2006.08.13
月と停電
何日か前か(もう、それすら憶えていない)、拙ブロの右上、カレンダー上部に「ただ今の月」画像を拝借し、掲載している。もう、満月が終わり、欠け始めていくのが、パーセント表示でも、分かる。(見れば分かることだけれど)夜というのは幼い頃、たいへん怖くて、たった数十歩の距離でも一人で歩くのが嫌であった意気地なしのわたくしであり、当然ながら、今(夏休み)の時期、さかんに行なわれていた肝試し(お墓を歩くというか、なんというか・・・)には、誘われても「忙しいから」、と、断っていた。現在とは異なり、塾通いもない時代であるので、小学生の坊主が(明日から2学期という夜以外には)忙しいわけはないのであるが、ともだちも、深く追求せずに、やさしく、わたくしの(見え透いた)言い訳を認めてくれた。
今、夜は(さほど)怖くない。むしろ、明るいうち(白昼)の世の中の方がよほど怖く感じる。大げさに言えば、現世より来世の方が光って見える、親(ちか)しく思うのと同じような気分なのかもしれない。たとえ、それが新月の真っ暗闇でも素的に感じることさえある。こんなことを書いているきっかけというのは、先週何度か訪ねた湘南のことである。電車に揺られながら、昨年の今頃もやはり訪れており、同じような感覚でもって、書いていたことを思い出しながらいたからである。(翳:05年8月4日付)及び翳と影:05年8月5日付)ついでながら、一昨日の「22%(±5)〜腕時計着装率2006年夏版」についても、これは偶然ではあると思うけれど、自分の身に何かを着けることが嫌いというようなことを書いている。(時計、季計:05年8月7日付)見比べると、わずかな、もしかしたら、かけ離れた心境の違いがあるようにも思うけれど、はっきりとしたことは、わたくしには分析不可能である。あるいは、同じようなことを書くというのが、季節と相関性があるのかどうか、または、「毎年、厭きずに、同じこと書いて(想って)いるね」程度のことなのか、わたくしごとではあるのだが、そのことに、少し、好奇の心が向いている。
さて、おかげさまで、夜あるいは闇は以前ほど怖くなくなったけれど、今でも突然の暗闇は慌てるものである。昨日(12日)、停電に見舞われた。もう、その気配は近くに聞こえる落雷の音で察していたけれども、数分、停まった。まだ、外が薄・明るいうちであったことが作用したのか、あるいは、故障中のデスクトップに代わり、孤軍奮闘のノートパソコンから放たれる微光のお陰もあって、闇というほどの雰囲気ではなかったことも影響しているのであろうが、そのとき、わたくしは、冷蔵庫に納まっている呑みかけのワイン壜を取り出して、数欠片の氷とともに、グラスに注ぎ足していた。せっかく程度良く冷えているものを台無しにしたくなかったからなど、こちらについては、その行動分析は比較的たやすいことかもしれない。または、わたくし自身が停電状態であるのだから、ワインは充電用と位置づけておけばよい。世の中の(オオヤケの)停電よりもワタクシ停電の方を優先しただけのことである。
つまらぬことを書いているうちにも、お月様は欠けていく、実際に確かめるため、外に出てみると、素的だった。
今、夜は(さほど)怖くない。むしろ、明るいうち(白昼)の世の中の方がよほど怖く感じる。大げさに言えば、現世より来世の方が光って見える、親(ちか)しく思うのと同じような気分なのかもしれない。たとえ、それが新月の真っ暗闇でも素的に感じることさえある。こんなことを書いているきっかけというのは、先週何度か訪ねた湘南のことである。電車に揺られながら、昨年の今頃もやはり訪れており、同じような感覚でもって、書いていたことを思い出しながらいたからである。(翳:05年8月4日付)及び翳と影:05年8月5日付)ついでながら、一昨日の「22%(±5)〜腕時計着装率2006年夏版」についても、これは偶然ではあると思うけれど、自分の身に何かを着けることが嫌いというようなことを書いている。(時計、季計:05年8月7日付)見比べると、わずかな、もしかしたら、かけ離れた心境の違いがあるようにも思うけれど、はっきりとしたことは、わたくしには分析不可能である。あるいは、同じようなことを書くというのが、季節と相関性があるのかどうか、または、「毎年、厭きずに、同じこと書いて(想って)いるね」程度のことなのか、わたくしごとではあるのだが、そのことに、少し、好奇の心が向いている。
さて、おかげさまで、夜あるいは闇は以前ほど怖くなくなったけれど、今でも突然の暗闇は慌てるものである。昨日(12日)、停電に見舞われた。もう、その気配は近くに聞こえる落雷の音で察していたけれども、数分、停まった。まだ、外が薄・明るいうちであったことが作用したのか、あるいは、故障中のデスクトップに代わり、孤軍奮闘のノートパソコンから放たれる微光のお陰もあって、闇というほどの雰囲気ではなかったことも影響しているのであろうが、そのとき、わたくしは、冷蔵庫に納まっている呑みかけのワイン壜を取り出して、数欠片の氷とともに、グラスに注ぎ足していた。せっかく程度良く冷えているものを台無しにしたくなかったからなど、こちらについては、その行動分析は比較的たやすいことかもしれない。または、わたくし自身が停電状態であるのだから、ワインは充電用と位置づけておけばよい。世の中の(オオヤケの)停電よりもワタクシ停電の方を優先しただけのことである。
つまらぬことを書いているうちにも、お月様は欠けていく、実際に確かめるため、外に出てみると、素的だった。
2006.08.11
22%(±5)〜腕時計着装率2006年夏版
わたくしは腕時計をつけない。それどころか、腕輪も、鼻輪も、耳輪も、一切、縁がない。輪類はともかくも、時計のほうは、おそらく携帯電話をもつようになってからであろう。同じ(重なる)機能を有す品をふたつ持つ意味がないという考えからだったと思う。以来、わたくしの両腕は、みすぼらしいうえに、殺風景である。で、そのこと(腕時計着装または装着率)が大変気になっていて、例のごとく電車内観察を数日間続けてみた。その結果が標題の数字である。かなり、いい加減なカウントであることを承知で続けると、|棒に比べ、女性の方が着けていない、また、男性の場合、背広を脱ぎ、半袖シャ〜ツの人ほど着装率が低いという感触を得た。観察期間が夏だから、汗がたまってイヤダなあという人も多いため、着装率が低いのかなぁという見方もできよう。で、もしかしたら、と思いサイトを調べていると、あった。02年調査とやや古いが、空間創造株式会社が行なっている《ちょうさドットコム第2回アンケート調査》の『腕時計についてのアンケート』(腕時計・携帯電話、あなたはどっち調査)である。これによると、全体では3割弱の人が「携帯電話」のみと回答している。男女別では女性の方が携帯のみ派が多い。わたくしの、いい加減な観察と傾向が似ているというのは同社にとって、良いのかどうか分からないけれど、さらに、結果をながめてみると、時間感覚との相関関係を分析した項では日々の時間にザッパな人ほど腕時計着装率が低いという興味深い傾向があらわれている。ということは、電車内観察でもって腕時計をしていない人はオオムネ・ザッパだということなのであろうか。とはいえ、よほどの場所でない限り、今ではどこにでも時計「ぐらい」あるので、それで十分であるという人もおられるだろうから、未着装(非装着)=ザッパと言い切るのは、それこそザッパであろう。また、中には「気取って(こだわって)」懐中時計を持っていたり、腕時計なのに、こっそりカバンに仕舞っている方もあろう。観察だけでは見えないことも多いので、やはり、即断は危険である。ただし、わたくしの場合は「ザッパであるから腕時計をしていない」で、間違っていないと思う。
今はどうなのであろうか、よく分からないけれど、以前は、腕時計というのは質草として通用していたこともあり、万が一(金欠)のことを考えて、分不相応の高級(金ぴか)腕時計を無理をしてまで購入・所有していた貧乏学生もいた。(当然、0101の月賦であるが)前出ちょうさドットコムの時間との相関関係の質問冒頭にもあるように、「時は金なり」とは、よく言われることであるが、この(貧乏学生)場合は「時計は金(質草)なり」ということであろう。ちなみに同調査の1回目も面白い。読んでいるとよけいに暑くなる、お題目だが、ぅむぅむ、わたくしはX番だなぁ、と思いながら、まっ、食べる相手にもよるのかなぁ、という思いにもいたる。要するに、好物が同じ相手とはオデンや鍋は一緒に食べない方が良いということなのであろう。あるいは、寂しいかもしれないけれど、一人で食べなさいということかもしれない。
で、本日は、何が書きたかったのか、
『携帯電話だけ持ち歩いている人は、若い層ほど多い』
という同調査の分析結果をお知らせしておきたいと思っただけのことである。(暑)
今はどうなのであろうか、よく分からないけれど、以前は、腕時計というのは質草として通用していたこともあり、万が一(金欠)のことを考えて、分不相応の高級(金ぴか)腕時計を無理をしてまで購入・所有していた貧乏学生もいた。(当然、0101の月賦であるが)前出ちょうさドットコムの時間との相関関係の質問冒頭にもあるように、「時は金なり」とは、よく言われることであるが、この(貧乏学生)場合は「時計は金(質草)なり」ということであろう。ちなみに同調査の1回目も面白い。読んでいるとよけいに暑くなる、お題目だが、ぅむぅむ、わたくしはX番だなぁ、と思いながら、まっ、食べる相手にもよるのかなぁ、という思いにもいたる。要するに、好物が同じ相手とはオデンや鍋は一緒に食べない方が良いということなのであろう。あるいは、寂しいかもしれないけれど、一人で食べなさいということかもしれない。
で、本日は、何が書きたかったのか、
『携帯電話だけ持ち歩いている人は、若い層ほど多い』
という同調査の分析結果をお知らせしておきたいと思っただけのことである。(暑)
2006.08.10
あしをどる(阿南阿波をどりの巻)
所用の短さに較べ、非・所用時間の長い四日間(7・24〜7・27)であった。断っておくけれども、今回は一切、画像はない。撮るつもりも、そういう気分にもならなかった。また、わたくしなどがとらえなくても、多くの、より選れた作品が世にたくさん出ているので、その必要も殊更ない。阿波踊りの醍醐味はいくつかあるのであろう、踊る阿呆、観る阿呆、いずれの阿呆にも、その人ごとの導(しるべ)のようなものがあって、それでもって、阿呆の世界へと導かれていくのであろうか。わたくし(という阿呆)の場合は、翳であった。真夏の夜の、できればお月様が輝いている頃に踊り手の翳を追う。そういう(卑しい)楽しみ方をしていた。あるいは、をんな踊りの編み笠の中を想像しながらという卑(ら)しい阿呆であったが、今回は、ふと、足が気になった。やはり、卑しいのか、をんな踊りのほうである。昨年まで、それとは気づかなかったけれども、柔らかく、幽玄で、ゆったりとした手の動きに反して、足は違った。ぞめきにあわせて、諸手同様に諸足も動くが、今回観るまでは、ただ、足をすくっと上げている程度の認識でしかなかったけれども、よくよく観察すると、上がった足をそのまま空中に置き去りにして、前後に揺らしていた。繰り返すと、上げた足は、単純に着地するのではなく、前に、後ろに、足首をひねるような形でもって、動かしており、数秒間、いずれかの足は宙にあり、その「足」所作が踊り終わるまで続く。わたくしであれば、確実に、数歩(以下)で、攣っている。
後日(三日目)、踊り手たち(連中)と偶然に顔をあわす機会があり、足並みが揃っていて、きれいだったと、その前後運動のことを褒めた、というのか、初めて気づいたことを伝えると、(今頃、気づいたの)という顔をされ、(まだまだ、観る阿呆としての修行が足りないのだから)「来年も会いましょうね」・・・と諭されているようで、そうですね、と、観る阿呆の答える声は、ぞめきの音色はもう昨夜で終わっているのに、その音にかき消されているような、薄い存在であった。
今年の徳島市の阿波踊りは暦の巡りにも恵まれている。いつにもまして、阿呆の数が多くなるかもしれない。もちろん、阿南の踊り阿呆連中も出張っていく。
後日(三日目)、踊り手たち(連中)と偶然に顔をあわす機会があり、足並みが揃っていて、きれいだったと、その前後運動のことを褒めた、というのか、初めて気づいたことを伝えると、(今頃、気づいたの)という顔をされ、(まだまだ、観る阿呆としての修行が足りないのだから)「来年も会いましょうね」・・・と諭されているようで、そうですね、と、観る阿呆の答える声は、ぞめきの音色はもう昨夜で終わっているのに、その音にかき消されているような、薄い存在であった。
今年の徳島市の阿波踊りは暦の巡りにも恵まれている。いつにもまして、阿呆の数が多くなるかもしれない。もちろん、阿南の踊り阿呆連中も出張っていく。
2006.08.07
参拝と惨敗
おじさんは8・4も湘南に。所用をさっさと切り上げると、ある方への暑中見舞い用にと、開港資料館に向かい、絵葉書を求め、ついでに、酷暑の中、水町通り(拙ブロ06年4・26付)をふらふらと。さらに、ついでに、中華街にうかがった。やはり、気になっていたので、旅館オリエンタル(拙ブロ06年4・24付)のドアを押し、中へ入ってみた。直ぐ、左横に、従業員用の仮眠室なのか、宿泊客用のラウンジなのか判別のつかない部屋があって、無造作に物が置かれていて、あれあれという感じである。人が出てこないので、さらに観察してみると、細長い建物の左側に赤いドアが印象的な(?)客室がいくつかあり、2階にも何室かありそうである。右にはフロントらしきカウンター、しばらくすると、男の人が出てきて、はい?という顔をされたので、パンフレットを戴けるかと尋ねると、ありませんと答えられ、かわりに、1泊3500円、バス付き4500円であることを教えられた。いつか、泊まってみようかと、弱々しい意思をもって、お暇した。2009年、開港150年の告知が街中に目立ったハマのまちである。
さて、突然ではあるけれど、参拝問題が騒がしい。基本的に、行く行かないは本人の勝手、というのが、わたくし的考え方であり、他人が判断することではないと思っている。自身の信念に基づく行動こそが、信仰の礎であり、それゆえに、宗(しゅう=私有)教といわれるのであろう。以前、ロシヤ旅行からの帰途、ずっと一緒だったオーストリア人と東京で呑んだ際に、渡そうとしたお守りを拒絶されたことがある。「僕には、もう神様がいるから、ふたりは持てない」というのが彼の『理由』であった。生来、無宗教のわたくしだとはいえ、お土産程度の軽い気持ちであったことが悪いのであり、大仰にいえば、彼の信念に対する冒瀆行為なのであったのであろう。やはり、個々の信念(信仰、宗教)、また、それに基づく行動(参拝)を非とする権利は何人にもないはずである。ただし、信念の背中には責任という荷を背負っていることはいうまでもない。
で、また、突然であるが、今先週半ばに行なわれたボクシングのタイトルマッチの方も騒がしい。わたくしは、見ていないのだから、言う(書く)権利はないのかもしれないけれど、書きかけたので、続ける。・・・実は、このブログの書き始めは5日で、同日だったかJBC(日本ボクシングコミッション) や放映局が、以下で書く「ラウンドマスト」制という現在のボクシングにおける一般的ルールについて、喧伝しだしことを知り、書きかけのまま、どうしたものか、思案していた。ある意味、以下の文章は彼らを庇護することになるのかもしれないという覚悟のうえで、ま、そのことが本意ではないという手前勝手なルールでもって、書き続けることにした・・・。
もう10数年か、世界のボクシング採点における原則は「疑わしきは罰する」というもので、仮に、あるラウンドの攻防で両者がワンパンチさえも出さずに、ひたすらリング上を巡回していたとしても、ジャッジメントはいずれかに10(満点)をつけ、他者には罰として9(マイナス1)とすることが当たり前となっている。今回における1Rのようにダウンがあるなど優劣が明らかな場合(一般的ルールではダウン1回でマイナス2、2回でマイナス3)は別として、曖昧なラウンドについての採点基準は、第一にクリーンヒット(相手にパンチが当たり、ダメージを与えた)、次に、ダメージはともかくも、攻勢(攻める姿勢が感じられる)なのは誰(どちら)か、で、両者攻める姿勢がない場合やよく分からな〜い場合は、防御技術が優れているなどを総合して、全体的にどっちが良かったか、といった優先順位でもって、とにかく、ラウンドごとに優劣をつけなさいということである。かつて、モハメド・アリ氏がラウンドごとに優劣をつけ、その結果を合算して勝敗を決したこと(試合)があるけれど、この方法を採った場合、極端なことをいえば、12ラウンド制として、5ラウンドでダウンを喫した惨敗必至の選手でも、残りの7ラウンドでポイントを稼げば、7:5で勝つことができるというので、この手法はその後、採用されなかったような記憶があるが、現在の基準はこれに近いシステムかもしれない。それではと、今回の試合について、後日の採点表を確認してみた。12ラウンド中4ラウンドは3人のジャッジが同じであり、この4回については異存をはさめない(ことにする)。さて、残りの8ラウンドは2人のジャッジが同じで、1人が異なる採点という状況である。例えば、前2者はA:Bを10:9とし、他一者が9:10と採点したとする。2者はAがたった一つ放ったパンチが相手(B)に当たり、効果があったと判断したのであろう、一方、一人はAの1パンチよりも、ラウンド(3分間)を始終、当たってはいないけれども、数多くパンチ(手数)を出しているので、優先順位の2番目を採ったということであろうか。体操などでもジャッジにより採点が異なるように、人の目はそれぞれ別の見方をすることは致し方ないことであり、同じラウンドを10:9と9:10とすることは、現在のルール上では大いにありうることなのである。ただ、体操は小数点第2位までだったか(?)、ボクシングはそこまで細かくないので、結果的には勝敗を左右する差を生じさせるため、今回のように騒ぎも大きくなるのであろう。さて、改めて採点表を眺めてみると、3ジャッジは8ラウンドでいずれか1人が他2者と異なる採点となっているが、1者(仮にXさん)だけは、どのラウンドも他の2者いずれかと同じ採点をしていることに気づく。言い換えれば、他の2者は自分だけ、他2者の採点と異なるラウンドをもっていることになる。このことだけで決められることではないけれど、少なくとも、Xさんは孤立することなく、常に多数(といっても2対1だけど)側に立って(採点して)おり、この試合における平均的な採点をしていたと仮定しておけば、(見ていなくても)この試合を想像することができよう。いえ、見ていないからこそ、想像できるのかもしれないけれど、現行のルール上では、接戦だったのであろう、結果的に114:113ということであるが、Xさんも、どっちつかずのラウンドがあって、その1回を逆に振り分けていたら、今頃、こんな騒ぎになっていないだろうし、拙ブロもなかった。ただ、ルール上の判定では間違いはなかったと、想像するしかない。(見ていないからね)
この二つの件(参拝と惨敗)に関して言えば、いずれもルールを置き去りにして、議論(あるいは報道)ばかりが先行している点が気になるし、そのルールさえ、曖昧なことが、「騒ぎの上塗り」にもなっている。このような状況においては、いっそのこと靖国もボクシングもやめてしまえば?程度のジャッジメントでも良いのかもしれないけれど、それでは騒ぎがより広がろう、せめて、置いてきたルールを取りに戻って、もう一度(あらためて)騒いでみるというのでは、どうであろうか。今回は、長々と、つまらぬことを書いてしまったので、よけいに、暑苦しい日となった。61年前の今頃も、このような暑さの中の出来事であったと聞いている。三拝(無宗教で、申し訳ないけれど)
さて、突然ではあるけれど、参拝問題が騒がしい。基本的に、行く行かないは本人の勝手、というのが、わたくし的考え方であり、他人が判断することではないと思っている。自身の信念に基づく行動こそが、信仰の礎であり、それゆえに、宗(しゅう=私有)教といわれるのであろう。以前、ロシヤ旅行からの帰途、ずっと一緒だったオーストリア人と東京で呑んだ際に、渡そうとしたお守りを拒絶されたことがある。「僕には、もう神様がいるから、ふたりは持てない」というのが彼の『理由』であった。生来、無宗教のわたくしだとはいえ、お土産程度の軽い気持ちであったことが悪いのであり、大仰にいえば、彼の信念に対する冒瀆行為なのであったのであろう。やはり、個々の信念(信仰、宗教)、また、それに基づく行動(参拝)を非とする権利は何人にもないはずである。ただし、信念の背中には責任という荷を背負っていることはいうまでもない。
で、また、突然であるが、
もう10数年か、世界のボクシング採点における原則は「疑わしきは罰する」というもので、仮に、あるラウンドの攻防で両者がワンパンチさえも出さずに、ひたすらリング上を巡回していたとしても、ジャッジメントはいずれかに10(満点)をつけ、他者には罰として9(マイナス1)とすることが当たり前となっている。今回における1Rのようにダウンがあるなど優劣が明らかな場合(一般的ルールではダウン1回でマイナス2、2回でマイナス3)は別として、曖昧なラウンドについての採点基準は、第一にクリーンヒット(相手にパンチが当たり、ダメージを与えた)、次に、ダメージはともかくも、攻勢(攻める姿勢が感じられる)なのは誰(どちら)か、で、両者攻める姿勢がない場合やよく分からな〜い場合は、防御技術が優れているなどを総合して、全体的にどっちが良かったか、といった優先順位でもって、とにかく、ラウンドごとに優劣をつけなさいということである。かつて、モハメド・アリ氏がラウンドごとに優劣をつけ、その結果を合算して勝敗を決したこと(試合)があるけれど、この方法を採った場合、極端なことをいえば、12ラウンド制として、5ラウンドでダウンを喫した惨敗必至の選手でも、残りの7ラウンドでポイントを稼げば、7:5で勝つことができるというので、この手法はその後、採用されなかったような記憶があるが、現在の基準はこれに近いシステムかもしれない。それではと、今回の試合について、後日の採点表を確認してみた。12ラウンド中4ラウンドは3人のジャッジが同じであり、この4回については異存をはさめない(ことにする)。さて、残りの8ラウンドは2人のジャッジが同じで、1人が異なる採点という状況である。例えば、前2者はA:Bを10:9とし、他一者が9:10と採点したとする。2者はAがたった一つ放ったパンチが相手(B)に当たり、効果があったと判断したのであろう、一方、一人はAの1パンチよりも、ラウンド(3分間)を始終、当たってはいないけれども、数多くパンチ(手数)を出しているので、優先順位の2番目を採ったということであろうか。体操などでもジャッジにより採点が異なるように、人の目はそれぞれ別の見方をすることは致し方ないことであり、同じラウンドを10:9と9:10とすることは、現在のルール上では大いにありうることなのである。ただ、体操は小数点第2位までだったか(?)、ボクシングはそこまで細かくないので、結果的には勝敗を左右する差を生じさせるため、今回のように騒ぎも大きくなるのであろう。さて、改めて採点表を眺めてみると、3ジャッジは8ラウンドでいずれか1人が他2者と異なる採点となっているが、1者(仮にXさん)だけは、どのラウンドも他の2者いずれかと同じ採点をしていることに気づく。言い換えれば、他の2者は自分だけ、他2者の採点と異なるラウンドをもっていることになる。このことだけで決められることではないけれど、少なくとも、Xさんは孤立することなく、常に多数(といっても2対1だけど)側に立って(採点して)おり、この試合における平均的な採点をしていたと仮定しておけば、(見ていなくても)この試合を想像することができよう。いえ、見ていないからこそ、想像できるのかもしれないけれど、現行のルール上では、接戦だったのであろう、結果的に114:113ということであるが、Xさんも、どっちつかずのラウンドがあって、その1回を逆に振り分けていたら、今頃、こんな騒ぎになっていないだろうし、拙ブロもなかった。ただ、ルール上の判定では間違いはなかったと、想像するしかない。(見ていないからね)
この二つの件(参拝と惨敗)に関して言えば、いずれもルールを置き去りにして、議論(あるいは報道)ばかりが先行している点が気になるし、そのルールさえ、曖昧なことが、「騒ぎの上塗り」にもなっている。このような状況においては、いっそのこと靖国もボクシングもやめてしまえば?程度のジャッジメントでも良いのかもしれないけれど、それでは騒ぎがより広がろう、せめて、置いてきたルールを取りに戻って、もう一度(あらためて)騒いでみるというのでは、どうであろうか。今回は、長々と、つまらぬことを書いてしまったので、よけいに、暑苦しい日となった。61年前の今頃も、このような暑さの中の出来事であったと聞いている。三拝(無宗教で、申し訳ないけれど)
2006.08.03
こどもんどころ
所用(しょよう=おしごと)で湘南(しょうなん)に再(ふたた)び出向(でむ)いた。浜(はま=うみ)方面(ほうめん)への乗換(のりかえ)駅(えき)は、家族(かぞく)づれ(ただし、母=ママ・(と)子=キミ)でごった返(がえ)している。所用は幸(さいわ)い、そこから、陸(オカ=ちょっとむずかしいことばだよ)方面へ向(む)かうので、影響(えいきょう)はさほど受(う)けない。この時季(じき)、すなわち、お盆(ぼん)前(まえ)の海(うみ=キミたちがいったところだね)は「かきいれ」どきであり、本日(ほんじつ=きょう=8月3日)あたりは、海の家(うみのいえ=かきごおりたべたところだよ)の方(かた=ひと)も、今(いま)ごろ、記帳(きちょう=ママにきいてね)する心(こころ)を弾ませて(うきうきさせて)いることであろう。
さて、標題(ひょうだい=こどもんどころ)は京成(けいせい=しらないかもしれないね、パパにきいてね)バス及(およ)びそのグループが発売(はつばい)しているお子チャマ(キミのことだよ)向(む)けのフリーパス・バス券(けん)のことである。わたくしが気(き)づいたのは昨年(さくねん)あたりであるけれど、どうもだいぶ前から行なわれているらしい。気になって、京成バスに電話(でんわ)してみたけれども、営業時間外(えいぎょうじかんがい=しまっていたよ)であったので、本日のところは分(わ)からずじまいであるけれども、サイトなど調(しら)べた限(かぎ)りでは数年(すうねん=3〜5ねん)前からのようである。また、夏(なつ)のみではなく、春休(はるやす)みにも発売(はつばい)されるらしい。記憶(きおく)では昨夏(さっか=きょねんのなつ)はピンズ(バッヂ)のようであったけれど、今夏(こんか=ことしのなつ=いまだよ)は「ただの」定期(ていき)券(けん)型(がた)、いっそのこと、印籠(いんろう=おじぃちゃんにきいてね)形(がた)にと思(おも)うのだけれど、それでは経費(けいひ=おかね)がかかるのであろうか、なにしろ、1ヶ月(8月いっぱい)乗(の)り放題(ほうだい)で1000円、毎日(まいにち)乗(の)れば16円(往き復り=いきとかえり=1000円÷31日[にち]÷2回[かい])という破格(はかく=やすい)なので、もともと、原価(げんか)割(わ)れ(いみはおとなになったらね)に近(ちか)いのかもしれない。確認(かくにん)できた範囲(はんい)では限定(げんてい)3000枚(まい)が、いつのまにか2000枚に減(へ)っているのも、そのあたりが起因(きいん=おおきくなったら、わかるよ))しているかもしれない。
『こどもんどころ』(クリックしてね)
わたくし自身(じしん=じぶん)、あまり京成バスに乗ることはないので、この標題(ひょうだい=こどもんどころ)パスを携(たずさ)えて(もって)、お伴(とも=ともだちだよ)を引(ひ)きつれている光景(こうけい)にでくわしたことはないけれど、そういう目(め)にお遭(あ)いした方(かた=ひと)もいるのだろう。ただし、この時季(じき)、ただでさえ、嫌(きら)いな学校(がっこう=きらいだよね)へ行(い)かなくても済(す)むし、山(やま)へ海(うみ)へと遊(あそ)びに行(い)くことができるので、心(こころ)が弾(はず)む(うきうきする)のは分(わ)かるけれども、わたくしには、こどもんどころは、眼(め)に入(はい)らないので、お子チャマたち(きみだよ)、バスや電車(でんしゃ)の中(なか)を走(はし)らないでね。そういう類(たぐい)のパスではありませんし、パスを持(も)っていなくてもね。
分(わ)からないことがあったら、誰(だれ)かに聞(き)いてね。コメント、トラバでもイイよ。
おじさんは、明日も湘南へ行くからね。
さて、標題(ひょうだい=こどもんどころ)は京成(けいせい=しらないかもしれないね、パパにきいてね)バス及(およ)びそのグループが発売(はつばい)しているお子チャマ(キミのことだよ)向(む)けのフリーパス・バス券(けん)のことである。わたくしが気(き)づいたのは昨年(さくねん)あたりであるけれど、どうもだいぶ前から行なわれているらしい。気になって、京成バスに電話(でんわ)してみたけれども、営業時間外(えいぎょうじかんがい=しまっていたよ)であったので、本日のところは分(わ)からずじまいであるけれども、サイトなど調(しら)べた限(かぎ)りでは数年(すうねん=3〜5ねん)前からのようである。また、夏(なつ)のみではなく、春休(はるやす)みにも発売(はつばい)されるらしい。記憶(きおく)では昨夏(さっか=きょねんのなつ)はピンズ(バッヂ)のようであったけれど、今夏(こんか=ことしのなつ=いまだよ)は「ただの」定期(ていき)券(けん)型(がた)、いっそのこと、印籠(いんろう=おじぃちゃんにきいてね)形(がた)にと思(おも)うのだけれど、それでは経費(けいひ=おかね)がかかるのであろうか、なにしろ、1ヶ月(8月いっぱい)乗(の)り放題(ほうだい)で1000円、毎日(まいにち)乗(の)れば16円(往き復り=いきとかえり=1000円÷31日[にち]÷2回[かい])という破格(はかく=やすい)なので、もともと、原価(げんか)割(わ)れ(いみはおとなになったらね)に近(ちか)いのかもしれない。確認(かくにん)できた範囲(はんい)では限定(げんてい)3000枚(まい)が、いつのまにか2000枚に減(へ)っているのも、そのあたりが起因(きいん=おおきくなったら、わかるよ))しているかもしれない。
『こどもんどころ』(クリックしてね)
わたくし自身(じしん=じぶん)、あまり京成バスに乗ることはないので、この標題(ひょうだい=こどもんどころ)パスを携(たずさ)えて(もって)、お伴(とも=ともだちだよ)を引(ひ)きつれている光景(こうけい)にでくわしたことはないけれど、そういう目(め)にお遭(あ)いした方(かた=ひと)もいるのだろう。ただし、この時季(じき)、ただでさえ、嫌(きら)いな学校(がっこう=きらいだよね)へ行(い)かなくても済(す)むし、山(やま)へ海(うみ)へと遊(あそ)びに行(い)くことができるので、心(こころ)が弾(はず)む(うきうきする)のは分(わ)かるけれども、わたくしには、こどもんどころは、眼(め)に入(はい)らないので、お子チャマたち(きみだよ)、バスや電車(でんしゃ)の中(なか)を走(はし)らないでね。そういう類(たぐい)のパスではありませんし、パスを持(も)っていなくてもね。
分(わ)からないことがあったら、誰(だれ)かに聞(き)いてね。コメント、トラバでもイイよ。
おじさんは、明日も湘南へ行くからね。
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