2007.04.27

31市(サーティーワン・シティ〜ズ/都市の趨勢)

 標題は1889(明治22)年、日本で初めて市制が敷かれた際の都市の数である。長くなるが、ほぼ北から順に列挙してみる。
 弘前、秋田、盛岡、仙台、山形、米沢、水戸、横浜、新潟、富山、高岡、金沢、福井、静岡、津、京都、大阪、堺、和歌山、神戸、姫路、松江、広島、赤間関(下関)、高知、福岡、久留米、佐賀、長崎、熊本、鹿児島。
 末尾に31都市の市制当時の人口と現在人口を並べてみた。それすら、あまり役立たないけれども、ついでに、石高(禄高)も載せておいた。もちろん、当時と今では版図が異なるし、石高も殿様への俸給のようなものであって、○○藩といっても、現在のような明確な枠は固まっておらず、アチコチ飛び地があった場合もあるので、○○藩=凸凹市という比較は到底できない。三番目の数値は現人口を89年により除した結果、商であり、つまり、各都市の成長具合を推察することができる。勢長(版図を拡げたという意味で)指数がもっとも高いのは横浜市の約30倍、福岡市、静岡市も高い。最下位の米沢市とは10ほど違うが、それでも、全国平均に較べれば米沢市の方が高く、いかにこの百年が都市集中の歴史であったかが分かる。意外にも東京は6倍、大坂(大阪)、京都も5倍と低いのであるけれど、すでに、「都」として大きく栄えていたという背景がある。ではと、石高の商をみると、備考として加えた大村藩(長崎市)および長府藩(赤間関・下関市)以外は最大3倍程度である。ちなみに、わたくしの勝手な想いとして、人口から石高を引いた「差」が負である都市というのに興味がいく。31の中でいえば、米沢市、水戸市、金沢市、福井市、津市、和歌山市、佐賀市、鹿児島市である。もう少し書くと、各都市が唱える将来人口の希望的数値はもしかしたら石高なのではないのかという妄想である。確かに、末尾の表では16万足らずの津市はいつのまにか大きくなって、只今時点では津(安濃津)藩の石高に迫っており、あともう一息と考えているのかもしれない。(もっとも27万石という説もあるので、すでに目標達成なのだろうか)
 日本初の市制には上記以外に6都市が指定されていたが、諸事情により、市制が遅れた。東京、名古屋、岡山、徳島、高松、松山の各都市である。詳細はこちらのサイトがたいへん参考になった。[地理のページ(地理っぽいページ)]また、佐賀は他の36都市から6週間ほど遅れて内務省より告示を受けている。その事情を佐賀市(探し)てみたけれども、どうにもならない。(-.-)ただ、鳥取市の市制にからんだサイトを見つけ、これから、佐賀の事情も少しだけ垣間見ることができる。以下、同サイト『鳥取市の成立と住民』(鳥取大学地域学部地域政策学科/永山正男教授/地域自治論)を抄訳すると、鳥取県では“鳥取”の市制実施の賛否が県および士族(否=町制派)と平民とで分かれ、紛糾のすえ、89(明治22)年9月1日内務省告示、翌1日に施行されたという。鳥取藩は32万5千石(現在人口201,727人)、家康の次女督姫を迎えたということがあって、宗主(宗家)である岡山池田藩を1万石だけ上回っていた。(岡山市の現在人口は674,605人だけど)格式が高く、士としての誇りもあったのであろう、士農工商の頭と尻尾が権益を巡っての争いと解するのは単純かもしれないけれど、それほど、町と市とでは待遇が違っていた。(そのことは、今にも通じてはいるものの、事情は異なる。また、士族と町人の対立は「福岡と博多の関係にもあったようである)士族はある意味、廃藩置県でもって立場を失っていた。藩(国許)から県に変わって、彼らを保障する手立ては実際にはなく、県に縋るしかなかったけれども、企てどおりにはいかなかったようでもある。
 士族たちの煩乱である。
その頂点は、いわゆる西南戦争であろうか、発端は「佐賀の乱」(74=明治7年)ともいわれている。葉隠をもちだすこともなく、佐賀もまた士族の町でもある。鳥取同様に、市制により、ますます自らの置き場所を狭められようとしている気配をおおいに感じていたのかもしれない。もっとも、手は打っており、政府の「移住士族取扱規則」にのっかり、これ(乱)より10年ほど前には、蝦夷地への開拓をもくろんでいたようである。『釧路市HP内』にあるサイト(名称不明)によると、佐賀藩は68(慶応4)年8月19日に《蝦夷地開拓(分領)を出願する。》とあり、71(明治4)年に佐賀藩の農工移民286名が釧路国(厚岸・浜中・釧路)に移住する。三日後の7月14日(旧暦)に廃藩置県が突然布かれた。この年といえば、焼尻・天売島(※)ではすでに水戸藩による手が入っていたけれども、こちらの方は漁業という実業の延長であり、ご苦心はあったけれども、延びる先がみえていたとも思えるが、道東はそうでもなかったのであろう。鳥取藩も84(明治17)年に移住が始まっている。釧路市には現在も「鳥取」という地名が残っているそうである。(ほかに岩見沢市などにも)市制施行というのは、以上のような痛みを経て、成り立っているものであって、また、言い過ぎかもしれないけれども、それすら、無意なことにも思えるが、どうなのであろう。
 明治の大合併→住民が徒歩で役場へ行ける範囲の合併
 昭和の大合併→住民が自転車で役場へ行ける範囲の合併
 その後の動き→車、バスや電車で役所へ行ける範囲へ通勤、通学、買い物、医療など住民の活動範囲が飛躍的に広がった
 これは、「佐賀市・諸富町・大和町・富士町・三瀬村合併協議会」サイトの中にある。それでは一体、此度の合併はジェット機に乗ってでも、役場に来なさいということなのであろうか。政府や議員、役所は「明治の水準に人口が減る」と、しきりに賜っているけれども、役場は、政府は、(明治の痛みから)どんどん遠くなっていくばかり、のようである。まぁ、別に用はないのであるから、遠くても、構わないけれども。
※焼尻・天売島については、小納(こな)正次さんの『新羽幌町史 第十三編 天売・焼尻両島史』が貴重な資料としてある。(拙ブロ「小納」で検索してください)
[31都市の初めと今](PNG使用)
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※05年10月1日以降も支離滅裂な合併が進んでいるため、市域や人口はかなり異なっている。

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2007.04.26

味噌

 久しぶりに、《雑食》カテゴリーで書く。したがって、このテにおける、わたくしのバイブル(経典)を先ず紹介しておくべきだと思う。『NIKKEI NET 食べ物 新日本奇行』である。
 おそらく、6月2〜3日に予定されている「第二回B級ご当地グルメの祭典〜B1グランプリ」に備えていらっしゃるのであろう、主催団体となった「愛Bリーグ ジャパン」(ジャパンということは、いずれ、B級的組織を世界に広げるつもりなのであろう)の顧問でもある野瀬泰申氏の『東海道暴れ食い』が連載されてもいたが、どうも、無事?三条大橋に着いたらしい。この中でもBグルメの話題にふれられているので、ぜひ、わたくしもうかがってみようかと思って、宿の手配をと冷やかしてみると、すでに満室であるという、富士宮の街は「もう」アツクなっている。( ^^) _B~~
 一体となってアツクなっている同サイトに『食べ物 日本地図』というのがあって、さまざまな食べ物に関して、地域性を分析していらっしゃる。わたくし的に現在、進めている「納豆」関係もある。ナットゥについては、いずれ、また、かき(書き)混ぜたいと思う。これからは味噌の話である。わたくしでいえば、どのようにも出自(大げさであるけれど)を隠すことは可能ではあるが、ただ、味噌の好みを訊くような有能な審問吏に当たったりすると、お手上げである。それほど限定的な味噌世界に生まれた。残念ながら、上記、新日本奇行には味噌マップは現時点で存在していないため、他をあたることにした。八丁味噌の製造元である「角久(カクキュー)」ブランド(まんま、合資会社 八丁味噌という会社である)のサイトに『味噌の知識』というのがあって、[全国みそマップ]がある。ただ、沖縄だけが省略されている点が気になり、暇なようだけれど、少し、加工して、作成し直してもみた(末尾に)。沖縄については、那覇の山羊料理屋さんで、ほぼ毎日戴いていた「アンダー(豚脂)・ンスー(味噌)」を思い浮かべると、赤と白の中間をやや赤にこそっと寄せた程度であったかなぁというのでは、あまりにも根拠が薄いため、手許の『オキナワ式食生活革命』(飛鳥新社)によって、通常は米を用いるということを確認もしておいた。
 味噌の出自もはっきりしていない。全国味噌工業協同組合連合会「みその知識/みその原点」によれば、紀元前に中国で盛んに使われ始めた「醤」(ひしお)、「豉」(くき)が源であり、これらは紀元前には日本にも伝わったというらしいが、味噌の方は、どうもいつかが分からない。少し、下って、701年にその年から始まる和暦をとった『大宝律令』制度ができたが、その中に、味噌と思われる言葉があらわれているらしい。(上記、全味工連サイトによる)
 末醤(まっしょう)である。
MAT´-SHOが未醤(MI-SHO)、そして、´H´がいつのまにかとれて、MI-SO(味噌)でおそらく良いのであろう。
 律令については、『官制大観』を参考にさせていただいた。宮廷のさまざまな官職の中に「大膳職(だいぜんしき)」というのがあって、廷内で働く人の食事を賄う役である。別に内膳司(ないぜんし)があって、こちらは、畏れおほき方の供御(お食事)を担当すると書かれている。ここではふれない。大膳職をさらに下っていくと、「勾当」(こうとう)とあって、括弧書きでもって、「(主醤(ひしおのつかさ)」とある。同サイトをさらに下方にたどると、『醤院(しょういん)』にいきついた。以下、引用させていただく。
《大膳職の別館で、醤〔ひしお〕を担当します。これを管理する役を『勾当〔こうとう〕』と言い、大膳亮などが任じられます。(※養老令の規定では『主醤〔ひしおのつかさ〕』が2名、その役を担当していますが、後に廃止となり「勾当」が置かれます。)
 引用文にある主醤という官(役)職の者が、醤などとともに、みそ(末醤)を扱っていたようである。末醤については、こちらはどちらかというと、醤寄りであるキッコーマン」のサイトから拝借しよう。
《平安中期に書かれた『延喜式』では、「末醤」「味醤」を「みそ」と呼び、醤(ひしお)が発展したものと考えられます。末醤はその後16世紀に「味噌」(噌は日本の造字)となった、といわれています。》
醤の末なのだから末醤ということなのであろうか、ただ、未醤とも表記されている場合もあり、これでは、工程が逆になってしまう。いずれにせよ、今から1300年前には主醤のちに勾当が味噌を拵えていたようであるけれども、わたくし的には、長く辛い船旅を覚悟しているのだから、徐福自らの好物でもあり、万が一の保存食用にと「醤」の職人を一人二人は百工の中に入れておいたのであろうと思ってしまう。
 仙台の官庁街に勾当台公園(地下鉄の駅名でもある)という豊かな緑があるが、こちらは味噌造りとは関係はないらしく、伊達正宗がご贔屓の狂歌師である花村勾当に与えた屋敷跡が由来のようである。「せんだい旅日和 スタッフだより」。花村師もそうであったけれど、盲目の人たちは、当時、篤い保護を受けていたらしいが、階級もぶ厚く、「検校」(けんぎょう)、「別当」(べっとう)、「勾当」(こうとう)、「座頭」(ざがしら・ざとう)とあって、さらに、細かく分かれていたらしく、本当に篤く護られていたのかどうか、心配でもある。
 さて、みそマップである。できることなら、より精度を高めるため、みそ行脚をしてみたいと妄想している。
【全国みそマップ(手前味噌版)】
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2007.04.14

福博

 長崎そして佐賀とほっついて、最後は博多・・・、といえばよいのか、福岡なのか、こういう場合に迷ってしまう。わたくし的な一般論で書けば、博多である。例えば、今回でいえば、佐賀⇒博多(駅)⇒天神(宿)という行動でしかないけれども、戻ってきて、どなたかに知らせる場合でも「博多へ」という表現になるのであろう。ただ、都合上、ふく(29)が来ないと拙いので、福博としただけのことである、もちろん、博福でも構わない。
 少し、福岡と博多(または、博多と福岡)について書く。今回のホッツキは中洲(那珂川と博多川にはさまれた地域)を望む宿に泊りながら、昼下がりの何とも間の抜けた中洲周辺をぅろぅろとし、春休み最後の週末で賑わう天神をチョロチョロとしていた。取り急ぎの用事もあり、多くの時間を部屋で相棒(パソ)と過ごさなければいけなかったけれど、酷な山登り(不慣れ;拙ブロ07年4月7日付)のあとでもあったので、ちょうど良い休憩ともなった。遅い朝・昼兼用食および早過ぎる夕食を同時にと、潜った商業ビル地下の食堂で摂り、ニ、三軒先に偶然見かけた「阿わび屋大原老舗」(唐津)で松露饅頭を求めた。佐賀で買いそびれていた。(福岡空港でも販売しているし、都内でも買えないことはないけれども)ついでながら、都内でも中々手に入りにくい、ある作家の書籍2冊を見つけ、迷わず購入する。以上がわたくしの全行動であるけれども、振り返ると、一切、博多には立ち入っていないことになる。博多部についての定義は、「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」が端的で分かりやすいので、引用する。
《地理的には博多区内北部の那珂川と御笠川に挟まれた地域となる。(ほとんどの区域は那珂川の支流にあたる博多川と御笠川の間、つまり中洲の向こう右岸を指すようである。ウィキ解説の後段に、そのような記事がみられるのであるが、あえて、上記の文章を引用したのは、以下にある南北の境を明確にしているからである【筆注】)北西端は明治時代の海岸線に相当する那の津通り、南東端はかつて房州堀が存在した国体道路近辺となる。》
 電子地図で確認してみると、那の津通りに面して北端に神屋町、対馬小路の地名がみられ、通りの向こうは築港なので、やはり、ここが元の海岸線なのであろうか。地名の発端は秀吉の「街づくり〜太閤町割」(博多町割)であるらしい。もともと、大宰府を中心に回っていた北九州一帯は、その後、大内、大友、龍造寺、島津など各氏が入り乱れ、秀吉の支配下に治まった後、小早川隆景が執り、名島(現在の福岡市東区名島1丁目、名島神社辺り)に居を構えた(入封した)。隆景は「束ねた三本の矢」を折ることのできなかった毛利元就の子のひとり(三男)である。(史実かどうかは疑わしいというのが一般的になっているが、その後の隆景を考えると矢のことは本当のことでも良いと思っている)同時に前述の「割」が始まった。中心となったのは今もなお町名として留めている神屋宗湛(そうたん)らである。ただし、福岡市制=1889;明治22年当時は大浜、あるいは市小路浜、西町浜と呼ばれていたらしく、神屋町となったのが何時なのか、色々とみているが、見当がつかない。(『博多を歩こう/博多を巡ろう』より)おそらくであるが、もともと宗湛の業に対する褒美として秀吉あたりが同地を与え、家名をもって土地の名としたのであろうが、近代になって、別の名を騙ったものの、やはり、もとの名が良いということで、戻ったのであろうか・・・たしかに福博の街には旧町名を残した碑があって、そちらの方が居心地が良いと感じられる町衆の方も多いのであろう。二日前にいた長崎にもそのような空気があり、住居表示板には現住所(町名)とともに括弧書きで旧町名が添えられていたり、あるいは、独立表示されていたりするのを見て、嬉しく思ったけれど、後ほど戻って、調べてみると、実際に旧町名が復活したという記事を見つけた。それが、おそらく博多の方のブログ「博多連々(つれづれ)」であるというのがなんだか楽しい。地図で確認すると、銀屋(ぎんや)町(まち)、東古川町いずれも眼鏡橋近くの「御くんち」の踊り町を分掌している旧い街の真っ只中にあり、ごく普通に儘(まま)の名を継いできたのであろう。博多の場合も「流(ながれ)」という、旧くからの流れを背景とした旧町名への憧憬(しょうけい)を脇に置き捨てずに続いている。踊りなり、祭りなり、身体と心の躍りの作用もあって、互いのつながりも深まるのであろうか、いわゆる「結い」という気もちの連鎖を普段は、そうは感じていなくても、無味無意な役所仕事である町名変更という時折の無策に集団的(町ぐるみでもって)に反応するのは、しごく、あたりまえのことでもある。
さて、
 宗湛はもともと織田信長に阿(おもね)っており、死後(宗湛も、その日、本能寺にいたらしい)、秀吉に鞍替えしたようなところもあり、茶の道にも詳しいことからか、「筑紫の坊主」とも呼ばれていたが、想像で書くのは、今も継がれている子孫の方々には、はなはだ失礼ではあるけれども、違う坊主の姿が浮かんでしまう。どうも家康とは相性が悪かったらしいと聞くと、なんだか可笑しい、アッチ向いてホイは権現様がいかにも嫌う類のようでもある。曾祖父(祖父の説もある)を寿禎(じゅてい)といい、石見銀山の発見者である。寿禎の生年が分からないのであるが三代目?になるのだろうか(二代目・主計の子という説と初代の永富の兄弟という説がある)、銀山発見は1526(大永6)年である。宗湛は六代目(1553?〜1635年)とあるから、五代目(宗湛の父、 紹策)まで遡るとして、四代目が分からない。いずれにしても、すでに当時から筑前・博多の豪商といわれていた神屋家の財をさらに深めたのが寿禎であり、その二代か三代あとに宗湛がいた。神屋町の隣は奈良屋町である。やはり、豪商といわれた奈良屋九兵衛に由来するらしいが、今の時点ではそれ以上のことは分からない。奈良屋といえば、江戸中期に紀文(紀伊国屋文左衛門)とともにお大尽として名高い奈良茂(ならも、奈良屋茂左衛門、日光東照宮の御普請などを行なった材木商)がいるが、係累はなさそうである。博多の奈良屋はどうも奈良辺りから流れてきたような気配もあるが、「ならも」の方は江戸の在、「ならも」自身は深川に生まれたという(大坂という記述もあったが、それ以上の裏づけをみつけていない)。「ならも」については司馬遼太郎氏の『街道をゆく/本所深川散歩』が詳しく、軽妙で、面白い。現在の博多小(旧奈良屋小)辺りには宗湛の屋敷があったという。ただし、奈良屋町は1966(昭和41)年に大胆かつ無茶苦茶な町名変更によって残ったクチである。以前は他に、釜屋町、芥屋町、古渓町、奥小路、萱堂町などがあったらしい。今、当時の町名はほとんど解体されてしまったけれども、わずかに「流(ながれ)」の中に留めていることは、すでに書いた。流は初夏の博多(これは博多で良いのであろうか)を駆けぬける祇園山笠の最小最大単位であり、町割に由来しているというのも、それに近いことをすでに述べた。宗湛ゆかりの奈良屋町は幅数十メートルの大通り(昭和通り)に面しているが、さらに南東方向に下ると、通りの名は明治通りと、これも素っ気ないけれども、ほどよい狭さでもって、歩き心地に途惑いを感じさせない趣きがある。橋を渡り、中洲を過ぎると、福岡部の、いえ、福博でもっとも華繁なTENJINにいたる。(いづれ、つず´く、かも)

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2007.04.08

28歳

 不老不死は始皇帝の時代から2200年経った現在でも、まだ、実現はされていないものの、待望論は依然存在しているのであろう。最近、よく耳にするアンチエイジングとは、抗老(齢)化を意味するようであるが、ちょっと、意味を取り違えれば不老不死にもなろう。ある人口を年齢順に並べた場合に、その人口を2等分する境界点に位置する人の年齢を「中位数年齢」というそうだ。
 例えば、´キ貝瓦箸い場合、その2等分の境界であるが該当するらしい。人口を年齢順に並べたとき中位(ちょうどまん中)の人の年齢、あるいは、全人口を年齢の小さい方から並べた場合、全人口の2分の1番目に当る人の年齢などと説明している資料もある。平均年齢とは異なる指標であり、数値的には似通っているようでもあるが、微妙にずれてもいる。(「日本の平均年齢と中位数年齢」国立社会保障・人口問題研究所、以下、社人研)
 さて、標題の28歳というのは、中位数年齢の世界平均である(05年)。『World Population Prospects: The 2006 Revision Population Database』という国連資料であるが、どういうわけか、只今は、アクセスができないため、キャッシュcache画面で確認しながら、記憶に頼って説明すると、《PANEL2:Basic data》の項に中位数年齢(Median age)があるので、世界あるいは地域、国を選択すると、表示される。あるいは、社人研のサイト「将来推計人口データベース」の『V.世界・主要国の将来推計人口』からもアクセスできたのであるが、現時点ではコチラからも×(不可)であるので、どうにもならないけれど、要するに28歳が真ん中に当たるらしい。もうひとつ、以下は前出「社人研」の資料であるが、こちらは細かく、世界の中位数年齢は27.75歳(05年)とある。そして、日本はというと、43歳(冒頭の「日本の平均年齢と中位数年齢」、平均年齢もほぼ同じ)ということであって、したがって、抗老化などということが話題になるのであろう。わたくしは、というと、中位数を高目に引っぱっている方であるが、だからといって、アンチ・・・を意識したことはない。ただし、加齢については、もう十分に自覚しているつもりである。「寿命中位数」というのもあるが、解説を読むと、少し、考えてしまう。『生命表上で、出生者のうち、ちょうど半数が生存し、半数が死亡すると期待される年数を寿命中位数という。』(生命表「参考資料3 生命表諸関数の定義」厚生労働省)おそらく、破綻しかかっている(している)年金などの算段もこの期待値によるものであるのか、期待が大きすぎ、当然、剰余が発すると計算違いし、派手に使ってしまったのであろう。ところが、わたくしのように、統計上、期待されてもいないのに生存しているうえに、ろくに寄与もしていない、よって、誤算(-_-メ)、破算(;_;)/~~~。
 ちなみに今、話題の『セカンドライフ』登録者の「平均年齢」(世界)は32歳だそうである。

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2007.04.07

不慣れ

・・・なことはするものではない、と思いながら、麓の『徐福長寿館・薬用植物園』で、ご丁寧に、ご親切に上宮への道のりを教えていただいたこともあり、途中、何度か、戻ろうかと、(心身ともに)くじけながらの「初登頂」であった。少し、ご案内しよう。館を含む公園を出ると、左(南)に長崎(高速)道をみながら進むと、「徐福の里 物産販売店」という看板を、店は閉まっていたのであるが、一体、何を販売しているのか、気になってしかたがない。北(山)に向かって角を曲がると、左手に葉隠れの里という文字が目立って、そこが学校であることに気づく。弘学館(こうがくかん)、葉隠を生んだ藩校「弘道館」を意識した名づけなのであろうか、歴史は浅いと同校のサイトにある。(ちなみに水戸藩校も弘道館である)
[徐福とコカコーラ]※隣の女性は「お辰」か?
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 キャンプ場の脇の道から坂の勾配がさらに厳しくなり、そこから一時間の山登りが続く。金立山(前回は、きんりゅうざんと表記したが、長寿館のHPには「さん」とある)は標高500メートルほどの小山であり、また、間近に高速道が走っていることから、登る途中、轟音が絶えることなく聞こえ、絶境という雰囲気にはなかったけれども、途中、吹上観音を過ぎるあたりから、滝水の音が混ざり、まもなく、山は静寂以外の音もなく、上宮が近いことを予感する気配を感じながら、なおも登り、平らな地に出ると、上宮である。祠の背後には巨石(岩)が、どかと根座している。
[上宮の神石(体)]
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 秦の始皇帝というのは、歴史の教科書の最初のほうに必ず出てくるから、その後の中国(今でいう)の歴史など碌に聞いていなくても、彼だけは辛うじてその名を憶えている、わたくしから見ると、そういう位置にあって、徐福のことを知っていなければ、ただ、それだけのことである。といって、今でも、それだけ以上のことでもないけれども、空想という延長線上に、どうしても引っ掛けておく必要もあって、「史記」を眺めている。ただし、手元になく、ほとんどを他人(よそ)様のご苦心(労作、秀作)を利用させていただいている。(感謝)
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齊人徐市等上書言
海中有三神山
名曰蓬莱 方丈 瀛洲 僊人居之
請得齋戒 與童男女求之 
於是遣徐市
發童男女數千人
入海求僊人
『古代史獺祭』:こだいし だっさい)より引用
 上記文は『史記』の卷六/秦始皇本紀第六/始皇帝二十八年の項にある。大雑把にあらわすと、斉の国(徐福の生地といわれる現在の江蘇省を含む一帯)の徐市(じょふつ;徐福の別名)らは、不老不死を強請る始皇帝に、海の向こうには、蓬莱、方丈、瀛洲 (えいしゅう)という僊人(仙人)の棲む神山があり、そこに皇帝が望まれる妙薬があることが判ったので、斎戒を済ませた穢れのない童男女と伴に、この徐市を遣わせて欲しい旨の書面を上申した。最後の二行にあるように、皇帝が認めて、数千人とともに出航したが、最初の航海は失敗であった。その後も何度か試みられたのか、同「三十七年」には、
方士徐市等入海求神藥 
數歳不得 費多 
恐譴 乃詐曰  蓬莱藥可得
然常爲大鮫魚所苦・・・(古代史獺祭)より
とある。雑訳する。
「徐福(徐市)は神薬を求めて(何度か)航海を試みたけれども、年月と費用ばかり嵩むばかりであった。(とうとう)皇帝の譴責を恐れ、『蓬莱』に妙薬があることは間違いありませんが、進む道を大きな鮫魚(≒鯨)が阻むので・・・と虚偽の申し立てをし」、再び、海へと、そして、東渡に成功し、蓬莱の妙薬を得た。同じ頃?皇帝は没しており、不老不死は叶わなかったけれども、徐福一行はその後、日本各地へと播り、稲作や捕鯨(大きな鮫魚)、百工を伝える・・・。
 以上は、伝説である。徐福の東渡(佐賀県上陸?)は紀元前210年(始皇帝三十七年)、史記は同91年に書かれており、今で算(かぞ)えれば、明治末期の顚末(噂話)を祖父母から聞いて、書き遺すような、そういう「間」である。嘘とも実(まこと)とも、判断しかねるけれども、嘘としては現実味がことのほか香るし、史実であれば、祖父母の、まるで実際に見たような脚色に気をつけさえすれば、絵空事として済まされない焼け落ちた古い蔵の前に立ったような焦げ臭さを感じる。
 上宮より金立山頂は間近にあるが、わたくしの興味の範囲にない。攣り、強ばる下半身を上半身で支えながら、登ってきた道を下る。戻った麓近くに中宮、さらに、正現稲荷神社とあるが、もう、わたくしの上下は限界を超えていた。あとのまつりであるが、頂には奥の院があると知った。坂は一度登り、そして、下ってしまうと、もう、二度と、戻ることは(でき)ない、そういう、ごく普通のことを今さらながら、がばい(とても) 、と、感じ、終わりが近づいている、おひなまつりの街へと向かう帰りのバスを、好きでもない桜を眺めながら、待っていた。

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2007.04.05

不老不死

 長崎市内の宿は浦上天主堂に近い場所にあり、堂にいたる小さな商店街をホッツキながら、拝見に行った。幸い、ミサの日ではなく、邪魔することなく、堂内を巡り、意外と大きな内部に驚いた。旧堂は1895(明治28)年着工、1914(大正3)年に献堂式が行なわれた。ただ、現在の堂にもある双塔が完成したのは25(大正14)年ということであり、都合30年近い歳月を要している。そして、20年後(45=昭和20年)に被爆、多くの信者とともに堂ごと斃れた。再建は59(昭和34)年、一回り大きくなった今の姿がある。(『浦上小教区変革史』)長崎教区カトリック浦上教会より)。その宿に入る前に見かけた階段を昇ったところにある朱塗りの建物が気になっていて、爆心地公園を歩いたあとに、門前から、のぞいてみた。宝来軒という中華料理屋さんであった。別館とあるので「本」を探してみたが、なく、翌日、連れられていった新地の中華街に本館があった。(皿うどんを食べたのは別の店であるが)宝来というのは、地名としては、おめでたいのであろう(宝がやって来る)、ほかに、鳳来というのもある。また、蓬莱といえば、「豚まん」も有名(大阪・551)である。
 秦の始皇帝というのは、万里の長城や兵馬俑で知られているが、もともと虚弱体質であったという説もあり、生涯、不老不死に拘っていたらしい。その隙を突いたとされるのが、現在の徐福伝説となる。司馬遷(註:遼太郎氏ではない)が、『史記』の中でふれており、信憑性が高いという評もある。このことは、拙ブロでも何度かふれてきたが、史記の中にある不老不死の妙薬があるとされる蓬莱をめざすべく皇帝の支援を受けて旅立った徐福が着いたとされるのが佐賀県諸富町(現在は佐賀市の一部)の浜であり、そこから、薬を求めて登ったとされるのが金立山(きんりゅうざん)である。
 行ってきました。
金立神社上社

金立神社側から
 このお社を訪ねたいという気もちがずっとあって、片道1時間の山登りも、ようやく来ることができたという想いが強いためか、生来、そういうガンバリのない、わたくしにしては、と、長崎の坂といい、この坂といい。(つづく)

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2007.04.03

 長崎という所は、街の置き方が良い、というようなことを、どなたかが書かれていたような気もするが、確かに、山(稲佐;いなさ)が控え、海(港)が充ち、半径1キロほどの中に”くらし”の手(道具)が詰まっていて、その置場がなんともすっきりしている。具体的に俯瞰してみると、今は終着駅となっている長崎駅はどちらかというと外れに追いやられている。もともとは、さらに南に延ばされていて、「長崎港」駅という、この街の生業である造船のある場所へと近づいていた。所用で訪ねた近くにある長崎税関の裏手にあったらしい。ここから上海に向けて、航路が拓けていた。今も北側の大波止(おおはと)から伊王島、五島などとの連絡線が行き来している。場所をさらに加えると、長崎駅の先代は只今の浦上(うらかみ)駅であった。偶然ではあるけれども、わたくしは、そこより市電(長崎電気軌道)でふたつ目の浜口町電停前近くの宿にいた。歩いて数十歩北にナガサキの爆心地があり、所用を終え、まだ明るさが残った頃合に、爛漫の桜を湛えた公園に。一段降りたところに被災当時の地層がガラス越しに見えて、食器の欠片などが灼けた土に半分埋もれている。南に戻って、中心部を眺めると、マチのヘソは浜の町アーケード街あたりであろうか。中島川をはさんで、官(役人)と民(商人)が対峙し、さらに、その縁に職人町である銅座町、船大工町、油屋町、本石灰(もとしっくい)町などが座し、新地(中華街付近)へと。冒頭の置き方が良いというのは、このことで、合理的な街づくりがなされていると同時に、山、川(海)、陸が三位一体となり、濃縮された「なり」をしている。同じ中華街をもつ横浜、神戸にも似た気配はあるけれども、長崎ほどのコンパクトさがなく、したがって、置き方がややバラけているように思える。わたくし的には、「ここ」は、まことに良い街のひとつであると思う。もっとも、江戸幕府の眼には悪い土地と見えたのであろう。鎖国をする中で、ここだけは外に開いていた。江戸からはるか離れた土地なのだから、という考えがあったのかもしれない。もちろん、それは油断であったと、過小評価だったと、のちに分かることである。しかし、ポルトガル人には良い街に感じたらしい。平戸を離れた彼らは良港である横瀬浦にいったん落ち着くが、より日本国に近い土地を求めて、福田、口之津を経て、ここ(長崎)を発見し、活動の場と決めたのであるが、その理由が海(湾)から見た長崎が故地リスボンに似ていたからだともいわれる。(自慢でもあるが)わたくしも、長崎より先にリスボンを知っていた(訪ねた)から、初めて長崎駅に降り立って、眺めた陸の姿に重ね合わせてみる想いをしたことを記憶している。今回、改めて携帯撮影をしてきたけれども、やはり、実際に眼にした感覚は写らない、なんだか、単なる町写真にしか見えないけれど、画像中央に上下、ビルとビルの間に黒っぽくみえるのが坂道である。リンク先のリスボン市街と見較べて欲しい。『リスボン市街〜旅行のクチコミサイト・フォートラベルに掲載されている画像に移動
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長崎市街
 標題は「ふご」と読む。手持ちの辞書を確認すると、あじか(簣)ともあり、さらに、ぱいすけ、とも、妙な表現であるが、「日本語史資料の連関」というサイトによると、横濱言葉のひとつで、バスケットが転訛したと解説がある。「どんたく」は、オランダ語の休日(日曜日)が訛ったというのは有名であるが、上記サイトから、ほかに、いくつか、あげてみると、「わだ=ウォーター(水)」、「ぐるばい=グッド・バイ」、「デインネル=ディナー(昼食)」、「ソップル=サパー(夕餉)」などがある。もちろん、メリケン(アメリケン)もそのひとつである。畚も簣も竹などで編んだ背負い籠の類をさし、より、一般的な言い方は「もっこ」かもしれない。長崎も埋立の上に立った街である、あちこちで、もっこが使われていたに違いない。(つづく)

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2007.04.01

 所用はそこそこにして、相変わらず可愛いJR九州の特急にとび乗って、佐賀に移った。ここを訪ねた一方の目的は2月17日から催されていた「佐賀城下ひなまつり」の最終日に駆け込むことであった。旧福田家や旧三省銀行などの名家・御大尽に加え、商店街のあちこちで、きらびやかに、あるいは、つつましく・かわいく飾られているのをただ愛でるだけのことである。もう、桃の節句はとうに終わっているけれど、佐賀は頑張っている。宇佐の五百羅漢さんを訪ねた際の中津でのお雛様以来である。(『富のくに』拙ブロ05年5月15日付)小一時間歩いて、みたらし団子をいただいて、お暇した。中には入らなかったけれど、古い食堂のウインドウがお雛壇に変わっていたのがおかしい。
[大衆食堂のショーケース]
佐賀ひな祭り070331
 本日は正月と並ぶ節目でもある。今、博多にいるのだが、真新しいスーツを着た人たちが休みだというのに、スーツケースを引きずって、慌ただしく、向こうへ、こちらへと、行き交っていた。二十四節(気)でいえば、春分が終わり、そろそろ清明(せいめい)を迎える。全てが、開く頃でもある。所用のあった長崎についてと、佐賀に寄った他方の理由については、次回以降で書きたいと思う。

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