2007.05.31
夜の太陽(ミッドナイト・3)
白夜のことである。
引き続き、夏目漱石氏の『三四郎』を引っ張り出すと、美禰子と三四郎が今時分の時節に逢瀬していたのであれば、という身勝手な想像をしている。サマータイムの導入可否についてという話題があって、賛否両論があることは知っている。大雑把にいうと、夏と冬では3〜6時間程度、日の出ている長さが異なるらしい。東京でいえば、夏は日出4時半頃〜日入19時頃、冬は5時前〜16時過ぎ、日の長さでいうと15時間と10時間であり5時間の差がある。少し自慢話をする。エーゲ海のある島に滞在していて、相部屋した人が先に島を出るというので、早朝の船に乗るため、宿で見送った。と、数分後に彼が「今日からサマータイムで、もう船は出ていた」と戻ってきた。わたくしたちには、そのような習慣がないものだから、まったく気がつかなかったのであるが、その日より時計が1時間だけ進んでいたのである。出港時間が5時であることには違いはないが、昨日時間でいえば、(今朝)見送り見送られたのは5時前であるけれども、今朝時間では(わたくしども以外では1時間進めているので)6時前ということになり、もうとっくに(5時発の)船は出ていたことになる。サマータイムの効果は1時間進めることで、長くなった日(昼、デイライト)を有効に遣おうということだそうである。ただし、弊害もあるとのご意見もある。そのことは、どうでもよい。この時季は明るい「夜」時間が長いということである。
もし、での話しであるけれども、「もし」夏まつりのあとか何んかでもって、藍染川に(ひょっとしたら)心地よい涼しい風が二人をそそのかしたりして、もう少し、川面をみていたのなら、三四郎と美禰子は、と、ぐずぐずと考えているに過ぎない。その前に、三四郎という男のことを考えなくてはいけない。(美禰子のことは分からない。)
熊本(在籍していた高等学校の所在地、生まれは福岡県京都郡とある)から上京するおり、名古屋で『同部屋』(相部屋ではない)となった女性に、「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」といわれて、プラットフォームの上へはじき出された心持ちになった三四郎のことである。三四郎がその(美禰子の)呼吸(いき)を感ずることができたと謂う直前に、彼は、こんなことを思っている。
『空はまた変ってきた。風が遠くから吹いてくる。広い畑の上には日が限って、見ていると、寒いほど寂しい。草からあがる地息(じいき)でからだは冷えていた。気がつけば、こんな所に、よく今までべっとりすわっていられたものだと思う。自分一人なら、とうにどこかへ行ってしまったに違いない。美禰子も――美禰子はこんな所へすわる女かもしれない。』
彽徊(ていかい)である。
辞書には、こうある。
【彽徊−趣味】夏目漱石がとなえた文学上の立場。人情の世界に自分が直面することなく、ちょうど舞台の劇をみるように、第三者として世の中をみるところに美の世界が成立するという。『草枕』にみられる「非人情」というのも、これと同じ。
漱石氏はわざと、三四郎にそのような役割を演じさせている。人情社会(世間)では、これを、『あなたはよっぽど度胸のない』といわれる。結末は三四郎が望んだことではなく、漱石氏がそうしたかったからである、と考えると、日の長い夜に逢瀬すれば、と、やはり、想うのである。ただ、それ以上の穿鑿(せんさく)をするつもりはない。
団子坂からペテルブルクに移る。ドストエフスキー氏の小品文に『白夜』がある。最初に訳者である小沼文彦氏のあとがきを引用する。(角川文庫、二十九版)
《・・・そうした若い『空想家』が人の心を狂わせる、ゴーゴリを狂死させ、プーシキンを狂喜させ、そしてまた都会の作家ドストエフスキーがこよなく愛した神秘的な白夜のペテルブルクで、・・・》
『使徒ペテロの守護する街』はそういう雰囲気をもっている。在サンクトペテルブルク日本国総領事館のサイトを参考にすると、ペテルブルクの白夜は、夏の約50日間。5月25・26日頃から始まり、日照時間最長は6月21・22日頃(日の長さ18時間53分)、終了は7月16・17日頃、とある。上記、東京の夏時間に比して4時間ほどさらに長い。
私(ぼく)とナースチェンカの逢瀬は白夜に行なわれる。ぼくは、ペテルブルクならばごく当たり前にいる26歳の青年である。同作品は彼の四夜を語っている。たいへん、早足で説明すると、(第一夜)酔っ払いか何かに絡まれそうになっているナースチェンカを助け、(第二夜)再会を果たして、少しづつ身の上話を語って、ナースチェンカという名前であることも、17歳であることも、同居しているお祖母さんに自分がピンで留められている(箱入状態)ことも、ピンを外して、或る日突然現われた間借り人に恋することも、その人(男)とは1年後の結婚を約束して、男はモスクワに職を求めにいき、昨夜が1年と2日目だということも、ぼくに、話した。(第三夜)昨夜託された手紙を男のアドレスに届け、この日も『10時』にナースチェンカと『逢う』。しかし、男からの連絡はない。『明日はきっと来ますよ』とぼく、『そうね』、明日が雨だったら、明後日は(ナースチェンカが)出てきます、そして、最後に、『これからはもう二人(ぼくと彼女)はいつも離れっこなしね、そうじゃありません?』とナースチェンカはいって、去った。そして、4日目は雨、ぼくは9時には例の場所へ行って、例のベンチに腰をおろし、彼女を待ち、家の前まで行ったけれども途中で恥ずかしくなり、引き返した。・・・『もしも、天気さえよかったら、夜っぴてでもあのあたりを歩きまわったのに・・・。』第三夜は4日目時点において書かれた設定となっており(昨夜は私たちの三度目のランデヴーだった、私たちの三度目の白夜だった、とある)、(第四夜)は実質5日目となり、有名な『ああ、すべてがこんな結果に終わろうとは! なんという結末をつげたことか!』で始まる。男は現われず、とうとう、ぼくは告白をし、ナースチェンカも応えた。明日から一緒に住みましょう、と。以下、引用する。
『明日にも、ナースチェンカ、明日にもさっそく。部屋代がすこしたまってるけれど、なにそんなことは構いやしません・・・。もうすぐ月給日ですから・・・』
『あのね、もしかしたら、あたし家庭教師をしてもいいわ。自分も勉強して、子供たちの勉強をみてやることにするわ・・・」
『そう、そいつはいいですね・・・ぼくだってもうじきボーナスをもらいますからね、ナースチェンカ・・・』
『それじゃ明日からあなたはもう家族の一員ね・・・」
ただし、第五夜はない。
私(ぼく)には彼女の家の周りをいったりきたりという意味でのテイカイはあるが、三四郎のような彽徊をみることはできない。むしろ、その逆方向で、極端なほど主観的でさえある。第一人称はドストエフスキー氏の特徴といってしまえばそれまでであるけれども、その前に、まるで霧が深くたちこめたような幻想的なペテルブルクの白夜がある。白夜というのはあながち明るい夜ではない、むしろ靄々とした明るさであるから、心も、もやもやしている、彽徊させようとしても、(それに)抗う気もちが一方で強く作用する。したがって、第一人称に陥っていく。私、ぼく、わたくし、という身勝手な、しかし、幸せな(と錯覚している)世界に没頭していく。(その意味では彽徊の一部である=沈思でもあるけれど、その配合比率はしごく低い)
『白夜』には第三者の科白(せりふ)がほとんど皆無に近い。それゆえ、ナースチェンカの存在さえ、証明する術もなく、私(ぼく)のアリバイは成立していない。言い換えれば、ぼくの告白(モノローグ)に白夜という作品自体がすべてを縁っている。『白夜』にはふたつの副題が、一つは「感傷的ロマン」、そして、「ある夢想家の思い出より」が副えられている。『三四郎』の候補主題として「平々(地)」というのがあるそうで、前者は土地あるいは風土を主題として選び、後者はそれを敢えて避け、人情を択んだ。「平々」とは「のっぺらぼう」であり、この作品の、やはり主題ではないかという想いもあるけれど、前者は彽徊趣味(主義)ではないにも拘らず、白夜という第三者を主題とした(本来はある夢想家の思い出ではないのであろうか)、後者はというと第一人称を、敢えて、主題に択んで、テイカイに挑んでいる。そのようなことを、つらつらと想いながら、さらに、夜について、考えている。
拙ブロ「暗闇で饅頭を喰う(ある神秘論)」(05年11月21日付)で書いたけれども、まだ、暗闇に饅頭の神秘さについては、さっぱり分からない。仮に、暗闇にミネコと置き換えたらどうなのかと、勝手に加工している。あるいは薄暮、あるいは白夜(ナースチェンカ)であったのならば・・・とも。
ただし、いつまでたっても、神秘さには近づけないのであろうと、もうとっくに、答えは、わたくしの中にある。
引き続き、夏目漱石氏の『三四郎』を引っ張り出すと、美禰子と三四郎が今時分の時節に逢瀬していたのであれば、という身勝手な想像をしている。サマータイムの導入可否についてという話題があって、賛否両論があることは知っている。大雑把にいうと、夏と冬では3〜6時間程度、日の出ている長さが異なるらしい。東京でいえば、夏は日出4時半頃〜日入19時頃、冬は5時前〜16時過ぎ、日の長さでいうと15時間と10時間であり5時間の差がある。少し自慢話をする。エーゲ海のある島に滞在していて、相部屋した人が先に島を出るというので、早朝の船に乗るため、宿で見送った。と、数分後に彼が「今日からサマータイムで、もう船は出ていた」と戻ってきた。わたくしたちには、そのような習慣がないものだから、まったく気がつかなかったのであるが、その日より時計が1時間だけ進んでいたのである。出港時間が5時であることには違いはないが、昨日時間でいえば、(今朝)見送り見送られたのは5時前であるけれども、今朝時間では(わたくしども以外では1時間進めているので)6時前ということになり、もうとっくに(5時発の)船は出ていたことになる。サマータイムの効果は1時間進めることで、長くなった日(昼、デイライト)を有効に遣おうということだそうである。ただし、弊害もあるとのご意見もある。そのことは、どうでもよい。この時季は明るい「夜」時間が長いということである。
もし、での話しであるけれども、「もし」夏まつりのあとか何んかでもって、藍染川に(ひょっとしたら)心地よい涼しい風が二人をそそのかしたりして、もう少し、川面をみていたのなら、三四郎と美禰子は、と、ぐずぐずと考えているに過ぎない。その前に、三四郎という男のことを考えなくてはいけない。(美禰子のことは分からない。)
熊本(在籍していた高等学校の所在地、生まれは福岡県京都郡とある)から上京するおり、名古屋で『同部屋』(相部屋ではない)となった女性に、「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」といわれて、プラットフォームの上へはじき出された心持ちになった三四郎のことである。三四郎がその(美禰子の)呼吸(いき)を感ずることができたと謂う直前に、彼は、こんなことを思っている。
『空はまた変ってきた。風が遠くから吹いてくる。広い畑の上には日が限って、見ていると、寒いほど寂しい。草からあがる地息(じいき)でからだは冷えていた。気がつけば、こんな所に、よく今までべっとりすわっていられたものだと思う。自分一人なら、とうにどこかへ行ってしまったに違いない。美禰子も――美禰子はこんな所へすわる女かもしれない。』
彽徊(ていかい)である。
辞書には、こうある。
【彽徊−趣味】夏目漱石がとなえた文学上の立場。人情の世界に自分が直面することなく、ちょうど舞台の劇をみるように、第三者として世の中をみるところに美の世界が成立するという。『草枕』にみられる「非人情」というのも、これと同じ。
漱石氏はわざと、三四郎にそのような役割を演じさせている。人情社会(世間)では、これを、『あなたはよっぽど度胸のない』といわれる。結末は三四郎が望んだことではなく、漱石氏がそうしたかったからである、と考えると、日の長い夜に逢瀬すれば、と、やはり、想うのである。ただ、それ以上の穿鑿(せんさく)をするつもりはない。
団子坂からペテルブルクに移る。ドストエフスキー氏の小品文に『白夜』がある。最初に訳者である小沼文彦氏のあとがきを引用する。(角川文庫、二十九版)
《・・・そうした若い『空想家』が人の心を狂わせる、ゴーゴリを狂死させ、プーシキンを狂喜させ、そしてまた都会の作家ドストエフスキーがこよなく愛した神秘的な白夜のペテルブルクで、・・・》
『使徒ペテロの守護する街』はそういう雰囲気をもっている。在サンクトペテルブルク日本国総領事館のサイトを参考にすると、ペテルブルクの白夜は、夏の約50日間。5月25・26日頃から始まり、日照時間最長は6月21・22日頃(日の長さ18時間53分)、終了は7月16・17日頃、とある。上記、東京の夏時間に比して4時間ほどさらに長い。
私(ぼく)とナースチェンカの逢瀬は白夜に行なわれる。ぼくは、ペテルブルクならばごく当たり前にいる26歳の青年である。同作品は彼の四夜を語っている。たいへん、早足で説明すると、(第一夜)酔っ払いか何かに絡まれそうになっているナースチェンカを助け、(第二夜)再会を果たして、少しづつ身の上話を語って、ナースチェンカという名前であることも、17歳であることも、同居しているお祖母さんに自分がピンで留められている(箱入状態)ことも、ピンを外して、或る日突然現われた間借り人に恋することも、その人(男)とは1年後の結婚を約束して、男はモスクワに職を求めにいき、昨夜が1年と2日目だということも、ぼくに、話した。(第三夜)昨夜託された手紙を男のアドレスに届け、この日も『10時』にナースチェンカと『逢う』。しかし、男からの連絡はない。『明日はきっと来ますよ』とぼく、『そうね』、明日が雨だったら、明後日は(ナースチェンカが)出てきます、そして、最後に、『これからはもう二人(ぼくと彼女)はいつも離れっこなしね、そうじゃありません?』とナースチェンカはいって、去った。そして、4日目は雨、ぼくは9時には例の場所へ行って、例のベンチに腰をおろし、彼女を待ち、家の前まで行ったけれども途中で恥ずかしくなり、引き返した。・・・『もしも、天気さえよかったら、夜っぴてでもあのあたりを歩きまわったのに・・・。』第三夜は4日目時点において書かれた設定となっており(昨夜は私たちの三度目のランデヴーだった、私たちの三度目の白夜だった、とある)、(第四夜)は実質5日目となり、有名な『ああ、すべてがこんな結果に終わろうとは! なんという結末をつげたことか!』で始まる。男は現われず、とうとう、ぼくは告白をし、ナースチェンカも応えた。明日から一緒に住みましょう、と。以下、引用する。
『明日にも、ナースチェンカ、明日にもさっそく。部屋代がすこしたまってるけれど、なにそんなことは構いやしません・・・。もうすぐ月給日ですから・・・』
『あのね、もしかしたら、あたし家庭教師をしてもいいわ。自分も勉強して、子供たちの勉強をみてやることにするわ・・・」
『そう、そいつはいいですね・・・ぼくだってもうじきボーナスをもらいますからね、ナースチェンカ・・・』
『それじゃ明日からあなたはもう家族の一員ね・・・」
ただし、第五夜はない。
私(ぼく)には彼女の家の周りをいったりきたりという意味でのテイカイはあるが、三四郎のような彽徊をみることはできない。むしろ、その逆方向で、極端なほど主観的でさえある。第一人称はドストエフスキー氏の特徴といってしまえばそれまでであるけれども、その前に、まるで霧が深くたちこめたような幻想的なペテルブルクの白夜がある。白夜というのはあながち明るい夜ではない、むしろ靄々とした明るさであるから、心も、もやもやしている、彽徊させようとしても、(それに)抗う気もちが一方で強く作用する。したがって、第一人称に陥っていく。私、ぼく、わたくし、という身勝手な、しかし、幸せな(と錯覚している)世界に没頭していく。(その意味では彽徊の一部である=沈思でもあるけれど、その配合比率はしごく低い)
『白夜』には第三者の科白(せりふ)がほとんど皆無に近い。それゆえ、ナースチェンカの存在さえ、証明する術もなく、私(ぼく)のアリバイは成立していない。言い換えれば、ぼくの告白(モノローグ)に白夜という作品自体がすべてを縁っている。『白夜』にはふたつの副題が、一つは「感傷的ロマン」、そして、「ある夢想家の思い出より」が副えられている。『三四郎』の候補主題として「平々(地)」というのがあるそうで、前者は土地あるいは風土を主題として選び、後者はそれを敢えて避け、人情を択んだ。「平々」とは「のっぺらぼう」であり、この作品の、やはり主題ではないかという想いもあるけれど、前者は彽徊趣味(主義)ではないにも拘らず、白夜という第三者を主題とした(本来はある夢想家の思い出ではないのであろうか)、後者はというと第一人称を、敢えて、主題に択んで、テイカイに挑んでいる。そのようなことを、つらつらと想いながら、さらに、夜について、考えている。
拙ブロ「暗闇で饅頭を喰う(ある神秘論)」(05年11月21日付)で書いたけれども、まだ、暗闇に饅頭の神秘さについては、さっぱり分からない。仮に、暗闇にミネコと置き換えたらどうなのかと、勝手に加工している。あるいは薄暮、あるいは白夜(ナースチェンカ)であったのならば・・・とも。
ただし、いつまでたっても、神秘さには近づけないのであろうと、もうとっくに、答えは、わたくしの中にある。
2007.05.29
夜更けのブログ
この拙ブロは途中まで、所用で出かけた博多(厳密にいえば違うが)の宿で書いている。標題通り、夜更けにである。(25日4〜6時頃)幸いなことに、東側の博多川を真下にみる部屋が割り当てられ、しだいに明けてくる空を眺めながら、目は、頭は、そして心も朦朧ながらであるけれども、中洲から「博多部」に臨み、街を望んでいる。川向こう(彼岸)に櫛田神社が位置していて、とはいえ、アレ(緑っぽい景色)が神社だな、という確信はない。だいいち、そこを訪ねたこともない。
前回の「夜の市(いち)」を続けている。
同神社は博多における市(いち)の中心(おへそ)のような場所でもある。祇園山笠の追い山はじめ、どんたく、おくんちなども所縁が深いという。ほかに恵方(節分)や、もちろん初詣などでも賑わいがあり、それこそ、門前「市」(いち)をなすのであろう。出発までには時間もあるので、少し出かけようとも思ったけれども、あいにくの雨空と(わたくしの)無精さでもって、思うだけで終わってしまった。(以降は、戻って、記す)
わたくしの小さい頃もそうであったけれど、梅雨が空け、そろそろ夏休みという時分には週末になると夜市が立った。わたくしどもは夜店(よみせ)と呼んでいた。ふだんは学校帰りに通っていた狭隘な(つまらない)商店街でしかないが、この時期は帰宅してから、もう一度、行ってみようと思った。下校時にはもう、露店の用意をする活気が伝わってきて、そのまま、帰らずに居ついてしまおうかと思うのだけれども、親の小スネ(夜店用の特別な小遣い)目当てに、どうしても一度、家の敷居をまたぐ必要があった。もちろん、とんぼ返りである。只今はというと、祭事や盆踊り、花火大会などの例は別として、定期的に夜市を開催している町はあるのだろうかと、調べてみた。以前、川越の方であったと記憶しているので、検めたけれども分からなかった。「全国夜店のある街一覧」などといった都合の良い資料はないものかと、勝手なことを思っている。谷中銀座を日暮里駅方面から(千駄木に向かって)歩くと、ぶつかる通りを「よみせ通り」という。どうしてか、そういう名前になったのか聞いたこともないけれど、あるサイトに以前、この通りは藍染川が流れており、後に暗渠となり、現在の商店街の素となる夜店が立ったとある。
三四郎が何か言おうとすると、足の前に泥濘(ぬかるみ)があった。四尺ばかりの所、土がへこんで水がぴたぴたにたまっている。そのまん中に足掛かりのためにてごろな石を置いた者がある。三四郎は石の助けをからずに、すぐに向こうへ飛んだ。そうして美禰子を振り返って見た。美禰子は右の足を泥濘のまん中にある石の上へ乗せた。石のすわりがあまりよくない。足へ力を入れて、肩をゆすって調子を取っている。三四郎はこちら側から手を出した。
「おつかまりなさい」
「いえ大丈夫」と女は笑っている。手を出しているあいだは、調子を取るだけで渡らない。三四郎は手を引っ込めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、からだの重みを託して、左の足でひらりとこちら側へ渡った。あまりに下駄(げた)をよごすまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。のめりそうに胸が前へ出る。その勢で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。
「迷える子(ストレイ・シープ)」と美禰子が口の内で言った。三四郎はその呼吸(いき)を感ずることができた。
以上は、夏目漱石氏の『三四郎』にある美禰子(みねこ)との一瞬の逢瀬?の場面である。(青空文庫より)三四郎たちは団子坂の菊細工(人形)を観に、仲間と連れ立っていくが、途中、美禰子が、「気分が悪い」と云う。順番が逆になるが、引用を続けると、
二人が表で並んだ時、美禰子はうつむいて右の手を額に当てた。周囲は人が渦(うず)を巻いている。三四郎は女の耳へ口を寄せた。
「どうかしましたか」
女は人込みの中を谷中(やなか)の方へ歩きだした。三四郎もむろんいっしょに歩きだした。半町ばかり来た時、女は人の中で留まった。
「ここはどこでしょう」
「こっちへ行くと谷中の天王寺(てんのうじ)の方へ出てしまいます。帰り道とはまるで反対です」
「そう。私心持ちが悪くって……」
三四郎は往来のまん中で助けなき苦痛を感じた。立って考えていた。
「どこか静かな所はないでしょうか」と女が聞いた。
谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通(かよ)っている。三四郎は東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津(ねづ)へ抜ける石橋のそばである。
この小川が藍染川、今の「よみせ通り」のようである。(北区に入ると谷田川・やたがわ通り=藍染川の別称という名に変わる)。谷中の菊細工(菊まつり)はたいそう有名だったようで、《午後はチト風が出たがますます上天気、殊には日曜と云うので団子坂近傍は花観る人が・・・》と二葉亭四迷氏による「浮雲」の主人公内海文三も出かけている。三四郎も文三も日曜に出かけているとあり、浮雲には旧暦で菊月初旬の11月2日とある。今はというと三崎(さんさき)坂を上野のお山に向かった大円寺の境内で毎年10月上旬の2日間(土・日)に行なわれているそうである。お寺近くの銭湯には、何度か入ったこともあるが、菊には無趣味のわたくしである。三四郎が当日、広田先生のお宅を訪ねたのは「昼飯を済ませた」午後一時ごろか、前日、下宿に届いたはがきには「明日午後一時ごろ菊人形を見にまいりますから、広田先生の家(うち)までいらっしゃい。美禰子」とある。今のよみせ通り、当時の藍染川での逢瀬は何時ごろなのだろうか、『少し寒くなったようですから、とにかく立ちましょう。冷えると毒だ。しかし気分はもうすっかり直りましたか』と三四郎が気遣っているから、4時ごろなのであろうか・・・秋とはいえ、まだ日は落ちていないはずであるけれども、『広い畑の上には日が限って』ともある。
これが今頃の初夏であったならば、と想うこともある。もちろん菊を見るというわけにはいかないけれども、藤とか、ツツジとか、とにかく何んでもよい、観に出かけ、もう少し、日の長い時季であったならばと、その後の三四郎と美禰子のことを想っている。次回は、「私とナースチェンカ」について想ってみる。
※よみせ通りを南に根津方面へと下ると、藍染大通りという名もみられる。(このことは、また、いずれ)
前回の「夜の市(いち)」を続けている。
同神社は博多における市(いち)の中心(おへそ)のような場所でもある。祇園山笠の追い山はじめ、どんたく、おくんちなども所縁が深いという。ほかに恵方(節分)や、もちろん初詣などでも賑わいがあり、それこそ、門前「市」(いち)をなすのであろう。出発までには時間もあるので、少し出かけようとも思ったけれども、あいにくの雨空と(わたくしの)無精さでもって、思うだけで終わってしまった。(以降は、戻って、記す)
わたくしの小さい頃もそうであったけれど、梅雨が空け、そろそろ夏休みという時分には週末になると夜市が立った。わたくしどもは夜店(よみせ)と呼んでいた。ふだんは学校帰りに通っていた狭隘な(つまらない)商店街でしかないが、この時期は帰宅してから、もう一度、行ってみようと思った。下校時にはもう、露店の用意をする活気が伝わってきて、そのまま、帰らずに居ついてしまおうかと思うのだけれども、親の小スネ(夜店用の特別な小遣い)目当てに、どうしても一度、家の敷居をまたぐ必要があった。もちろん、とんぼ返りである。只今はというと、祭事や盆踊り、花火大会などの例は別として、定期的に夜市を開催している町はあるのだろうかと、調べてみた。以前、川越の方であったと記憶しているので、検めたけれども分からなかった。「全国夜店のある街一覧」などといった都合の良い資料はないものかと、勝手なことを思っている。谷中銀座を日暮里駅方面から(千駄木に向かって)歩くと、ぶつかる通りを「よみせ通り」という。どうしてか、そういう名前になったのか聞いたこともないけれど、あるサイトに以前、この通りは藍染川が流れており、後に暗渠となり、現在の商店街の素となる夜店が立ったとある。
三四郎が何か言おうとすると、足の前に泥濘(ぬかるみ)があった。四尺ばかりの所、土がへこんで水がぴたぴたにたまっている。そのまん中に足掛かりのためにてごろな石を置いた者がある。三四郎は石の助けをからずに、すぐに向こうへ飛んだ。そうして美禰子を振り返って見た。美禰子は右の足を泥濘のまん中にある石の上へ乗せた。石のすわりがあまりよくない。足へ力を入れて、肩をゆすって調子を取っている。三四郎はこちら側から手を出した。
「おつかまりなさい」
「いえ大丈夫」と女は笑っている。手を出しているあいだは、調子を取るだけで渡らない。三四郎は手を引っ込めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、からだの重みを託して、左の足でひらりとこちら側へ渡った。あまりに下駄(げた)をよごすまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。のめりそうに胸が前へ出る。その勢で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。
「迷える子(ストレイ・シープ)」と美禰子が口の内で言った。三四郎はその呼吸(いき)を感ずることができた。
以上は、夏目漱石氏の『三四郎』にある美禰子(みねこ)との一瞬の逢瀬?の場面である。(青空文庫より)三四郎たちは団子坂の菊細工(人形)を観に、仲間と連れ立っていくが、途中、美禰子が、「気分が悪い」と云う。順番が逆になるが、引用を続けると、
二人が表で並んだ時、美禰子はうつむいて右の手を額に当てた。周囲は人が渦(うず)を巻いている。三四郎は女の耳へ口を寄せた。
「どうかしましたか」
女は人込みの中を谷中(やなか)の方へ歩きだした。三四郎もむろんいっしょに歩きだした。半町ばかり来た時、女は人の中で留まった。
「ここはどこでしょう」
「こっちへ行くと谷中の天王寺(てんのうじ)の方へ出てしまいます。帰り道とはまるで反対です」
「そう。私心持ちが悪くって……」
三四郎は往来のまん中で助けなき苦痛を感じた。立って考えていた。
「どこか静かな所はないでしょうか」と女が聞いた。
谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通(かよ)っている。三四郎は東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津(ねづ)へ抜ける石橋のそばである。
この小川が藍染川、今の「よみせ通り」のようである。(北区に入ると谷田川・やたがわ通り=藍染川の別称という名に変わる)。谷中の菊細工(菊まつり)はたいそう有名だったようで、《午後はチト風が出たがますます上天気、殊には日曜と云うので団子坂近傍は花観る人が・・・》と二葉亭四迷氏による「浮雲」の主人公内海文三も出かけている。三四郎も文三も日曜に出かけているとあり、浮雲には旧暦で菊月初旬の11月2日とある。今はというと三崎(さんさき)坂を上野のお山に向かった大円寺の境内で毎年10月上旬の2日間(土・日)に行なわれているそうである。お寺近くの銭湯には、何度か入ったこともあるが、菊には無趣味のわたくしである。三四郎が当日、広田先生のお宅を訪ねたのは「昼飯を済ませた」午後一時ごろか、前日、下宿に届いたはがきには「明日午後一時ごろ菊人形を見にまいりますから、広田先生の家(うち)までいらっしゃい。美禰子」とある。今のよみせ通り、当時の藍染川での逢瀬は何時ごろなのだろうか、『少し寒くなったようですから、とにかく立ちましょう。冷えると毒だ。しかし気分はもうすっかり直りましたか』と三四郎が気遣っているから、4時ごろなのであろうか・・・秋とはいえ、まだ日は落ちていないはずであるけれども、『広い畑の上には日が限って』ともある。
これが今頃の初夏であったならば、と想うこともある。もちろん菊を見るというわけにはいかないけれども、藤とか、ツツジとか、とにかく何んでもよい、観に出かけ、もう少し、日の長い時季であったならばと、その後の三四郎と美禰子のことを想っている。次回は、「私とナースチェンカ」について想ってみる。
※よみせ通りを南に根津方面へと下ると、藍染大通りという名もみられる。(このことは、また、いずれ)
2007.05.27
夜の市(両国の花火)
日曜日(20日)、両国にある東京江戸博物館に出かけた。思いのほか、混んでいて、あとで考えると、角力(大相撲夏場所)も開かれ、おまけに、向こう岸(ちょっと北側だけれど)では三社祭もあって、この時期隅田川界隈は1年でも賑わっている頃なのであろうか。ペテルブルクについて想っているうちに、とりあえず、その雰囲気だけでも感じてみようと、開催されている「ロマノフ王朝と近代日本」展に出かけた次第である。ちなみに上野の山では国立ロシア美術館展が催されていて、こちらは行っていないが、おそらく、「賑」なのであろう。余談であるが、アイヴァゾフスキーという画家の作品も何点か出ていて、今展には来ていないものの、彼の代表作である「(第九の)怒涛」をだいぶ前にみた記憶がある。いろいろ巡ってみると、77年に日本橋三越百貨店で開催された展覧会のようである。わたくしは、やはり、チンピラなのであろうか、ペテルブルクにまで行っておきながら、エルミタージュもロシア美術館にも寄らず、他所様からみれば、どうでも良い処にしか立ち止まっていない。ま、そのことは、後日、自慢話も含めて、書きたいと思う。
平井の最勝寺に出かけた際、本所吾妻橋に戻り、元あったという場所を訪ねたけれども(拙ブロ「三郎」07年5月15日付)、わたくしの勉強不足は相当なもので、のちに、最勝稲荷があると、あるサイト(おたまじゃくし)で知った。平井の境内にも仁王門近くに稲荷があって、その分社でもあるのかという軽い気もちでもって、他の考えもあり、隅田川沿いを北に進んだ。意識して、川畔と道路を避け、家並をさ迷っていたので、傍からみると、不審者そのものである。咎められた際の言い訳は用意しておいた。江戸安政期の古地図(墨田区サイト)と現在地図のコピーである。博物館脇を川に向かって、次いで右に折れる(北進)と、すぐに旧安田庭園がある。両国公会堂はすでに老朽化ということで定年退職を迎えられ、今はひっそりと、その優雅な姿がまるで身体を休めているように座している。
[両国公会堂]1926(大正15)年生まれ。

※芥川龍之介氏の『本所両国』(青空文庫)には《本所会館》とある。
古地図によれば、この辺りは幕府の御竹蔵とあり、米ならびに竹を貯蔵していた場所らしい。さらに進むと、只今は、蔵前橋〜厩橋があり、二たび古地図に目を戻すと、向井将監(むかい しょうげん)という名が飛び込んでくる。しかし、本日は我慢して、先を急ぐ。ただ、東駒形一丁目に船江神社というのが(現代の)地図上にあって、立ち寄り、縁起書を覘くと、「・・・、海運(水運)の安全を祈願するために、将監も詣でた」とあり、向井一族(将監は代々継がれた官職名のようなものらしい)とこの辺り(隅田川界隈)との関係の深さを垣間見ることができた。そこから、車道を渡ると駒形も二丁目となり、目標となる本行寺をぐるりと回りつつ、本命の「お稲荷様」を探してみたけれども、分からない。民家と民家の間に行き止まると思われる何本もの細い露地があるものの、迂闊には進入できない(不審者になる)。路傍の両側には鉢がきれいに置いてあったりして、五月の風に誘われて、蕾がもう待ちきれないでいる。いかにも、下町の光景である。表通りに、やはり、玄関先を鉢で埋めつくしているお宅があって、そこの主らしい女性がいらしたので、声をかけてみた。失礼ながら、80歳をとうに越えた方と察した。最勝寺が平井に移ったのは1913(大正2)年らしいから、当時?は、まさか、お生まれではないと思うけれども、親御さんからお聞きして、よくよく記憶しているのかもしれない。以下、彼女との会話。
「この辺りにオイナリさんはありませんか」
「あるけれど、どういうオイナリさんで」
「はぁ(..)、サイショウ・・・」
「だから、サイショウイナリのどういうコトに要件があるんかね」
「はぁ(-_-;)」
(彼女、無言で、わたくしを睨んでいる)
「・・・、平井のですね、最勝寺さんから、聞いて、いえ、知って、うにゃむにゃ、・・・見たいんです」
「あぁ、その横曲がったところだよ。(平井の)住職さんが置いていって下さってね、この辺りの皆で守っているんだよ」と、首を彼女のご自宅を基点にくるりと一周させた。おそらく、その一角の皆さんが大切にしてきたのであろう。お礼を言って、見させていただいた。住宅街(一方はマンション)に囲まれた狭い路地の一角に、きれいに鎮座していた。「皆に守られて」いることがよく分かる。すぐに、引き返し、女性に再度、お礼を言って、お暇した。最後に、「あいよ」という風に首を傾げて、(満足したかい)というような面持ちでもって、かすかに微笑んでいただいた。(と、勝手に思っている)
ただし、わたくしの江戸弁はまるっきり、なっていないので、上記会話は不自然な表現である。ここは、志ん生師匠に登場願おうかとも思う。この拙ブログを書くにあたり、前記、古地図とともに、司馬遼太郎氏の『街道をゆく・深川本所散歩』を照らしている。同著の中で、司馬氏は幼少の頃から落語が好きだったと書かれている。文中に円朝師匠の落語を引用されていて、『江戸っ子』という段に「文七元結(もつとい)」という噺にふれられている。吾妻橋から飛び降りようとする日本橋の奉公人、文七を助けた達磨横丁の左官(しゃかん)長兵衛のもとにあくる日、主人ともども訪ねてきて、失くしたと思った50両は水戸の屋敷に忘れただけのこと、というので返しに来た。もともと50両は行方知らずの(長兵衛の)娘が身売りでこしらえた金だけれども、長兵衛は要らねえやと突っ返す、司馬氏は、これが江戸っ子の典型だと謂う。
水戸の屋敷とはリバーピア吾妻橋とは北十間川で隔てた現在の墨田公園、古地図には「水戸殿」とある。長兵衛の住む達磨横丁は今の東駒形一丁目付近、わたくしが先ほど通ってきた船江神社あるいは向井将監屋敷辺りである。手許にある『志ん生の噺3 志ん生人情ばなし』(小島貞二氏・編、ちくま文庫)によると、文七らは日本橋から浅草観音を詣でてから、吾妻橋を渡って・・・とある。そこから、少し下った場所に長兵衛は住んでいた。「すみだの文化財マップ」(墨田区教育委員会)にも達磨横丁跡という記載がみられる。当時はコマカタ(駒形)橋がまだなく、江戸(武蔵国)と下総国を行き来するには両国橋か吾妻橋であったのであろう。また、おそらく、身投げするには吾妻橋の方がしやすかったのかもしれない。(司馬氏は、佐藤光房氏の『東京落語地図』を引用されていて、吾妻橋というのはどういうわけだか身投げが似合っていて、と、書かれている)両国橋は江戸と本所・深川を結ぶ要衝として人の往き来も多く、繁華な場所であったので、投げづらいという事情もあった、というのは(わたくしの)想像でしかない。今は、隅田川花火大会となって、これもまた大変な人出となるが、両国花火といわれた時代も両国橋界隈は人であふれていたそうである。
えー、花火というものは、江戸の年中行事でありまして、両国の川開きといって、そりゃァもう、大変なにぎわいだったそうですなナ。
えー、享保のころに始まったんだそうで、五月の二十八日てえのが、その花火でございまして、・・・
前出「志ん生の噺」の4「長屋ばなし」にある『たがや』の冒頭である。言い出しの「えー」が志ん生師匠独特で、そのあとに続く江戸弁が素的である。 わたくしも二つだけ、落語を知っていて、一つ目は『ちはやふる』であることは以前に書いた。(拙ブロ「本牧」06年4月13日付)同時に聴いていたのが「たがや」である。花火で賑わう両国橋に本所方面から馬に乗った殿様(旗本)一行がやってきて、通り道を開けさせようと、槍でもって、人を払うから、押されて、川へ落ちる者が出るなど大混乱しているところへ日本橋側から「たが屋」職人が歩いてきたものだから、はずみでもって背負っていた道具箱を落とし、拍子で、中から、結びのとれた箍(たが)が(元の真っ直ぐな状態へ戻ろうとする勢いで)伸び、張り拡がって、殿様の陣笠をはねてしまったから、大変である。屋敷へ来いから始まって、とうとう手討ちにされる羽目になった、たがや職人、
にわとりも追いつめられて五尺とび(師匠の噺の中から)
次々とお伴の者を切り捨てると、最後に殿様に向かっていく。以下、師匠の噺を引用すると、
「おのれ、下郎ッ!」
と、抜こうとしたところを、スーッと傍ィ寄って、馬のところへヒューッと、体をおしつけといて、サッーと払ったから、その勢いで、殿さまの首が宙へスポーン!
見物が、
「たがやァーッ」
で結ばれている。
夜の市が本題であった。市(いち)とは、「多くの人が集まる場所」と辞書にある。「市をなす」は多くの人が寄り集まってくること、「門前、市をなす」ともある。これからの時節は両国もそうであるけれども、市中の集まりは次第に夜へと傾き、いわば夜遊びに適している。真夏の夜の花火はその〆くくりのような味わいもあって、各地で開かれ、大勢の人で賑わう。本日は長くなったので、次回、このことについて、書き留めたいと思う。
たが(箍)(長崎大学附属図書館)
平井の最勝寺に出かけた際、本所吾妻橋に戻り、元あったという場所を訪ねたけれども(拙ブロ「三郎」07年5月15日付)、わたくしの勉強不足は相当なもので、のちに、最勝稲荷があると、あるサイト(おたまじゃくし)で知った。平井の境内にも仁王門近くに稲荷があって、その分社でもあるのかという軽い気もちでもって、他の考えもあり、隅田川沿いを北に進んだ。意識して、川畔と道路を避け、家並をさ迷っていたので、傍からみると、不審者そのものである。咎められた際の言い訳は用意しておいた。江戸安政期の古地図(墨田区サイト)と現在地図のコピーである。博物館脇を川に向かって、次いで右に折れる(北進)と、すぐに旧安田庭園がある。両国公会堂はすでに老朽化ということで定年退職を迎えられ、今はひっそりと、その優雅な姿がまるで身体を休めているように座している。
[両国公会堂]1926(大正15)年生まれ。

※芥川龍之介氏の『本所両国』(青空文庫)には《本所会館》とある。
古地図によれば、この辺りは幕府の御竹蔵とあり、米ならびに竹を貯蔵していた場所らしい。さらに進むと、只今は、蔵前橋〜厩橋があり、二たび古地図に目を戻すと、向井将監(むかい しょうげん)という名が飛び込んでくる。しかし、本日は我慢して、先を急ぐ。ただ、東駒形一丁目に船江神社というのが(現代の)地図上にあって、立ち寄り、縁起書を覘くと、「・・・、海運(水運)の安全を祈願するために、将監も詣でた」とあり、向井一族(将監は代々継がれた官職名のようなものらしい)とこの辺り(隅田川界隈)との関係の深さを垣間見ることができた。そこから、車道を渡ると駒形も二丁目となり、目標となる本行寺をぐるりと回りつつ、本命の「お稲荷様」を探してみたけれども、分からない。民家と民家の間に行き止まると思われる何本もの細い露地があるものの、迂闊には進入できない(不審者になる)。路傍の両側には鉢がきれいに置いてあったりして、五月の風に誘われて、蕾がもう待ちきれないでいる。いかにも、下町の光景である。表通りに、やはり、玄関先を鉢で埋めつくしているお宅があって、そこの主らしい女性がいらしたので、声をかけてみた。失礼ながら、80歳をとうに越えた方と察した。最勝寺が平井に移ったのは1913(大正2)年らしいから、当時?は、まさか、お生まれではないと思うけれども、親御さんからお聞きして、よくよく記憶しているのかもしれない。以下、彼女との会話。
「この辺りにオイナリさんはありませんか」
「あるけれど、どういうオイナリさんで」
「はぁ(..)、サイショウ・・・」
「だから、サイショウイナリのどういうコトに要件があるんかね」
「はぁ(-_-;)」
(彼女、無言で、わたくしを睨んでいる)
「・・・、平井のですね、最勝寺さんから、聞いて、いえ、知って、うにゃむにゃ、・・・見たいんです」
「あぁ、その横曲がったところだよ。(平井の)住職さんが置いていって下さってね、この辺りの皆で守っているんだよ」と、首を彼女のご自宅を基点にくるりと一周させた。おそらく、その一角の皆さんが大切にしてきたのであろう。お礼を言って、見させていただいた。住宅街(一方はマンション)に囲まれた狭い路地の一角に、きれいに鎮座していた。「皆に守られて」いることがよく分かる。すぐに、引き返し、女性に再度、お礼を言って、お暇した。最後に、「あいよ」という風に首を傾げて、(満足したかい)というような面持ちでもって、かすかに微笑んでいただいた。(と、勝手に思っている)
ただし、わたくしの江戸弁はまるっきり、なっていないので、上記会話は不自然な表現である。ここは、志ん生師匠に登場願おうかとも思う。この拙ブログを書くにあたり、前記、古地図とともに、司馬遼太郎氏の『街道をゆく・深川本所散歩』を照らしている。同著の中で、司馬氏は幼少の頃から落語が好きだったと書かれている。文中に円朝師匠の落語を引用されていて、『江戸っ子』という段に「文七元結(もつとい)」という噺にふれられている。吾妻橋から飛び降りようとする日本橋の奉公人、文七を助けた達磨横丁の左官(しゃかん)長兵衛のもとにあくる日、主人ともども訪ねてきて、失くしたと思った50両は水戸の屋敷に忘れただけのこと、というので返しに来た。もともと50両は行方知らずの(長兵衛の)娘が身売りでこしらえた金だけれども、長兵衛は要らねえやと突っ返す、司馬氏は、これが江戸っ子の典型だと謂う。
水戸の屋敷とはリバーピア吾妻橋とは北十間川で隔てた現在の墨田公園、古地図には「水戸殿」とある。長兵衛の住む達磨横丁は今の東駒形一丁目付近、わたくしが先ほど通ってきた船江神社あるいは向井将監屋敷辺りである。手許にある『志ん生の噺3 志ん生人情ばなし』(小島貞二氏・編、ちくま文庫)によると、文七らは日本橋から浅草観音を詣でてから、吾妻橋を渡って・・・とある。そこから、少し下った場所に長兵衛は住んでいた。「すみだの文化財マップ」(墨田区教育委員会)にも達磨横丁跡という記載がみられる。当時はコマカタ(駒形)橋がまだなく、江戸(武蔵国)と下総国を行き来するには両国橋か吾妻橋であったのであろう。また、おそらく、身投げするには吾妻橋の方がしやすかったのかもしれない。(司馬氏は、佐藤光房氏の『東京落語地図』を引用されていて、吾妻橋というのはどういうわけだか身投げが似合っていて、と、書かれている)両国橋は江戸と本所・深川を結ぶ要衝として人の往き来も多く、繁華な場所であったので、投げづらいという事情もあった、というのは(わたくしの)想像でしかない。今は、隅田川花火大会となって、これもまた大変な人出となるが、両国花火といわれた時代も両国橋界隈は人であふれていたそうである。
えー、花火というものは、江戸の年中行事でありまして、両国の川開きといって、そりゃァもう、大変なにぎわいだったそうですなナ。
えー、享保のころに始まったんだそうで、五月の二十八日てえのが、その花火でございまして、・・・
前出「志ん生の噺」の4「長屋ばなし」にある『たがや』の冒頭である。言い出しの「えー」が志ん生師匠独特で、そのあとに続く江戸弁が素的である。 わたくしも二つだけ、落語を知っていて、一つ目は『ちはやふる』であることは以前に書いた。(拙ブロ「本牧」06年4月13日付)同時に聴いていたのが「たがや」である。花火で賑わう両国橋に本所方面から馬に乗った殿様(旗本)一行がやってきて、通り道を開けさせようと、槍でもって、人を払うから、押されて、川へ落ちる者が出るなど大混乱しているところへ日本橋側から「たが屋」職人が歩いてきたものだから、はずみでもって背負っていた道具箱を落とし、拍子で、中から、結びのとれた箍(たが)が(元の真っ直ぐな状態へ戻ろうとする勢いで)伸び、張り拡がって、殿様の陣笠をはねてしまったから、大変である。屋敷へ来いから始まって、とうとう手討ちにされる羽目になった、たがや職人、
にわとりも追いつめられて五尺とび(師匠の噺の中から)
次々とお伴の者を切り捨てると、最後に殿様に向かっていく。以下、師匠の噺を引用すると、
「おのれ、下郎ッ!」
と、抜こうとしたところを、スーッと傍ィ寄って、馬のところへヒューッと、体をおしつけといて、サッーと払ったから、その勢いで、殿さまの首が宙へスポーン!
見物が、
「たがやァーッ」
で結ばれている。
夜の市が本題であった。市(いち)とは、「多くの人が集まる場所」と辞書にある。「市をなす」は多くの人が寄り集まってくること、「門前、市をなす」ともある。これからの時節は両国もそうであるけれども、市中の集まりは次第に夜へと傾き、いわば夜遊びに適している。真夏の夜の花火はその〆くくりのような味わいもあって、各地で開かれ、大勢の人で賑わう。本日は長くなったので、次回、このことについて、書き留めたいと思う。
たが(箍)(長崎大学附属図書館)
2007.05.22
(the_first)使徒ペテロと始祖(the_first)ペテロ
飯嶋和一氏の著作のひとつに「始祖鳥記」がある。前半の精緻で、学究的とも思える場景描写と、いくつものプロット(場景)が緻密に整理されていくにつれ、読む者に切り迫ってくるような終盤には圧倒されるしかない。大空を自由に舞いたいという人間本来の欲望を実現するという壮大な物語である。一方、ピョートル大帝(一世)は空ではなく、大海を自由に漂うことを望んだ。もちろん、それには軍事戦略上の差し迫った理由があったにせよ、それ以前の本能(欲)がなかったとは言い切れない。その結果として、第一の使徒といわれるペテロに護られた街づくりに邁進した。この街は歴史によって、名を何度も変えざるを得なかったけれども、紛れもなく、もうひとりのペテロが始祖である。ピョートル大帝(以下、大帝)については数多くの書籍、資料などがあり、中でも2メートルもの長身であったという表現が目につく。その割に、手先が器用でもあったらしく、オランダでは率先して造船技術(今でいう大掛かりなテクニックではなく、手先の技のような細事であったように思う)を学んだという記述もみられる。それもこれも、スウエーデン王国との覇権争いにおける攻め手のためであったというのも事実なのであろう。20年間の戦いの末、のちにバルチック艦隊と怖れられた帝政ロシア最強の海兵力を構成した。同時に、北のヴェネツィアあるいは北のパリともいわれるペテルブルクの街を構築した。観光をするのであれば、ニコライ・ゴーゴリの小説で有名なネフスキー・プロスペクト(大通り)をさ迷っていれば事足りるであろう。ただ、わたくしのガイドは四半世紀前のものになるので、ここに記しても、役に立たない。名前もそうだけれども、様も変わっている。わたくしも新たなガイドブックを求める必要があるのだろうか。
今、勝手に、彼(大帝)を秀吉と重ねあわせ、考えている。ある意味、技術屋、職人気質という共通点を感じている。大帝も、秀吉も智慧の人であったと考えている。もちろん、現世において二人は「逢う」はずはない。秀吉は大帝の100年も前に生きた人であり、現実的には大帝を知ることをできない。ただし、大帝は秀吉のことを知っていたのではないかという妄想は許される。
デンベイである。
いくつかデンベイに言及する資料もあり、1702年、謁見し、その場で、日本の情報を大帝に伝えたとされるが、それでは二人が会う必然性がないような気もする。デンベイは1694(元禄7)年にカムチャツカに漂着した。しかし、大帝がデンベイの存在、あるいは、その背後のニホンに関心がなければ、わざわざ、会おうとしたであろうか。想像だが、「ニホン?それって、どこ?」という程度の「薄」識であったのであれば、わざわざ、会うこともなかったろうと考えている。大帝はデンベイを手許に手繰り寄せる以前から日本のことを知っていたフシがある。オランダへの「修業」が深く関わっているのであろう。長崎県のサイトに移る。「日蘭学校交流ひろば」にオランダと日本との関係を端的に記してあるためで、他のサイトでもいっこうに構わない。要するに、大帝とデンベイが遭遇する100年前(1600年)に日蘭は親しい仲にあったということを示したいだけのことである(引用させていただいたサイトには申し訳ないけれど)。当然ながら、自ら、オランダまで「諜報」に赴いた大帝は日本のことについての情報にふれていても不思議はない。函館に1994年に創設されたロシア極東国立総合大学函館校(学校法人函館国際学園専修学校ロシア極東大函館校)のグラチェンコフ・アンドレイ教授が、デンベイについて記されている。『日本への航路を探索』の一部を引用すると、
《ピョートル大帝は伝兵衛を招いて自ら彼の話を聞きました。ところが、日本についての伝兵衛の話で、ピョートルが知らないことはすでにありませんでした。ピョートルはすでに外国人、主にオランダ人商人たちから、「日本という国は中国から南の沖合にある豊かな島の国であり、貴金属に恵まれており、人口も多い国である」と聞いていたのです。さらに「日本には大きな街も優れた農業も、鉄砲を使う軍もあるが、この国はオランダ人を除いてほかの外国人とは貿易を行わず、長崎港だけでオランダ人と貿易取引をしている」ということも、ピョートルはすでに知っていました。彼が知らなかったのは日本列島への航路だけでした。》
デンベイ(現在では、ほぼ伝兵衛と確認されている)以前にロシヤに渡ったとされる日本人の存在説もあるが、これについては、それ以上の記述はできない。やはり、大帝は、物珍しさで伝兵衛に会おうと思いついたのではないという気もちになる。こう書いては、教授に申し訳ないのであるが、大帝が伝兵衛から得る物がなかったとは思えない。また、日本への航路は大帝に尋かれても伝兵衛には答えることができなかったとも想像できる。なにしろ、伝兵衛は望んでロシヤ(カムチャツカ)に向かったのではなく、江戸のつもりが漂流した末のことでしかないという事情もある。冒頭の「始祖鳥記」に風を読む記述がある。始祖鳥は基本的には大型の凧なのである。漁師の風を読む話はおおいに参考となったというような筋であったと記憶しているが、晴れた日においても風の向きを熟知していないと航路は塞がれる(潮もあるけれど)。まして、荒天の中では風は読むどころではない、どこへ連れられていくのか、読めない。それこそ、風任せというのであろう。伝兵衛に日露の航路が分かっていたとは思えないのであるが。
「デンベイ、ヒデヨシを知っているか」デンベイが知っていないはずはない。ひょっとすると、ノブナガともども、デンベイの伝え聞いた話に大帝がうんうんと頷いていたのかもしれない。
『日本人 − その名前はデンベイといった − は、実際に1701年にモスクワへ送り届けられ、1702年1月8日にプレオブラジェンスコエ村(訳注:モスクワ郊外)でペートル大帝と謁見した。彼こそはロシアに渡った最初の日本人であった。大帝は、彼の語った日本および千島に関する情報に非常な興味を抱き、1702年4月16日[この日に、大帝が外国人を招聘してヨーロッパ文化をロシアに移植するという有名な勅令が発布された。]、ロシア語とその読み書きを教えると共に、三、四人のロシア人の子弟に日本語ならびにその読み書きを教授させるために、日本国のデンベイという異国人をシベリア局より砲術局へ送致すべしという勅令を発布し、・・・」
長くなったが、上記は、高野明(たかの あきら)氏の著作『日本とロシア』の中から、カムチャツカ遠征を命じられたウラジミール・アトラーソフの陳述の項を引用したものである。1971年に紀伊国屋新書として発刊され、94年に同社から復刻版が発行されている。
先生には半年きりしかお教えを頂いていない。あいにく、体調を崩され、後期については同じ高野、こうの雅之(まさのぶ)さんに代わられた。たかの先生は厳格な方であり、特に、わたくしのようなチンピラ学生には厳しかったし、また、「(あなた=わたくしのこと、は)全然ダメだね」という明解な、お考えを明確にご指摘された方である。したがって、前記、著作も、厳格で、明晰さが漂っている。チンピラである、わたくしは、当時、高野(たかの)氏の著作を存じあげておらず、のちに、知る。ただし、出版物については、手許になかった。この項を書くにあたり、いろいろとサイトをほっついていると、「ロマノフ王朝と近代日本」展が両国の東京江戸博物館で開催されていることを知った。今月27日までとあったので、取り急ぎ、行った(20日)。もちろん、デンベイと大帝のことが分かるかもしれないという期待からである。結果だけを書くと、なかった。そのことは仕方ないとして、別の要件でもって、同博物館の7階にある図書館を訪ね、検索用コンピューターを検めてみたけれども、要件に関わる資料は見つからなかった。それでも、書架あたりをぐずぐずしていると、偶然、特別ということなのか、開催中関連図書という棚をみると、10数冊の中に先生の著があった(復刻版)。今、そのデンベイ部分の複写を見ながら、書いている。その最後の2ページに、デンベイ(伝兵衛)の出自について、ふれられている。デンベイの日本報告書「スカースカ」(陳述)最終頁にある(デンベイの)署名の模写である。二通りの解釈がある。引用させていただく。
『万九ひち屋 たに万ちと本り 立半んにすむ 伝兵衛』(A)
『万九ひち屋 たに万ちと本り 立川―にすむ 伝兵衛』(B)
上(A)は九州大学村山七郎教授、下(B)は上智大学服部誠一講師(以上、初版時)の解釈である。以下、著者(高野明氏)の文章である。(ただし、A・Bは便宜的に、わたくしがつけた)
『・・・(A)となり、大坂の質屋「万九」の若旦那で、谷町通り立半町(現在の大阪市南区谷町七丁目付近;訳注、現在は、南区は中央区)に住んでいたと解釈される。しかし、上智大学(前出)は、(B)と読まれ、「谷町通りにすむ立川伝兵衛」で、立川のつぎの―は、区切りの印ではないかと解釈されている。これは、おそらく後者の方が妥当のように思われるが、いずれにしても従来はデンベイを、伝平や伝兵衛などの宛字で示してきた名前が明らかになったことは意義ぶかいことである。・・・」この項の最後の文章は以下のとおりである。
『この署名が、ロシア最初の日本人として、昨年ゆかりのある出生の地大阪で開かれた万国博覧会のソビエト館に展示されたことも、不幸な漂民の霊にたいするささやかなはなむけであろうか。』
37年前、わたくしも、そこへ行っている。が、気がついていない、もう、その時点で、「あなたは全然ダメだね」と先生に宣告されていたようなものである。
ちなみにペテルブルクと大阪市は姉妹都市である。おそらく、橋がとりもっているのであろうが、ピョートルと秀吉にもつながった。フロリダ州にセント・ピーターズバーグという町がある。サンクトペテルブルクの英語表記と同一のこの町とは双子都市という関係をもっているそうである。
また、大坂・谷町通り(筋)に、立半町は存在していたようである。谷町筋の谷町六〜七丁目付近を東西に延びる「はいからほりど〜り商店街」である。はいからは、あとでつけた商店街の意気である。空堀(からほり)とは、秀吉が大坂の町を構築する際、こしらえた惣構えの南の際(きわ)をいう。
そこらあたりに、デンベイは居た。
今、勝手に、彼(大帝)を秀吉と重ねあわせ、考えている。ある意味、技術屋、職人気質という共通点を感じている。大帝も、秀吉も智慧の人であったと考えている。もちろん、現世において二人は「逢う」はずはない。秀吉は大帝の100年も前に生きた人であり、現実的には大帝を知ることをできない。ただし、大帝は秀吉のことを知っていたのではないかという妄想は許される。
デンベイである。
いくつかデンベイに言及する資料もあり、1702年、謁見し、その場で、日本の情報を大帝に伝えたとされるが、それでは二人が会う必然性がないような気もする。デンベイは1694(元禄7)年にカムチャツカに漂着した。しかし、大帝がデンベイの存在、あるいは、その背後のニホンに関心がなければ、わざわざ、会おうとしたであろうか。想像だが、「ニホン?それって、どこ?」という程度の「薄」識であったのであれば、わざわざ、会うこともなかったろうと考えている。大帝はデンベイを手許に手繰り寄せる以前から日本のことを知っていたフシがある。オランダへの「修業」が深く関わっているのであろう。長崎県のサイトに移る。「日蘭学校交流ひろば」にオランダと日本との関係を端的に記してあるためで、他のサイトでもいっこうに構わない。要するに、大帝とデンベイが遭遇する100年前(1600年)に日蘭は親しい仲にあったということを示したいだけのことである(引用させていただいたサイトには申し訳ないけれど)。当然ながら、自ら、オランダまで「諜報」に赴いた大帝は日本のことについての情報にふれていても不思議はない。函館に1994年に創設されたロシア極東国立総合大学函館校(学校法人函館国際学園専修学校ロシア極東大函館校)のグラチェンコフ・アンドレイ教授が、デンベイについて記されている。『日本への航路を探索』の一部を引用すると、
《ピョートル大帝は伝兵衛を招いて自ら彼の話を聞きました。ところが、日本についての伝兵衛の話で、ピョートルが知らないことはすでにありませんでした。ピョートルはすでに外国人、主にオランダ人商人たちから、「日本という国は中国から南の沖合にある豊かな島の国であり、貴金属に恵まれており、人口も多い国である」と聞いていたのです。さらに「日本には大きな街も優れた農業も、鉄砲を使う軍もあるが、この国はオランダ人を除いてほかの外国人とは貿易を行わず、長崎港だけでオランダ人と貿易取引をしている」ということも、ピョートルはすでに知っていました。彼が知らなかったのは日本列島への航路だけでした。》
デンベイ(現在では、ほぼ伝兵衛と確認されている)以前にロシヤに渡ったとされる日本人の存在説もあるが、これについては、それ以上の記述はできない。やはり、大帝は、物珍しさで伝兵衛に会おうと思いついたのではないという気もちになる。こう書いては、教授に申し訳ないのであるが、大帝が伝兵衛から得る物がなかったとは思えない。また、日本への航路は大帝に尋かれても伝兵衛には答えることができなかったとも想像できる。なにしろ、伝兵衛は望んでロシヤ(カムチャツカ)に向かったのではなく、江戸のつもりが漂流した末のことでしかないという事情もある。冒頭の「始祖鳥記」に風を読む記述がある。始祖鳥は基本的には大型の凧なのである。漁師の風を読む話はおおいに参考となったというような筋であったと記憶しているが、晴れた日においても風の向きを熟知していないと航路は塞がれる(潮もあるけれど)。まして、荒天の中では風は読むどころではない、どこへ連れられていくのか、読めない。それこそ、風任せというのであろう。伝兵衛に日露の航路が分かっていたとは思えないのであるが。
「デンベイ、ヒデヨシを知っているか」デンベイが知っていないはずはない。ひょっとすると、ノブナガともども、デンベイの伝え聞いた話に大帝がうんうんと頷いていたのかもしれない。
『日本人 − その名前はデンベイといった − は、実際に1701年にモスクワへ送り届けられ、1702年1月8日にプレオブラジェンスコエ村(訳注:モスクワ郊外)でペートル大帝と謁見した。彼こそはロシアに渡った最初の日本人であった。大帝は、彼の語った日本および千島に関する情報に非常な興味を抱き、1702年4月16日[この日に、大帝が外国人を招聘してヨーロッパ文化をロシアに移植するという有名な勅令が発布された。]、ロシア語とその読み書きを教えると共に、三、四人のロシア人の子弟に日本語ならびにその読み書きを教授させるために、日本国のデンベイという異国人をシベリア局より砲術局へ送致すべしという勅令を発布し、・・・」
長くなったが、上記は、高野明(たかの あきら)氏の著作『日本とロシア』の中から、カムチャツカ遠征を命じられたウラジミール・アトラーソフの陳述の項を引用したものである。1971年に紀伊国屋新書として発刊され、94年に同社から復刻版が発行されている。
先生には半年きりしかお教えを頂いていない。あいにく、体調を崩され、後期については同じ高野、こうの雅之(まさのぶ)さんに代わられた。たかの先生は厳格な方であり、特に、わたくしのようなチンピラ学生には厳しかったし、また、「(あなた=わたくしのこと、は)全然ダメだね」という明解な、お考えを明確にご指摘された方である。したがって、前記、著作も、厳格で、明晰さが漂っている。チンピラである、わたくしは、当時、高野(たかの)氏の著作を存じあげておらず、のちに、知る。ただし、出版物については、手許になかった。この項を書くにあたり、いろいろとサイトをほっついていると、「ロマノフ王朝と近代日本」展が両国の東京江戸博物館で開催されていることを知った。今月27日までとあったので、取り急ぎ、行った(20日)。もちろん、デンベイと大帝のことが分かるかもしれないという期待からである。結果だけを書くと、なかった。そのことは仕方ないとして、別の要件でもって、同博物館の7階にある図書館を訪ね、検索用コンピューターを検めてみたけれども、要件に関わる資料は見つからなかった。それでも、書架あたりをぐずぐずしていると、偶然、特別ということなのか、開催中関連図書という棚をみると、10数冊の中に先生の著があった(復刻版)。今、そのデンベイ部分の複写を見ながら、書いている。その最後の2ページに、デンベイ(伝兵衛)の出自について、ふれられている。デンベイの日本報告書「スカースカ」(陳述)最終頁にある(デンベイの)署名の模写である。二通りの解釈がある。引用させていただく。
『万九ひち屋 たに万ちと本り 立半んにすむ 伝兵衛』(A)
『万九ひち屋 たに万ちと本り 立川―にすむ 伝兵衛』(B)
上(A)は九州大学村山七郎教授、下(B)は上智大学服部誠一講師(以上、初版時)の解釈である。以下、著者(高野明氏)の文章である。(ただし、A・Bは便宜的に、わたくしがつけた)
『・・・(A)となり、大坂の質屋「万九」の若旦那で、谷町通り立半町(現在の大阪市南区谷町七丁目付近;訳注、現在は、南区は中央区)に住んでいたと解釈される。しかし、上智大学(前出)は、(B)と読まれ、「谷町通りにすむ立川伝兵衛」で、立川のつぎの―は、区切りの印ではないかと解釈されている。これは、おそらく後者の方が妥当のように思われるが、いずれにしても従来はデンベイを、伝平や伝兵衛などの宛字で示してきた名前が明らかになったことは意義ぶかいことである。・・・」この項の最後の文章は以下のとおりである。
『この署名が、ロシア最初の日本人として、昨年ゆかりのある出生の地大阪で開かれた万国博覧会のソビエト館に展示されたことも、不幸な漂民の霊にたいするささやかなはなむけであろうか。』
37年前、わたくしも、そこへ行っている。が、気がついていない、もう、その時点で、「あなたは全然ダメだね」と先生に宣告されていたようなものである。
ちなみにペテルブルクと大阪市は姉妹都市である。おそらく、橋がとりもっているのであろうが、ピョートルと秀吉にもつながった。フロリダ州にセント・ピーターズバーグという町がある。サンクトペテルブルクの英語表記と同一のこの町とは双子都市という関係をもっているそうである。
また、大坂・谷町通り(筋)に、立半町は存在していたようである。谷町筋の谷町六〜七丁目付近を東西に延びる「はいからほりど〜り商店街」である。はいからは、あとでつけた商店街の意気である。空堀(からほり)とは、秀吉が大坂の町を構築する際、こしらえた惣構えの南の際(きわ)をいう。
そこらあたりに、デンベイは居た。
2007.05.21
サンクトペテルブルク
平井の「最勝寺」やその出自を訪ねた本所辺りをほっついていると(拙ブロ三郎07年5月15日付)、橋が(わたくしの)小さな脳及び心でさえ、刺戟を受けてしまう。『橋』というものは見方によってはまるで反対方向の解釈になってしまう。向こうとコッチをつなぐモノという考えに立てば、それはそれで幸せなのであろう。あるいは、逆に両方を裂くモノ、または、侵入を促すモノと思えば、悲しい。いずれにしても、此(コッチ)とムコウ(分かれている側、ha=派、もしかしたらhaでなくhi「彼」かもしれないけれど)との間に存在している。したがって、ここでは別れもあり、出逢いもあり、当然、いずれもが交錯している場合もある。ただし、小心・猜疑モノ及び高所恐怖症でもある、わたくしは、やはり、橋は武器、怖ろしいものという立場をとっている。橋を壁に置き換えても良いかもしれないが、本日は、橋に限定してみたい。壁についても、いずれ、書き留めたいと思っている。かつて、江戸の町は八百八町、京の都は八百八寺といわれ、そして、大阪(大坂)は八百八橋であった。当然ながら、実数ではなく、それほど多い、あるいは、そのことが「街」の特徴をあらわしているということである。九十九里浜(千葉県)、九十九島(長崎県、大昔は秋田県にもあった=象潟)、千里が浜というたいそうなのも各地にある。もっとも、万里のというのがあるぐらいだから、わたくしどもは、まだまだ規模が小さい。江戸時代の大坂には実際200の橋があったという。それが、1983(昭和58)年に「念願」の808に追いついたとある。『水の都・大阪港のあゆみ』
(他に大阪の橋については、佐々木博昭氏のサイトが充実している)
気になったので、主な都市の橋の数を知ることができるサイトがないか調べてみた。やや古いが2002年のデータが見つかった。『橋奉行の会』のデータを引用すると、予想どおりというのだろうか、日本国内におけるδ(三角州)都市の代表である広島がもっとも多い。全体に西高東低、橋の町であるはずの大阪は意外と少ないが、それでも看板(八百八橋)に偽りはない。
主な都市の橋の数(2002年4月1日現在)
広島市 2,604
京都市 2,373
神戸市 2,091
北九州市 2,079
福岡市 2,056
横浜市 1,650
名古屋市 1,299
札幌市 1,115
仙台市 1,085
大阪市 839
川崎市 615
東京都区部 493
千葉市 395
(他に大都市統計協議会のサイト『大都市比較統計年表(平成16年)』版にも構造別に掲載されている、05年4月1日現在)
ついでに、東京23区についても調べてみた。こちらは東京都の資料(06年4月1日現在)によるが、もっとも多いのが葛飾区(54)、以下、江東区(41)、江戸川区(40)、世田谷区(38)、中央区(33)、大田区(30)など、川に面した区という、尤(もっと)もらしい順番で並んでいる。もっとも少ないのは文京区の「1」であり、また、荒川区(5)、台東区(7)というのは予想外である。そのカラクリは、都の資料の中には国が管理する国道に架かる橋が含まれていないためであり、実際には隅田川、荒川、新中川、江戸川などを有す東側の方には、より多くの橋が存在しているはずである。もちろん、板橋区も少ないと怒っているのであろう。
[東京23区の橋数」

ロシヤ第二の都市サンクト・ペテルブルク(聖なるピョートル・ペテロの都)もその生い立ちからして、橋の多い街である。在サンクトペテルブルク日本国総領事館のサイトによれば、市内に340以上の橋があるというけれども、実際には、それ以上、存在するのであろうか。遡ると、17世紀末にピョートル一世がオランダを模範として、新たな街づくりに臨んだ結実である。ネヴァ(ニィヴァー)という、いかにも、それらしい、泥々しい名をもつ大河とフィンランド湾とがぶつかる辺りを眺めながら、大帝(一世の別称)は当時、絶対的な勢力を誇っていたスウエーデン王国との闘いを見すえながら、何を想っていたのであろうか。
『使徒ペテロの守護する街』については次回以降で少し、続けて(途切れ途切れかもしれないけれど)書きたいと思う。(雑に)
(他に大阪の橋については、佐々木博昭氏のサイトが充実している)
気になったので、主な都市の橋の数を知ることができるサイトがないか調べてみた。やや古いが2002年のデータが見つかった。『橋奉行の会』のデータを引用すると、予想どおりというのだろうか、日本国内におけるδ(三角州)都市の代表である広島がもっとも多い。全体に西高東低、橋の町であるはずの大阪は意外と少ないが、それでも看板(八百八橋)に偽りはない。
主な都市の橋の数(2002年4月1日現在)
広島市 2,604
京都市 2,373
神戸市 2,091
北九州市 2,079
福岡市 2,056
横浜市 1,650
名古屋市 1,299
札幌市 1,115
仙台市 1,085
大阪市 839
川崎市 615
東京都区部 493
千葉市 395
(他に大都市統計協議会のサイト『大都市比較統計年表(平成16年)』版にも構造別に掲載されている、05年4月1日現在)
ついでに、東京23区についても調べてみた。こちらは東京都の資料(06年4月1日現在)によるが、もっとも多いのが葛飾区(54)、以下、江東区(41)、江戸川区(40)、世田谷区(38)、中央区(33)、大田区(30)など、川に面した区という、尤(もっと)もらしい順番で並んでいる。もっとも少ないのは文京区の「1」であり、また、荒川区(5)、台東区(7)というのは予想外である。そのカラクリは、都の資料の中には国が管理する国道に架かる橋が含まれていないためであり、実際には隅田川、荒川、新中川、江戸川などを有す東側の方には、より多くの橋が存在しているはずである。もちろん、板橋区も少ないと怒っているのであろう。
[東京23区の橋数」

ロシヤ第二の都市サンクト・ペテルブルク(聖なるピョートル・ペテロの都)もその生い立ちからして、橋の多い街である。在サンクトペテルブルク日本国総領事館のサイトによれば、市内に340以上の橋があるというけれども、実際には、それ以上、存在するのであろうか。遡ると、17世紀末にピョートル一世がオランダを模範として、新たな街づくりに臨んだ結実である。ネヴァ(ニィヴァー)という、いかにも、それらしい、泥々しい名をもつ大河とフィンランド湾とがぶつかる辺りを眺めながら、大帝(一世の別称)は当時、絶対的な勢力を誇っていたスウエーデン王国との闘いを見すえながら、何を想っていたのであろうか。
『使徒ペテロの守護する街』については次回以降で少し、続けて(途切れ途切れかもしれないけれど)書きたいと思う。(雑に)
2007.05.18
38%(食糧自給率〜2005年)
食料自給率の話である。このことについては、一度ふれたつもりでいたのであるけれども、(過去の拙ブロを)検索してみても、出てこない。記憶違いなのか、それとも、他の表現でもって、似たようなことを書こうとしたのか。ま、たとえ、どのような形であれ、書いたとしても、どうせ、つまらない話であることには違いないのであろうから、それ以上検める気にもならない、改めて、書きたい。これもつまらない。
自給率については、以下の農林水産省の資料を参考にしていただきたい。
食料自給率とは?
自給率の計算方法は?
標題の38%というのは、わたくしどもが日々頂いている食事をさまざまな材料に細分し、それぞれの出自を明らかにしたうえで、国産比率を算出した結果の数値である。ただし、一般的には40%という数字が使われているけれども、わたくしの場合、お酒を外すことができないため、含んだ結果が38%である。ついでといってはなんであるが、付録の『食料自給率早見ソフト』によって、本日、只今時点(だいたい午後9時過ぎ)までにおける、わたくしの(胃の中に落ちた)食料自給率を測ってみた。
◆うどん(乾麺・ゆで)52%
◆赤ワイン35%
◆ウイスキー0%
以上である。
うどんは「国産小麦粉100%使用」といったような品ではなく、もしかしたら、全て、非国産の可能性もある(大きい)。(表示がないので不明)また、赤ワインはボルドー産(安物)であるので0%である。ウイスキーは国産銘柄であるが、モルト(麦芽)自体は自給率0%ということでよいのであろうか。というような修正を施すと、
本日、わたくしの食料自給率は、ゼロのようである。
しいていえば、おうどん用にとこしらえた出汁は昆布からとったので、これ(昆布)だけは100%自給ということになるのであろう。(ただし、醤油は0%らしい)これではね、と思い直し、これから、卵でもと思ったけれども、これも10%。お酒中心の食生活?では自給率はこんなものであるらしい。率を上げたい方は、せっせとお米をお食べください。
自給率については、以下の農林水産省の資料を参考にしていただきたい。
食料自給率とは?
自給率の計算方法は?
標題の38%というのは、わたくしどもが日々頂いている食事をさまざまな材料に細分し、それぞれの出自を明らかにしたうえで、国産比率を算出した結果の数値である。ただし、一般的には40%という数字が使われているけれども、わたくしの場合、お酒を外すことができないため、含んだ結果が38%である。ついでといってはなんであるが、付録の『食料自給率早見ソフト』によって、本日、只今時点(だいたい午後9時過ぎ)までにおける、わたくしの(胃の中に落ちた)食料自給率を測ってみた。
◆うどん(乾麺・ゆで)52%
◆赤ワイン35%
◆ウイスキー0%
以上である。
うどんは「国産小麦粉100%使用」といったような品ではなく、もしかしたら、全て、非国産の可能性もある(大きい)。(表示がないので不明)また、赤ワインはボルドー産(安物)であるので0%である。ウイスキーは国産銘柄であるが、モルト(麦芽)自体は自給率0%ということでよいのであろうか。というような修正を施すと、
本日、わたくしの食料自給率は、ゼロのようである。
しいていえば、おうどん用にとこしらえた出汁は昆布からとったので、これ(昆布)だけは100%自給ということになるのであろう。(ただし、醤油は0%らしい)これではね、と思い直し、これから、卵でもと思ったけれども、これも10%。お酒中心の食生活?では自給率はこんなものであるらしい。率を上げたい方は、せっせとお米をお食べください。
2007.05.16
37年前
拙ブロ「悲惨な銃による斃死」(07年5月9日付)を書いているあいだ、その事故が起きている(5月5日)。大阪万博記念公園内のエキスポランドで起きた悲惨な事故、そして、それによる斃死である。これについては、もうフェイルセーフ以前の問題であり、不思議なことに各報道(ただし、ネットのニューズ)にはあまりみられないけれども、個人の方々のブログなどでは、殺人というご意見も多く、また、それに反論するだけの根拠は誰にもなかろう。
37年前(1970=昭和45年)、わたくしも、そこに行き、夢を見させていただいた。当時というのは、まだ、なかなか世界を覗くことのできない時代であったように思っている。まして、わたくしのようなイナカ育ちには世界というのは「他所」のセカイのように間遠く、トカイの子と違い、その一端にふれる機会、道具も圧倒的に少ない、いえ、皆無に近かった。本があるではないか、というお叱りを受けるかもしれないが、そういう本屋がないという事情もある。もちろん、今のようにコンピューターなどあるはずもなく、ついでに言えば、エレベーターも自動ドアもない、それが、わたくしの70(昭和45)年であった。だから、万博は「夢の世界」の鳥羽口であり、大仰にいえば、世界への原点でもあった。といいながら、以来、そこを訪ねることがないけれども、同じ万博公園内に民族博物館(以下、民博)がある。同館のサイトによれば、今年30周年を迎えるとある。(開館は77=昭和52年)ただし、入館者数は逓減している。同サイトに掲載されている84年以降の記録をみると、1日当たり1400人が500人台(03年)にまで低落している。わたくしが行っていないのも、その罪の中にある。テーマパークというのがあるが、民博には限られた「テーマ」は存在しない。あえていえば、「世界」ということになろうが、やはり、それでは、テーマ(主題あるいは主旋律)にはならない。ある意味、民博は「雑」博なのである。只今はというと、興味・関心のあることにしか目が向かない雰囲気にあるものだから、なおさら、向かい風である。だからというわけではないと思うけれども、某サブロウのランドは200万が100万に利用客が減ったといえども、追い風を求めた。そこに問題が包含されている。
37年前(1970=昭和45年)、わたくしも、そこに行き、夢を見させていただいた。当時というのは、まだ、なかなか世界を覗くことのできない時代であったように思っている。まして、わたくしのようなイナカ育ちには世界というのは「他所」のセカイのように間遠く、トカイの子と違い、その一端にふれる機会、道具も圧倒的に少ない、いえ、皆無に近かった。本があるではないか、というお叱りを受けるかもしれないが、そういう本屋がないという事情もある。もちろん、今のようにコンピューターなどあるはずもなく、ついでに言えば、エレベーターも自動ドアもない、それが、わたくしの70(昭和45)年であった。だから、万博は「夢の世界」の鳥羽口であり、大仰にいえば、世界への原点でもあった。といいながら、以来、そこを訪ねることがないけれども、同じ万博公園内に民族博物館(以下、民博)がある。同館のサイトによれば、今年30周年を迎えるとある。(開館は77=昭和52年)ただし、入館者数は逓減している。同サイトに掲載されている84年以降の記録をみると、1日当たり1400人が500人台(03年)にまで低落している。わたくしが行っていないのも、その罪の中にある。テーマパークというのがあるが、民博には限られた「テーマ」は存在しない。あえていえば、「世界」ということになろうが、やはり、それでは、テーマ(主題あるいは主旋律)にはならない。ある意味、民博は「雑」博なのである。只今はというと、興味・関心のあることにしか目が向かない雰囲気にあるものだから、なおさら、向かい風である。だからというわけではないと思うけれども、某サブロウのランドは200万が100万に利用客が減ったといえども、追い風を求めた。そこに問題が包含されている。
2007.05.15
三郎
最寄りのお店で出雲銘菓というのをみかけた。柚子菓子のようである。買い求めることはしなかったけれど、出雲のことにふれる想いを頂いた。もう、3年前になるのか、初めて、うかがった時に「雲太和ニ京三」(05年4月13日付)という拙いブログを書いた。調べてみると、2004年8月28日であった。まことに暑い日であったことを憶えている。上記、「雲太・・・」は建物の高さに序列を1から3番目まで示したもので、出雲大社本殿は当時32丈(約96メートル)あったともいわれており、だいだらぼっちや龍伯の巨人(「三山五山」拙ブロ07年5月10日付)ほどの威容を誇っていたという。平安時代の古書『口遊(くちずさみ)』にある一節で、雲太はもっとも高いであろう出雲本殿を一番(太郎、一郎)と賞すことを示している。二番目を二郎(次郎)、三番目を三郎と謂い、和二とは(大和の国)東大寺大仏殿、京三は京の都、大極殿八省をさしている。坂東太郎(利根川)、筑紫次郎(筑後川)、四国三郎(吉野川)は河の大きさ、「山太、近二、宇三」は橋梁の長さで、山=山崎橋、近=勢多橋(勢田の唐橋)、宇=宇治橋である。また、仏像の大きさを表わす「和太、河二、近三」は大和の東大寺、河内・知識(ちしゃく)寺、近江の関寺となる。以上のことは、お店でみかけた和菓子をもとに、また、出雲にうかがいたいなぁと、まだ、到っていない日御碕にもと、想いを馳せた次第のことである。
さて、この数日は東福寺について馳せており、拙ブロ(「三山」07年5月5日付)の中でもって、同寺についてふれた。重なるけれども、二たび、書くと、社内にある庭に方丈南庭というのがあって、そこに五山八海(または九山八海)という見事な造作があり、ぼぉっとしている、わたくしは、そこまで行きながら、気を留めていなかったという話である。改めて、東福寺のサイトをのぞいてみると、九条道家が造営したとある。道家というのは藤原(中臣)鎌足以来続く名家であり、祖父、兼実の代に九条家をたちあげた。いわゆる五摂家である。道家自身は鎌倉幕府開闢時のキャスティングボート、あるいは、それ以上の選択権を有していた人物でもあったらしい。母は源頼朝の姪という一等の血筋でもある。もっとも、一等か二等かでいえば、道家の方が一等であったのかもしれない。系図を確認、整理すると、道家は鎌足からの直系、頼朝はというと、鎌足の子(?)不比等の娘である光明子と聖武天皇から派する清和天皇以降の筋にすぎない。清和源氏である。そのもとをたどると、義家(八幡太郎)、義綱(賀茂次郎)、新羅三郎 (義光)がいて(さらに弟の快誉)、冒頭の出雲の次第と三郎が、つながった。とはいえ、それは、わたくしの頭の中での妄想であり、それ以上の関連性はないけれども、ふと、歴史上のつながりをみると、義家(太郎)及び義綱(次郎)の母親筋(二人の祖父)にあたる平直方(たいら・なおかた?)にぶつかり、立ち止まった。こちらは桓武天皇より葛原親王、高見王、高望王、そして、平国香など、いわゆる桓武平氏の流れにある。(三郎は異母兄弟らしい)
そういうことを、色々と考えているうちに、江戸川区平井にある目黄不動(尊)を訪ねたくなった。11日夕方のことである。正式には天台宗牛宗山明王院最勝寺という。都立小松川高校と接するように善通寺、大法寺、成就寺とともに小さな寺町を形成している。江戸五色不動という伝えがあって、これは江戸時代に書かれた「夏山雑談」の中にある。著者ははっきりしていない、小野武格あるいは小野高尚らとともに、平直方という説がある。(桓武)平氏の直方とは別人であるし、そもそも時代が異なっている。出自などについては一切分からず、そのままにしており、また、夏山雑談の筆者かどうかも分からない。五色とは、黄色のほかに、目黒、目赤、目白、目青があるという。ただし、これすら、根拠は薄いらしいけれども、そのような話(伝え)があること自体が面白い。三郎とはまったく方向違いであるけれど、のってみた。JR総武線「平井」駅というのは降りたことがあるのかどうか、たとえ、あったとしても、その日ほど、駅を離れて歩いたことはなかったと思う。目ざす不動尊まで10数分で、もう荒川に半分呑みこまれそうな間近にひっそりとあった。特に何かあるわけでもない、門脇左右に仁王像がこちらを睨み、中に入ると、二十ばかりの蓮の鉢が際立っている。残念ながら、開花にはまだ少し早く、その頃にはもう一度訪ねてみようかと、本堂をみると、閉じ切って、壁面に護摩修行中の旨を伝える木彫りの吊るし看板、蓮同様、諦めて、社外へと出て、由来書きを読むと、もとは、本所(表町)にあったとある。戻り、確認し、翌日は、吾妻橋界隈へとでかけることに。五色不動については『東京紅團』に詳しく紹介されている。どういうわけか、目黄は2か所あるというのも不思議であるけれども、ともかくも、最初に、平井の方を知ったのだから、と、こちらに徹することにした。
吾妻橋はもう浅草界隈といって良いのだろうか、それとも、(そう表することは)とんでもない、ことなのであろうか。本所吾妻橋駅を降りて、「上がる」と、「両国」を隔てる隅田川があり、こっちは本所で、途中橋を半分ほど渡りながら、パリ仕立て風の川舟(水上バス)を覗き込み、残り半分を歩くと、あっちが浅草となる。あるサイトからは拝借した古地図を頼りに以前あったという最勝寺付近の空気を吸いにほっついてみた。最初に現存する如意輪寺の前に立ち、江戸時代の街の中に身を投げる。とはいえ、目の前には区役所やのちほどお邪魔するアサヒビール吾妻橋本部ビルなどからなるリバーピア吾妻橋という現実があるものだから、なかなか投げづらい。本所については本題ではないので、取り急ぎ、前の最勝寺を探したけれども、もちろん、実際あろうはずがなく、その気配だけを感じながら、アサヒ本部ビルに戻り、22階にある展望室へ。以前は代金と引き換えに缶ビールをバサッと渡されたような記憶もあるのだけれども、今は、違っている。金500円でグラスに注がれたビールが供される(もちろん、銘柄は選べないけれども)。ここは、おそらく、東京の中でも展望という次元においては一等であると思っている。中でも、西側の窓席は人気で、いつも混んでいる。幸い、この日は、西陽にかかって、先客が別の席へと移動した隙間に座すことができた。もう少し我慢すれば、夕陽が沈む様をみながら、麦酒を味わえる。そうでなくても、ここでは、浅草が一望でき、副都心(新宿)など江戸市中のほぼ全容を眺めることのできる絶景のため、前述したように西側はプレミアムシートになっている。ただし、それも2〜3年で変わるかもしれない。東側、しかも、すぐ間近に新東京タワーができれば、東側が特等席になるに決まっている。本所については、いずれ、また、書きたいと思う。
[吾妻橋、五山八海では、ないような・・・]

[右隅、隅田川を渡してみえるのが駒形(こまかた)橋である]

最勝寺は比較的高いビルの並ぶ付近にあったようであり、駒形橋を架けるために現在の地(平井)に移った。
芥川龍之介氏は日本橋明石町(旧入船町)に生まれ、母方の生家である両国近辺で育っている。「本所両国」という小品文があって、すでに特別な作家として大きく在った頃に、存外明るい文調(語り口)でもって、少年期の自分を川面に映しながら、遊んだ(学んだ)街を描いている。青空文庫に所蔵されているので、そこのみを引用する。
《川蒸汽は僕等の話の中(うち)に廐橋(うまやばし)の下へはひつて行つた。薄暗い橋の下だけは浪の色もさすがに蒼(あを)んでゐた。僕は昔は渡し舟へ乗ると、――いや、時には橋を渡る時さへ、磯臭(いそくさ)い諭覆砲曚辧砲里靴燭海箸鮖廚匳个靴拭しかし今日(こんにち)の大川の水は何(なん)の佑盪つてゐない。若し又持つてゐるとすれば、唯泥臭い佑世韻任△蕕Α……「あの橋は今度出来る駒形橋(こまかたばし)ですね?」O君は生憎(あいにく)僕の問に答へることは出来なかつた。駒形(こまかた)は僕の小学時代には大抵(たいてい)「コマカタ」と呼んでゐたものである。が、それもとうの昔に「コマガタ」と発音するやうになつてしまつた。(略)》
引用した同文庫の文末に「昭和2年5月」とあって、コマカタ橋は6月に開通しており、今でいえば、供用を間近に控えた現地からの実況中継のような作品である。
いうまでもなく、その翌月、巨星は手折れた。
本日は、三郎がどこかにいってしまった。次回、そのことについては、ふれたいと思う。
さて、この数日は東福寺について馳せており、拙ブロ(「三山」07年5月5日付)の中でもって、同寺についてふれた。重なるけれども、二たび、書くと、社内にある庭に方丈南庭というのがあって、そこに五山八海(または九山八海)という見事な造作があり、ぼぉっとしている、わたくしは、そこまで行きながら、気を留めていなかったという話である。改めて、東福寺のサイトをのぞいてみると、九条道家が造営したとある。道家というのは藤原(中臣)鎌足以来続く名家であり、祖父、兼実の代に九条家をたちあげた。いわゆる五摂家である。道家自身は鎌倉幕府開闢時のキャスティングボート、あるいは、それ以上の選択権を有していた人物でもあったらしい。母は源頼朝の姪という一等の血筋でもある。もっとも、一等か二等かでいえば、道家の方が一等であったのかもしれない。系図を確認、整理すると、道家は鎌足からの直系、頼朝はというと、鎌足の子(?)不比等の娘である光明子と聖武天皇から派する清和天皇以降の筋にすぎない。清和源氏である。そのもとをたどると、義家(八幡太郎)、義綱(賀茂次郎)、新羅三郎 (義光)がいて(さらに弟の快誉)、冒頭の出雲の次第と三郎が、つながった。とはいえ、それは、わたくしの頭の中での妄想であり、それ以上の関連性はないけれども、ふと、歴史上のつながりをみると、義家(太郎)及び義綱(次郎)の母親筋(二人の祖父)にあたる平直方(たいら・なおかた?)にぶつかり、立ち止まった。こちらは桓武天皇より葛原親王、高見王、高望王、そして、平国香など、いわゆる桓武平氏の流れにある。(三郎は異母兄弟らしい)
そういうことを、色々と考えているうちに、江戸川区平井にある目黄不動(尊)を訪ねたくなった。11日夕方のことである。正式には天台宗牛宗山明王院最勝寺という。都立小松川高校と接するように善通寺、大法寺、成就寺とともに小さな寺町を形成している。江戸五色不動という伝えがあって、これは江戸時代に書かれた「夏山雑談」の中にある。著者ははっきりしていない、小野武格あるいは小野高尚らとともに、平直方という説がある。(桓武)平氏の直方とは別人であるし、そもそも時代が異なっている。出自などについては一切分からず、そのままにしており、また、夏山雑談の筆者かどうかも分からない。五色とは、黄色のほかに、目黒、目赤、目白、目青があるという。ただし、これすら、根拠は薄いらしいけれども、そのような話(伝え)があること自体が面白い。三郎とはまったく方向違いであるけれど、のってみた。JR総武線「平井」駅というのは降りたことがあるのかどうか、たとえ、あったとしても、その日ほど、駅を離れて歩いたことはなかったと思う。目ざす不動尊まで10数分で、もう荒川に半分呑みこまれそうな間近にひっそりとあった。特に何かあるわけでもない、門脇左右に仁王像がこちらを睨み、中に入ると、二十ばかりの蓮の鉢が際立っている。残念ながら、開花にはまだ少し早く、その頃にはもう一度訪ねてみようかと、本堂をみると、閉じ切って、壁面に護摩修行中の旨を伝える木彫りの吊るし看板、蓮同様、諦めて、社外へと出て、由来書きを読むと、もとは、本所(表町)にあったとある。戻り、確認し、翌日は、吾妻橋界隈へとでかけることに。五色不動については『東京紅團』に詳しく紹介されている。どういうわけか、目黄は2か所あるというのも不思議であるけれども、ともかくも、最初に、平井の方を知ったのだから、と、こちらに徹することにした。
吾妻橋はもう浅草界隈といって良いのだろうか、それとも、(そう表することは)とんでもない、ことなのであろうか。本所吾妻橋駅を降りて、「上がる」と、「両国」を隔てる隅田川があり、こっちは本所で、途中橋を半分ほど渡りながら、パリ仕立て風の川舟(水上バス)を覗き込み、残り半分を歩くと、あっちが浅草となる。あるサイトからは拝借した古地図を頼りに以前あったという最勝寺付近の空気を吸いにほっついてみた。最初に現存する如意輪寺の前に立ち、江戸時代の街の中に身を投げる。とはいえ、目の前には区役所やのちほどお邪魔するアサヒビール吾妻橋本部ビルなどからなるリバーピア吾妻橋という現実があるものだから、なかなか投げづらい。本所については本題ではないので、取り急ぎ、前の最勝寺を探したけれども、もちろん、実際あろうはずがなく、その気配だけを感じながら、アサヒ本部ビルに戻り、22階にある展望室へ。以前は代金と引き換えに缶ビールをバサッと渡されたような記憶もあるのだけれども、今は、違っている。金500円でグラスに注がれたビールが供される(もちろん、銘柄は選べないけれども)。ここは、おそらく、東京の中でも展望という次元においては一等であると思っている。中でも、西側の窓席は人気で、いつも混んでいる。幸い、この日は、西陽にかかって、先客が別の席へと移動した隙間に座すことができた。もう少し我慢すれば、夕陽が沈む様をみながら、麦酒を味わえる。そうでなくても、ここでは、浅草が一望でき、副都心(新宿)など江戸市中のほぼ全容を眺めることのできる絶景のため、前述したように西側はプレミアムシートになっている。ただし、それも2〜3年で変わるかもしれない。東側、しかも、すぐ間近に新東京タワーができれば、東側が特等席になるに決まっている。本所については、いずれ、また、書きたいと思う。
[吾妻橋、五山八海では、ないような・・・]

[右隅、隅田川を渡してみえるのが駒形(こまかた)橋である]

最勝寺は比較的高いビルの並ぶ付近にあったようであり、駒形橋を架けるために現在の地(平井)に移った。
芥川龍之介氏は日本橋明石町(旧入船町)に生まれ、母方の生家である両国近辺で育っている。「本所両国」という小品文があって、すでに特別な作家として大きく在った頃に、存外明るい文調(語り口)でもって、少年期の自分を川面に映しながら、遊んだ(学んだ)街を描いている。青空文庫に所蔵されているので、そこのみを引用する。
《川蒸汽は僕等の話の中(うち)に廐橋(うまやばし)の下へはひつて行つた。薄暗い橋の下だけは浪の色もさすがに蒼(あを)んでゐた。僕は昔は渡し舟へ乗ると、――いや、時には橋を渡る時さへ、磯臭(いそくさ)い諭覆砲曚辧砲里靴燭海箸鮖廚匳个靴拭しかし今日(こんにち)の大川の水は何(なん)の佑盪つてゐない。若し又持つてゐるとすれば、唯泥臭い佑世韻任△蕕Α……「あの橋は今度出来る駒形橋(こまかたばし)ですね?」O君は生憎(あいにく)僕の問に答へることは出来なかつた。駒形(こまかた)は僕の小学時代には大抵(たいてい)「コマカタ」と呼んでゐたものである。が、それもとうの昔に「コマガタ」と発音するやうになつてしまつた。(略)》
引用した同文庫の文末に「昭和2年5月」とあって、コマカタ橋は6月に開通しており、今でいえば、供用を間近に控えた現地からの実況中継のような作品である。
いうまでもなく、その翌月、巨星は手折れた。
本日は、三郎がどこかにいってしまった。次回、そのことについては、ふれたいと思う。
2007.05.10
三山五山
引き続き、「列子」を読み流していくと、五山について、以下のような「オチ」があった。前回と同じように、「WIKISOURCE;維基文庫、自由的圖書館」より引用したい。
而五山之根無所連箸,常隨潮波上下往還,不得蹔峙焉。
仙聖毒之,訴之於帝。
帝恐流於西極,失群仙聖之居,乃命禺彊使巨鼇十五舉首而戴之。迭為三番,六萬歲一交焉。
五山始峙而不動。
而龍伯之國有大人,舉足不盈數步而暨五山之所,一釣而連六鼇,合負而趣歸其國,灼其骨以數焉。
於是岱輿員嶠二山流於北極,沈於大海,仙聖之播遷者巨億計。
・・・以下、大雑把に読み下してみる。
この五山はアッチコッチへ気侭に流れる根無し草(山・島)で、居場所が定まらないため(ひょっこりひょうたん島状態)、仙人たちも平穏でいられない。
仙人たちは実情を皇帝に上申し、改善を願い出た。
皇帝も(五山が)西極に流され、仙人たちが棲めなくなるのを危惧し、禺彊(ぐうきょう)という北の海神(水神)に命じて、巨大な亀15頭の首の上に五山を載せることでもって、安定するように計った。
一山につき3頭が3交替制で、6万年ごとの勤務体制が当たったらしく?、思惑どおり、五山は動くことなく、仙人らも安住できたという。(数字に弱い、わたくしなので、良く分からないが、合計45頭なのか、それとも、15頭を3等分して、5頭づつ、つまり、一山1頭なのか、それでは、亀さんの負担が重すぎるような・・・それとも、、、)
しかして、龍伯という国に住む、数歩で五山に行き着いてしまうほどの巨人(ガリバー、または、だいだらぼっち的大男)がやってきて、6頭の亀を釣り上げて、国に持ち帰り、その骨(甲)を(亀甲占いのために)焼いてしまった。
そのため、岱輿(たいよ)と員嶠(いんきょう)は北の果てに流され、とうとう大海に沈み、多く(巨億)の仙人たちが棲処を失って、遷者(注)となった。
(注)遷者は分からない。遷客=左遷された人、処罰で流された人とあるので、ここでは、単に「流された」≒山を失くして、彷徨ったということか。また、遷客には仙人(僊客)という意味もある。(手許の漢和辞典より)
※どうも、一山当たり3頭×五山のようである???が、亀は万年ではなく、6万年か?、まだ、分かっていない※
以上によって、「三山」となるわけであるが、何故、岱輿と員嶠なのかは分からない。これ以降、三山伝説へとなり、徐福の話があり、『史記』においては蓬莱、方丈、瀛洲が、実在してもおかしくない程度の土(の)香がどこかしこに残っていたのであろう。
列子の上記文章の続きには、『帝憑怒,侵減龍伯之國使阨,侵小龍伯之民使短。至伏羲神農時,其國人猶數十丈。』(上記、維基文庫、自由的圖書館より)とあり、皇帝は(亀を持ち去られ、二山を失い、仙人たちが流浪したことに)怒って、巨人の住む龍伯国を襲い、領土を狭め、民の体を縮めたが、それでも、彼らは数十丈(一丈は3メートル程度)あったという。
「湯又問:「物有巨細乎?」に対する、夏革の答えである。
やはり、荒唐無稽というのであろうか。
三山というのはわたくしどもにも在る。思いついたままを挙げると、出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)、鳳凰三山(地蔵岳、観音岳、薬師岳=南アルプス)などで、他に、熊野三山(本宮、速玉、那智)というのもある。東京はというと、比較的平坦な土地だけに困るけれども、わたくし的には、大山、高尾、筑波であろうか。(ただし、一般的には川崎大師、高尾山、成田山のようで、どうしても神々しい方向に行ってしまう)では、と、江戸三山を調べてみると、『山形屋、山本屋、山本山』に当たった。いずれも海苔屋さんである。少し、紹介すると、山形屋海苔店さんは、1764(明和元)年に創業、その名のとおり、山形・米沢出身者が江戸で商いを創めている。山本屋(山本海苔店)さんは、1849(嘉永2)年、初代山本徳治郎翁が日本橋室町の現在地に海苔の専門店舗を創業、武家出身で、幕末風雲の時勢を達観して商人に転向したと同社サイトにある。山本山さんの創業は1690(元禄3)年で、″三山″の中でもっとも古い。京の都より、江戸に出、当初は茶業を営んでいた。ただし、海苔の販売は1947(昭和22)年とあるから、他二山に較べ、かなり晩い。現在はもう、遊園地や都市リゾートとして、東京の観光名所に変わっているけれども、江戸前はもともと海苔の産地であった。浅草、大森、川崎や、もちろん浦安も。わずかに、木更津辺りで、磯の香を感じられた時期もあるが、今はどうなのであろうか。海苔の生産(養殖)量を調べてみた。『漁業・養殖業生産統計年報/養殖魚種別収獲量累年統計』(農林水産省)によると、1956(昭和31)年における「のり類」の生産量(生重量)は年間65,603 トンとある。以降、増え続け、94(平成6)年をピークに低下傾向にあるものの、03(平成15)年は347,354トンとある。一方、消費量はというと、家庭内においては1963(昭和38)年に1世帯当たり年間1,664円が、06年では2,303円(家計調査、総理府統計局)、海苔の価格にも(高値誘導・安定化政策もあって)大きな変動はないので、世帯での消費量(枚数)が増えている(※両年の物価水準は考慮していないけれども)ことに加え、コンビニエンスストアなどでの「おむすび」販売量が急増していることもあり、上記のように、海苔生産量の増加を支えている。ただし、養殖漁家はこの数十年で約十分の一に減っており、瞬時考えてしまったけれども、(他の食物同様に)薬剤や促成剤の使用とともに、「冷凍網」という技術により、まだ成長段階の「海苔っこ(芽)」を冷凍保存して、二期あるいは三期にわたって、海に戻す方法でもって、生産量を伸ばしているということらしい。
名古屋にある海苔屋さん「浜乙女」のCMに"でえたらぼっち"(だいだらぼっちが名古屋語転訛)が出ていた。(今はどうか、見ていないので分からないけれども、同社サイト内ではご健在である)そのサイトによると、身の丈は数十メートルから数万メートルとある。海苔一枚は20センチ四方、10枚で一帖と数えるらしいが、だいだらぼっちや龍伯の巨人が食べるオムスビには何帖必要なのか、心配してしまう。海苔の歴史は古そうである。上記、三山サイトなどによれば、大宝律令には明記されているとある。おそらく、それ以前に大陸から伝わっていたものと考えるのが普通であろうが、「株式会社ヤマコ」(安城市)という海苔屋さんのサイトに興味深い記事があった。徐福と海苔である。
海苔(干しのり)の都市別消費量もあげておいた。やはり、江戸前が多い。ただ、さいたま市が群を抜いている、その理由について、考えてみたが、分からない。よくみると、家計調査の05年には同市の消費金額が異様に高いことには気づいた。(一ケタ異なる)海苔のイベントでも催されたのかどうかは検めていないけれど、05年を除いて考えた方が良いのだろうか。なお、同市について、重要なことを書き忘れていた。浦和は全国的にも名だたる「うなぎの街」(拙ブロ07年5月2日、『三重に』)であるが、02年以降、激減(うなぎくだり)している。01年(平成13)年5月1日に合併(その後、05=平成17年4月1日にはお雛様の街、旧岩槻市とも)し、他の街と薄まって、その傾向(特性)も希釈されているようである。合併は「やはり」罪つくりである。
[過去7年間の干しのり消費量](png使用)

而五山之根無所連箸,常隨潮波上下往還,不得蹔峙焉。
仙聖毒之,訴之於帝。
帝恐流於西極,失群仙聖之居,乃命禺彊使巨鼇十五舉首而戴之。迭為三番,六萬歲一交焉。
五山始峙而不動。
而龍伯之國有大人,舉足不盈數步而暨五山之所,一釣而連六鼇,合負而趣歸其國,灼其骨以數焉。
於是岱輿員嶠二山流於北極,沈於大海,仙聖之播遷者巨億計。
・・・以下、大雑把に読み下してみる。
この五山はアッチコッチへ気侭に流れる根無し草(山・島)で、居場所が定まらないため(ひょっこりひょうたん島状態)、仙人たちも平穏でいられない。
仙人たちは実情を皇帝に上申し、改善を願い出た。
皇帝も(五山が)西極に流され、仙人たちが棲めなくなるのを危惧し、禺彊(ぐうきょう)という北の海神(水神)に命じて、巨大な亀15頭の首の上に五山を載せることでもって、安定するように計った。
一山につき3頭が3交替制で、6万年ごとの勤務体制が当たったらしく?、思惑どおり、五山は動くことなく、仙人らも安住できたという。(数字に弱い、わたくしなので、良く分からないが、合計45頭なのか、それとも、15頭を3等分して、5頭づつ、つまり、一山1頭なのか、それでは、亀さんの負担が重すぎるような・・・それとも、、、)
しかして、龍伯という国に住む、数歩で五山に行き着いてしまうほどの巨人(ガリバー、または、だいだらぼっち的大男)がやってきて、6頭の亀を釣り上げて、国に持ち帰り、その骨(甲)を(亀甲占いのために)焼いてしまった。
そのため、岱輿(たいよ)と員嶠(いんきょう)は北の果てに流され、とうとう大海に沈み、多く(巨億)の仙人たちが棲処を失って、遷者(注)となった。
(注)遷者は分からない。遷客=左遷された人、処罰で流された人とあるので、ここでは、単に「流された」≒山を失くして、彷徨ったということか。また、遷客には仙人(僊客)という意味もある。(手許の漢和辞典より)
※どうも、一山当たり3頭×五山のようである???が、亀は万年ではなく、6万年か?、まだ、分かっていない※
以上によって、「三山」となるわけであるが、何故、岱輿と員嶠なのかは分からない。これ以降、三山伝説へとなり、徐福の話があり、『史記』においては蓬莱、方丈、瀛洲が、実在してもおかしくない程度の土(の)香がどこかしこに残っていたのであろう。
列子の上記文章の続きには、『帝憑怒,侵減龍伯之國使阨,侵小龍伯之民使短。至伏羲神農時,其國人猶數十丈。』(上記、維基文庫、自由的圖書館より)とあり、皇帝は(亀を持ち去られ、二山を失い、仙人たちが流浪したことに)怒って、巨人の住む龍伯国を襲い、領土を狭め、民の体を縮めたが、それでも、彼らは数十丈(一丈は3メートル程度)あったという。
「湯又問:「物有巨細乎?」に対する、夏革の答えである。
やはり、荒唐無稽というのであろうか。
三山というのはわたくしどもにも在る。思いついたままを挙げると、出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)、鳳凰三山(地蔵岳、観音岳、薬師岳=南アルプス)などで、他に、熊野三山(本宮、速玉、那智)というのもある。東京はというと、比較的平坦な土地だけに困るけれども、わたくし的には、大山、高尾、筑波であろうか。(ただし、一般的には川崎大師、高尾山、成田山のようで、どうしても神々しい方向に行ってしまう)では、と、江戸三山を調べてみると、『山形屋、山本屋、山本山』に当たった。いずれも海苔屋さんである。少し、紹介すると、山形屋海苔店さんは、1764(明和元)年に創業、その名のとおり、山形・米沢出身者が江戸で商いを創めている。山本屋(山本海苔店)さんは、1849(嘉永2)年、初代山本徳治郎翁が日本橋室町の現在地に海苔の専門店舗を創業、武家出身で、幕末風雲の時勢を達観して商人に転向したと同社サイトにある。山本山さんの創業は1690(元禄3)年で、″三山″の中でもっとも古い。京の都より、江戸に出、当初は茶業を営んでいた。ただし、海苔の販売は1947(昭和22)年とあるから、他二山に較べ、かなり晩い。現在はもう、遊園地や都市リゾートとして、東京の観光名所に変わっているけれども、江戸前はもともと海苔の産地であった。浅草、大森、川崎や、もちろん浦安も。わずかに、木更津辺りで、磯の香を感じられた時期もあるが、今はどうなのであろうか。海苔の生産(養殖)量を調べてみた。『漁業・養殖業生産統計年報/養殖魚種別収獲量累年統計』(農林水産省)によると、1956(昭和31)年における「のり類」の生産量(生重量)は年間65,603 トンとある。以降、増え続け、94(平成6)年をピークに低下傾向にあるものの、03(平成15)年は347,354トンとある。一方、消費量はというと、家庭内においては1963(昭和38)年に1世帯当たり年間1,664円が、06年では2,303円(家計調査、総理府統計局)、海苔の価格にも(高値誘導・安定化政策もあって)大きな変動はないので、世帯での消費量(枚数)が増えている(※両年の物価水準は考慮していないけれども)ことに加え、コンビニエンスストアなどでの「おむすび」販売量が急増していることもあり、上記のように、海苔生産量の増加を支えている。ただし、養殖漁家はこの数十年で約十分の一に減っており、瞬時考えてしまったけれども、(他の食物同様に)薬剤や促成剤の使用とともに、「冷凍網」という技術により、まだ成長段階の「海苔っこ(芽)」を冷凍保存して、二期あるいは三期にわたって、海に戻す方法でもって、生産量を伸ばしているということらしい。
名古屋にある海苔屋さん「浜乙女」のCMに"でえたらぼっち"(だいだらぼっちが名古屋語転訛)が出ていた。(今はどうか、見ていないので分からないけれども、同社サイト内ではご健在である)そのサイトによると、身の丈は数十メートルから数万メートルとある。海苔一枚は20センチ四方、10枚で一帖と数えるらしいが、だいだらぼっちや龍伯の巨人が食べるオムスビには何帖必要なのか、心配してしまう。海苔の歴史は古そうである。上記、三山サイトなどによれば、大宝律令には明記されているとある。おそらく、それ以前に大陸から伝わっていたものと考えるのが普通であろうが、「株式会社ヤマコ」(安城市)という海苔屋さんのサイトに興味深い記事があった。徐福と海苔である。
海苔(干しのり)の都市別消費量もあげておいた。やはり、江戸前が多い。ただ、さいたま市が群を抜いている、その理由について、考えてみたが、分からない。よくみると、家計調査の05年には同市の消費金額が異様に高いことには気づいた。(一ケタ異なる)海苔のイベントでも催されたのかどうかは検めていないけれど、05年を除いて考えた方が良いのだろうか。なお、同市について、重要なことを書き忘れていた。浦和は全国的にも名だたる「うなぎの街」(拙ブロ07年5月2日、『三重に』)であるが、02年以降、激減(うなぎくだり)している。01年(平成13)年5月1日に合併(その後、05=平成17年4月1日にはお雛様の街、旧岩槻市とも)し、他の街と薄まって、その傾向(特性)も希釈されているようである。合併は「やはり」罪つくりである。
[過去7年間の干しのり消費量](png使用)

2007.05.09
悲惨な銃による斃死
その日(07年4月17日)、晩く、空港に着いて、街へ入った頃、平日とはいえ、静かな空気に戸惑っていた。人口40万を超える都市の繁華な街にしては、と。前回訪ねた際の夕暮れとはいえ華繁な様子がみられない(感じられない)。宿の部屋に落ち着き、メールチェックのついでにネットを確認することで、惨事を知った次第である。たった1時間前に前市長(正確には、その時点では「現市長」)が撃たれたのである。
手許には翌朝、市内・浜の町アーケード街で配られていた号外が残っているので、検めると、4月17日午後7時50分ごろとある。夜半(18日午前2時28分)に亡くなられている。

ただし、わたくしは、その背景・原因については、まったく関心がもてず、性善説と性悪説について、考えをめぐらすのみである。わたくしどもは、どちらかといえば、前者の善意のような社会でもって暮らしている。「世の中、捨てたものではない」という前提に立って、何もかもが回っている、と、あらわしてもよいのであろう。わたくしのように、小心で、猜疑心がことのほか強いモノからすれば、妄想としか思えないのであるが、それでも、酩酊熟睡状態のオジサンを周りの見知らぬ乗客たちが気遣ったり、銀座の通りで落し物をした人に、その旨を伝えたりしている光景を目撃すると、セイゼンセツという妖しげな気配に襲われたような気分になってしまう。もしかしたら、夜帰行の通勤電車においては、そのような「繰り事」がオッサンとその他乗客の「日常関係」なのかもしれない、あるいは、落し物は落とし主にというごく当たり前で、つまらない数式にこだわっている所為かもしれない。
プライバシーというのは恐らく、旧(だいぶ旧であるが)公団住宅の売り文句ではなかったか、もちろん、その原型(モデル)はアメリカ的住宅である。わたくしは、アメリカに住んだこともないし、そのつもりもないけれど、個室という概念を確立しているということ程度は承知している。個室というのは、鍵でもって、各室を区切っていることであり、わたくしどもが、兄弟と(あるいは親、祖父母、その他の人?)と雑魚寝しているのとは次元が異なっていたから、60年代(≒昭和30年後半〜40年代前半)に受けた。同時期に流されていたアメリカのドラマの影響もあり、全体(住戸)面積としては、「狭いくせ」に、個室化を展開してきた。しかし、根本で向こう岸とは個室の意味合いが異なっていたと思う。人的流動が頻繁で、それゆえにストレンジャー(見知らぬ顔)が一般的な向こうでは、プライバシーを守ることより、家族(特に非力な子供)を護るための手段として、(鍵のかかった)堅牢な個室が必要であったと解しているが、わたくしどもには、その用(必要性)も乏しく、むしろ、手に余った。(子のための個室化≒若年者の犯罪増加というお門違いの図式がまかり通ってもいる。)そもそも、向こうにとって個室は『自由な国家の安全にとって必要であるから、「民兵」、「人民の武器保有及び携帯の権利」』(アメリカ合衆国憲法修正第二条の文言を組み替えた)と同様と考えることもできる。わたくしどもとは危機管理の度合いが異なっている。長くは書かないけれども、わたくしどもにも「住まい(居)」を護ろうという歴史はあって、城郭や城砦もそうであるが、市中には木戸というものもあった。もっとも大きな「護り」は『封』(封建、・・・)と『鎖』(鎖国、・・・)であろう。しかし、お城はともかくも個人(人民、庶民)の居が自前でもって、護ることはなかった。つい十数年前まで、地方では鍵をかけずに出かけるお宅も少なくなかったように、誰もが、お国の護りを信じていたし、セイゼンセツに頼っていた。只今は事情が変わっている。そういうことを、今回の事件により、改めて、感じた。世の中は性悪説であるということをいいたいのではない。フェイルセーフである。「人や機械は間違い(ミス)を起こすのが当たり前であるから、それに備えておく必要がある」というのが大まかな意味合いである。「備え有れば憂い無し」とも異なる。あえていえば、その備えを二重にも三重にも施しておくことを指すのかもしれない。法律、規程はさておき、備えを十分にしておいたらと、それによって、防ぐことができたかどうかは分からないが、はなはだ勝手な言い分で申し訳ないけれども、通りすがりのモノとして、痛惜の念が重い。
同時期に起きた海の向こうの「悲惨な銃による斃死」には、ふれることができない。上記のように、ムコウには条件付きとはいえ、自由に銃を買うことのできる社会の仕組みがあるからである。もちろん、銃によって斃れた方々への哀悼の意については、向こうもこっちも変わりはない。
↓拙ブロ内フェイルセーフ関連↓
曖・昧・味(I MY ME)05/6/10付
うだつ(梲・卯建)05/6/12付
再びフェイルセーフ06/1/3付
ある湯治場06/2/11付
続きを読む
手許には翌朝、市内・浜の町アーケード街で配られていた号外が残っているので、検めると、4月17日午後7時50分ごろとある。夜半(18日午前2時28分)に亡くなられている。

ただし、わたくしは、その背景・原因については、まったく関心がもてず、性善説と性悪説について、考えをめぐらすのみである。わたくしどもは、どちらかといえば、前者の善意のような社会でもって暮らしている。「世の中、捨てたものではない」という前提に立って、何もかもが回っている、と、あらわしてもよいのであろう。わたくしのように、小心で、猜疑心がことのほか強いモノからすれば、妄想としか思えないのであるが、それでも、酩酊熟睡状態のオジサンを周りの見知らぬ乗客たちが気遣ったり、銀座の通りで落し物をした人に、その旨を伝えたりしている光景を目撃すると、セイゼンセツという妖しげな気配に襲われたような気分になってしまう。もしかしたら、夜帰行の通勤電車においては、そのような「繰り事」がオッサンとその他乗客の「日常関係」なのかもしれない、あるいは、落し物は落とし主にというごく当たり前で、つまらない数式にこだわっている所為かもしれない。
プライバシーというのは恐らく、旧(だいぶ旧であるが)公団住宅の売り文句ではなかったか、もちろん、その原型(モデル)はアメリカ的住宅である。わたくしは、アメリカに住んだこともないし、そのつもりもないけれど、個室という概念を確立しているということ程度は承知している。個室というのは、鍵でもって、各室を区切っていることであり、わたくしどもが、兄弟と(あるいは親、祖父母、その他の人?)と雑魚寝しているのとは次元が異なっていたから、60年代(≒昭和30年後半〜40年代前半)に受けた。同時期に流されていたアメリカのドラマの影響もあり、全体(住戸)面積としては、「狭いくせ」に、個室化を展開してきた。しかし、根本で向こう岸とは個室の意味合いが異なっていたと思う。人的流動が頻繁で、それゆえにストレンジャー(見知らぬ顔)が一般的な向こうでは、プライバシーを守ることより、家族(特に非力な子供)を護るための手段として、(鍵のかかった)堅牢な個室が必要であったと解しているが、わたくしどもには、その用(必要性)も乏しく、むしろ、手に余った。(子のための個室化≒若年者の犯罪増加というお門違いの図式がまかり通ってもいる。)そもそも、向こうにとって個室は『自由な国家の安全にとって必要であるから、「民兵」、「人民の武器保有及び携帯の権利」』(アメリカ合衆国憲法修正第二条の文言を組み替えた)と同様と考えることもできる。わたくしどもとは危機管理の度合いが異なっている。長くは書かないけれども、わたくしどもにも「住まい(居)」を護ろうという歴史はあって、城郭や城砦もそうであるが、市中には木戸というものもあった。もっとも大きな「護り」は『封』(封建、・・・)と『鎖』(鎖国、・・・)であろう。しかし、お城はともかくも個人(人民、庶民)の居が自前でもって、護ることはなかった。つい十数年前まで、地方では鍵をかけずに出かけるお宅も少なくなかったように、誰もが、お国の護りを信じていたし、セイゼンセツに頼っていた。只今は事情が変わっている。そういうことを、今回の事件により、改めて、感じた。世の中は性悪説であるということをいいたいのではない。フェイルセーフである。「人や機械は間違い(ミス)を起こすのが当たり前であるから、それに備えておく必要がある」というのが大まかな意味合いである。「備え有れば憂い無し」とも異なる。あえていえば、その備えを二重にも三重にも施しておくことを指すのかもしれない。法律、規程はさておき、備えを十分にしておいたらと、それによって、防ぐことができたかどうかは分からないが、はなはだ勝手な言い分で申し訳ないけれども、通りすがりのモノとして、痛惜の念が重い。
同時期に起きた海の向こうの「悲惨な銃による斃死」には、ふれることができない。上記のように、ムコウには条件付きとはいえ、自由に銃を買うことのできる社会の仕組みがあるからである。もちろん、銃によって斃れた方々への哀悼の意については、向こうもこっちも変わりはない。
↓拙ブロ内フェイルセーフ関連↓
曖・昧・味(I MY ME)05/6/10付
うだつ(梲・卯建)05/6/12付
再びフェイルセーフ06/1/3付
ある湯治場06/2/11付
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2007.05.05
三山
蓬莱、方丈、瀛(えい)州を三山という。これは、徐福伝説の話である。司馬遷の『史記』には、以下のように記されている。
《齊人徐市等上書言 海中有三神山 名曰蓬莱 方丈 瀛洲・・・》(『古代史獺祭』[こだいし だっさい]より引用)三山は渤海の中、あるいは同海より東方にあると伝えられている。渤海とは7世紀末(または8世紀初頭)から10世紀にかけて覇権を有していた国のことではなく、現在の中華人民共和国、山東半島および遼東半島に囲まれた内海(湾)をさす。現在の西安(長安)から北西20キロにある秦の都「咸陽」からでは、東京〜屋久島程度の距離(1000キロ)に相当しており、その海は往時の尺感に頼れば、やはり、かなた先のことになるのであろう。(もっとも、始皇帝もその岸に立っているらしい)蓬莱は日本各地に伝わっていて、そのことについては、すでに述べた。(拙ブロ「不老不死」07年4月5日付)瀛州はというと、チェジュド(済州島)でもって徐福にまつわる話が伝わっているらしい。ちなみに、始皇帝の姓を「嬴(えい)」という。手許の辞書には、余る、満ちるとあって、秦氏の姓ともある。もう、ここまで字体というのが、それぞれ意味をもっていて、複合化されていると、総体としての意味がまったく分からない。むしろ、海とか、美といわれた方が分かりづらいようで、解る。それはともかく、嬴に氵(さんずい)を付すと、瀛となり、これに海という意味もある。方丈についてはよく分からないのであるが、渤海(あるいは東海上)のほぼ中央(方丈)にあったといわれている。まさかねェと思いながら、北条(氏)まで、回らない頭を廻らしている最中にある。
『列子 湯問』の中に以下の文章がある。
湯又問:「物有巨細乎?有修短乎?有同異乎?」
革曰:「渤海之東不知幾億萬里、有大壑焉、實惟無底之谷、其下無底、名曰歸墟、八絃九野之水、天漢之流、莫不注之、而無疚妓在瓠B驚耆五山焉:一曰岱輿、二曰員嶠、三曰方壺、四曰瀛洲、五曰蓬萊。・・・」「WIKISOURCE;維基文庫,自由的圖書館」より引用(以下、拙訳)
《殷の湯王が太夫の夏革にあれこれ訊いている(湯問)中の一節である。湯、再び問う:物(自然界?宇宙?)には大きさや長短、それぞれに違い(特性?)があるのか?、はぁ(と夏革)、渤海のはるか東方に帰墟という底無しの谷(海、あるいは、海溝か:筆註)があり、この世のあらゆる水や天の川(天漢)の流れまでも吸い込まれておりますが、谷の水かさは増えも、減りもしません。その谷中に岱與(たいよ)、員嶠(いんきょう)、方壷(ほうこ)、瀛洲、蓬萊という五山があります。》さらに、不老不死云々の話が続くのであるけれど、新たにふたつの山が加わっている点が気になる。(方壷は方丈と同じ)違訳ついでにいえば、(夏)革は無限界のことを示唆していたのではないかとも思うし、そうではなく、はるか彼方に神仙があることを教唆していただけのこと、それこそが方士の本筋かとも、さらに曲解できる(いずれにしても、禅問答のように難解で、一筋縄ではいかない)。「列子」については、その信憑性が揺らいでおり、『徐福霧のかなたへ』(程 天良氏 著、池上 正治氏 訳、第一書房)でも著者が徐福「伝説」を神話化してしまったと嘆いている。
京都駅からJR奈良線あるいは京阪本線に一間だけ乗ると「東福寺駅」に着く、南・東に向かって、変哲のない住宅時々店舗の小径を歩くこと10分程度か、駅名の本(もと)となっている「東福寺」へと到る。こちらは京の五山ともいわれる。(他に、天龍寺・相国寺・建仁寺・万寿寺、大文字焼きの五山とは異なる)同寺のサイトによれば、1236(嘉禎2)年〜1255(建長7)年というから、20年近い歳月をかけて造営されたとあって、たいそう広い、立派な庭園が布かれている。(ただし、庭園は後年に造作を加えられている)凡なわたくしは、紅葉で名高い通天橋ばかりに気をとられている(もっとも、訪ねたのは冬であるが)ものだから、記憶が薄いのであるけれど、南庭を「五山八海」という。八海とは列子(湯問)の前段にもある「四海、四荒」(その外側には、さらに四極が在る)のことであろうか。蓬莱、瀛洲、壷梁(こりょう)、方丈の四仙(島)をあわせて、九山八海(くせんはっかい)とも呼ばれ、日本式庭園の代表的なモジュールのひとつである「須弥山(しゅみせん)式石組」のことなのであろう。
古代インド仏教の領分である。
もう、ここまで進む(遡る)ことは神話あるいは思想の世界に入り込むことになり、それを司馬遷は避け、あくまでも伝説に留めたのであろうか。改めて、地図を眺めていると、南海島(NAMHAE−DO)が飛び込んできた。プサンから西へ100キロほど進む。何の根拠もないが方丈のことがちらついている。同島(南海郡)サイトの一点仙島という言葉が輝いてみえる。やはり、徐福伝説が燻ぶっていて、その香が芳ばしい。これから発てば、翌朝の陽を浴びて、夕陽に送られながら、夜半前には戻ってくることができるのだろうか。そういう妄想を具体化してみようかという気分にもなる。(5日午過;記)
《齊人徐市等上書言 海中有三神山 名曰蓬莱 方丈 瀛洲・・・》(『古代史獺祭』[こだいし だっさい]より引用)三山は渤海の中、あるいは同海より東方にあると伝えられている。渤海とは7世紀末(または8世紀初頭)から10世紀にかけて覇権を有していた国のことではなく、現在の中華人民共和国、山東半島および遼東半島に囲まれた内海(湾)をさす。現在の西安(長安)から北西20キロにある秦の都「咸陽」からでは、東京〜屋久島程度の距離(1000キロ)に相当しており、その海は往時の尺感に頼れば、やはり、かなた先のことになるのであろう。(もっとも、始皇帝もその岸に立っているらしい)蓬莱は日本各地に伝わっていて、そのことについては、すでに述べた。(拙ブロ「不老不死」07年4月5日付)瀛州はというと、チェジュド(済州島)でもって徐福にまつわる話が伝わっているらしい。ちなみに、始皇帝の姓を「嬴(えい)」という。手許の辞書には、余る、満ちるとあって、秦氏の姓ともある。もう、ここまで字体というのが、それぞれ意味をもっていて、複合化されていると、総体としての意味がまったく分からない。むしろ、海とか、美といわれた方が分かりづらいようで、解る。それはともかく、嬴に氵(さんずい)を付すと、瀛となり、これに海という意味もある。方丈についてはよく分からないのであるが、渤海(あるいは東海上)のほぼ中央(方丈)にあったといわれている。まさかねェと思いながら、北条(氏)まで、回らない頭を廻らしている最中にある。
『列子 湯問』の中に以下の文章がある。
湯又問:「物有巨細乎?有修短乎?有同異乎?」
革曰:「渤海之東不知幾億萬里、有大壑焉、實惟無底之谷、其下無底、名曰歸墟、八絃九野之水、天漢之流、莫不注之、而無疚妓在瓠B驚耆五山焉:一曰岱輿、二曰員嶠、三曰方壺、四曰瀛洲、五曰蓬萊。・・・」「WIKISOURCE;維基文庫,自由的圖書館」より引用(以下、拙訳)
《殷の湯王が太夫の夏革にあれこれ訊いている(湯問)中の一節である。湯、再び問う:物(自然界?宇宙?)には大きさや長短、それぞれに違い(特性?)があるのか?、はぁ(と夏革)、渤海のはるか東方に帰墟という底無しの谷(海、あるいは、海溝か:筆註)があり、この世のあらゆる水や天の川(天漢)の流れまでも吸い込まれておりますが、谷の水かさは増えも、減りもしません。その谷中に岱與(たいよ)、員嶠(いんきょう)、方壷(ほうこ)、瀛洲、蓬萊という五山があります。》さらに、不老不死云々の話が続くのであるけれど、新たにふたつの山が加わっている点が気になる。(方壷は方丈と同じ)違訳ついでにいえば、(夏)革は無限界のことを示唆していたのではないかとも思うし、そうではなく、はるか彼方に神仙があることを教唆していただけのこと、それこそが方士の本筋かとも、さらに曲解できる(いずれにしても、禅問答のように難解で、一筋縄ではいかない)。「列子」については、その信憑性が揺らいでおり、『徐福霧のかなたへ』(程 天良氏 著、池上 正治氏 訳、第一書房)でも著者が徐福「伝説」を神話化してしまったと嘆いている。
京都駅からJR奈良線あるいは京阪本線に一間だけ乗ると「東福寺駅」に着く、南・東に向かって、変哲のない住宅時々店舗の小径を歩くこと10分程度か、駅名の本(もと)となっている「東福寺」へと到る。こちらは京の五山ともいわれる。(他に、天龍寺・相国寺・建仁寺・万寿寺、大文字焼きの五山とは異なる)同寺のサイトによれば、1236(嘉禎2)年〜1255(建長7)年というから、20年近い歳月をかけて造営されたとあって、たいそう広い、立派な庭園が布かれている。(ただし、庭園は後年に造作を加えられている)凡なわたくしは、紅葉で名高い通天橋ばかりに気をとられている(もっとも、訪ねたのは冬であるが)ものだから、記憶が薄いのであるけれど、南庭を「五山八海」という。八海とは列子(湯問)の前段にもある「四海、四荒」(その外側には、さらに四極が在る)のことであろうか。蓬莱、瀛洲、壷梁(こりょう)、方丈の四仙(島)をあわせて、九山八海(くせんはっかい)とも呼ばれ、日本式庭園の代表的なモジュールのひとつである「須弥山(しゅみせん)式石組」のことなのであろう。
古代インド仏教の領分である。
もう、ここまで進む(遡る)ことは神話あるいは思想の世界に入り込むことになり、それを司馬遷は避け、あくまでも伝説に留めたのであろうか。改めて、地図を眺めていると、南海島(NAMHAE−DO)が飛び込んできた。プサンから西へ100キロほど進む。何の根拠もないが方丈のことがちらついている。同島(南海郡)サイトの一点仙島という言葉が輝いてみえる。やはり、徐福伝説が燻ぶっていて、その香が芳ばしい。これから発てば、翌朝の陽を浴びて、夕陽に送られながら、夜半前には戻ってくることができるのだろうか。そういう妄想を具体化してみようかという気分にもなる。(5日午過;記)
2007.05.02
三重に
本日は、三重に(さんじゅうに)の話である。わたくしが小さい頃、電器屋さんで「三重テレビが映ります」という広告を見て驚いたことを(その広告の様態、ダンボールか何かに白い紙を貼り付けて、そこそこ上手な手書きであったことも含めて)今でも憶えている。当時の電波状況はいい加減なもので、ほとんどの家庭で画像がぶれたり、画中に同一人物が二重に見えたりするのは当たり前であって、皆、心の中では「はっきり(鮮明に)見たい」という思いが大きかったのではなかろうか。その心理を衝いたアンテナ屋さんのコマーシャルもあった。そういう時分に、さらにひとつ重ねたテレビを売るというのは、どういうことかと思ったのであるけれど、これは三重(さんじゅう)ではなく、三重(みえ)MTVのことであった。
所用でホテルに泊ることもある。ホテルの客室は自動ロックになっていて、今は、もうあまり話も聞かないけれど、鍵を部屋に置いたまま、出てしまうということが10何年か前はよくあったし、そういう人をよく見かけたことがある(自分も・・・)。さらに、内側にはチェーンロックあるいはスライド式の内鍵があるというのが普通である。わたくしも部屋にいる際には締めておく。また、ドア部には、もうひとつ内鍵が装着(内蔵)されている場合もあり、これをロックすることもできるが、こちらは、あえて〆ない。以前、所用で随伴した際、お知り合いが、それを閉じたまま、部屋を出たことがあり、戻る際、ルームキーをどう回しても、こねてもドアが開かず、わたくし(隣室)にSOSを発してきたので、フロントに連絡を入れ、事情を話し、来ていただいた。ホテル氏によると、「ドア部の内鍵をかけたまま、部屋を出た場合、オートロックが二重に作用し、外側から開けることができなくなる」ということである。なるほど、と、ふたりでもって、納得して、お互いの部屋に戻ることに。わたくしも慌てていたのであろう、部屋鍵を室内に置いたまま飛び出したらしい(ドアは閉まっているし)、結局マスターキーは二度役に立った、ということがあったからである。あれはいつだったか、朝8時前にドア付近が‘がたがちゃ’と騒がしく、あいにく、そのホテルには内鍵が一切なく、がたがちゃさんは易々と室内に入り込んできたらしい、驚いて、目を醒まし、立ちすくんでいる、わたくしを見て、向こうも驚いていたことがある。日頃から、わたくしの就寝時は原則的に下着のみという堕らしなさであり、ホテルにおいても、そうであるため、申し訳ないことをした。こういう場合、やはり、竦んでいるしかない、そのホテルに「三重(さんじゅう)に」を望むしかない。フェイルセーフのことである。これについては、近々、書こうかとも思っているけれども、その原則は「三重に」にあると考えている。また、いずれ。
さて、ここからは三重(みえ)のことである。県都(政庁)津を訪れると、かならず「うなぎ」を食べることにしている。味噌同様、うなぎのあつらえ方でも出自・素性がある程度分かってしまうのであるけれども、わたくしの場合は、津方式があっている。すなわち、コリカリ、しっかり焼かれていることが(わたくしにとっての)蒲焼の前提条件となっている。「うまっぷ」(PDF2.1MB)は津市観光協会によって発行されている。旧市内を中心に26店のうなぎ屋さんを紹介している。わたくしも、いくか所か、うかがっている。同協会の案内で「津は全国一のうなぎ消費量」とある。少しだけ、調べてみた。(末尾の表参照)釘(あるいは串)を刺すつもりはないけれど、津はそれほど多いというわけでもない。ちなみに00〜06年平均支出額の上位3都市は京都、和歌山、金沢市である。また、圧倒的に東海地方また近畿地方で多くなっており、もちろん、津もいずれかに属しているので、全国的にみれば少ないということではない。ただし、価格差という事情もあろうから、正確には量あるいは頻度(食す回数)で較べる必要があるけれど、残念ながら、家計調査には、そこまでの詳細な公表数値はない。「小売物価統計調査 調査結果」(第1表の(1)をクリック、エクセル表〜これも総務庁統計局)の06年7月をあたってみた。100グラム当たり、京都市825円に対して、津市は468円、やはり安かった。単純に考えれば、津はやはり、うなぎ消費量が多いということになるのかもしれない。(参考;和歌山794円、金沢460円、東京728円)平賀源内の発案以来、どういうわけか、うなぎは7月に年間の1/4が消費されるようになってしまい、また、旬は秋とも冬ともいわれるけれど、わたくし的には、おいしい焼き方さえ満たしていれば、時節にも、あるいは、天然か養殖かにも、一切こだわりはない。もちろん、いただくのは、重ではなく、§丼§でありたい。
図々しく、今回も「雑食」カテゴリーで書かせていただいた。「食べ物 新日本奇行」は只今、嵐の前の静けさか?、酒宴のほんのとっかかりのおつもりなのか、「お通し(突き出し)」を語っていらっしゃっていて、本番(B1グランプリ)に備えているようである。
[過去7年間のうなぎの蒲焼消費量](png使用)

「家計調査」(総務省統計局)より作成
所用でホテルに泊ることもある。ホテルの客室は自動ロックになっていて、今は、もうあまり話も聞かないけれど、鍵を部屋に置いたまま、出てしまうということが10何年か前はよくあったし、そういう人をよく見かけたことがある(自分も・・・)。さらに、内側にはチェーンロックあるいはスライド式の内鍵があるというのが普通である。わたくしも部屋にいる際には締めておく。また、ドア部には、もうひとつ内鍵が装着(内蔵)されている場合もあり、これをロックすることもできるが、こちらは、あえて〆ない。以前、所用で随伴した際、お知り合いが、それを閉じたまま、部屋を出たことがあり、戻る際、ルームキーをどう回しても、こねてもドアが開かず、わたくし(隣室)にSOSを発してきたので、フロントに連絡を入れ、事情を話し、来ていただいた。ホテル氏によると、「ドア部の内鍵をかけたまま、部屋を出た場合、オートロックが二重に作用し、外側から開けることができなくなる」ということである。なるほど、と、ふたりでもって、納得して、お互いの部屋に戻ることに。わたくしも慌てていたのであろう、部屋鍵を室内に置いたまま飛び出したらしい(ドアは閉まっているし)、結局マスターキーは二度役に立った、ということがあったからである。あれはいつだったか、朝8時前にドア付近が‘がたがちゃ’と騒がしく、あいにく、そのホテルには内鍵が一切なく、がたがちゃさんは易々と室内に入り込んできたらしい、驚いて、目を醒まし、立ちすくんでいる、わたくしを見て、向こうも驚いていたことがある。日頃から、わたくしの就寝時は原則的に下着のみという堕らしなさであり、ホテルにおいても、そうであるため、申し訳ないことをした。こういう場合、やはり、竦んでいるしかない、そのホテルに「三重(さんじゅう)に」を望むしかない。フェイルセーフのことである。これについては、近々、書こうかとも思っているけれども、その原則は「三重に」にあると考えている。また、いずれ。
さて、ここからは三重(みえ)のことである。県都(政庁)津を訪れると、かならず「うなぎ」を食べることにしている。味噌同様、うなぎのあつらえ方でも出自・素性がある程度分かってしまうのであるけれども、わたくしの場合は、津方式があっている。すなわち、コリカリ、しっかり焼かれていることが(わたくしにとっての)蒲焼の前提条件となっている。「うまっぷ」(PDF2.1MB)は津市観光協会によって発行されている。旧市内を中心に26店のうなぎ屋さんを紹介している。わたくしも、いくか所か、うかがっている。同協会の案内で「津は全国一のうなぎ消費量」とある。少しだけ、調べてみた。(末尾の表参照)釘(あるいは串)を刺すつもりはないけれど、津はそれほど多いというわけでもない。ちなみに00〜06年平均支出額の上位3都市は京都、和歌山、金沢市である。また、圧倒的に東海地方また近畿地方で多くなっており、もちろん、津もいずれかに属しているので、全国的にみれば少ないということではない。ただし、価格差という事情もあろうから、正確には量あるいは頻度(食す回数)で較べる必要があるけれど、残念ながら、家計調査には、そこまでの詳細な公表数値はない。「小売物価統計調査 調査結果」(第1表の(1)をクリック、エクセル表〜これも総務庁統計局)の06年7月をあたってみた。100グラム当たり、京都市825円に対して、津市は468円、やはり安かった。単純に考えれば、津はやはり、うなぎ消費量が多いということになるのかもしれない。(参考;和歌山794円、金沢460円、東京728円)平賀源内の発案以来、どういうわけか、うなぎは7月に年間の1/4が消費されるようになってしまい、また、旬は秋とも冬ともいわれるけれど、わたくし的には、おいしい焼き方さえ満たしていれば、時節にも、あるいは、天然か養殖かにも、一切こだわりはない。もちろん、いただくのは、重ではなく、§丼§でありたい。
図々しく、今回も「雑食」カテゴリーで書かせていただいた。「食べ物 新日本奇行」は只今、嵐の前の静けさか?、酒宴のほんのとっかかりのおつもりなのか、「お通し(突き出し)」を語っていらっしゃっていて、本番(B1グランプリ)に備えているようである。
[過去7年間のうなぎの蒲焼消費量](png使用)

「家計調査」(総務省統計局)より作成
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