2006.03.31

2枚のカルタ

 今、二枚の地図を見較べながら、おおいに悩んでいる。大げさにいえば一年前からである。ことによっては、其処に行かないと、納得できないのかなとも思っている。何度か通りがかった場所ではあるが、浅薄なわたくしが知る由もない。今夜もまた、コッチとアッチに左右上下に首を傾けながら、地図を置き換えながら、悩みは深まるばかりである。☆



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2006.03.23

中空(hollowな夜)

 運良くというのか、偶然ということなのではあるが、また、今日と明日という単に人間が都合よく区切っただけのことである時間の境い目でしかない(時)点付近に、暗い夜道を歩いていて、何気なく空を見上げると、東から南の方角に向けて、それほど高くない位置にぽっかりと、宇宙の果てから地球に向かって、放たれた弾丸が何年、何百年、何万年・・・かかったのかまで分からないけれど、ようやく到達して、その(弾)頭の部分がまさに地球圏内に入りかかろうとしているような形のように見えるお月様の、そのすぐ左斜め上方、水先案内人のように比較的明るく輝く星を見つけた。 (火星か)、と思ったけれどもそれはもうないはず。確か、2年後の再会に向けて、今は、わたくしたちから遠ざかっているはず。(拙ブロ「月火」(05年10月19日付) と、思い立って、天空を360度見回してみると、もう、星座たちは様変わりしていた。あの分かりやすいオリオン座が姿を消し、換わって、北斗七星(東北東に)、カシオペア座(北北西に)がお目見えしていた。そう考えると、もう、季節は冬から春に移っていても、何の不思議もない。わたくしの観察眼では、どうにも覚束ないので、戻り、星座観察で検索し、下記のソフト(Stella Player)をインストールして、 Midnight Tours−星空散歩− を楽しみながら、夜空を確かめている。(面白い!が、最近移行したFirefoxでは動かない)
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 木星(JUPITER)だった。この惑星の生みの親(モチロンそうではないが)、ジョヴァンニ・ドメニコ・カッシーニの生年月日(1625年6月8日)と歿年月日(1712年9月14日)のそれぞれ午前零時の中空を眺めてみた。生年は西に木星が認められるが、月を見つけることができない。では、と、歿年を見ると、ほぼ満ちている月と木星が南の空に、今ほどではないけれども、「やぁ、こんばんわ」程度の会話ができる距離にあった。(ただし、東京からの視点だけれど)
 本日はここまで。しばらく、夜空を楽しみたい。060319-20

 jo vie en



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2006.03.14

ベンチャー嫌い、あるいは苦手

 だらだらと、函館・湯の川温泉で想ったことの延長線を見ている。(拙ブロ「かんかん(函館)06年2月4日付)イザベラ・バード女史は1878(明治11)年夏、函館に渡っている。『日本奥地紀行』はその時の日記プラス宛てのない書簡集のような形式でもって書かれたもの(実際には妹へニーに宛てている)で、第一信の5月21日横浜、オリエンタル・ホテルで始まる。これに先立つ(むしろ出版の際に書かれたものであろうから、それにあと立つか?)「はしがき」の終盤に、女史が幾人かの方に対する謝辞を述べる部分がある。紹介すると、サー・ハリー・S・パークス(バス勲爵士)、イギリス公使館のサトウ氏、海軍兵学校のチェンバレン氏などの名がある。パークスは1865年から18年間、駐日公使として、ある意味日本の近代化に影響を及ぼした人物でもあり、母国での勲位もかなり高いようである。しかし、彼自身は列強英国の示威行為が目だって、当時の明治新政府にも評判はあまりよくなかったらしい。司馬遼太郎氏が酷評しているのだから、そのとおりなのであろう。むしろ、その下に配属されていたサトウの方に女史も感謝しているのかもしれない。アーネスト・サトウは当時の日本を一外交官としてみた書を何著か出されている。もちろん、わたくしは未読であり、実は、先日もよほど購入しようかと思ったけれど、今は、それどころではない(女史の著も途中だし)と手にはしたものの、棚に戻してきた。今でも高い評価を受けているサトウ氏の洞察力であるから、リアルタイムの中、女史が全幅に近い信頼を寄せていたとしても不思議はない。チェンバレン(バジル・ホール・チェンバレン)については語る必要もないであろう。日本を英国および欧州に広く知らしめたとしてあまりにも著名であり、同じ年生まれのラフカディオ・ハーン(ヘルンさんのほうがちょっと年上)との交流は有名で、書簡集もあるが、わたくしはまだ見たこともない。女史が横浜到着直後、またそれ以降も、お世話になったというのが米国人ジェームス・カーティス・ヘップバーン博士、ヘボン式ローマ字のお方である。バード女史は前記(↑)著作の前半で日光を訪れている際の記述の中で、逗留した金谷家についてふれられているが、のちの日光金谷ホテルもヘボン博士との縁がたいそう深く、女史も博士の紹介によって、そこを訪れている。また、女史がエゾ地に渡った際、すでにエゾ入りしていた人物の中にオーストリア公使館の(ハインリッヒ)フォン・シーボルトの名を見つけることができる。この章の女史の記述が面白い。「・・・彼ら(注;シーボルトら)は明日奥地探検旅行に出かけることになっていて、南部沿岸で海に入る河川の水源地を踏破し、いくつかの山々の高度を測定する予定である。彼らは食料や赤葡萄酒をふんだんに用意しているが、とても多くの駄馬を連れて行くので、その旅行は失敗に終わることを私は予言する。しかし、私の方は荷物を45ポンドに減らしているから、成功は疑いない。」と、半分彼をのことを案じながらも、相当のライバル意識を抱いているようにもとらえることができる。こちらのシーボルト(ハインリッヒ)は季節的にはまだ早いが紫陽花=オタクサ(お滝さん)の名づけ親であり、ハインリッヒの親でもある、わたくしたちに馴染みの深い大シーボルト(フィリップ)の次男、小シーボルトと呼ばれている。大森海岸の貝塚で有名なモースとのアイヌ説論争でも顔を出している。のちに『蝦夷見聞記』(わたくしは未読)を刊行しているのだから、それなりの「成功」を収めたのだろうが、女史著作の中では、成功か失敗か、女史の予言があたっていたかどうかの、確認は、まだ、できていない。
 このように明治初期に英国はじめ欧州、米国から、アドベンチャーたちが日本という「みちのくに」を訪れているのは、もちろん、版図の拡大を求めた各国の思惑が色濃く、そのお先棒を担がされているという解釈もできるであろう、ただ、個々の興味の範囲でもって、未知の領域を探ってみたいという「冒険」心あるいは「探検」心が欠乏していたとしたら、なかなかできるものではない。ただし、女史も言うように、用意周到、計画性を欠いては単なる危険を冒す行為にしかならない。また、冒険心のみではない、彼らには異文化に対する異常な好奇心が備わっていたのだろうとも思う。その点においてはわたくしたちはほとんどアドベンチャーという試みをしない性癖なのだろうか、あるいは教育によって、そう向かっているのか、明確な検証は行なっていないけれど、およそ冒険の類はしないし、異文化に対する熱が低いと感じるのは、単なる勘違いでしかないのであろうか。近年、冒険家といわれる人たちは、いずれも自然を対象とした分野である。初登頂、走破、横断・縦断、その行為の中には当然ながら、経過していく土地ごとの人文的な関わりがあるのだろうが、本意とはいえないであろう。西遊記の玄奘はじめとする三蔵法師たちの向かう先は異文化でなく、大陸よりもたらされた仏教という移文化の更なる探求のためという側面が強いような気がする、強いて言えば、冒険よりも探検に近いのであろう。いや、菅江真澄がいて、その前に少し動機が不明瞭だけれど芭蕉もいて、直近には宮本常一という方もおられるのではないか、しかし、彼らのことを民俗学者(研究者)と呼称することはあっても、冒険家とは誰も言わない、あるいは異文化への探検者と尊称されることもない。わたくしたちは長く、おそらく何千年もの間、隣のことを異文化と思わないで暮らしてきた、そして、そのまた隣についても同様で、そのようにして、遠くアジアを超える範囲まで、文化の差異を意識することなく、むしろ、「自」文化の押しつけを続けている。そのような特性をもつわたくしたちに異文化を探究するという資質があろうはずがないと考えれば、冒険など到底適わない所作であり、昨今流行りのベンチャーがいかに、逸(はや)りであるか、あるいは育てていくのが苦手であるかが理解できる。もう、そのことは明治の時代にもあって、おそらく、ずっと、その前から、引き続き、在ったのであろう。歴史とは積み移し、再び、そういう気分に陥ってしまうのだけれど、今のところ、それを否定する証もないし、もちろん、肯定できるだけの拠もない。どうも、バード女史を読んでいると、あっちこっち、さまよってみたい気にさせられる。今、また、ひとつ、寄り道しかかっていることがあるので、いずれ、書き留めたいと思っている。

Posted at 01:27 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2006.03.12

ブログデザインが変色

 深い意味はまったくなく、むしろ、浅い気持ちでもって、デザインを変えてみた。本来、わたくしが好きな緑を基調にしたテンプレートを拝借しただけのことであるけれど。緑地の上に青字では見づらいことは分かってはいるけれども、各標題の文字色にオベルジーヌビョラセ(#3300FF)を採用したつもりであるが、変更が活きているのかどうかも分からない。オベルジーヌは茄子、そろそろ初夏の味として、市場にもでるころである。(ま、年中、いるけど)ビョラセはviolaceumか、ヴィオラと同じ薄紫色なのだろう、小茄子を漬けたような色、というほどの意味あいであるけれど、どうも、わたくしの設定の仕方がトンでもない方向にいっているのか、まったく反映されている様子がない。慣れるまで、時間がかかりそうだけれども、少しづつ、整えていこうと思っている。
 なお、ブラウザもNETSCAPEからFIREFOXに意味もなく変えた。だからといって、拙ブログに及ぶものは何もない。

Posted at 00:59 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2006.03.06

Gaoth Dobhair(Gweedore)

 探してみるものである。Gaoth Dobhair(Gweedore)を見つけた。下記の地図は12travel.jpを拝見しながら、あっちこっち、移動していると、!という感じでもって、発見したG.Dである。
[見つけた]

© 1 2 Travel.com Ltd (Irl) 1999
© 1 2 Travel.com Inc. (US) 1999
 あっけない、そして素っ気ないブログであるけれど、とりあえず、ご報告まで。

Posted at 23:05 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2006.03.05

アマラント(#A300CC)

 引き続き、イザベラ・バード女史の『日本奥地紀行』をぱっらぱらと捲っている。先日の「かんかん(函館)」(06年2月4日付)でも書いたように相変わらず地図をみつめながら、アイルランドにも心を寄せている。繰り返すと、チッペラリ⇒ドニゴールへという指の動きが気になっていて、前者はほとんど、わたくしも、ああこの辺りだねという程度の思いにしか至らなかったけれど、後者については、ENYAさんが生まれたところなんだなぁという、程度の想いに至った。ドニゴールについては、ネット上の妄想・仮想旅行でしか、知る術がないけれど、あれこれ地図を眺めているが、アイルランドの片隅、ドニゴールの北東・・・、というガイダンスに従っても、未だにGweedore(ケルト語ではGaoth Dobhair)を探すことができていない。
 Amarantineというアルバムがリリースされ、同名の曲を時おりラジオで耳にする。アマランタイン、というらしい。辞書で引くと、出てこない、わたくしが普段用いているのが1970年版であるからということなのだろうか、しかし、ヒントはあった。Amarantineのtとiの間にhを入れてみると、Amarant'h'ineとなり、30年前の辞書によれば、【しぼむことのない、不死の、ハゲイトウの、赤紫色の】とある。こんな色のようである。⇒アマラント(#A300CC)・・・Copyright(c)1997-2006 Youhei.All rights reserved.
 アマラントの意味するひとつである葉鶏頭、その一種にヒユ科のアマランサス属で、学名はAmaranthus tricolor=三色)というのがあり、夏遅くから晩秋まで咲くそうである。
[ハゲイトウ・トリコロール](クリックするとより鮮明に)
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 わたくしは緑が好きである。以前「white(白)kick(蹴る)」で書いたへリングの色覚説によれば、赤の真向かいは緑、だから、本日は赤にこだわってみた。そして、実はわたくしの雑なHPのトップはアイルランド模様(のつもり)であり、いつか、また、訪ねてみたいという想いをもちながら、アマランタインという素的な曲を頭にためながらいる、買えばよいものを、あるいは着メロ(残念ながら、わたくしの携帯は着ウタ非対応)でも良いのだけれど、今は小さな容量の脳に納めておくほうが、よりアマランタイン(永遠)になるような錯覚に陥っている。
外務省・世界の国旗
少しだけ、ハゲイトウに似ているかも。
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 今夕、久しぶりにブルーモーメントを経験できた。転寝する赤児に慮って静止した揺り籠のように上弦の月が西南で水平に浮かぶ空は、夕焼けにも助けられて、青天がひろがった。どちらかといえば、無色、あるいは色に無感覚にならざるを得ない冬という時季を少しだけ越したのか、そう思いながら、見あげていた。

Posted at 23:59 | 雑に | COM(0) | TB(0) |