヨイヨイ帰りは・・・の逆ではあるけれど、交通弱者に対して地方は依然として冷たい、氷点下の中、歩いた帰り途で、自分の体力の減退をあわせ、考えたことである。(それはそれとして)所用で訪れた、あるお宿で図々しくも、お風呂に入れてください、と甘え、「うちのお湯でよかったら、どうぞ、お入りください」と快く、露天のある場所まで連れていってくださって、まだ、誰も利用していない更衣室のストーブに暖を入れて下さって、わたしはこれから出かけますので、と、ごゆっくりと、忙しく、もときた宿の中へと向かっていかれたので、わたくしは、お礼もそこそこに、心は、お風呂に。6畳あまりの脱衣所を、せわしなく、抜け出して、外へ。
[手前の露天風呂、まず、ここで寒さに慣れる]

↑は飛びだした目の前にある屋根付き露天風呂(東屋風)で、ここで、まず、慣らし運転。それでも外気は冷たく、昨夜の由布院の比ではない。そろそろという頃合を見計らって、第二の、本当の露天、吹きさらしの中、街に着いてから降ったりやんだりの雪が、また、激しくなってきた頃に、ご主人から、滑らないよう、注意を促されていたので、温まった身体も、元に戻って、細かく震わせながら、慎重に雪道を下り、↓へ向かう。
[川面にある本当の露天、吹きさらし、一応屋根付き]

川沿いに風が走り、雪をつれてくるので、視界がぼやけているが、負けずに進んで、第二に跳び込む。もちろん、数秒後には心地よい温かさが全身に伝わってくる思いで、しばらく長湯を決めこんでいると、頭部の違和感に気づき、手をかざすと、頭髪⇒凍髪状態に、お行儀の悪いことであるが、頭ごと湯の中に浸けるしか術がなかった。
函館の「湯の川ブログ」ではあまり自慢できなかったので、黒川(地元の方=宿のご主人だけではあるが、クロガワと濁る。軽井沢を「かるいさわ」というようなものであろうか)ブログではその分も含めて書いている。予定を変えて、次もKUROGAWA風呂ぐを書くことにしよう。(この項続く)
2006.02.15
46番目(火の国、通りすがりの記)
わたくしにとって46番目の『国』となる熊本県には、ミジンコあるいはセミの抜け殻のような形にみえる九州の真ん中あたりを背からお腹へと向かうような道程でもって訪れることになった。その日、石仏の宝庫である国東半島の、東の背(やや下)の端っこに申し訳なさそうにおぶさっている大分空港から由布院駅までの直行バスでひとり、ぽつっと発車予定時刻を過ぎるまで、座席でいると、到着便が遅れたという方たちが乗り込んできて、どうやら、(バス会社にとっては採算上、頭の痛い)わたくしの貸切バスになることはなく、出発した。乗客は11人(それでも採算以下であろう)、つまり、わたくしを除いては、皆カップルか家族づれ(一組)、そういうバスなのであろう。途中、日出(ひじ)あたりで別府の市街地を眺めながら、山をあがっていき、所要時間1時間あまりで由布院駅前に。このあたりで標高400メートルという、みぞれ、時おり細雪まじりの駅周辺には平日の、やや荒天の中にでも、観光客の方がいらして、皆、寒そうなそぶりをしながらも、心は温かそうである。もちろん身も、すでに温泉につかって「温」なのかもしれない。おおざっぱであるけれど、おそらく氷点下までいくかいかないかぐらいの外気温であり、普通に歩いていれば、暖かいという陽気ではないが、それでも、この寒さが、これから浸かることのできる湯のためには良いぐらいだと、やせ我慢して、少しの間温泉街を歩いたけれど、すぐさま引き返し、駅前の喫茶店で暖をとり、再び、駅のタクシー乗り場に戻って、「近いですけど」といって、後部座席に乗り込んだ。いえ、その前に、運転手さんが外に出てきて、わたくしのいる左後部の方向に回りこんでくると、しゃなりとした動きでもって、両手に白い手袋をまとった一方の手でもって、ドアを開けてくださった。どうも、と答えて、中に入ると、どうも普通のタクシーと様子が違っていた。「ふだんは貸切専用なんですよぉ。今日はたまたま、あいていて、(乗り場に)並んでいました。このテの車は由布院に2台しかないんです。」と言われても、よく状況が読み込めなかったけれども、降りる際、やはり乗るときと同じようにドアを外から開けてもらいながら、この車に自動開閉装置がついていないことに気づいた。やはり、フツウのタクシーではないのか、その程度の理解力しか、わたくしにはない。お礼を言おうと思ったら、どうやら貸切予約の連絡なのであろう、携帯電話にかかりきりなので、そのままにして、寒いばかりなので、宿の中へと急いだ。
…、もともと、わたくしは旅館が苦手である。第一に、と問われれば、食事の時間が決められていて、それも、何時間も長居できる雰囲気ではないことだと、答えるのだろうか。そもそも、食べるのが遅くて、小さいころから、よく親に叱られていた、大して食べる量も種類もない当時でさえ、そうであったのだから、これでもかぁ、という具合に供される旅館の食事は、わたくしにとって、量の消化とともに時間との勝負でもある。この夜の食事も、まず台帳に名前などを書いている際に聞かれた。6時にされます、6時半にされます・・・、答えようがなかったけれど、それでは先様も困るだろうから、とりあえず「半」と答えておいた。7時にいったら、遅すぎますと、断られるのかもしれないけれど、6時15分30秒あたりはどうなのだろうかなどと、余計なことを考えながら、とにかく、部屋におさまり、30分±5分をメドに控えていた。お食事は量もほどほど(さすがに鍋を食べたあとの雑炊は遠慮した)で、その夜泊まり客も少なかったようなので(3か4組、翌朝台帳で確認した、食事の時間を分けるほどでもないとも思うが)、追い出されることもなく、窓横の席でもって、降ったりやんだりの外の風景を眺めながら、のんびりとできた。お風呂は、三ヶ所あり、すべて、貸切制になっていると聞いており、それぞれ入浴中という札の有無で現在時点の使用可否を判断するそうだ。食事後すぐの入浴は体に良くない(血行の関係らしい)と聞いているが、お構いなしに、浴場ゾーンに向かうと、すべて札はかかっていない、かなり迷ったが、唯一の露天風呂を選んで、札をかけ忘れないよう、確かめて、しんしんと冷える中に(外へ)。千畳敷きとまではいかないけれども、三十畳ほどはある広さ、そして本格的に降り始めた雪が容赦なく吹きつけてくる開放的でもある空間風呂で、頭・顔面部だけ寒さに耐えながら、浸かっていた。途中、中の家族風呂のほうから、お子様の声が聞こえてきたが、ああ、ホントはコッチに入りたかったのかなぁと思うだけで、譲る気もなく、わたくしとしては、長風呂を味わった。
翌朝も同じ席で朝を摂り、10時前のバスに乗るために、今度は駅まで歩いた。勘違いで(駅の案内所の方にお聞きしたら、よくあるそうだ)、バスは別にあるターミナルから出るとのことで、黒川へ向かうバスターミナルまでの道すがら、そしてターミナルに着いて、その殺風景さもあいまって、通りすがりとはいえ、由布院の印象が稀薄であることを感じつつ、ただ、これから、46番目の国に向かうという期待感でもって、稀釈されているとはいえ、わたくしにとって、やはり、あるいは、一人旅の客にとって、温泉地というのは、まだまだ、それほど優しくないなぁ、という身勝手な想いを、強くしただけのようで、昨夜、露天で温まったはずの身も心も、すっかり、冷えてしまったような、ただただ、そういう状態でもって、これまた、採算のとれていない九州横断バスへと、最後に乗り込んだ。あくまでも、「通りすがり・火の国」が目的であるから、ここまでは、せいぜい、通りがかり、あるいは、通りすぎるにすぎない、そう思うしかないのであろう。
小一時間も揺られていれば、国境を越える。
…、もともと、わたくしは旅館が苦手である。第一に、と問われれば、食事の時間が決められていて、それも、何時間も長居できる雰囲気ではないことだと、答えるのだろうか。そもそも、食べるのが遅くて、小さいころから、よく親に叱られていた、大して食べる量も種類もない当時でさえ、そうであったのだから、これでもかぁ、という具合に供される旅館の食事は、わたくしにとって、量の消化とともに時間との勝負でもある。この夜の食事も、まず台帳に名前などを書いている際に聞かれた。6時にされます、6時半にされます・・・、答えようがなかったけれど、それでは先様も困るだろうから、とりあえず「半」と答えておいた。7時にいったら、遅すぎますと、断られるのかもしれないけれど、6時15分30秒あたりはどうなのだろうかなどと、余計なことを考えながら、とにかく、部屋におさまり、30分±5分をメドに控えていた。お食事は量もほどほど(さすがに鍋を食べたあとの雑炊は遠慮した)で、その夜泊まり客も少なかったようなので(3か4組、翌朝台帳で確認した、食事の時間を分けるほどでもないとも思うが)、追い出されることもなく、窓横の席でもって、降ったりやんだりの外の風景を眺めながら、のんびりとできた。お風呂は、三ヶ所あり、すべて、貸切制になっていると聞いており、それぞれ入浴中という札の有無で現在時点の使用可否を判断するそうだ。食事後すぐの入浴は体に良くない(血行の関係らしい)と聞いているが、お構いなしに、浴場ゾーンに向かうと、すべて札はかかっていない、かなり迷ったが、唯一の露天風呂を選んで、札をかけ忘れないよう、確かめて、しんしんと冷える中に(外へ)。千畳敷きとまではいかないけれども、三十畳ほどはある広さ、そして本格的に降り始めた雪が容赦なく吹きつけてくる開放的でもある空間風呂で、頭・顔面部だけ寒さに耐えながら、浸かっていた。途中、中の家族風呂のほうから、お子様の声が聞こえてきたが、ああ、ホントはコッチに入りたかったのかなぁと思うだけで、譲る気もなく、わたくしとしては、長風呂を味わった。
翌朝も同じ席で朝を摂り、10時前のバスに乗るために、今度は駅まで歩いた。勘違いで(駅の案内所の方にお聞きしたら、よくあるそうだ)、バスは別にあるターミナルから出るとのことで、黒川へ向かうバスターミナルまでの道すがら、そしてターミナルに着いて、その殺風景さもあいまって、通りすがりとはいえ、由布院の印象が稀薄であることを感じつつ、ただ、これから、46番目の国に向かうという期待感でもって、稀釈されているとはいえ、わたくしにとって、やはり、あるいは、一人旅の客にとって、温泉地というのは、まだまだ、それほど優しくないなぁ、という身勝手な想いを、強くしただけのようで、昨夜、露天で温まったはずの身も心も、すっかり、冷えてしまったような、ただただ、そういう状態でもって、これまた、採算のとれていない九州横断バスへと、最後に乗り込んだ。あくまでも、「通りすがり・火の国」が目的であるから、ここまでは、せいぜい、通りがかり、あるいは、通りすぎるにすぎない、そう思うしかないのであろう。
小一時間も揺られていれば、国境を越える。
2006.02.14
ドレミファソラシドれっしゃ
都゛営線が東と西に相互乗り入れしていて、所用で乗りあわせたり、ホームで次の列車を待っている間に、何十分の一か、何百分の一かの確率で、その列車が駅を離れるときに発する音が、ずいぶんと気になっていた。まったく音感に関しても乏しいだけのわたくしなので、ドレミソラシド〜、なのかドレミファシドレ〜なのか、さっぱり分からないけれども、確かに、音階を奏でている列車があって、それも、よ〜く、考えてみると、西のほうから乗りいれている京急のものに限られている、というところまでたどりついていた。偶然とは、こういうことなのであろう、拙ブロに、ありがたくもトラバしてくださっているMAC'S GADGETさんのブログを拝見していたところ、そのことにふれられていた。(!)以下、引用させていただく。『金沢八景で京急に乗り換え、品川に戻ろうかと思いましたが、やっぱり京急を味わいたいと考え、一旦京急久里浜に行き、快速特急で上ることに。現れた快速特急はラッキーにも2100系。最前部の席は取れませんでしたが、シーメンスのVVVF音「ドレミファソラシ〜」と快特のスピードを堪能出来ました。』、…試しに[シーメンスのドレミ]で検索してみると、1件ヒットし、次に、スとドの間にスペースを入れてみると、270件に当たった。しつこいけれども、シーメンスVVVFまでいくと、800件にぶつかる。(Google)そのひとつひとつをすべてみたわけではないけれど、いくつかをみた限りでは、わたくしが思っている都営線内のことに関していえば、京急、のようである。
れっしゃの種類は、『京急の車両たち』によると、新1000形および2100形とある。以下、これも引用させていただく。 『 制御機器もドイツ・シーメンス社のインバーターを採用し発車起動音の「ドレミファソラシド〜」の音を響かせて疾走します。 』
みさきぐち(三崎口)駅まで本線はじめ、羽田空港、川崎大師、逗子、浦賀方面に枝線をもっている京急は、わたくしが初めて乗った首都圏の私鉄(民鉄)でもあるが、もう、その日より、快特のごとく時は過ぎてしまっているけれど、その当時は確か三崎口はなく、また、初めて、中央という名の駅(横須賀中央駅)をみて、びっくりした記憶が今でも残っている。
ふあん(不安)いっぱいの田舎高校生は、叔母を訪ねて、国鉄の鈍行でもって、大船までたどり着き、乗り換えて、横須賀まで。あとで聞くと、そして、同じ市内に住む叔父を訪ねる際に、本当はコッチの方が近いけどと言って、わたくしの方向音痴を知っていたのだろうか、分かりやすい国鉄だけのルートでもって、わざわざ遠い国鉄駅まで迎えに来てくださったのであるけれど、その後は京急線を使った。以来、ほとんど乗ることのなかったKQが突然、ドレミをもって、わたくしに近づいてきた。
そのことが、ずっと気になっていて、都営、あるいは京成、そして京急に近づくたびに、ドレミの列車を待ち続けていたが、近頃、羽田へ行くことが多いのに、一度も、その想いを果たしていない。ところで、横須賀駅というのは今はどうなのであろうか、今はもうこの世にはいないけれど、横須賀の祖母が、ここは階段がなくて年寄りには良いわ、と言っていたことを思い出した。高松(ただし引き込み)、青森(ここも引込み線)、函館もそうであるし、宇和島などはまさに終着駅の雰囲気があろう。ただ、横須賀駅は終着駅ではなく、その先に久里浜が控えている、《横須賀駅 プラットフォーム》で検索すると、その答えが分かった。なるほど。また、単に終着駅であるだけでは、このフラットなプラットフォームにはならないのであろう。長崎駅は違っていたような記憶がある、確かに長崎は坂の町、狭い駅構内だけでも相応の起伏があるからなのだろうと勝手に想像していたが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、昭和初期から87年まで、その先にも駅があって、長崎駅は終着でなかったことが判明した。ただし、長崎の駅の詳細については、もう一度、訪ねてみないと、わたくしの記憶だけでは、どうにもならない。…少し、鉄い内容に傾いているが、続ける。
ラインゴルトは87年に廃止になっている。と、言い切れるのは、最後の運行に乗りあわせているから、確かケルンであったと思うが、日本で購入していったトマスクックの時刻表に、廃止になったはずのラインゴルトの運行ダイヤが掲載されており、特別列車というような表記もあったように記憶している。わたくしはその次の列車に乗る予定でいたが、ゴルト号がプラットフォームに滑り込んできて、発車しようという間際になって、ひょいと(かなり確信犯的に)乗ってしまった。と、列車内はもう、ドイツの鉄な老若男女で沸きかえっており、その列車が、いってみれば、さよならゴルト号記念運行のようなものであったらしく、皆、特別のツアー代金を支払って、乗っている。目ざとい車掌さんが、当たり前のことではあるが、あなた(わたくし)には乗る権利がないと、即座に降りるようにと、命じた。もちろん、その場で降りることは不可能なので、次の停車駅で、ということなのだろう。(仕方ないけれど、少しだけでも乗ることが叶って良かった)とあきらめかけていたところ、なにやら乗客のおひとりが車掌さんと問答しており、その結果、わたくしは、めでたく臨時のツアー客のひとりとして、そのまま乗ることが許された。バー車両をのぞくと、ビール片手に陽気に、最後のゴルト号を楽しむ人たちが、あふれそうなゴルトグッズに囲まれながら、あなたも呑みなさいよという雰囲気で充満していた。ドイツというのは主要の駅には必ず動く鉄道模型が展示配置されていて、それを男の子が、あるいは昔・男の子が喰い入るように見つめている光景にぶつかる。アウトバーンという世界屈指の自動車専用道を造ったくせに、根っからの鉄道好きな国民性をもっているのは、そういう少年時代の体験が生きているのだろう。
シーメンスもそういう風土のもとで、ドイツに生まれた(1847年)からこそ、ドレミ列車のような楽しい発想につながっているのだろう。[シーメンスの歴史]
どうでもよい話であるが、どうしても書いておきたかった。ただ、それだけのことである。
れっしゃの種類は、『京急の車両たち』によると、新1000形および2100形とある。以下、これも引用させていただく。 『 制御機器もドイツ・シーメンス社のインバーターを採用し発車起動音の「ドレミファソラシド〜」の音を響かせて疾走します。 』
みさきぐち(三崎口)駅まで本線はじめ、羽田空港、川崎大師、逗子、浦賀方面に枝線をもっている京急は、わたくしが初めて乗った首都圏の私鉄(民鉄)でもあるが、もう、その日より、快特のごとく時は過ぎてしまっているけれど、その当時は確か三崎口はなく、また、初めて、中央という名の駅(横須賀中央駅)をみて、びっくりした記憶が今でも残っている。
ふあん(不安)いっぱいの田舎高校生は、叔母を訪ねて、国鉄の鈍行でもって、大船までたどり着き、乗り換えて、横須賀まで。あとで聞くと、そして、同じ市内に住む叔父を訪ねる際に、本当はコッチの方が近いけどと言って、わたくしの方向音痴を知っていたのだろうか、分かりやすい国鉄だけのルートでもって、わざわざ遠い国鉄駅まで迎えに来てくださったのであるけれど、その後は京急線を使った。以来、ほとんど乗ることのなかったKQが突然、ドレミをもって、わたくしに近づいてきた。
そのことが、ずっと気になっていて、都営、あるいは京成、そして京急に近づくたびに、ドレミの列車を待ち続けていたが、近頃、羽田へ行くことが多いのに、一度も、その想いを果たしていない。ところで、横須賀駅というのは今はどうなのであろうか、今はもうこの世にはいないけれど、横須賀の祖母が、ここは階段がなくて年寄りには良いわ、と言っていたことを思い出した。高松(ただし引き込み)、青森(ここも引込み線)、函館もそうであるし、宇和島などはまさに終着駅の雰囲気があろう。ただ、横須賀駅は終着駅ではなく、その先に久里浜が控えている、《横須賀駅 プラットフォーム》で検索すると、その答えが分かった。なるほど。また、単に終着駅であるだけでは、このフラットなプラットフォームにはならないのであろう。長崎駅は違っていたような記憶がある、確かに長崎は坂の町、狭い駅構内だけでも相応の起伏があるからなのだろうと勝手に想像していたが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、昭和初期から87年まで、その先にも駅があって、長崎駅は終着でなかったことが判明した。ただし、長崎の駅の詳細については、もう一度、訪ねてみないと、わたくしの記憶だけでは、どうにもならない。…少し、鉄い内容に傾いているが、続ける。
ラインゴルトは87年に廃止になっている。と、言い切れるのは、最後の運行に乗りあわせているから、確かケルンであったと思うが、日本で購入していったトマスクックの時刻表に、廃止になったはずのラインゴルトの運行ダイヤが掲載されており、特別列車というような表記もあったように記憶している。わたくしはその次の列車に乗る予定でいたが、ゴルト号がプラットフォームに滑り込んできて、発車しようという間際になって、ひょいと(かなり確信犯的に)乗ってしまった。と、列車内はもう、ドイツの鉄な老若男女で沸きかえっており、その列車が、いってみれば、さよならゴルト号記念運行のようなものであったらしく、皆、特別のツアー代金を支払って、乗っている。目ざとい車掌さんが、当たり前のことではあるが、あなた(わたくし)には乗る権利がないと、即座に降りるようにと、命じた。もちろん、その場で降りることは不可能なので、次の停車駅で、ということなのだろう。(仕方ないけれど、少しだけでも乗ることが叶って良かった)とあきらめかけていたところ、なにやら乗客のおひとりが車掌さんと問答しており、その結果、わたくしは、めでたく臨時のツアー客のひとりとして、そのまま乗ることが許された。バー車両をのぞくと、ビール片手に陽気に、最後のゴルト号を楽しむ人たちが、あふれそうなゴルトグッズに囲まれながら、あなたも呑みなさいよという雰囲気で充満していた。ドイツというのは主要の駅には必ず動く鉄道模型が展示配置されていて、それを男の子が、あるいは昔・男の子が喰い入るように見つめている光景にぶつかる。アウトバーンという世界屈指の自動車専用道を造ったくせに、根っからの鉄道好きな国民性をもっているのは、そういう少年時代の体験が生きているのだろう。
シーメンスもそういう風土のもとで、ドイツに生まれた(1847年)からこそ、ドレミ列車のような楽しい発想につながっているのだろう。[シーメンスの歴史]
どうでもよい話であるが、どうしても書いておきたかった。ただ、それだけのことである。
2006.02.11
ある湯治場
今週は九州にお邪魔していた。そのことを書こうと思っていたけれど、昨夜、ニュースで知った温泉地での雪崩事故のことを書きたい。昨年暮れ近くにおうかがいしたところである。とても人あたりの柔らかい、そして東北人らしい奥ゆかしさをもつ、ご主人と向かいあって、お話していると、こちらの卑しさばかりがめだっていた。この宿では広大な敷地内に積もる雪のほとんどを自己負担で除かなければいけない、今走っている道路もそうなんです、と、最寄りのバス停まで送ってくださった途中、ご主人からお聞きした。その日もまだ雪はふりやまず、車を出されるときに、今夜、これ(数十センチ)と同じぐらい積もるでしょうと、すでに10何年ぶりの雪だと仰言っていた。後日、ニュースで数十年ぶりと聞いて、案じていた。これは同じ旅行中にほかの方から聞いたと思うのだが、根が固まらないうちに容赦なく上に積もっているから危険な雪だそうで、それほど今冬の雪は拙速な降りかた、積もり具合らしい。除雪にかかる手間は個人旅館としては相当の負担になる、それでも、公(市町村、県、国)は「わたくし(私)」の領域には決して入り込まない、どれほど困っていても、特定に対しては行動を起こさない、といって、不特定、あるいはすべてのことに対して、何か手を出す(行動する)ことも決してないけれど。だから、という風には、わたくしも、そして、ご主人も思っていないだろうが、結果として犠牲者を出してしまうほどの惨事となった遠因には、そのような町(行政)の冷たさがある。お世話になったのに、ご主人には少し厳しくなるけれど、フェイルセーフもいたらなかったのだろう。同じように国(東北森林管理局)も意識していない。この宿は国有林内にあり、住所の一部にその旨が明記されている。以下、毎日新聞(Yahoo!ニュース、2月11日13時5分更新分)より引用する…『 同局企画調整室は「現場の斜面は比較的なだらか。これまで雪崩の報告も聞いておらず、危険性の認識はなかった』としている。…一体、これまでというのはいつからのことか、その程度の裏づけを施してから取材記事にしてほしいという苛立ちは横に置くとしても、国は責任の所在および所存を端(はな)からフェイドアウトしている印象である。
Copyright (C) 2006 毎日新聞社
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これは異なる話だけれど、相変わらず詐欺あるいはそれまがいの商法にかかる高齢者の方が後を絶たない。みな、口をそろえて、「老後が不安だから」(つい、手を出した)と報じられている。そもそも、だから(困らないように)、国というものがあるのではないのか。いったい、何のための国なのか、そろそろ考え直さないと、わたくしたち大衆(まだ検証中であるけれど)は、いつまでたっても雪崩や詐欺に遭う運命にあるのだろう。青っぽい考え方であるけれど、その青物も、いつかは成果し、赤く熟し、そして、いつのまにか黒茶けて、落果していくけれど、(本冬のように)時として脅威ともなる自然はしっかりと、受けとめてくれて、青い果実も安心して、老後を迎え、土に還ることができる。比して、国というものには一切その考えがない。『国破れて、山河あり』、杜甫の時代と今では事情は異なるものの、状況は変わっていない。
[関連拙ブロ/みちのくに(05年2月23日付)]
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これは異なる話だけれど、相変わらず詐欺あるいはそれまがいの商法にかかる高齢者の方が後を絶たない。みな、口をそろえて、「老後が不安だから」(つい、手を出した)と報じられている。そもそも、だから(困らないように)、国というものがあるのではないのか。いったい、何のための国なのか、そろそろ考え直さないと、わたくしたち大衆(まだ検証中であるけれど)は、いつまでたっても雪崩や詐欺に遭う運命にあるのだろう。青っぽい考え方であるけれど、その青物も、いつかは成果し、赤く熟し、そして、いつのまにか黒茶けて、落果していくけれど、(本冬のように)時として脅威ともなる自然はしっかりと、受けとめてくれて、青い果実も安心して、老後を迎え、土に還ることができる。比して、国というものには一切その考えがない。『国破れて、山河あり』、杜甫の時代と今では事情は異なるものの、状況は変わっていない。
[関連拙ブロ/みちのくに(05年2月23日付)]
2006.02.04
にも・でも・さも
所用を終え、呑んで、帰る際の電車の中でぶら下がっている広告をみていて、気になったことがある。国土交通省の名前入りで、URLはhttp://www.vjc.jp/
©2005 The Secretariat of Visit Japan Campaign Headquarters

[これは那覇でいただいたYŌKOSO!JAPANピンズ(バッジ)]

例えば、「ワタシにも写せます」というCFがあったけれども、この場合は、そうだねぇ、ベンリだねぇと、納得がいく。あるいは、目上の人に「キミにも、できるよ」といわれても、尊敬できる方であれば、ハイ、がんばりますとなるのかもしれないだろうけれど、では、「でも」はどうであろう、上言に置き換えてみたとしても、それほど抵抗感は生まれない。ワタシでも、キミでも、もちろん後者は言われる人の質にもよるであろうが、まぁ、自分はその程度と自己評価しておけば、問題はないであろう。
さて、あなたにも、である。ためしに、「にも」を検めてみた。
【にも】(連語)
〔格助詞「に」に係助詞「も」の付いたもの〕
時・場所・対象・比較の基準など、格助詞「に」の意味に、添加や許容など、助詞「も」の意味が加えられる。
「仕事の合間ニモ雑誌を読む」「アパートにも住んだことがある」「君ニモ見せてやろう」「親ニモできないことをする」
Copyright(C) 2006 Sanseido Co., Ltd. All Rights Reserved.
Copyright:(C) 2006 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.
ひっかかっているのは、誰が誰(ドチラのあなた)に対して言っているのかということであろうか。釈然としないまま、手持ちの辞書で、あるいは電子辞書で、「にも」を調べているが、よく分からない。どなたか、教えてほしい。(こういう状態を、ファインディング・ニモというのだろうか、みていないけれど)
ところで、上記キャンペーンの内容はというと、もちろん、さ(然)も、ない。[ようこそアクション]
なにぬねの も
だぢづでど も
さしすせそ も
©2005 The Secretariat of Visit Japan Campaign Headquarters

[これは那覇でいただいたYŌKOSO!JAPANピンズ(バッジ)]

例えば、「ワタシにも写せます」というCFがあったけれども、この場合は、そうだねぇ、ベンリだねぇと、納得がいく。あるいは、目上の人に「キミにも、できるよ」といわれても、尊敬できる方であれば、ハイ、がんばりますとなるのかもしれないだろうけれど、では、「でも」はどうであろう、上言に置き換えてみたとしても、それほど抵抗感は生まれない。ワタシでも、キミでも、もちろん後者は言われる人の質にもよるであろうが、まぁ、自分はその程度と自己評価しておけば、問題はないであろう。
さて、あなたにも、である。ためしに、「にも」を検めてみた。
【にも】(連語)
〔格助詞「に」に係助詞「も」の付いたもの〕
時・場所・対象・比較の基準など、格助詞「に」の意味に、添加や許容など、助詞「も」の意味が加えられる。
「仕事の合間ニモ雑誌を読む」「アパートにも住んだことがある」「君ニモ見せてやろう」「親ニモできないことをする」
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ひっかかっているのは、誰が誰(ドチラのあなた)に対して言っているのかということであろうか。釈然としないまま、手持ちの辞書で、あるいは電子辞書で、「にも」を調べているが、よく分からない。どなたか、教えてほしい。(こういう状態を、ファインディング・ニモというのだろうか、みていないけれど)
ところで、上記キャンペーンの内容はというと、もちろん、さ(然)も、ない。[ようこそアクション]
なにぬねの も
だぢづでど も
さしすせそ も
2006.02.04
かんかん(函館)
朝、東京国際空港を離れて、昼過ぎに新千歳空港に着く。では、千歳(空港)はどこに所在するのかと調べたら、千歳飛行場として別(隣接)にあって、今でも自衛隊との共用はしているらしい。あわただしく札幌での用事を済ませ、予定より一つ前の函館行きスーパー特急「北斗」に乗ったけれど、日曜日は何故か指定席は埋まっているという、対応してくれた駅の人に聞くと、列車は9輌編成で指定席は1〜7号車を占めているというのだけれど、だめですねぇ、と、申し訳なさそうに、自由席特急券つきの乗車券を発行してくれた。発車まで、まだ、30分以上前ではあったけれど、「座りたい」のでホームに急いだ。もう、二人ばかり先客がいて、一応、自由席かどうかをたずねると、呼応して、いずれの方もこのあとの列車指定券を持っているけれど、早く帰りたいとのことで、自由席に甘んじたという。その気もちはよく分かった、何しろ、札幌→函館は遠い。JR北海道サイトで時刻表を確認すると、S(スーパー)北斗16号は札幌を15:07に出て、終着駅函館は18:24とある。次便の18号が着くのは20:14、6時に我が家に戻るのと、8時では、かなり心理的な違いがある、そういうようなことを二人目の方が仰言っていた。わたくしにしても、事前に調べて、できれば早い方に乗りたいと思ってはいたけれども、所用の所要時間に依存しているので、その夜泊まる旅館には8時過ぎチェックインと一応伝えてあった。
湯の川というのは全国温泉地の中でも駅に近く、街に近く、そして、空港に近いという条件では屈指の立地にある。およそ30軒の大小宿・旅館が大雑把にいえば、港(ドック)→函館駅から市内を「のろのろ」と走りながら終点「湯の川駅」あるいは一つ手前の「湯の川温泉駅」に分かれて集まり積まれている。以前訪れたのは温泉駅側、どちらかというと街然としていて、内陸側にある小宿に泊まったが、今回は、終点からさらに海をめざして、松倉川(湯の川)を渡った集積地にある大宿に。実際にはタクシーを使って、前夜、ビジネスホテルがめっぽう増えたJR駅から来たのだけれど翌朝は時間もあったことから、温泉駅まで、10数年ぶりの大雪に見舞われたという温泉街を歩いてみた。以前訪れたときはもう記憶の奥深くにわずかながら残滓としてあるのみで、そうでなくても容量の小さい脳であるから、もう、その時分を思い起こせない。市電の乗り場所すらわからない、よろよろと、たまに背後から車輪を危なげに滑らせながら近づいてくる車に気をつけながら、そして、軒先、屋根の雪にも、滑り落ちてこないかと気を留めながら、ようやく人通りにぶつかった。そこは、まだ、電車道でなく、温泉通りという名が示すように瀟洒な、あるいは小ぶりな旅館がいくつも並び、いずれも軒先から立派な氷柱をぶら下げていた。温泉街の朝は早く、客はもう8時前には次をめざすか、あるいは帰途につくため、閑閑とした街の雰囲気の中でもって、例年に比べ雪も多く、厳しい寒さだという函館(かんかん)のその日は存外に暖かく、感官がしびれるほどではなく、歩くにはほど良いお日和でもあった。途中、湯の川温泉駅で停車している市電をみつけたので、一駅だけ乗って、終点で降りた。停車場からすぐの場所に湯倉神社があった。その境内脇(敷地外)に温泉発祥の碑があって、ひっそりと、由緒が標されている。15世紀初頭、つまり江戸初期に発見されたという湯で、その後、松前藩主の嫡男・千勝丸が患った際、ここで湯治をしたことから、広まったという。彼は、のちに4代目藩主(高弘)となったのだから、湯の川の湯は十分な効があったのかとも思ったが、高弘殿は早世(1643〜1665年歿)であったという。ただし、それでもってこの温泉の効果が薄いとはいえないであろう。
[湯倉神社隣の湯の川温泉發祥地の碑]

以前、拙ブロ「百年の計」(05年2月1日付)で書いた『日本奥地紀行』の著者イザベラ・バードが函館を訪れたのは1878年夏、その9年前に松前藩は廃されている(松前藩→館藩→館県=廃藩置県)。当時の街の様子を女史はこう書き留めている。同年8月12日に青森より荒天の津軽海峡を渡って函館に入り、ようやく晴れた13日に記された日記の一部である。
『大きな雲は赤茶けた山腹に藍と紫の影を投げている。陸地にとり囲まれた湾の水はアドリア海のように青い。青白い小舟の白帆は紺碧の空の下で雪よりも白く見える。町の背後に聳える二つの山は、杉の林におおわれて、それほど険しくも見えない。砂浜が岬と本土を結んでいるので、ジブラルタルと地形が非常によく似ている。・・・』前日の嵐の中、女史はその風、土砂降りの様を、アーガイルシア(スコットランド西部の州)に例えている。アーガイルシアは今、調べてみるとアーガイル・ビュートとあるが、シアはランカシャー(雨がよく降る、雨を気にしない牛さんがたくさん)、ヨークシャー(雨が大嫌いな羊さんがたくさん、よって、雨は少ない)の「シャー」と同じなのだろうか。シア→シャー→州。それはともかくも、ランカシャーはアーガイルと同じく西部、女史がいうように、よほど嵐のような雨が多いのだろう、上陸したばかりの函館あるいは前々夜(黒石)、前夜(青森)も含めて、この辺りがアーガイルに似て、自然の脅威に曝されていると、女史が実感されたことは、それから70数年後(1954年)におきた洞爺丸の惨事でもって、わたくしにも、わずかながら想像できる。あるいは、以前訪れたときの雪は少ないけれど、風が強く、しびれるという、青函(シア)独特の気象条件にも共通しているのだろうか。
本日は、ただ単に湯の川の温泉に浸かったことを(自慢として)書こうと思っていたけれど、想いが飛んでしまっている。前記バード女史の著書を繰り返し読んでいる。実は、上記拙ブロ内で、女史はサッポロを知らないのではと書いているが、こまめに当たって(読んで)いたら、函館滞在から何日か後に、その文字が登場していた。もちろん、ろくに読みもせず、断言(記)している、わたくしが悪いのであるが、女史のお蔭でもって、函館からスコットランド(アーガイル・シア)そしてアイルランド(チッペラリ、ドニゴール)へと心だけは馳せている。引き続き、書きたいと思う。想いが強すぎたのか、もう、恵方の日は過ぎ、鬼さんたちも御勤めを終えたようである。ご苦労様。
[湯の川の湯に浸かった(自慢)]

[川べりを歩いていると、向かってきた飛行機。当然、わたくしは乗っていない、JAL1164]

湯の川というのは全国温泉地の中でも駅に近く、街に近く、そして、空港に近いという条件では屈指の立地にある。およそ30軒の大小宿・旅館が大雑把にいえば、港(ドック)→函館駅から市内を「のろのろ」と走りながら終点「湯の川駅」あるいは一つ手前の「湯の川温泉駅」に分かれて集まり積まれている。以前訪れたのは温泉駅側、どちらかというと街然としていて、内陸側にある小宿に泊まったが、今回は、終点からさらに海をめざして、松倉川(湯の川)を渡った集積地にある大宿に。実際にはタクシーを使って、前夜、ビジネスホテルがめっぽう増えたJR駅から来たのだけれど翌朝は時間もあったことから、温泉駅まで、10数年ぶりの大雪に見舞われたという温泉街を歩いてみた。以前訪れたときはもう記憶の奥深くにわずかながら残滓としてあるのみで、そうでなくても容量の小さい脳であるから、もう、その時分を思い起こせない。市電の乗り場所すらわからない、よろよろと、たまに背後から車輪を危なげに滑らせながら近づいてくる車に気をつけながら、そして、軒先、屋根の雪にも、滑り落ちてこないかと気を留めながら、ようやく人通りにぶつかった。そこは、まだ、電車道でなく、温泉通りという名が示すように瀟洒な、あるいは小ぶりな旅館がいくつも並び、いずれも軒先から立派な氷柱をぶら下げていた。温泉街の朝は早く、客はもう8時前には次をめざすか、あるいは帰途につくため、閑閑とした街の雰囲気の中でもって、例年に比べ雪も多く、厳しい寒さだという函館(かんかん)のその日は存外に暖かく、感官がしびれるほどではなく、歩くにはほど良いお日和でもあった。途中、湯の川温泉駅で停車している市電をみつけたので、一駅だけ乗って、終点で降りた。停車場からすぐの場所に湯倉神社があった。その境内脇(敷地外)に温泉発祥の碑があって、ひっそりと、由緒が標されている。15世紀初頭、つまり江戸初期に発見されたという湯で、その後、松前藩主の嫡男・千勝丸が患った際、ここで湯治をしたことから、広まったという。彼は、のちに4代目藩主(高弘)となったのだから、湯の川の湯は十分な効があったのかとも思ったが、高弘殿は早世(1643〜1665年歿)であったという。ただし、それでもってこの温泉の効果が薄いとはいえないであろう。
[湯倉神社隣の湯の川温泉發祥地の碑]

以前、拙ブロ「百年の計」(05年2月1日付)で書いた『日本奥地紀行』の著者イザベラ・バードが函館を訪れたのは1878年夏、その9年前に松前藩は廃されている(松前藩→館藩→館県=廃藩置県)。当時の街の様子を女史はこう書き留めている。同年8月12日に青森より荒天の津軽海峡を渡って函館に入り、ようやく晴れた13日に記された日記の一部である。
『大きな雲は赤茶けた山腹に藍と紫の影を投げている。陸地にとり囲まれた湾の水はアドリア海のように青い。青白い小舟の白帆は紺碧の空の下で雪よりも白く見える。町の背後に聳える二つの山は、杉の林におおわれて、それほど険しくも見えない。砂浜が岬と本土を結んでいるので、ジブラルタルと地形が非常によく似ている。・・・』前日の嵐の中、女史はその風、土砂降りの様を、アーガイルシア(スコットランド西部の州)に例えている。アーガイルシアは今、調べてみるとアーガイル・ビュートとあるが、シアはランカシャー(雨がよく降る、雨を気にしない牛さんがたくさん)、ヨークシャー(雨が大嫌いな羊さんがたくさん、よって、雨は少ない)の「シャー」と同じなのだろうか。シア→シャー→州。それはともかくも、ランカシャーはアーガイルと同じく西部、女史がいうように、よほど嵐のような雨が多いのだろう、上陸したばかりの函館あるいは前々夜(黒石)、前夜(青森)も含めて、この辺りがアーガイルに似て、自然の脅威に曝されていると、女史が実感されたことは、それから70数年後(1954年)におきた洞爺丸の惨事でもって、わたくしにも、わずかながら想像できる。あるいは、以前訪れたときの雪は少ないけれど、風が強く、しびれるという、青函(シア)独特の気象条件にも共通しているのだろうか。
本日は、ただ単に湯の川の温泉に浸かったことを(自慢として)書こうと思っていたけれど、想いが飛んでしまっている。前記バード女史の著書を繰り返し読んでいる。実は、上記拙ブロ内で、女史はサッポロを知らないのではと書いているが、こまめに当たって(読んで)いたら、函館滞在から何日か後に、その文字が登場していた。もちろん、ろくに読みもせず、断言(記)している、わたくしが悪いのであるが、女史のお蔭でもって、函館からスコットランド(アーガイル・シア)そしてアイルランド(チッペラリ、ドニゴール)へと心だけは馳せている。引き続き、書きたいと思う。想いが強すぎたのか、もう、恵方の日は過ぎ、鬼さんたちも御勤めを終えたようである。ご苦労様。
[湯の川の湯に浸かった(自慢)]

[川べりを歩いていると、向かってきた飛行機。当然、わたくしは乗っていない、JAL1164]

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