2006.11.26

北関東垂れ記6〜空中都市ぬまた

 上州の熱暑と空っ風は、夏と冬とを対称する自然の厳しさとしてあまりにも有名である。今夏、訪れた際も軽い熱中症になりかけて、参ったと、先日も書いたけれど、尋常ではない。合併により、上州の東北端を広く占めており、野州(下野国)日光とも境を接するようにもなった、その町の気温を調べてみると、最高気温は78年以降35℃超の年が多く、37度が87年に記録されている。最低はというと、零下10℃が目安となり、−13.5度(84年)が底である。(いずれも気象庁データ)
 やはり、暑い、寒いの部類に入ろう。
 ちなみに山形市40.8度(33年7月25日)、北海道旭川市−41度(1902年1月25日)は歴代1位の高と低、11月をみると最高気温を記録しているのは東京都内、逆に最低は静岡県内と気象庁の「気象統計情報 > 気象観測(電子閲覧室) > 歴代全国ランキング」にはある、沖縄でも、北海道でもないらしい。
 さて、沼田市である。05年2月13日に白沢村・利根村を編入し、443.37k屬北鵤毅,000人が暮らしている。中心となるのは今は公園となっている沼田城(17世紀末に事実上廃止)辺りであろう。ココを前記気象庁の観測地点と考えれば、標高(海抜)439メートルとなっており、「麓」のJR上越線側からは小高い山を形成しているように見える。初めて、訪れた時には標題の空中都市〜まるで、ペルーのマチュピチュのような町だなぁと無知そのものであったけれど、のちほど、調べてみると、「河岸段丘」であった。今回(ただし、これは5月末のこと、ドイツ珈琲の店『夢』の帰り、拙ブロ06年6月3日付)、初めて、駅から歩いた。さすがに、JRもこの丘を越えるだけの気力はなかったのであろうか、現在でも街の中心は丘の上にあるが、鉄道からの市民は、あるいは訪問客はバスなどに頼らないと、街にたどり着けない構造となっている。そのことが築城には適していたのでもあろう。地形状、この南は両毛平野であり、関東への要衝に位置し、歴史の中で何度も争奪戦が繰りひろげられたと「沼田市のHP」にもある。一応、バスもあるらしいが、待つぐらいであれば歩いてみようと、月夜野で降られた雨も上がったようなので、無茶をしてみた。新緑の鮮やかな野を眺めながら、一歩一歩、視界が高まり、広がっていく。河岸段丘というのは珍しい現象というほどのことでもなく、日本のように河川が多く、しかも「小」河である場合、流れは急にならざるをえないので、浸食作用が大きく、土地の隆起、川床の侵食という運動を繰り返しながら、沼田のような土地を生み出した。要するに縦方向でプラス(天)とマイナス(地)の力が働いているうちに、何層にも丘が形成されていく。ちょうど、出汁捲き卵を丹念に作ろうと思えば、ひと巻き終えて、脇に置き、次の巻きをフライパンの真ん中付近にこしらえて、で、また、脇へと・・・この繰り返しで美事な出汁捲き(より堅固な地塊としては厚焼きの方が適切な表現か?)ができあがるように、河岸段丘は形成される。丘の上は秀でた調理人が作ったように、ほぼ均等に平らであり、おそらく、建物が存在しない状態であれば、向こう(片品川左岸)のような段(たん=坦)とした容姿なのであろうか。ここは、後背の豊かな山々から「輩出」される銘木もある(最近は間伐材を活用しているようでもある)、また、前回訪れた時に、覘いてみようかなと思うところもいくつかあり、いずれにしても、次は、泊りにきてみたいものだと、この卵焼きの上に立ちながら、妄想していた。できることなら、出汁捲のようなふわんふわんとした枕もほしい。

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2006.11.16

けぬかわ

 標題の鬼怒川を望める場所に降り立ってみた。「今年は遅いですよ」という店じまい最中の方から教えていただいた。毛野(けぬ)の川とは、両毛(上毛野及び下毛野)を流れる暴れ河、ゆえに鬼が怒ったようなとも伝えられている。奈良時代に記録上では初めて洪水が起きたと印されているらしい。現在の茨城県八千代町川西地区では、その西側をクネクネと流れていたともある。(八千代町HPより)
[鬼怒川のちょっと早い(例年より遅い)黄葉・紅葉]


 本日は湯冷めしないうちに、おやすみなさい。

Posted at 20:52 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2006.11.15

ズレ勤★★★

 本日、打合せを終え、ぼ〜ぅっと街を歩いていたら、標題の文字及びそれが表示されているポスターに目がいった。(末尾の★三つは別だけど)懐かしいキャラクターを中心にして、通勤ラッシュを少しでも緩和しようという試みを推進する「快適通勤推進協議会」という厚生労働省、国土交通省及び首都圏の鉄道事業者などで構成されている組織によるものである。内容については各位ご確認いただいて、ご趣旨に賛同される方は実施していただければ良いのだろうが、おそらく、そういう奇特な方も少ないのではないかと思っている。まったくもって、どうして、そのような名づけになってしまったのか、そもそも、勤務内容(ソコに至る過程)がズレているとしか思えないので、逆三ツ星をつけてみた。もっとも、わたくしそのものが五つ星級にずれていることも付記しておく。
オフピーク通勤ポスター」(注2のリンク先もはっきりしないしぃ)

Posted at 21:46 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2006.11.14

疲れひ

 いずれ詳しく書きたいとも思っていたこと、スターリンは何故、シンメトリー(対称)がお気に入りかについて。本日、そのことをつい考えながら、出ていた会議、疲れた日でもある。ご褒美に、ひれかつサンドの画像を。
20061114224506.jpg


Posted at 23:08 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2006.11.11

北関東(赤辛い)垂れ記5〜餃子を忘れていた。

 拙ブロ「小麦粉〜北関東垂れ記3(館林)」(06年10月31日付)にて、北関東と小麦粉の「密な」関係について書いたが、すっかり、標題の件を逸していた。一昨日より宇都宮に出かけ、二晩連続で主食は餃子であった。焼き、水、揚げ、そして、フライも食べた。餃子に合うビールもいただいた。もう、有名なので、いずれのお店もお客さんが切れることなく、回転していた。この町が餃子で有名になった理由のひとつに、同市民の餃子消費量の多さがあるらしい。総理府「家計調査」をみると、都市別に品目ごとの消費量がでているが、参考までに03〜05年の数字(1世帯当り年間)をあげると、
03年/4,204円(2,001円)
04年/3,908円(1,898円)
05年/4,037円(1,855円)
 宇都宮市民は全国平均(カッコ内)の倍以上を食べており、他の都市を大きく上回ってもいる。ちなみに、統計表「餃子」の項目の左隣には「しゅうまい」とあって、こちらは予想どおり、横浜市が断然多くなっている。さて、この餃子消費量にかけては、うちが一番だと名乗りを上げたのが、来年にはめでたく政令指定都市となる浜松。残念ながら、上記家計調査は原則的に都道府県庁所在都市を基準に公表されているため、公式数字は存在しないのであるが、経験則的に、そう仰言られているらしい。わたくし的にはどっちでも良いことであるが、イメージだけで推せば、北関東に分があり、ソッチにはうなぎもあることだからと、ここは大人(政令市)の態度を望みたい気もする、などと思っていたら、一昨晩にうかがったバーで、宇都宮は「カクテルとジャズの街でもあるんです」と教えら(諭さ?)れた。後者はナベサダこと渡辺貞夫さんが同市出身ということも大いに関係しているのであろう、前者はジャズと関わっているのだろうか、そのあたりのことはよく分からないけれども、次回うかがった時は、今回は果たせなかったジャズを体験してみようかと思う。ジャズとカクテルと餃子、少し危ういバランス加減でもって、思わぬ酔いを生んでくれるのかもしれない。

Posted at 22:51 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2006.11.08

六花20号

 ブラウザ画面にメール機能をゲットし、とりあえず、ひと息ついている・・・。秋もおしつまり、遅れ気味であった「六(りっか)花」の秋号(通巻20号)をお送りすることが、ようやく、できた。もう、深くなっているのであろうか、ハバロフスクの秋。同記事の中に、アムール州のことがあって、いつか訪ねてみたいなぁと、指を銜えながら、楽しく読ませていただいている。もう、4年ほど前になるが、送られてきたHOME OF HOMEPAGEにあるシベリヤ私信の朱鮮・蒼明な夕景を再掲する。肝腎のページ上ではトラブル(わたくしの不始末であろう)により、みることがかなわない。
アムール河夕景


Posted at 20:14 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2006.11.06

ブラウザバージョンアップ

 したのは良いが、今までのようにメール側の乗り入れがうまくいかず、困っている・・・。それ以外は、ぅむうむ、ふぅ〜むぅ〜と、感心しながら使わせていただいている。ブラウザ名の一部にもなっているキツネで思い出したのは、ここ1か月ほど前から、街角の花屋さんでも見かけるようになった「フォックスフェイス」という観賞用の植物。あるお店では5ケタに近いお値段で売っていて、思わず、こちらの顔がキツネに。そういえば、昨年の今頃か、那覇の山羊屋さんにも綺麗に飾られていた。そのとき初めて、その名を知った。「カナリア(ヤ)ナス」、それが、わたくしの中の名前であり、もう10数年前に初めて房総のある町で見たことを想い出す。その時、花売りのおばさんにそう教えられた。いくらなのか、もちろん忘れているけれども、家の花瓶に挿したのだから、わたくしにも手が出るお値段だったと思う。
 この実はかなり日持ちがよく、今頃買っておいても、年末のお飾りまで、交換することなく、その愛らしい姿をみせてくれる。お花替えにマメでない人には向いているのかもしれない。先週は酉の市もあり、ますます年末にという気分が濃くなっている。365(あるいは366)日分の1日づつにしかすぎないのであるけれど、また、時間という無限帯の中ではどうということもないのであるが、やはり、大晦日と元日というのは、何か特別な力をもっているのであろうか、その気配が、今年も何もしなかったなぁという相変わらぬ自責の念とともに、近づいている。

Posted at 21:56 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2006.11.04

立ち呑み(公衆論)

 立ち呑みというお題で、今はもうないが、拙HPのコーナーで、以前書いたことがある。内容の骨子は、なぜ、新宿駅の構内(改札内)に立ち呑みバーがないのかといった、まったく仕方のないものであったけれど、近頃も、何度か街場の立ち呑み屋さんに立ち寄って、そこで公衆論を考えている。(呑むための単なる口実に過ぎないけれど)タルドの公衆論(公衆がなくなる日、拙ブロ05年12月1日付)を繰り返すと、ある一定のルールでもって、群衆が公衆となる、というようなものである。足を攣りながら、また一杯と重ねる間に、立ち呑みの精神に公衆論を見つけたといえば、それはそれで、はいはい、と、酔っ払いの話として、耳を傾けてくださる方もいらっしゃるかもしれないと、わたくしなりに、立ち呑みにおけるルールを整理してみた。(順不同)
 ‐ι福覆酒、肴)の対価はその商品を授受した時点で清算を行なう。
 空いている時はともかく、立ち位置は原則、カウンターに対して斜めとする。(この方がお客さんがたくさん収容できるので、お店は助かる、儲かる)
 D控錣鰐詰僉塀唾の某店では時間制限の札が掲げてあった)※この意味はもちろん回転率を高めるという経営原則にもよるが、あまり長くいると、足が攣るし(コレは、わたくしぐらいか)、酔っ払って、他のお客さんに迷惑をかけるからだと推測できる
 ぁ覆任れば)一人寂しく呑む。連れは1人まで。
 ァ覆任れば)隣の人に声をかけない、お隣さんも一人寂しく呑みたいのかもしれないから。※迷惑をかけないのは当然。
 他にもあるのだろうが、以上のようなところであろうか。ところで、拙ブロ「パブなきもち」(06年1月14日付)において、いわゆるパブ(こちらは公衆酒場といわれている)のルールを書いた。↑和風パブ(立ち呑み)ルールの中で´及びイ痢嵬堆任鬚けない」は共通するのであろう。ただし、△藁ってが原則であるが、本場パブには椅子席がある場合も多いので、△ぐらいであるけれども、一方で、和風パブの発展系にもビールケースや日本酒用の木箱を椅子とする事例があるので、ま、立ちでも座りでも構わないとして、ただし、(お店のために)できるだけ詰めてというのは共通項であるだろう。また、は上記のように座して呑むというパブ方式の場合をもっては、ある程度の長時間滞留はいたし方がないことと考えざるを得ないが、むしろ、さ擇唹貮ァ蔑戮凌佑棒爾鬚けない)に関わるところでは、若干異なる面もあり、パブに出かけて、わざわざ仏頂面していたり、ニヒルに呑んでいても、いたし方ないことなのであろう、やはり、それはそれなりに、演奏にあわせて、肩組んで、歌う(歌詞を知らない場合はフリをする)のも礼儀かもしれないし、おそらく、その場にいたのなら、自然に肩も揺れ、そのうち、ふれ合い、組んで、歌っている気分になるものなのであろう。ただし、↑にも書いたが、他のお客さんの迷惑になってはいけない、悪い思いをさせていけない、というのは当然である。そのことが、パブ=公衆ということなのであろう。
 ここまで書いて、どうしても、夏目漱石の三四郎にある「公(きみ)らはタイプライターにあらず」(拙BLOG、05年6月7日付)という表現が邪魔になっている。君ではなく、公が遣われている。公というのは、やはり、上から診(み)られている気分がある。もっとも、君(きみ)も同じであろうか、君主ともいう。そもそも、パブリックを公衆とあらわしたのは誰か、そういうことを調べていても、さっぱり分からないという難点が前提にあるけれども、「パブリック」と「公衆」は全く意味あいの異なったモノであると考えた方が、面倒くさくなくて良い。漱石(三四郎)氏が上記「公らは・・・」と留め書いてあったというヘーゲルの書は第一、帝大図書館の蔵書であった、当時の帝大は現在以上に「公」が幅を利かせていた時代に違いはないであろうから、公らは、いずれ「公」に仕えるであろう、お役人となる君(YOU)らのことを指していたのかもしれない。当然ながら、明治期においては公は朕(あるいは邦=くに)であるけれど、その後、(いつのまにか)公は役所になってしまったみたいであるから、余計に公衆の意味あいが曖昧模糊になってしまったように思う。公衆=朕の衆というような定義であれば、まだ解りやすいけれども、役所の衆まで成り下がってしまっている今日においては、「?」という気分がより強くなっているので、なおさら、公衆の意味がつかみづらくなっているのだろうが、そういう今はともかくも、明治期(に造語されたという確証もないけれど)においては、おそらく、朕=公主(≒君主)がいて、その主の仕い(遣い)である「公(君)ら」、そして、朕に代わって、公(君)らが診る(掌握する)衆、そういう雰囲気の繋がりでもって、パブリック≠公衆という違訳作業が行なわれたのではないかという、何の根拠もないけれど、手前勝手な思いをもっている。もっとも、ご本家のパブリック自体も、その定義は確固たるモノではないのかもしれない。以下は、ひとつの社会学の見方でしかないが、群衆⇒(発展した形として)公衆⇒(堕落した形として)大衆という経過論がある。真ん中にタルドがいて、前者はル・ボン、後者はマンハイム、のちにアメリカに伝播してブルーマーということになるけれど、いずれにしても、19世紀末〜20世紀中盤の話であるから、江戸〜明治〜大正、昭和という近代化の日本においても、その考え方が「感染」(ル・ボンの理論でもある)していても、なんら不思議はない。これだけでは論じようはないけれども、堕落論という観方に立てば、上記、群・公・大というコースは当然の帰結ということかもしれない。ただし、この堕落はあくまでも社会学という範囲の中で「集(衆)」を材としたことであり、自分自身(個別)の堕落は安吾が記すように、自身から求める(堕ちる)しかない。
 では、只今(現代)はどうかというと、群衆とも、公衆とも、そして、大衆とも、また、皆の衆とも表しがたい状況であることは間違いないのであろう、あえて、それを表わす言葉として、無衆という表現もあるのだろうか。衆寡敵(てき)せずとは、おおむねで表わせば、多勢(衆)に無勢(寡)というような意味合いであるけれど、無衆は、これには中らない。無はまさに「ゼロ」であるけれども、無勢ではないのであろう、むしろ、ゼロ(無)の衆=多勢であるところに、息詰まるような思いがする。数学的にはゼロは何をもって(加減乗除)も、ゼロに変わりはないのだと、教わったけれども、衆においてはその限りではないようである。ゼロの集(衆)まりは負(−0)にせよ、正(+0)にせよ、とりあえずは量(¬0)となって、存在している。その点ではマンハイムやブルーマーの大衆が変化(堕落か発展かは判別つかないけれども)したと考えることもできる。ただ、直近であるブルーマーの時代に較べたとしても、現代はより選別化が進んでいることは事実であり、いわゆる「集団的選別」にせよ、「象徴的相互作用」(ミード→ブルーマーら)にせよ、その傾向は引き続いているものの、塊の大きさが縮小し、細分化し、かつ見えにくくなっている点が上記、息を詰まらせる根底にある。理由はひとつではないが、今、わたくしがさわっているネットというのもあろう。その前提に、核家族化、少子高齢化などもあるのだろうか。公衆論が、散逸してしまったが、第一に、公衆という考え方がそもそもあるのかということ、次に、あると仮定した場合、現代においては、それを無衆という多勢に置き換えてよろしいものか、また、本来、このような視点で衆という概念をとらえてよいものか、いずれも、まだ、ほとんど分かっていない、わたくしである。ただ、その手がかりを、立ち呑みに求めているだけなのかもしれない。
 ところで、漱石氏は『野分』という作品の中でタルドにふれている。やや長いが、「青空文庫」から引用させていただく。
 『第三に出現したのは中国辺(へん)の田舎(いなか)である。ここの気風はさほどに猛烈な現金主義ではなかった。ただ土着のものがむやみに幅を利(き)かして、他県のものを外国人と呼ぶ。外国人と呼ぶだけならそれまでであるが、いろいろに手を廻(ま)わしてこの外国人を征服しようとする。宴会があれば宴会でひやかす。演説があれば演説であてこする。それから新聞で厭味(いやみ)を並べる。生徒にからかわせる。そうしてそれが何のためでもない。ただ他県のものが自分と同化せぬのが気に懸(かか)るからである。同化は社会の要素に違ない。仏蘭西(フランス)のタルドと云う学者は社会は模倣なりとさえ云うたくらいだ。同化は大切かも知れぬ。その大切さ加減は道也といえども心得ている。心得ているどころではない、高等な教育を受けて、広義な社会観を有している彼は、凡俗以上に同化の功徳(くどく)を認めている。ただ高いものに同化するか低いものに同化するかが問題である。この問題を解釈しないでいたずらに同化するのは世のためにならぬ。自分から云えば一分(いちぶん)が立たぬ。』(初出1907、明治40年)※下線は、筆者が加えた
 タルドの公衆論のもととなる「模倣(の法則)」を同化と置き換えているけれども、これを間接(三段論法)的に解せば、公衆=同化という明晰な答えが返ってきたことになる。翁は1900年にイギリスに渡っており、公衆を厭というほど?体感したのであろう、白井道也(しらいどうや=野分の主人公)にとっての第三赴任地である中国地方の辺地は英国と取り替えてもよいかもしれない。100年経過した今でも、そう(公衆≒同化)考えれば、分かりやすい。やはり、公衆というのはある一定のルールを介在すれば成り立つコトなのであろうが、裏返せば、ルールなしでは存在しないことなのであろう。たしかに立ち呑みにおいても、上記 銑イ鉾燭垢襪客様も少なくないし、お店自体、そういうことを求めている風でもなく、ただ、物珍しさ、目新しさ程度の考えでもって営んでいる場合も多い。
 公衆というコトにこだわってみたけれども、いまだ糸口さえ見えていない、勉強が足りないうえに、しようと心がける力が弱いのだから致し方がないことかもしれない。加えて、関連する書物をすべて通読しているわけではなく、こちらもまた、足を攣りながら、立ち読みしている程度に過ぎないのだから、以上のことは、やはり、酔っ払いの戯言として、はいはいと聞き流していただける奇特な方(も、そう思われるかもしれないけれど)以外には、公衆道徳に外れた話なのであろう。

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2006.11.02

北関東垂れ記4.0〜余話

 話が前後左右する。 
 今夏、所用もあり、日立に向かい、その足で、水戸・小山経由で、群馬県太田市、佐野市(栃木県)そして、最後に館林市(群馬県)を訪ねた。その時のことをつらつらと記しているが、結果としては1泊2日で北関東をまたいだことになる。もともと、方向音痴である、わたくしは、水戸線を小山駅に向かい、線を換えた頃から、ますます混乱していた。ホテルに入り、改めて、電子地図を眺めていると、そのあたりの訳(わけ)がなんとなく分かった。どこから始めたらよいのだろうか、小山駅を発って、両毛線に乗ると、高崎方面に向かう。もう、このあたりから、混乱が始まる。東京からみれば、水戸と高崎は同芯円上のほぼ同距離に乗っかってはいるものの、方角といい、歴史といい、なりわいといい、かなり異なっていて、それを、円に沿って、移動していること自体が、なにか、お門違いというか、ルール違反のような思いがあって、わたくしの心身いずれも、そのことで、すでに摩耗していた。しかも、滅法知識に乏しい、日光を群馬県という程度のわたくしであるから、なおさら、顚末が悪い。(只今も、地図を検めながら書いているのだけれど)行政区分あるいは圏域を分けている大きな要素として河が目安となる場合があるが、電車に乗っている間も幅広な、あるいは狭小なそれを「渉る」際には、岸のアッチとコッチを見較べて、あ、屋根の色が違う、あ、稲の乾し方が違うといった少しの差異でもあると、小さな幸せに浸っているわたくしでもあるが、そのこと(河を何度も渡る)が混乱を大きくしているひとつでもある。いざ、渡る際に、違いを認めることができなかった場合、国の違い、境を越えた感覚をもたずにいるので、(河を渡っても)依然、両岸は同国という錯覚に陥る始末である。加えて、昨今のコッチとアッチにはそれほどの異なりがないのも要因、というのは言い訳にしかならないのであろう。あるいは、のちほど(↓)書くが、河が国を分かつという勝手な概念を棄て去ればよいことなのかもしれない。
 国名というのは古代から、一度、奈良時代に変更があり、おおむね、現在の都道府県に近い範囲でもって、動いていない。ただし、明治のご一新の際にはマイナーチェンジというか、意図的な組み換えが行なわれている。もちろん、琉球は別格である。現在もなお、この奈良の律令制にもとづく区分が色濃く残っているのは旧国鉄の路線名であり、「国」を広く、長くまたぐ幹線に街道名(東北、北陸、東海、山陽、山陰など)を先ず付け、より短い線の場合や二国を結ぶ場合においては始点と終点あるいは隣接する二国の一文字ずつを戴いている。もちろん国鉄(省線)以前からその名を用いていた場合も多く、おかげでもって、路線名によって起と結が想像できたのであろう。現在はそういう配意があまりないのであろうか、聞いても、想像が広がらない名前も多い。つくばエクスプレス(TX)〜一体どこと結ばれているのか?どこから乗ればよいのだろうか?さっぱり分からない(以前なら京磐線?京筑線?いっそのことアキバツクバ(両バ)線でも良いのかもしれない)。
 国の話である。今、道州制があちこちで湧いている。無理やりな市町村合併の次にとでもいうことなのであろうか、それはそれで、時代を遡れば、越前・越中・越後ではなく「越」の国、その、お隣は「えぬ(江沼)」の国(拙ブロ05年5月30日付)、上州も野州も「毛野(けぬ)」の国、もっと、戻れば、皆同じという感覚で、少なくとも、現在よりメリハリの効いた国ができあがるのかもしれないとも思う。ただ、一方で、「ご当地ナンバー」などという安売りをあちこちでサービスしている「」の動きも怪しい。今いえ昔から、わたくしの中には「国」という概念が欠落および混沌としているようで、だからだけではないけれども、「母国語」(拙ブロ06年5月13日付)に対するご指摘を受けた際には礑と聴く思いであった。北関東を巡っていると、以上のような、さまざまな想いがめぐり、想っても、廻って、帰すだけである。国という概念を深く考えさせられ、いつ訪ねても、そういうような宿題を抱えて、戻っている。↑に記したけれども、河の流れ方に気を注ぎすぎなのかもしれない、いったん離れてみようかと思うのだけれども、それができていない。
 本日は、より、とりとめのない雑記になっている。垂れ記というのは、そういう、わたくしの事情のことであって、北関東というのは、掬おうとしても、絶えず両手の平から垂れていくような得体の知れない存在である。
 間が空くかもしれないけれども、ここのことは、当分、垂れ書きしたいと思う。

Posted at 22:52 | 雑に | COM(0) | TB(0) |