2007.07.22

琉球留記焼(やち)物(むん)

 わたくしは焼物(陶器、磁器など)については分からない。
 目利きの世界では、日本料理(和食)は器で食べるともいわれる。ただし、器を食べるということにはならないようである。以前、石を食べるということを聞いたことがあるけれども、おそらく岩塩かそれに類したものであろうか、また、土の類を食す習慣は今でもあるとも聞いた。よほど、環境のすぐれた場所でないと、そうもいかない、とも思う。
 那覇の宿から市場周辺を抜けると、すぐに壺屋の焼物街があり、これまでにも何度かその前を通っている「壺屋焼物博物館」を初めて訪ねた(4日)。大きな施設ではない、だから、いつでも「行ける」というスキが心の中にあったのであろう、これまで行っていないのがおかしいぐらいである。東京あたりの琉球料理屋さんに行き、(オリオンビールのあとに)泡盛を頼むと、必ず聞かれるのが、からからか抱瓶(だちびん)かであるが、いずれもヤチムン(焼物)である。前者は薩摩焼(黒千代香または黒茶家〜くろじょか)にもあって、極端にいえば、土瓶蒸しのドビンのような什器であり、これは全国かしこにある。ただし、からからにはジョカや土瓶のような把っ手がない。したがって、うっかり手を滑らすと、折角のおご馳走(泡盛)が台無しになる危険性があり、また、器自体が熱くなるので燗には向いていない。もっとも、琉球ではその(燗をする)必要性はほとんどない。(2月時分の寒い時季〜10℃台〜に呑まれている方がいらっしゃるけれども)※薩摩焼などにも把っ手なしがある
 琉球の焼物の歴史は壺屋だけではない、本島はじめ、各島嶼にもあって、もちろん、大陸伝来なのであろう。同博物館で展示及び10数分ほどの大画面スクリーンによる歴史を学んだつもりであるけれども、何も憶えていない・・・。したがって、他所様のサイト(『大地が育んだ用の美』〜沖縄県)をもとに、少し記すと、琉球に焼物が根づいたのは15〜16世紀であるらしく、当時は那覇近辺のみならず、本島全域に点在していたようである。もともと、焼物というのは暮らす(食べる、呑む)うえでの器としての「用」が主であるから(それ以外に信仰的な器もある)、それ以前(窯がない)は大陸や日本から輸入もされていたともある、まだ、琉球が統一されていない時代であり、それが、統一とほぼ同時期に自前の窯ができ、ヤチムンが作られ、17世紀末に壺屋の地に窯を統合したとある。理由については展示の中で、「琉球の重要な輸出品として、統制された」という記述があったようにも記憶している。もちろん、以上の記述には「土器」という歴史は含まれていない。
 1時間ほど館内にいて、暑いのを承知で屋上に出てみた。古窯跡が移設されていて、その横に神社がある。両脇にシーサーが座していて、失礼かとも思ったけれども、撮らせて頂いた。シーサーについては、『沖縄コンパクト事典』(琉球新報社・編)の同項を引用させていただくと、「魔除けの獅子像。寺社や城の門、御獄(注;うたき)、貴族の墓陵、村落の出入口などに置かれ、明治以降、瓦葺きの屋根の普及で屋根の上に置かれるようになった。火伏、悪霊払いなどの意味が込められる。今では沖縄観光のシンボルの一つともなっている。」とある。確かに、一般の住宅においても門前に置かれる場合と屋根とに分かれており、住宅事情も関係しているのであろうか、那覇市内では、門構えのない家屋も少なくないため、屋根に、という場合も多いように感じられる。同事典の明治以降の説明にある火伏というのが面白い。屋根の普及とともに「うだつ(梲・卯建)」(拙ブロ05年6月12日付)の役割をも担わされたシーサーさん、なんだか、忙しいね。

[左シーサーさん](壺屋焼物博物館の屋上にある神社にて)
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[右シーサーさん]
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 屋上から、真っ青に晴れた空を見上げ、街を望むと、護られている、と、感じたのは、単なる、わたくしの幻想であろう。

[壺屋のまち 
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[壺屋のまち◆
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 先の映像(博物館)で、琉球が焼(焦)土の中で、最初に復興したのが壺屋であると知った。上記サイト(大地が育んだ用の美)には、
「壷屋から沖縄復興の炎が燃え上がった」とある。
 琉球には器を食べさせられていた時代があるのかもしれない(もしかしたら、今も)。器で食べるなどという悠長なことは言っていられない、そう思いながら、山羊料理屋さんや定食屋さんで器を眺めていると、「用」という言葉が輝いていた。

Posted at 01:02 | 雑に | COM(0) | TB(1) |
2007.07.19

駅前神社

 17〜18日と所用でもって、出かけた折に、藤枝に寄った。藤枝市文学館はまだであるけれども、3か月ほど前から、どうにも気になっていた場所を訪ねてみた。標題の「駅前神社」である。藤枝駅北口の駅前通りを200メートルほど進んで、左手に折れると、ひっそりとある。由緒書きも何もないので、想像で書くしかないが、藤枝駅の橋上化(06年)に伴なって、今の場所に移転したのであろうか。そう思うと、神社も新しく「見える」。あるいは廃止された静岡鉄道駿遠線がらみなのか?・・・それとも、もともと、ここに「あった」のだろうか。隣にある八百屋さんにでもお聞きしようかと思ったけれども、自分で調べてみようと思い直した。今のところ糸口がない。やはり、八百屋さんにお聞きしておくべきであった。
 那覇に向かう際(2日)、時間があったので東京国際(羽田)空港内にある航空神社を訪ねた。ここには由緒書きがあって、もともと航空会館にある御本尊を分社した云々とあったと記憶している。財団法人日本航空協会のサイトによると、1963(昭和38)年に「羽田航空神社創設に伴う祭神分霊祭を挙行」とある。(同財団サイト)こちらについては、特にこれ以上調べようとは思わないけれども、駅前神社については、引き続き。
[藤枝・駅前から徒歩3分神社]※どうも気になる
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Posted at 23:38 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2007.07.16

琉球留記⊆洩庄

 冊封とは、中国皇帝が周辺諸国に対し、特定の者をその国王と認める(任命する)儀式のことをさすらしく、さくふう、さっぷう、または、さっぽうと読まれる。
 儀式のために、諸国に遣わせられるのが「冊封使」である。琉球では、15世紀初頭に初めて行なわれた。察度(さっと)王統二代、武寧(ぶねい)王の頃である。まだ、琉球の社会は統一過程にあり、三山時代(美ら島物語サイトより)ともいわれる。察度王は実在が確認できる最初の「中山」王であり、武寧はその世継ぎで、父が開いた(受け容れた)明との友好関係をもとに、最初の冊封を受けることとなる(1404年)。その後、琉球処分(1879年)まで400年近い琉球「統一」王朝を築きあげる尚氏王朝が琉球王としての冊封を受ける。ただし、尚氏王朝はまったく系統の異なる第一尚氏(尚徳以前)と第二尚氏(尚円以降)からなる。(1469年に交替)
 時間を一気に400年ほど飛ばすが、尚温王(第二尚氏17代)の冊封儀式用にと造られたのが「識名園」(俗称;シチナヌウドゥン)である。(18世紀末、1799年という説もある)電子地図で確認すると、識名園は首里城のほぼ真南、1.5キロほどの位置にある。那覇市の地形は首里城付近を頂点として、西(那覇都心側)に向かうほど低くなる状態であり、そのことは、前回、訪ねた際に首里城からユイレールの儀保(ぎぼ)駅あるいは市立病院前駅まで歩き、経験済みである。もう少し書くと、お城の東側一帯は小高い丘によって構成されており、本島を縦(上下)方向にスキャンしてみると、全体に東から西へと下がっている様子がわかる。「琉球本島の地形(内閣府沖縄総合事務所農林水産部土地改良課サイト)」
 その感覚は市内から識名園に向かう際にも認知できるし、また、園内にある勧耕台(かんこうだい)に立ってみると、よく分かる。(参考サイト;識名園の勧耕台
 さて、識名園は13000坪の狭くもなく、広いともいえないけれども、ノンビリしようとすれば1時間では足りない。園内への飲料持込は禁止されているから、入る前にスポーツドリンク1本分を補給して、暑さに備えたけれども、中はうっそうとした樹木で覆われており、陽を遮ってくれるので、心地よい。あとで、山羊料理屋さんの常連の方からクマゼミが鳴かないと知るが、別の種類のセミはもう盛況で、飛ぶ姿も見かけた。日中の気温はゆうに30℃を超えているけれども、ここはそれを避けて、王家が過ごしたという別邸として、最適な空間であったのであろう。17世紀後半にお城の東、現在の首里崎山町付近に造られた「御茶屋御殿(ウチャヤウドゥン)」を東苑と呼んだことから、識名園は「南苑」ともいわれた。すれ違った散歩(観覧)客は10名弱、したがって、わたくしを含めて1人当り1300坪を占有するという「ぜいたく」な時間と空間をいただいたことになる。中でも、ほぼ中央に位置する六角堂は、わたくしが占めすぎたようである。池を挟んで御殿(ウドゥン)を眺めながら、長い時間いた。他の方は、遠慮したのか、ここまで来ても、さっと巡って(一周十秒)、元の道に戻っていかれた(ようである)。
 識名園の往き復りに気になっていたのが広大な墓苑である。あとで、地図をみると、識名霊園墓地とある。小高い丘陵に所狭しと、その数の多さに驚いた。やや古いデータであるが、那覇市内には約1万2千基のお墓が(墓地)があり、その2/3が識名にあるという。(沖縄大学〜吉川研究室)お墓は無闇に(理由なく)訪ねたりするものではないと思っているので、車窓から眺めるだけであったけれども、琉球形式の墓石を垣間みることができた。通過するわずかな時間の中で亀甲墓は確認できなかったけれど、破風墓あるいは屋形墓と思われる形を通り見ることができた。(琉球の墓石;写真で見る沖縄サイト)お墓はちょっとした古墳大、一つ一つに場所も必要となるため、墓苑全体が自ずと拡がっていく。言葉は適切ではないけれども、お墓が苑をはみ出して、道路へと飛び出しているような光景にも映った。
 琉球の盆は旧暦の7月13〜15(16)日である。本年のウンケー(迎え)は8月25日、ウークイ(送り)は27(28)日だそうである。
 もちろん、山羊料理屋さんにも旧暦つきの「日捲(めく)り」があり、それを確かめながら、Nさんに教えていただいた。
 わたくしも、せめて、理由のあるお墓だけでも看てくるべきなのであろうか。

《参考拙ブロ》※首里城から下る坂を経験した
レキオスそして仲秋(那覇周辺印象雑記)(05/10/10)
首里文化祭(11・3)…那覇中心徒歩記(05/11/13)

Posted at 23:22 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2007.07.13

琉球留記 粗畴討任遼困貶をとりに

 1年半ぶりに那覇を訪れた(7月2〜11日)。最初に断っておくと、この10日間、9日の夜にぱらぱらとした一瞬の雨に遭っただけで、最低気温はほぼ28℃、最高は30〜34℃の好天に恵まれた。もちろん、暑い。山羊料理屋さんの女将さんが今年は梅雨も前半はなかったけれど(雨が降らない)、後半はその分を取り戻し、おつりが来るほど降ったと仰言られ、同時に、集中豪雨の続いている九州のことを気遣っていられた。常連客のお一人で、前回、古酒をいただいたNさんも、今年の夏は、クマゼミが鳴かないと、(猛暑の気配なのに、おかしいと)不思議がっていた。9日にお会いした夜、ようやく鳴き始めましたと、安堵した表情であった。
 まだ、もちろん明るい那覇空港に6時過ぎ、ユイレールで牧志駅まで向かい、宿にチェックインをすると、「すぐ」に山羊料理屋さんへと、徒歩3分の場所にある。常連客がひと通り、お帰りになられた時間でもあり、まだ、観光シーズン前のためなのであろうか、お客さんは他にいなくて、しばらく、女将さんと差しでお話しできた。何よりも、お元気であるのが嬉しい。歯を治していてね、右奥の一本はまだ、仮歯だよと、そのあたりを指でさして、以前もってきて、おいしいと「評判」だった「いぶりがっこ(個包装)」は無理かなぁと、(小声で)また持ってきましたというと、左側で食べ(かじり)ますよ〜と、今度は、逆側あたりを指した。笑顔が素的である。もう、40年近く、商いを続けていらっしゃる。今日(2日)から毎夕〜夜、ここへお邪魔することになる。女将さんの右の歯は最終の夜(10日)には戻っていた。
 明日(3日)から前回、果たせ(訪れることができ)なかった場所を那覇市内が中心になるが、忘れ物を取りにいくように、訪ねるつもりでいる。
[10日に訪れた玉陵(たまうどぅん)近くの県立博物館〜3月31日に閉館]
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 ここ(博物館)は、もう、戻ることのない忘れ物になってしまった。何度か訪ねた首里城の帰りに寄ろうと思っていたが、果たせないままであった。新しい博物館は新都心おもろまちに移転、11月1日、お披露目と聞いた。旧博物館は、と思い、電話すると、もうなくなるらしい。もともとは、首里城の中核施設の一つである中城御殿跡、このことは、玉陵のことを記す際に、ふれたいと思う。
新博物館サイト(沖縄県教育庁文化施設建設室)
 忘れ物の琉球旅は始まったばかりである。

Posted at 19:51 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2007.07.12

忘れ物

 まるで、標題のような7月の拙ブロであり、ブログがあることさえ、忘れていたようでもある。実際、携行品を電車の中に忘れてもいる。前回ブログで書いたように上野の蓮を観に出かけた。ただし、1日遅れの7月1日にである。その際、持っていったはずのリュックを置き放しのまま、電車を降りた。よほど、心が、もう、そこになかったのであろう。すでに心は(身も)翌日以降へと確実に向かっていた。
 次回から、琉球留記(りゅうきゅう・りゅうき)として、7月2〜11日に訪れた、那覇市及び周辺について、少しずつ書き溜めたいと思う。
[忘れ物のひとつ〜明日(7月2日)からのコトに備えて買い求めた日焼け留(止)め〜出番なし]
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 忘れ物は、無事、手許に戻ってきた(11日)。拾い主の方、駅の方、その他の方に感謝。

Posted at 22:18 | 雑に | COM(0) | TB(0) |