2007.03.22

不参

 常々、大変、お世話及びご迷惑をかけている会社が30周年を迎えるということで、本日(07年3月22日)、わたくしも、その末席にと誘われていたけれども、都合もあって、出席することができなかった。ほとんどの所用というのは、この会社によって生まれており、そのお蔭でもって、「アッチコッチ、ホッツキ」できている。本日、その所用でもって、呑んでいる場合ではない、そういう都合もあって、「欠」とさせていただいた。今後も、よろしくお願いします。<(_ _)>
 『本日不参、明日訪問通知。』(北大北方資料室/開拓使外国人関係書簡目録収載)
 これは1879(明治12)年2月27日(?)に函館開拓使雇のオランダ人河口改良水利技師のファン・ヘント(Johan Godart Van Gendt)が誰か(あるいは、どこかの役所)に宛てた電報であろう。ヘントは前記資料室の注釈によれば、79年2月17日より函館開拓使雇いとして着任していると思われるが、括弧書きで(横浜)とあるので、その近辺あるいは東京にでも行く予定があったのであろうか、彼是(あっちこっち)、当たっているが、見当がつかない。ヘントについては、資料も少ないが、それも、彼が志半ばで、亡くなった(80年=明治13年12月25日)ことが影響しているのであろう。港湾の専門家として、現在の石狩湾新港の礎をなした人である。石狩湾新港管理組合(ようこそ石狩湾新港へ→石狩湾新港のあゆみ)のサイトでは、わずかではあるが、しかし、同港の歴史の一歩として、彼の名が刻まれているのが確認できる。ファンゲントとあるが、よりオランダ語読みに近づけようとするのならば、ファン・ヘントなのであろう。ベルギーの北部に位置する古都の名はドイツ語由来の「ゲント」の名で呼ばれることも多いが、オランダ語ではヘント、フランス語ではガンと呼ばれ、ベルギー北部はオランダ語に近いとされるフラマン語が通常用いられているので、やはり、ヘントというのが正式のようである。典型的なギルド都市国家である街の風情はその歴史はともかくも、ただただ美しいと思いながら、予想外に暑い初夏の午下、泊ったユースホステルの炊事場で、興味津々の眼を気にしながら拵えたオムスビを食みながら、運河沿いに呆然と座っていたことがある。ちなみに、ヘントと並んで記されている広井(廣井)勇は「近代土木の祖」ともいわれ、現在の小樽港を形づくっており、岡崎文吉はその師事を受け、やはり、その後、秀でた河川・港湾などの治水技術によって札幌市を北に貫く創成川(運河)を発案するなど、両者は現在もなお、その筋の人たちには、お偉い方であるようだ。『第二章 北海道の鉄道創成史第一部』というサイトにヘントについて詳しく紹介されている。(もとは、「あらうんどthe北海道全駅舎めぐり」という、本体自体もたいへん面白い!)以下、抄訳(意訳)すると、富国・殖産をめざす明治政府にとって、北端の地に埋蔵されていると分かった良質な北炭開発は降って沸いたような朗報であって、その実施のためにアメリカから招聘した南北戦争「あがり」で、鉄道敷設が不可欠であると主張した北海道開拓史上も名高いホーレス・ケプロンらと、オランダに留学し、自らも治水技術を習得し、戻ってきた榎本釜次郎(武揚)の水運是論の対立は、ケプロンが帰国したのちも続き、吉田清成が推してきた鉄道技師であるジョセフ・ユーリ・クロフォードに対して、榎本が採用したのが、のちに石狩湾の礎の一人といわれるヘントであった。しかし、ヘントは翌年のクリスマス早朝に斃れた。前述の北大北方資料室には、『ファン・ヘント氏今朝死亡、葬儀は明日(電報) / ヘーメルト(赤羽局)』と残っている。(ただ、成立年の日付については、良く分からない)へーメルトはヘント氏の遺産管理人と、他の電報にあるが、それ以上のことは、今は知る術がない。彼の死の直前である、11月20日には北海道で初めて、全国でも3番目の鉄道が開通しており、一気に鉄道推進派(アメリカ)が勢力を強めたことがうかがえる。(第二章 北海道の鉄道創成史第一部より)なお、国内鉄道開通の順番については諸説あり、初は新橋・横浜間でほぼ統一(ただし、上記北海道の鉄道創成史には別論もあり)、二番目は大阪・神戸間(京都・大津間の説もあり)と釜石鉄道というニ説がある。
 「西洋かぶれ」と榎本を評(表)したのは土方歳三であったか、確かにそうで、ヘントはオランダかぶれの榎本、クロフォードを連れてきた吉田はイギリスのちにアメリカに被れていた。その両者がつまらぬ見栄、あるいは意地でもって、諍っていただけのことかもしれない。ただ、その、つまらなさが良い、只今には、ない件である。今の、かぶれは通り一偏等(一辺倒)であり、要するにアメリカである。国や政府あるいはその取り巻きらは英語教育を重視すると、僅か数年前に採りいれた「ゆとり教育」からの脱却が、とりあえず、何故、英語なのという議論もないようである。アジアかぶれや、ブラジルかぶれ、あるいは、アフリカ、または、ヨーロッパには被れないようである。ヘントの死は、ある意味で、その後の国内輸送体系に大きく影響を与えていると考えることもできよう。鉄道(道運;運輸手段の区分としての陸運とは趣旨が異なる)か水路(水運)か、道運はモータリゼーション(自動車)へと主力を変えた現在、渋滞、騒音(振動)、事故、排気ガスなど、さまざまな問題を抱えている。一方、水運はというと、各地で見直されてはいるものの、脇役にさえなっていない。過疎という問題と運輸は近しい関係にあって、道もない、汽車も通ってくれない「疎地」においても、水は流れていることを思えば、もう少し異なった地域の展開が可能ではなかっただろうか。オランダは運河の国である。ネーデル(低い)という土地の不利を克服するうえでの策だったとしても、現在もなお国土の1割近くを占める運河の果たす役割は大きいようである。ヘント技師のことを思っていたら、そういう余計なことまでに気持ちが向かってしまった。何故、こんなことを書いているかと申せば、不参に対するお詫びであり、また、近々、うかがう長崎について、想っていた末である。断っておくけれども、以上のことと、長崎との関係は分からない。ただ、長崎⇒オランダという、単純なルートでもって、ヘント技師に至った。しいていえば、北炭の前にあったのは南炭で、今はもう灰と化した高島炭鉱及び端島(軍艦島)のことである。
 昨日、『蝦夷と江戸 ケプロン日誌』(1985年;北海道新聞社)を注文した、今朝、週末には届くとのお返事をいただいた。(絶版のため、古書サイトからみつけた)

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2007.03.21

平等寺(びょうとうじ・びょうどうじ)

 今でも夏に一度かぎり、徳島県阿南市を訪れる。もう数年前か、所用でもって、二た月に一度、それを三年ほど続けていたけれども、用がなくった今も、行くことが用となっていて、一足早い阿波踊りを楽しんでいる。当初、何度か、訪れた際は、まるで観光客のように、地元の方に連れられて、各処を廻った。(それも所用ではあるけれど)お松大権現には数多の招き猫が納められており、下絵が猫模様の絵馬(絵猫)も境内に所狭しとぶら下がっている。招き猫の挙げ手には、右手と左手とがあって、右は「お金」を招き、左は「人」を呼ぶと教えていただいたのは行きつけの呑み屋で、それ以来、招きを見ると、どっちかを確認するけれども、「右手は少ないのよねぇ」と屈託なく、冗談めかす店主の仰言るとおりであるように感じていたけれども、検めてみると、やはり、そういうことを調べていらっしゃる方がいた。(招き猫の)『右手と左手の統計』(招猫倶楽部、招猫研究室、招き猫大解剖、招き猫の統計学)という猫だらけのサイトがあって、ご自身のコレクションを数えたらしい。その結果、左手が多いということである。もうひとつ、紹介すると、『招き猫は右手を挙げるか?両手を挙げてるネコはいるか?』、欲張りな両手挙げもいるらしく、また、挙げる手の高さにもふれられていて、面白い。お松大権現の文字も見られる。
 さて、旧・阿南市の北端(ただし、現在は、北隣の羽ノ浦町及び那珂川町と合併したので、北端ではなくなった)を流れる那珂川をさらに上ると、大河は渓流に近くなり、いったん、隣町(鷲敷)のロープウェイ乗り場から急峻な山道を見ながら10分程度揺られて、御参りするお寺は太龍寺(たいりゅうじ)、今でこそ、楽な道のりであるけれど、往時は、八十八か所の中でも難所のひとつであったことが容易に想像できる。同寺から見ると真南に当たる新野地区に標題の平等寺はある。前寺に比べると、ひっそりと、在る。ここで八十八か所霊場の1/4を迎えることになる。二十二番札所である。ちなみに、揃ろ目だけをあげると、
11藤井寺(徳島県麻植郡鴨島町)
22平等寺(徳島県阿南市新野町)
33雪蹊寺(高知県高知市)
44大宝寺(愛媛県上浮穴郡久万町)
55南光寺(愛媛県今治市)
66雲辺寺(徳島県三好郡池田町)
77道隆寺(香川県仲多度郡多度津町)
88大窪寺(香川県大川郡長尾町)
である。
[参考;四国八十八か所表装工房(弘法?)泰峰堂さんのサイトです]
 四国八十八か所は空海(弘法大師)によって開かれたといわれ、したがって、真言宗高野派のお寺さんが多く、前記、平等寺、大龍寺も同派にあるが、その他、豊山派、御室派(わたくしの大好きな仁和寺が総本山)、智山派、善通寺派などの諸派とともに、いくつか、臨済宗、曹洞宗、天台宗系も混じっている。わたくしも、いくつか訪ねたことがあるけれども、もちろん、物見遊山である。四国の道を車、バスで走っていると、しばしば、白衣に袈裟姿のお遍路さんが金剛杖を携えて、歩いていらっしゃるのを見かけるけれど、、老若男女問わず、ずいぶん盛んなのだなぁと感心ばかりしている。中にはバスで札所間を移動するというショートカットツアーもあるそうだが、やはり、歩いてナンボではないかと、歩くつもりはないが、そういう気もちは、わたくしの中にも少しはある。
 平等寺には、わたくしは、気がつかなかったが、『いやしのみち』(四国観光立県推進協議会)というサイトによると、びんずる(賓頭廬)があるという。同サイトの文章を引用させてもらうと、『本堂の右手に置かれている賓頭廬の真っ赤な像。十六羅漢のうちの1人で、神通力があるといわれる。「なで仏」ともいわれて、 病気の人がこの像をなでた手で自分の悪い所をさすると、その病気が治るといわれている。』とある。信州・長野の善光寺にある撫(なで)仏が有名であろうか。また、東京・巣鴨にある「とげぬき地蔵尊(高岩寺)」の『洗い観音』や浅草寺の御香(の煙を手でもって掬う、攫う)なども同じ想いの延長線上(共通する念)にあるのであろう。
 びんずるというと、藤枝静男さんの『滝とビンズル』(だったか)という小品文のことが浮かぶ。遠州の山奥にある廃寺にぽつっとある羅漢さん(びんずる様)についてのお話であったように思う。あいにく手元になく(遺失したようである)、詳細を改めることができないけれども、(偉そうな物言いではあるけれど)上作・秀作として、わたくしの中にある。心当たりを探して、また読み返してみようという想いが強い。所用でもって、氏のお住まいになっていた藤枝市の近くまで月一、出かけている。4月16日が命日で、時間をとって、お墓まいりにもと思ったけれど、どこの馬(猫)の骨とも分からないわたくしが行くことは、むしろオカシナ話であるので、奥遠州の棄てられたおびんずる様に会いに行こうかとも思う。あるいは、藤(見頃らしい)を賞でに、この秋に開館するという藤枝(これは氏の名ではなく、市の名前を冠している)文学館のお姿にふれてこようか・・・、そういうことに、ひたすら、耽っている「だけ」のことである。

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2007.03.20

不意

 所用でもって、鬼怒川に伺った帰りに、ゆったりと助手席でもって、のんきに風景などを眺めながらいると、向こうの方に立派な杉並木が見えて、思わずというのか、車ごと、そっちの方へ吸い込まれていた。そこが往時の日光杉並木街道ではないかということは、なんとなく想像できたが、まだ夕暮れまでには間があるにもかかわらず、薄暗いのは、樹齢300年、樹高30メートルの堂堂たる杉の「所為」である。車がすれ違うのも精一杯程度の狭さであり、想像すれば、人か馬だねというような会話をしながらいると、車高をはるかに上回る盛り土が両脇から迫ってきて、ところどころに力強く根を張る様が圧巻である。調べてみると、総延長37キロに1万3千本あるうち、年間100本程度が枯れているという。単純にいえば130年でゼロになる勘定となる。[日光杉並木オーナー制度](栃木県教育委員会事務局文化財課)そのため、1本につき1千万円の「里親」を探している旨も記してあったが、つてつ(津軽鉄道;ストーブ列車が走っている)のレール一本からのオーナー制度とは桁があまりにも違いはあるけれど、ただし、手放したい場合は全額、県でもって返却(買戻し)してくれるそうである。
 しばらく走り、カーナビをのぞくと、辺りに目印となる物が何もないせいもあるのだろうか、今、わたくしたちが走っている通りの名だけが、大きく表示された。それが、
 例幣使(れいへいし)街道
、であるという実感はすぐには湧かなかった。確か、この辺りにあったのだろうという、いい加減な当てはあったものの、「不意」とはこういうものなんだろうと、その時は無責任な説明に終始したので、改めて、記しておこうと思う。例弊使街道は、家康の没後、秀忠により造営された日光東照宮に、朝廷(京都)から毎年、宮に貢物を召す(贈る)際に遣いが利用したことから、その名がついた。毎(例)年、家康の命日に貨幣・幣束や絹といったミテグラ・ヌサ(幣)などを携えた遣(使)いが通った道ということなのだろう。大雑把な経路は、中山道「倉賀野宿」から岐かれて、現在の都市名だけを示すと、高崎、伊勢崎、太田(以上、上毛野)、これより下毛野で、足利、佐野、栃木、鹿沼、今市を経て、日光街道今市宿に併わさる。振り返ってみると、わたくしたちは、そのホンの一部である区間を経験したことになる。例幣使街道については、ふたつのことが、わたくしの頭の中に靄靄と残っている。ひとつは、イザベラバード女史のことである。『日本奥地紀行』は横浜・江戸から蝦夷地に到る「できごと」を妹さんに宛てた日記(手記)であるが、まだ、何度も読み返している。女史は粕壁(春日部)を経て、栃木に出て、このあと、日光に向かうが、当時、一般的に使われていた日光に通じる奥州街道(宇都宮付近までは日光街道と同じ)を行かずに、例弊使を使う。
 『・・・草や羊歯で覆われた土手が八フィートの高さから傾斜していた。土手の上に杉の木がそびえ、それから草のはえている二本の歩道がある。これらと耕作地の間には、若木や茂みが目隠し役をしていた。多くの木は四フィートのところで二股に分かれる。たいていの幹は周囲が二七フィートである。それは五〇−六〇フィートの高さに達するまで細くなったり枝に分かれることはない。・・・』(日本奥地紀行、高梨健吉氏訳、平凡社ライブラリーより)
 樹高を除けば、ほぼ130年前に女史が見た杉を、わたくしも拝見したことになるのであろう。そういう想いが、実をいうと、もう少し整理してから、訪れようと思っていたレイヘイシが、不意にやってきた、という反動となっている。
 もうひとつは、鴎外翁とレイヘイシのことであるけれども、今は心が呷られていて、そこまでは到らない。

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2007.03.19

^廿^

 わたくしが育った町の、住んでいた家から、そう遠くないところに地盤に埋め込まれるようにして、大きな円形の秤があって、しばしば自分の体重を測りに行ったことを今でも少し憶えている。当時のことであるから、家庭用のヘルスメーターなどあるはずもなく、銭湯にも通っていて、そこで、測った記憶もあるけれど、あいまいな憶形でしか残っていない。しかし、冒頭の秤については、微かな記憶の中で、もっとも大きな欠片が「荷重」という言葉であり、その記憶片のお蔭でもって、そこが、トラックなどの重量を測る検査所であると類推できる。調べてみると、自動車重量税のためではないかと知ったが、記憶の中では、やや、ずれていて、税の取立てという冷たい雰囲気はなく、なんだか、測るほうも、測ってもらうほうも、やぁやぁという感じでもって、ふぉんふぁかと、和やかである。近所のおっさん同士であって、昨晩、いつもの居酒屋で顔を合わせたばかりというような軽〜い調子でもって、いまだに宴を続けているように、和気藹々と測っている、そういう記憶でしかない。もしかしたら、正式な検査所ではなく、自主的なものであったのかもしれないけれど、そのあたりは定かではない。しかし、わたくしの体重測定という目的は果たしていなかった。そこで測ったわたくしの体重はほとんどゼロ、日頃トラック相手の秤では目盛りが動かない、わたくしのは、その程度でしかなかった。(当たり前ではあるけれど)それでも、ぴぃょんぴぃよ〜んと、その場で意味のない垂直跳びをして、目盛りを揚げようとしていた。以上、ちょっとした、めもりぃである。
 標題の廿は二十(20)の別表記である。十と十(十_十)であろうか。丗は30、下線を省き、単に十十十(卅)と表示することもある。ではと、しつこいが、40は卌、十十十十(下線なし)まではあるようで、これ(40)というのは、わたくしたちが数を留め置く際に用いる「正」の欧米版と似ていないだろうか。ただし、遣いかたは1・2・3・4が「||||」で、最後に横棒「−」をだんごの串がわりに前記||||の真ん中あたりに刺すと5。正の字の「止」の下線部にあたる。廿のことに戻る。広島県の西部に廿日市市(はつかいち・し)という町がある。地図を眺めると、広島市に接し、島根県、山口県ともお隣同士であり、もう、目の前は瀬戸内海で、宮島が望める位置にもある。(05年11月3日に大野町とともにその町と一緒になった。〜できれば、廿日にとも思うけれど、他の二町のこともあるので、そうもいかない)名のとおり、廿日(毎月20日)には市が立ったのであろう。二日市(福岡県、現在の市名は筑紫野市)、四日市(三重県)、五日市(現東京都あきる野市)、廿日市の横、広島県佐伯区も、もともとは五日市が繁華の中心にあった、八日市(滋賀県、現在は東近江市)、みな、そうなのであろう。六日町、十日町(いずれも新潟県)などもそういう雰囲気である。八日市場(千葉県、現在は匝瑳・そうさ市)、十日市場(横浜市緑区のJR駅名)などのように、まんまの名も残っている。都市名に限らなければ、全国各所に、そのような名づけがある。八戸や鶴岡あるいは会津若松には、町名としての「市日」(いち・び)が存在しており、例えば、八戸でいえば、朔日(ついたち)町、三日町、六日町、八日町、十一日町、十三日町、十六日町、十八日町・・・、全てが市場に由来しているわけではないけれども、街自体同様に品の良い興趣を感じさせてくれる。大秤のあった田舎町にもあった、二七の市といったので、2・7・12・17・22・27と月に6回立っていた。ずいぶん忙しい。近在農家の野菜やお花(供花)、駄菓子などを出していて、付近の店舗も便乗するから、それはそれなりに中途半端ではあるけれども華繁な居心地もあった。六齋市といって、各地にある。齋は物忌み、いつき(忌憑き?)であり、何モノかを御祓いするために行なわれていたともいわれる。(本来は仏教に由来する六齋日である8・14・15・23・29・30の六日間は、善行に勉め、悪行を控えなさいという意味であるけれど、いつのまにか、あるいは地方の事情によって、月に6回をさすようにもなったらしい)縁日というのもあるが、こちらも、ほぼ同じような意味があるそうで、縁とは、わたくしでいえば、わたくしの外側に位置し、かつ、まるっきり外側でもない帯領域(ふち)をさしており、なんだか、気味の悪い域であるが、そのような気分を、市(いち)といった賑やかさをもって、祓おうとしたのであろうか、そのあたりのことは、まだ、良く分からないけれども、所用も絡んで、二たび、「市」というものを考えており、近いうちに、いくつか、ほっついてこようかと、頭の中で、あれこれ、空想像している。参考拙ブロ(那覇中心徒歩記ぁ素析∋埔;05年11月10日付)

Posted at 21:14 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2007.03.11

JUKE♪BOX

 ワンコイン(100円)で一曲だけ聴くことのできるのが標題のジュークボックスである。最近はトンと見かけないし、第一、置いてありそうな場所にも出かけていない、酒場、しかも場末と決まっているというのは過ぎるかもしれないけれど、滅多には置かれていない。もう、何年か前、呑んだあとに、さらに呑みにうかがった"場末"のバーがあった。いつも、何人かと、もう、碌に呑めないのに、連れ立って、誰もいないので、ボックス席に座っても構わないのであるが、カウンターに座って、コトの始まりに備える。店に入る前に、必ず、皆、懐にワンコインが何枚かあることを確かめておいた。それぞれ、係りが決まっていて、Aさんはエイチャン、Bさんは桃色吐息、わたくしは、セリさん担当であった。呑みにいくためでもなく、音楽を聴きにいくためだけでもなく、つまりは、ジュークボックスを触りに、あるいは戯れに行っていたようなものである。只今を考えてみると、着・・・や、MP3、また、I(アイ)・ムニャムニャといった「遊戯具(おもちゃ)」などがあり、全曲まとめてお買い上げのアルバムと違って、お気に入りの曲のみを入手できるという点で、まさにジュークボックスの進化ともいえる。ただし、やはり、皆で聴く、触る、戯れるジュークと異なり、コッチはひとりで、というのが、原則であり、ここにも、時代というものが象られている、・・・と(勝手に)決め込んでいたら、今ではこんな製品↓も出ているようだ。なんだか、ずるい。
♪新型ジュークのサイト

Posted at 21:29 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2007.03.10

ナンバーバンク

 用件もあって、アッチコッチから長崎市を眺めている。ここを本拠とする地方銀行に十八銀行がある。1872(明治5)年に始まった国立銀行条例によって、申請順?許可順?に政府から附与された番号(ナンバー)に由来する。もう知らない人のほうが多いのかもしれないけれども、現在の”みずほ”銀行は、ナンバーバンクの「イの一番」である第一国立銀行が本(もと)のひとつであり、同行は、その後、第一銀行となり、さらに、日本勧業銀行(国策的な特殊銀行)とくっついて、第一勧業と名乗り、色々あって、今は前記のミズホになっている。国立とあるけれど、民営、だけど銀行券を発行できたらしい。国立銀行以外にも民営の私立銀行があったらしいが、コッチは発行できなかった。(日銀資料より)
(↓は十八銀行の券;同社HPより)
20070310093244.gif
Copyright(C)2003 The Eighteenth Bank, Limited 
 現存するナンバーバンクは、十八のほかに、第三(三重県松阪市)、第四(新潟市)、十六(岐阜市)、七十七(仙台市)、八十二(長野市)、百五(津市)及び百十四(高松市)である。当初は153まであったそうで、5%ほど残存していることになる。ただし、八十二だけは事情が異なり、『語源探偵団』というサイトによると、第十九銀行(上田第十九銀行 )と(第)六十三銀行(松代第六十三銀行)が合併した際に19+63=82としたそうである。正しい第八十二は、鳥取第八十二銀行である。この伝(八十二方式)でいけば、現在の東京三菱UFJは何番になるのだろうか?あまりに多すぎて、足しきることはできないので、この作業は諦めることにする。また、中には、合併などで吸収され、その名を留めていない場合もあるが、もう姿(組織)自体が存在しない銀行もある。『銀行変遷史データベース』(社団法人東京銀行協会銀行図書館作成)という資料があって、それによって、おおむねの銀行の行く末が分かる仕組みとなっている。もっとも最後に認可を受けた第百五十三国立銀行(京都)の場合をみると、1879(明治12)年〜1986(明治19)年まで存続し、その後、第百十一国立銀行(1978=明治11年設立)に吸収されるが、同行も1898(明治31)年に営業停止命令にて閉鎖されている。イッコ上の百五十二は迷走する台風のような歴史をもっている。1879(明治12)年に沖縄で生まれるが、4年後には鹿児島に遷り、営業停止期間を経て、1891(明治24)年に東京へ。さらに、5年後の1896(明治29)年には大阪へ遷る。翌年、国立銀行から株式会社(私立銀行)に変わるが4年後の1901(明治34)年に任意解散している。20年余りの短命銀行なのに3度のお引越しをなさっており、当時の雇用制度がどうであったかは不明であるが、もし、設立当時から継続して勤務していた行員がいたとしたら、これは大変なことであっただろう。(いらっしゃらないと思うけれど)
 ところで、通帳やキャッシュカードなどを見ると、口座番号が記されている頭の方に4桁の数字があって、これが銀行番号(統一金融機関コード)というもので、金融機関の種別によって、都市銀行から始まって、政府系金融機関に至るまで、「ごと」に割り振られている。証券会社及び外国銀行にも希望枠があり、附与されているらしい。「統一金融機関コードの一覧」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)で確認すると、冒頭の十八銀行は0180、こちらでも當(あたり)である。ちなみに日本銀行は0000、他に四並びを探したけれども、2222=(旧)東京東和信用組合(経営破たん⇒江東信用組合2229に事業譲渡)以外は見当たらない。ただし、コード0444はあって、忌み嫌うはずの中華系オーバーシー・チャイニーズ銀行(新嘉坡)に割り当てられている。あれこれ、銀行を渡り歩いているうちに、面白いサイトを見つけた。『(宝田 萌コレクション)銀行の封筒』早速、十八銀行をみると、なんだか味も素っ気もないし、第一、名前が見当たらない、単なる封筒である。画面を遠目に眺めてみると、お札風に「透かし」のような物(字)体が確認できるが、判読不明である。長崎を訪ねた折には、不審者と思われないよう気をつけて、(こっそり)封筒を戴いてこよう。

Posted at 23:07 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2007.03.07

ありがち憲法17条

 標題で、ありがちなのは聖徳太子によるといわれている十七か条である。有名なくだり(条)は、一日(一に曰く)『以和為貴』〜和(やはらぎ)を以(もっ)て貴(たつと)しと為す〜であろうか。これについては、何か忘れているけれども、車内広告でよく見かける。(でも、何か憶えていない、奈良の観光PRだったか?)同法の17条(十七に曰く)というのは馴染みがないけれども『夫事不可獨斷』〜夫(そ)れ事をば獨(ひと)り斷(さだ)むべからず〜であり、なぜか、他の十六条が全て四語で始まるのに対し、この条だけは六語である。どうした太子、折角なのだから、合わせてほしかった気もするが。意味するところは、「些事はともかくも、物事は独りではなく、皆と相談して決めなさい」で、解釈の仕方次第によっては談合を奨めているようにもとれる。十七か条については、法というよりも、方、つまり、何か揉め事があったりした際に、とりあえず、丸めるための方策のような意味あいが強いように思う。今でいえば、家庭のルール、学級の決め事程度であり、時代も人も変わった今日において、もしかしたら、家庭も学級も、とても17ばかりでは、コトは収められないのではないだろうか。とはいえ、言っていることは、今でも通用するのかもしれない。
 ところで、只今の憲法十七条というのをみると、憲法の軽さがよく見えてくる。
日本国憲法 第17条
 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。
 ???これというのは、ケンポウで規定するようなことなのであろうかという素朴な(素人っぽい)疑問を措くとして、五千歩ほど譲ったとしても、何人も、公務員に賠償を求めることのできるような事象が、アチコチにありながら、そうしないのは、憲法違反なのかという、余計な心配さえしてしまう。まっ、法律の定めるところにより、という箇所が文(あや)ではあるけれど、9などに較べると、まったくもって地味な憲法である。これを機会に、日本国憲法でも眺めてみようかと、そういうような考えは、当然ながら、わたくしの身勝手な憲法の条には存在しない。

Posted at 22:11 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2007.03.05

孳孳

 今頃になって、頂いた年賀状に対する返信を書こうと思っている。一昨年あたりから、賀状をほとんど書かなくなり、本年(昨年に書いたの)は五葉のみ、そういう、わたくしであるが、書いた以上の枚数をいただいているので、何とかしなければいけないのに、何ともしていない。この週末あたりから、春のご挨拶として、お礼を兼ね、出そうと思い、頂戴した分を整理していると、イノシシ君の絵柄がたくさんあって、本年の干支を確認できた次第である。以前にも書いたが、わたくしは、未だに干支がスムースに諳んじることができない。ねぇ〜・うぅ〜、ぅ?・・・程度で必ず淀んでしまう。今、調べてみると(調べないと分からないので)、イノシシ(亥)君で一巡するようであり、来年は、わたくしにも「言える」ねぇ〜(子)に戻る。前述(↑)、春のご挨拶状に関しては、結構こだわっていて、どんな葉書にしようかであるとか、ああ、そういう手のモノであれば、どこそこへ行って、買って来ようかとか、ついでに、どこそこで一杯とか・・・・そのような算段だけは得意のようである。その意味においては、標題の孳孳(し・し)ともいえるのであろうか。「孳」は滋賀県の「滋」と同じ意味がある(滋る、茂る、繁る・・・)。また、手元の辞書によれば、「人が子どもを、どしどし産む」ともある。(過激。確かに、子が下にいますが)孜孜(しし)とも書くが、こちらにも子が横たわっている。全体(総体)としての意味は『せっせと励む(頑張る、努める)』ということで、孳にも孜にも、そのような意が含まれていて、あわせて、孳孳(孜孜)汲汲(きゅうきゅう)ともいい、その汲も同様ではあるけれど、汲汲とする・・・というように、あまり誉められた表現ではない遣われかたもする。御礼のための葉書をどうするかといった所作は、つまるところ、呑むための口実でしかないことは明らかであるから、わたくしには、孳孳も、孜孜も、汲汲も、結局、関わりの一切ないことなのであるが、前ブロつながりで書けば、それらの有る無しが誤算の有る無しの差にあらわれているのであろうと思う。もちろん、誤算有りのほうが良いに決まっている。
 賀状を調べているうち、葉間に挟まっていた(正月に参加した)中三の同級会名簿を眺めてみた。(五十音で決められていた当時の)わたくしの出席番号は16。

Posted at 22:58 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2007.03.04

誤算

 普通に考えれば、誤算の前提条件として、計算が必ず存在するはずである。しかし、日常感覚的には、前もって計算していない場合においても、「誤算」と思うことが多々ある。ただし、この場合は、そう(誤算)あらわして良いのかどうか、分からない。誤算の反意語というのは知らない。今まで、そういうことを意識していなかったからか、本日もいくつか誤算があったと感じているけれども、本来の意味からすれば、この表現は誤った遣い方をしていることになる、何せ、なぁん〜にも計算して(考えて)いない状態での話であるから、やはり、誤「算(考)」ではないのであろう。嬉しい誤算という表現もある?、しかし、これにも、「算」が前に置いてなければ、やはり、成り立たないのであろう。わたくしの場合、ほとんどがそういう(算なし)状態であり、周りの方を困らしているのかもしれない。といって、計算高いという言葉があるが、「わたくしは、そうではありません」と威張って(自慢して)いるつもりはない。単に、計算が無いだけのことである。所用での会議中、ある方(パートナー)が「観光カリスマ百選」には理科系出身が多いと言われた。「」というのが、わたくしの、言葉にならない(そのとおりという)想いであった。要約すれば、理系の人は物事について、その探究心が強いというのか、よ〜く考えるということであろう。その夜、別の場所で、秀でたモノ書きさんには理科系が多いという、何の根拠もない言い草をしたけれども、これもまた、ザッツライトだと、勝手に思っている。ではと、大学だけの統計であるが、理系と文系の在学者比率を調べてみると、35:65とあり、ややブンケイのほうが多く、酒呑みには、やや薄めの水割り配分に近い。(平成18年度:学校基本調査、文部科学省)少し、長いが、項目(学科)ごとに記すと、以下のとおりに区分されており、上記割合は、理学〜商船の分(約78万人)と人文・社会科学および教育を加えた数(約147万人、下記※印)の比較である。
[学校基本調査の区分]
理学(数学、物理学、化学、生物学、地学など)
工学(機械、電気通信、土木建築、応用化学、応用理学など)
農学(農学、林学、獣医学畜産学、水産学など)
保健(医学、歯学、薬学、看護学など)
商船
※人文科学(文学、史学、哲学など)
※社会科学(法学・政治学、商学・経済学、社会学など)
※教育
?家政(家政学、食物学、被服学、住居学、児童学)
?芸術(美術、デザイン、音楽など)
(除)その他(教養学、総合科学、教養課程、人文・社会科学、国際関係学、人間関係科学など)
 ここで問題となるのは、?マークの家政と芸術をどちらに振り分けるかであるが、上記振り分けの基準とした、東京大学の文科(一〜三類)と理科(一〜三類)の区分にも、この2項目はないので、悩むが、わたくし的には、リケイに属すので、そちらに振ると、ブンケイ濃度はより薄くなる。(その他は文・理いずれにも該当するので除外した)また、ブンケイに含んだショウガクやケイザイなど本来はリケイではないかと迷ったり、これは、もう確信のような気もちで、哲学はリケイといった念もあるので、四分六も怪しいことになり、見かけ(データ)よりはリケイ比が高まるはずである。ちなみに1970(昭和45)年のデータと比較してみても、その差はよく分からないけれど、昭和初期段階まで、ブンケイに進むこと自体、_(._.)_ゴメンナサイの時代が長く続いていた、とも聞く。やはり、学問の基はリケイであって、ブンケイが威張っているようではいけないのであろう。上記割合はあくまでも学部学科で分けているけれども、わたくしが哲学は理系と思いこんでいるように、肝腎なのは、どれだけ計算(思考)しているかどうかということなのである。ソース顔とショウユ顔については個々の好みにもよるけれど、リケイ頭とブンケイ頭では、前者の方に分があるように思う。以上だけでもって、すべてにおいてリケイが良いとは断言できないけれど、少なくとも、わたくしのように、何も考えずにいると、本来の意味するところの誤算も何も、そういう心配は一切不要であるけれど、失敗は成功の素ということもある、これにも全く縁がないことも確かである。(^文^)
本夜は十五夜月である。

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