2007.08.31
足攣り余話(弱っ)
足の攣りがひどくなっている。指10本(常態化)はもとより、足首、ふくらはぎ、そして、今回は、足の側面というのだろうか、そういうところまでが攣っている。原因は、やはり、疲労かと思うのだけれども、その疲労の原因が足攣りというのも難儀なことである。数日前か、朝方に攣りの反動で目が覚めた。それ以降、寝不足⇒疲労⇒攣り⇒寝不足・・・。もう、2年近く前になるが、拙ブロ「原子番号12、元素記号Mg、語源地ギリシャ」(05年10月6日付)で書いた銀座にある薬舗の店頭に吊るしてある足攣り情報のチラシを頂戴してきた。少し、引用させてもらうと、
足がつる・こむら返り
まぶたがピクピクするには
原因があった
とある。そうか、まぶたピクもか、説明を読みながら、乗った車内で、突然、起きた。周りの人は何も気づかないだろうけれども、わたくし本人は、「手は吊り輪、足は攣るわ」と心の中で苦笑(身は苦痛)。思えば、ココ茶(拙ブロ06年12月3日付にレシピ)も服用していないし、攣りに効果のあるマグネシウムを多く含んだ食品を口にしていない。チラシには、
ヒジキ、コンブ、納豆、小麦胚芽、アーモンド
これらが良いと書いてある。
豆類は全体にマグネシウムの含有量が多い、
そう、「まめや」(HP)さんへ。
凝りもせず、今回も、足摺情報。どうぞ。
足がつる・こむら返り
まぶたがピクピクするには
原因があった
とある。そうか、まぶたピクもか、説明を読みながら、乗った車内で、突然、起きた。周りの人は何も気づかないだろうけれども、わたくし本人は、「手は吊り輪、足は攣るわ」と心の中で苦笑(身は苦痛)。思えば、ココ茶(拙ブロ06年12月3日付にレシピ)も服用していないし、攣りに効果のあるマグネシウムを多く含んだ食品を口にしていない。チラシには、
ヒジキ、コンブ、納豆、小麦胚芽、アーモンド
これらが良いと書いてある。
豆類は全体にマグネシウムの含有量が多い、
そう、「まめや」(HP)さんへ。
凝りもせず、今回も、足摺情報。どうぞ。
2007.08.28
耐空性改善命令(AD)の、お詫びと補足
8月24日に拙ブロ、それが「怖い」で標題についてふれた。ただ、情報の確認作業が不足していて、間違いがあった。そこのところを含めて、補足したい。<(_ _)>
まず、わたくしがブログを書いた経緯を整理すると、
〇故発生(幸い、大きな事故にならずに、よかった)
↓
朝日コム情報で、05年12月及び06年3月にFAA(連邦航空局)より当該機種(ボーイング373−800、700)に対するADが発行されたという記事を見る
↓
上記情報をもとに、日本のCAB(国土交通省航空局)のTCD(耐空性改善通報)を確認するが、当該月付近に該当機種に関する通報が見当たらなかった
↓
(ということから、わたくしは)
ぃ腺弔発行されているにもかかわらず、TCDが出ていなかった、と思い、そう書いた。この時点で、ADを眺めておけばよかった、と反省するが、あとのまつりである。
[耐空性改善通報TCD−7152−2007]

または、※耐空性改善通報発行状況(平成19年度)の8月20〜24日をクリック
さて、TCDは、23日に発行されたとも書いたが、その時点で、通報に準拠ADがないことに気づいていた。CABの担当者もよほどあわてていたのだろうかと、素人考えをしていた。(参考に、翌日のTCDも載せた。24日分には準拠AD〈※SBも〉の記載がある。また、2通の発行日と発効日を見較べてみると、あわてぶり=危急(緊急)性の違いが分かるような気もする。)本日、改めて、FAAのAD情報をみた。機種別に履歴が表示されているので、《737−800》関連を開いた。※直接、いけないので、左フレームの「By Make」から、《Boeing Company, The》に、そして、737−800 Seriesへ。(なお、737−300、737−300Cもほぼ同様のようである)情報は、新しい方から出てくるので、最初に「8月25日発行」の今回の事故に関するADがある(28日時点)。タイトルは、「Main Slat Track Downstop Assembly」
先の「TCD−7152−2007」における概要《メイン・スラット・トラックのダウンストップ取付部のナット(以下「ダウンストップ・ナット」という。)が外れることにより、トラック・カンが損傷し、燃料タンクから燃料が漏洩する不具合防止》を指しているのであろう。「ASCの勉強部屋」にあるように必ずしもAD⇒TCDという手順ではないというから、今回のように、TCD⇒ADということもありうるのであろうが、ADは同時に緊急を意味するEmergencyが付記されているけれども、事故が起きてから緊急はないだろうとも思う。もちろん、事故防止のため、ADであろうと、TCDであろうと、改めて発行・発効することは必要ではあろう。
話が前後するが、05年と06年のADについて、先のAD履歴書によって、確認すると、以下の2項があった。ただし、06年3月に該当するADはなかった。
[AD;2005−25−03]
Effective Date ;12/21/2005
Subject;Point ”D” splice fitting
[AD;2005−23−16]
E.D.;12/21/2005
Sub;Center fuel tank
上記2ADと今回の事故との関連については、わたくしにはさっぱり分からない。
シカゴ条約というのがあるらしく、ADについても、ふれられている。日本ビジネス航空協会(JBAA)という組織があって、シカゴ条約に関する資料を引用させていただく。
《シカゴ条約とICAO ANNEX》(2005/3/18)
日本ビジネス航空協会、協賛;日本航空技術協会
///////////////////////////////////////////////////////////////////////
《ANNEX 次。腺蕋鬘orthiness(続き)》PDF26頁
4. 耐空性が継続される要件:
⇒航空機の登録国は以下を含む航空機の耐空性が継続される要件を定める。
a)改修、修理、あるいは部品の取外し取付けに関する耐空性継続の要件。
b)Annex6 Operation Of Aircraft に定める整備要件(整備要目やAD の実施など)。
⇒上述の耐空性が継続される要件を満足している場合、航空機の登録国は耐空性の継続を認める。
5. 耐空性の継続に必要な情報:
⇒航空機の登録国は運航における耐空性に係わる重要な不具合や、経験が報告される体制を確立し、そこでの情報を設計国に報せる。
⇒設計国はこの情報に基づくものを含め、耐空性の継続と安全運航に必須な情報(改修、検査、整備要目の変更、運用限界や操作方法の変更など)を航空機の登録国に伝える。
⇒航空機の登録国は独自に、あるいは設計国の情報に基づき、必要な処置を講じる(ADの発行など)
このことについては、国土交通省航空局の「第3回航空輸送安全対策委員会」(資料3)『世界的な安全対策の動向⇒9頁』(平成17年7月28日/国土交通省航空局)にも記載がある。
[シカゴ条約に基づく国際的枠組み(第8附属書第2部第4章)]

これらを総覧していると、では、一体、どこが、仕切っているのか、誰が親(航空機機材の安全性=耐空性などをみ護る責任者)なのか、よく分からない。じっと、眺めていると、「登録国」が親なのかという気もするが、じっくり見ると設計国ともとれる。具体的には示されていないが、航空機メーカーおよびキャリア(航空会社および関連する整備会社など)にも「親」の分を求めている臭いがぷんぷんしている。そもそも、SB(註1)はメーカーの自主的情報公開(提供)であり、拘束力がないし、ADも日本国内では効力がなく、初めてTCDの発行により、発効の意味がある(らしい)。そのくせ、ADを耐空性改善命令といいながら、TCDを耐空性改善通報というのも、何だか、やはり、これも怖い。そして、よく調べないと、わたくしのような思い違いをする、これも、やはり、怖い。
(註1)SB;SERVICE BULLETIN(サービス・ブリテン)のことで、メーカーが発行するものです。法的拘束力はありませんが、命が惜しかったら実施した方がいいでしょう。でも、軽微で推奨に止まるものから、緊急度・重要度の高いものまで、内容はいろいろあります。(ASCの勉強部屋より)
長くなったけれども何故、こんなことを書いているのか、わたくし自身にも、よく分からない。ただし、おそらく、この先、航空機を利用することもあろう、しかし、そのたびに、ADやTCDを確認することはなく、時間や予算に合わせて選ぶことになろう、こっちの方が、現実的なこととして、年金問題より、やはり怖い。そのような想いが、あれこれと不安および諦めとして、飛び交っている。ただ、それだけのことである。<(_ _)>
まず、わたくしがブログを書いた経緯を整理すると、
〇故発生(幸い、大きな事故にならずに、よかった)
↓
朝日コム情報で、05年12月及び06年3月にFAA(連邦航空局)より当該機種(ボーイング373−800、700)に対するADが発行されたという記事を見る
↓
上記情報をもとに、日本のCAB(国土交通省航空局)のTCD(耐空性改善通報)を確認するが、当該月付近に該当機種に関する通報が見当たらなかった
↓
(ということから、わたくしは)
ぃ腺弔発行されているにもかかわらず、TCDが出ていなかった、と思い、そう書いた。この時点で、ADを眺めておけばよかった、と反省するが、あとのまつりである。
[耐空性改善通報TCD−7152−2007]

または、※耐空性改善通報発行状況(平成19年度)の8月20〜24日をクリック
さて、TCDは、23日に発行されたとも書いたが、その時点で、通報に準拠ADがないことに気づいていた。CABの担当者もよほどあわてていたのだろうかと、素人考えをしていた。(参考に、翌日のTCDも載せた。24日分には準拠AD〈※SBも〉の記載がある。また、2通の発行日と発効日を見較べてみると、あわてぶり=危急(緊急)性の違いが分かるような気もする。)本日、改めて、FAAのAD情報をみた。機種別に履歴が表示されているので、《737−800》関連を開いた。※直接、いけないので、左フレームの「By Make」から、《Boeing Company, The》に、そして、737−800 Seriesへ。(なお、737−300、737−300Cもほぼ同様のようである)情報は、新しい方から出てくるので、最初に「8月25日発行」の今回の事故に関するADがある(28日時点)。タイトルは、「Main Slat Track Downstop Assembly」
先の「TCD−7152−2007」における概要《メイン・スラット・トラックのダウンストップ取付部のナット(以下「ダウンストップ・ナット」という。)が外れることにより、トラック・カンが損傷し、燃料タンクから燃料が漏洩する不具合防止》を指しているのであろう。「ASCの勉強部屋」にあるように必ずしもAD⇒TCDという手順ではないというから、今回のように、TCD⇒ADということもありうるのであろうが、ADは同時に緊急を意味するEmergencyが付記されているけれども、事故が起きてから緊急はないだろうとも思う。もちろん、事故防止のため、ADであろうと、TCDであろうと、改めて発行・発効することは必要ではあろう。
話が前後するが、05年と06年のADについて、先のAD履歴書によって、確認すると、以下の2項があった。ただし、06年3月に該当するADはなかった。
[AD;2005−25−03]
Effective Date ;12/21/2005
Subject;Point ”D” splice fitting
[AD;2005−23−16]
E.D.;12/21/2005
Sub;Center fuel tank
上記2ADと今回の事故との関連については、わたくしにはさっぱり分からない。
シカゴ条約というのがあるらしく、ADについても、ふれられている。日本ビジネス航空協会(JBAA)という組織があって、シカゴ条約に関する資料を引用させていただく。
《シカゴ条約とICAO ANNEX》(2005/3/18)
日本ビジネス航空協会、協賛;日本航空技術協会
///////////////////////////////////////////////////////////////////////
《ANNEX 次。腺蕋鬘orthiness(続き)》PDF26頁
4. 耐空性が継続される要件:
⇒航空機の登録国は以下を含む航空機の耐空性が継続される要件を定める。
a)改修、修理、あるいは部品の取外し取付けに関する耐空性継続の要件。
b)Annex6 Operation Of Aircraft に定める整備要件(整備要目やAD の実施など)。
⇒上述の耐空性が継続される要件を満足している場合、航空機の登録国は耐空性の継続を認める。
5. 耐空性の継続に必要な情報:
⇒航空機の登録国は運航における耐空性に係わる重要な不具合や、経験が報告される体制を確立し、そこでの情報を設計国に報せる。
⇒設計国はこの情報に基づくものを含め、耐空性の継続と安全運航に必須な情報(改修、検査、整備要目の変更、運用限界や操作方法の変更など)を航空機の登録国に伝える。
⇒航空機の登録国は独自に、あるいは設計国の情報に基づき、必要な処置を講じる(ADの発行など)
このことについては、国土交通省航空局の「第3回航空輸送安全対策委員会」(資料3)『世界的な安全対策の動向⇒9頁』(平成17年7月28日/国土交通省航空局)にも記載がある。
[シカゴ条約に基づく国際的枠組み(第8附属書第2部第4章)]

これらを総覧していると、では、一体、どこが、仕切っているのか、誰が親(航空機機材の安全性=耐空性などをみ護る責任者)なのか、よく分からない。じっと、眺めていると、「登録国」が親なのかという気もするが、じっくり見ると設計国ともとれる。具体的には示されていないが、航空機メーカーおよびキャリア(航空会社および関連する整備会社など)にも「親」の分を求めている臭いがぷんぷんしている。そもそも、SB(註1)はメーカーの自主的情報公開(提供)であり、拘束力がないし、ADも日本国内では効力がなく、初めてTCDの発行により、発効の意味がある(らしい)。そのくせ、ADを耐空性改善命令といいながら、TCDを耐空性改善通報というのも、何だか、やはり、これも怖い。そして、よく調べないと、わたくしのような思い違いをする、これも、やはり、怖い。
(註1)SB;SERVICE BULLETIN(サービス・ブリテン)のことで、メーカーが発行するものです。法的拘束力はありませんが、命が惜しかったら実施した方がいいでしょう。でも、軽微で推奨に止まるものから、緊急度・重要度の高いものまで、内容はいろいろあります。(ASCの勉強部屋より)
長くなったけれども何故、こんなことを書いているのか、わたくし自身にも、よく分からない。ただし、おそらく、この先、航空機を利用することもあろう、しかし、そのたびに、ADやTCDを確認することはなく、時間や予算に合わせて選ぶことになろう、こっちの方が、現実的なこととして、年金問題より、やはり怖い。そのような想いが、あれこれと不安および諦めとして、飛び交っている。ただ、それだけのことである。<(_ _)>
2007.08.27
しぞーか・おでん
所用で通う、そのついでに、(所用がついでかもしれない)、藤枝に寄り、その戻る足(胃も)を、静岡で、おでんを食べに向かうというコースがいつのまにかできていた。遠出はせず、駅構内のおでん屋さんで済ましている、といっても、おいしいから、それで十分である。
仕事のペースが遅いので、急かされて、あわてていると、SI−ZU−O−KAのUとOを逆に打ち、SI−ZO−U−KAと打つことがある。今、試してみると(急ぐ所用はないけれども)、反転前→し・ぞ・う・か、反転後→死蔵化となっている。厄介な字面(じづら)であるけれども、仕方がない、わたくしが出したのだからと思い、恐る恐る消去して、静岡(SIZUOKA)と直している。仕事、夏休みの宿題など、余裕をもって、やろうね、という諌めだと思っている。
さて、その駅構内のお店に、しぞーかおでんとあって、思わず、以上のことを想いだす。B−1グランプリの紹介(↓に参照サイト)にも確かに「しぞーかおでん」とあるので、間違ってはいないのであろう。ちなみに、第二回大会で、しぞーかおでんは第三位であった。しつこいけれど、「しぞーか」と打っても、予想外の字面は出てこない。「死蔵化おでんの会」・・・いえ、「静岡おでんの会」のサイトによると、静岡のおでんは、以下の三点に特徴があると書かれている。
1.汁が茶色がかった特徴を持つ
2.静岡名物「黒はんぺん」が入っている
3.青のり・かつおぶし・味噌だれをお好みで
汁が茶色・・・というのは、いささか遠慮気味で、黒色が、茶色がかったと表現する方が、より、現物に近いと思う。具(種)に関しては、やはり黒はんぺんに代表されるのであろう。残念ながら、わたくしは1店しか訪ねたことがないので、他のお店については分からないけれども、ウインナー(ソーセージ)というのも、これはこれなりに特徴ではないかと思う(自家製おでんの際、わたくしも入れる)。最後のふりかけ・たれ関連であるが、わたくしの「お店」(行ったことのある唯一のお店)では、青のりとかつおぶしを混ぜた状態を容器に詰めていたような記憶がある。もしかしたら、節だけかもしれない(つい最近のことであるが、もう忘れている)。ただし、味噌だれは出てこなかったし、いずれにしても、わたくしは嫌いなので、どうでも良い。以上、静岡おでんの特徴であるけれども、決定的な事項が抜けている。
「汁がない」
上記、おでんの会にある、第一の特徴と矛盾しているように思われるが、汁は、こしらえる側の方にあって、こっち(食べる側)に供される時点では、ほとんど汁がない。お皿の底をよくみると、具・種に滲みついた、あるいは、付着した汁が少し、「ある」程度である。
[静岡おでんがコッチ(食べる側)に到達した時点](B−1グランプリより)
[(同)](GEBSiTE.orgより)
したがって、(汁をすすりながら)出汁が効いているねェ、とか、ここのは京味(要するに薄い)だねぇ、といった、講釈もできないので、その筋には物足りないかもしれない。と書いている、わたくしも蘊蓄をいえば、薄味が好きで、実のところ、真っ黒な静岡おでんに到るまでには、勇気も要った。黒はんぺんはともかくも、ダイコン、ちくわ、こんにゃく(これは、もともと、やや黒に近いけれども)といった、わたくしの三大おでんネタが黒くなること自体が、ちょっと気になる(わがままだから)。しかし、少し、しょっぱい(辛い)という気はするけれども、その分、水分(お酒)を補給すればよいことなので、他の肴(季節によるが、サクラエビ、シラウオ、カツオ、イワシなど)とともに、ついつい長居しがちである。
家計調査で「おでん」関連を調べてみた。ずばり、おでんは、ないけれども、近似値として、「他の魚肉練製品」を選んでみた。やはりというのか、意図的に、わたくしが、選んだ所為もあるけれども、静岡市は全国の平均消費額の2倍以上を消費する唯一の都市であった。
[他の魚肉練製品の消費額](00〜06年)

「家計調査」(総務省統計局)をもとに作成
【他の魚肉練製品に含まれる食品】
○ 半ぺん しんじょ つみれ だて巻
○ 厚焼
○ 魚肉のハム・ソーセージ
× おでん材料セット→375(※これは、鍋料理などともに、「そうざい材料セット」で括っているため、参考にはならない)
はんぺん=おでんとは単純には片づけられないけれども、静岡市(あるいはその周辺)がおでん王国であるという、その一片(または半片程度)がうかがえる。次回は、9月になるが、少し、遠出をして、別のおでん屋さんにもと、思っている。
仕事のペースが遅いので、急かされて、あわてていると、SI−ZU−O−KAのUとOを逆に打ち、SI−ZO−U−KAと打つことがある。今、試してみると(急ぐ所用はないけれども)、反転前→し・ぞ・う・か、反転後→死蔵化となっている。厄介な字面(じづら)であるけれども、仕方がない、わたくしが出したのだからと思い、恐る恐る消去して、静岡(SIZUOKA)と直している。仕事、夏休みの宿題など、余裕をもって、やろうね、という諌めだと思っている。
さて、その駅構内のお店に、しぞーかおでんとあって、思わず、以上のことを想いだす。B−1グランプリの紹介(↓に参照サイト)にも確かに「しぞーかおでん」とあるので、間違ってはいないのであろう。ちなみに、第二回大会で、しぞーかおでんは第三位であった。しつこいけれど、「しぞーか」と打っても、予想外の字面は出てこない。「死蔵化おでんの会」・・・いえ、「静岡おでんの会」のサイトによると、静岡のおでんは、以下の三点に特徴があると書かれている。
1.汁が茶色がかった特徴を持つ
2.静岡名物「黒はんぺん」が入っている
3.青のり・かつおぶし・味噌だれをお好みで
汁が茶色・・・というのは、いささか遠慮気味で、黒色が、茶色がかったと表現する方が、より、現物に近いと思う。具(種)に関しては、やはり黒はんぺんに代表されるのであろう。残念ながら、わたくしは1店しか訪ねたことがないので、他のお店については分からないけれども、ウインナー(ソーセージ)というのも、これはこれなりに特徴ではないかと思う(自家製おでんの際、わたくしも入れる)。最後のふりかけ・たれ関連であるが、わたくしの「お店」(行ったことのある唯一のお店)では、青のりとかつおぶしを混ぜた状態を容器に詰めていたような記憶がある。もしかしたら、節だけかもしれない(つい最近のことであるが、もう忘れている)。ただし、味噌だれは出てこなかったし、いずれにしても、わたくしは嫌いなので、どうでも良い。以上、静岡おでんの特徴であるけれども、決定的な事項が抜けている。
「汁がない」
上記、おでんの会にある、第一の特徴と矛盾しているように思われるが、汁は、こしらえる側の方にあって、こっち(食べる側)に供される時点では、ほとんど汁がない。お皿の底をよくみると、具・種に滲みついた、あるいは、付着した汁が少し、「ある」程度である。
[静岡おでんがコッチ(食べる側)に到達した時点](B−1グランプリより)
[(同)](GEBSiTE.orgより)
したがって、(汁をすすりながら)出汁が効いているねェ、とか、ここのは京味(要するに薄い)だねぇ、といった、講釈もできないので、その筋には物足りないかもしれない。と書いている、わたくしも蘊蓄をいえば、薄味が好きで、実のところ、真っ黒な静岡おでんに到るまでには、勇気も要った。黒はんぺんはともかくも、ダイコン、ちくわ、こんにゃく(これは、もともと、やや黒に近いけれども)といった、わたくしの三大おでんネタが黒くなること自体が、ちょっと気になる(わがままだから)。しかし、少し、しょっぱい(辛い)という気はするけれども、その分、水分(お酒)を補給すればよいことなので、他の肴(季節によるが、サクラエビ、シラウオ、カツオ、イワシなど)とともに、ついつい長居しがちである。
家計調査で「おでん」関連を調べてみた。ずばり、おでんは、ないけれども、近似値として、「他の魚肉練製品」を選んでみた。やはりというのか、意図的に、わたくしが、選んだ所為もあるけれども、静岡市は全国の平均消費額の2倍以上を消費する唯一の都市であった。
[他の魚肉練製品の消費額](00〜06年)

「家計調査」(総務省統計局)をもとに作成
【他の魚肉練製品に含まれる食品】
○ 半ぺん しんじょ つみれ だて巻
○ 厚焼
○ 魚肉のハム・ソーセージ
× おでん材料セット→375(※これは、鍋料理などともに、「そうざい材料セット」で括っているため、参考にはならない)
はんぺん=おでんとは単純には片づけられないけれども、静岡市(あるいはその周辺)がおでん王国であるという、その一片(または半片程度)がうかがえる。次回は、9月になるが、少し、遠出をして、別のおでん屋さんにもと、思っている。
2007.08.26
今冶水(明治期の名づけの妙)
勝連グスクの阿麻和利(拙ブロ「琉球留記ε譽▲献△摑みかけた男〜勝連城「痕」」07年8月18日付)に関連して、「おもろさうし」を眺めていた。『おもろさうし 巻一〜二十二 7冊 仲吉朝助(なかよし・ちょうじょ)本』(琉球大学附属図書館所蔵「伊波普猷(いは・ふゆう)文庫目録」)である。そのうちの「一、二、三」をぺらぺらと捲っていて、この仲吉氏による(かどうかは分からないけれども)手書きの感覚がとても素的で、丁寧な字体といい、優しい筆致といい、内容はほとんど読めないものの、一級の美術品(書)として鑑賞させていただいている。薄紙で、背後の文字が透けて見えるぐらいの弱々しさであるから、保存も、さぞ、たいへんであろう。ところどころに、仲吉氏の留書きらしい文字、朱文字(訂正)や写し間違いあるいは重複部分は消すのではなく、別の白薄紙で被ってあるのも、観ていて楽しい。楽しんでいると、ふと、裏に透けて見える部分が気になった。47頁にあたる。第二巻にはいったところで、前頁にもシッカロールの字があるが、ここには「健脳丸」の文字とそれを囲むロゴマークが。サイトで検索してみると、丹平(たんぺい)製薬という大阪にある会社に行きついた。同社の歴史をみると、1894(明治27)年に、「森平兵衛が丹平商会を大阪・心斎橋の地に創設」とある。2年後に、「当時としては斬新かつ貴重な脳神経薬《健脳丸》を創成・販売」、これがロゴとデザイン、コピーはやや異なるものの仲吉本にあったものと、ほぼ一致している。仲吉氏のおもろそうしは1899(明治32)年ごろ(沖縄古代文化とおもろさうし)とあるので、すでに、健脳丸は発売されており、丹平商会の勢いが増している頃でもあろうか。仲吉本に挿まれているのは、どうも、雑誌のようであるが(新聞かもしれない)、広告を打って、ますます商売繁盛という頃のものなのであろう。なお、健脳丸は現在はなく、便秘薬が「健のう丸]として継いでいる。
現在、本社は茨木市(大阪府)にあるが、創業当時の心斎橋という説明を見て、それより北へ上って、地下鉄御堂筋線でいうと、淀屋橋と本町の中間にある「道修町(どしょうまち)」という昔から薬関連の企業が多い一帯を思いだした。現在も、塩野義製薬株式会社、武田薬品工業株式会社、田辺製薬株式会社(10月に田辺三菱製薬株式会社となる)、大日本住友製薬株式会社などが本社や事務所を構えている。「どうして、道修町に薬屋さんが多いか?」については、本日は、本題ではないため、[くすり道修町博物館]のサイトを参照してほしい。(そのほか、製薬会社のHPにも詳しい)江戸・日本橋本石町の薬種問屋である長崎屋について、以前書いたが(拙ブロ「出島・入島」06年5月4月付)、江戸においては日本橋本町を中心とする一帯が道修町に該当しているようで、やはり製薬会社が現在も多い。
さて、丹平商会は健脳丸の2年後(98=明治31年)に、歯痛薬「今治水(こんじすい)」の販売を開始した。(同社サイト)わたくしは、新・今治水の時代になって、お世話になったことがあるが、その名づけが直截的であることに感心した記憶がある。「サミゾチカラ コレクション」というサイトがあり、「佐溝」さんが収集しているホーロー看板を紹介していらっしゃる。その「草創期のホーロー看板」の中に、健脳丸もあり、その横に、「直治水(チョクヂスイ)」という目薬があった。これも、ど真ん中の直球みたいな潔さがある。今治も直治も分かりやすい。ただ、服用すれば、今(すぐに)治る、直(じき)に治るというのは薬事法的にはどうなのだろうか、そういうつまらない考えは横に擱くとして、明治期の名づけの妙には夢・浪漫が満ちあれているように思う。ただし、いずれも、〜薬ではなく、〜水とつけているところに、変化球のような妙(工夫)もみられる。丹平商会は森平兵衛氏が興したと最初に紹介した。それが、「平」であろう。そして、「丹」は「薬」と解してよいだろう。手許の国語辞書を検めてみると、丹の第一項に「赤い色。に《昔はこの色を硫化水銀、すなわち辰砂(しんしゃ)から取った。》とある。拙ブロ「琉球留記焼(やち)物(むん)」(07年7月22日付)で、石や土を食べるというようなことを記したけれども、あながち、外れていないのであろうか。丹土という言葉もある、赤土と訳せばよいのであろう。古来から、岩(石)や土を薬として使用していたというのは、どうやら事実であり、現在でも、その習慣が残っているとも聞いた。丹には、そういう名残りが残っていて、丹平もうそうだろうし、仁丹、万金丹、反魂丹などに受け継がれてきたのであろう。
只今の名づけはどうかというと、そのことについて書く知識も何もないので、消費者(服用・使用者)として、少し気になっていることについてのみ、留めておくと、小林製薬(製品一覧)の名づけである。症状+効果という単純な組み合せが、分かりやすく、ついつい買ってしまおうかと思わせる。少し挙げると、「サカムケア」(さかむけ+ケア)、「ガスピタン」(整腸剤)、これは順番が逆であるが「ケシミン」(シミ+消す)などである。同社には、もうひとつの傾向として、マンマ系統というのがあって、例として、「トイレその後に」(消臭剤)、「のどぬ〜る」(消毒・殺菌剤)などがあるが、「トイレットペーパーでちょいふき」(洗浄・除菌剤)になると、ちょいワルふざけ、だとも思う。
おもろさうしの第二巻は「中城 越来のおもろ」とあって、阿麻和利によって滅ぼされた護佐丸にとって最期の居城となる中グスク及び越来(ゴエク)地方の謡い(おもろ)である。越来というのは現在の沖縄市にある地名であり、その付近に同名のグスクもあった。そのあたりのことについては、琉球留記玉陵(たまうどぅん)の中で考えてみたいと思う。
現在、本社は茨木市(大阪府)にあるが、創業当時の心斎橋という説明を見て、それより北へ上って、地下鉄御堂筋線でいうと、淀屋橋と本町の中間にある「道修町(どしょうまち)」という昔から薬関連の企業が多い一帯を思いだした。現在も、塩野義製薬株式会社、武田薬品工業株式会社、田辺製薬株式会社(10月に田辺三菱製薬株式会社となる)、大日本住友製薬株式会社などが本社や事務所を構えている。「どうして、道修町に薬屋さんが多いか?」については、本日は、本題ではないため、[くすり道修町博物館]のサイトを参照してほしい。(そのほか、製薬会社のHPにも詳しい)江戸・日本橋本石町の薬種問屋である長崎屋について、以前書いたが(拙ブロ「出島・入島」06年5月4月付)、江戸においては日本橋本町を中心とする一帯が道修町に該当しているようで、やはり製薬会社が現在も多い。
さて、丹平商会は健脳丸の2年後(98=明治31年)に、歯痛薬「今治水(こんじすい)」の販売を開始した。(同社サイト)わたくしは、新・今治水の時代になって、お世話になったことがあるが、その名づけが直截的であることに感心した記憶がある。「サミゾチカラ コレクション」というサイトがあり、「佐溝」さんが収集しているホーロー看板を紹介していらっしゃる。その「草創期のホーロー看板」の中に、健脳丸もあり、その横に、「直治水(チョクヂスイ)」という目薬があった。これも、ど真ん中の直球みたいな潔さがある。今治も直治も分かりやすい。ただ、服用すれば、今(すぐに)治る、直(じき)に治るというのは薬事法的にはどうなのだろうか、そういうつまらない考えは横に擱くとして、明治期の名づけの妙には夢・浪漫が満ちあれているように思う。ただし、いずれも、〜薬ではなく、〜水とつけているところに、変化球のような妙(工夫)もみられる。丹平商会は森平兵衛氏が興したと最初に紹介した。それが、「平」であろう。そして、「丹」は「薬」と解してよいだろう。手許の国語辞書を検めてみると、丹の第一項に「赤い色。に《昔はこの色を硫化水銀、すなわち辰砂(しんしゃ)から取った。》とある。拙ブロ「琉球留記焼(やち)物(むん)」(07年7月22日付)で、石や土を食べるというようなことを記したけれども、あながち、外れていないのであろうか。丹土という言葉もある、赤土と訳せばよいのであろう。古来から、岩(石)や土を薬として使用していたというのは、どうやら事実であり、現在でも、その習慣が残っているとも聞いた。丹には、そういう名残りが残っていて、丹平もうそうだろうし、仁丹、万金丹、反魂丹などに受け継がれてきたのであろう。
只今の名づけはどうかというと、そのことについて書く知識も何もないので、消費者(服用・使用者)として、少し気になっていることについてのみ、留めておくと、小林製薬(製品一覧)の名づけである。症状+効果という単純な組み合せが、分かりやすく、ついつい買ってしまおうかと思わせる。少し挙げると、「サカムケア」(さかむけ+ケア)、「ガスピタン」(整腸剤)、これは順番が逆であるが「ケシミン」(シミ+消す)などである。同社には、もうひとつの傾向として、マンマ系統というのがあって、例として、「トイレその後に」(消臭剤)、「のどぬ〜る」(消毒・殺菌剤)などがあるが、「トイレットペーパーでちょいふき」(洗浄・除菌剤)になると、ちょいワルふざけ、だとも思う。
おもろさうしの第二巻は「中城 越来のおもろ」とあって、阿麻和利によって滅ぼされた護佐丸にとって最期の居城となる中グスク及び越来(ゴエク)地方の謡い(おもろ)である。越来というのは現在の沖縄市にある地名であり、その付近に同名のグスクもあった。そのあたりのことについては、琉球留記玉陵(たまうどぅん)の中で考えてみたいと思う。
2007.08.25
琉球留記┘泪船筌哀遏爾肇泪船哀遏
「マチヤグヮー」とは繊細な言葉である。マチヤがお店で、グヮーは小さなというような意味らしい。「沖縄コンパクト事典」(琉球新報社編)では以下の丁寧な説明があって、琉球の庶民にとってのマチヤグヮーの役割というものが、よく分かる。
[マチヤグヮー;沖縄独特の日用雑貨店。住宅街に点在し、生活用品から食料品などの販売、庶民の生活を支えてきた。米、野菜、豆腐など、肉や魚以外のものはほとんどすべてがマチヤグヮーで手に入れることができた」
何でも屋さんということであろうか、本土にも、それに近いお店がある。近頃ではよほどの地方に行かないかぎり、みかけることはできなくなった。今風にいえば町場のコンビニであるけれども、趣きはまったく異なっている。以前、住んでいた最寄りに「よろづや」さんというスーパーマーケットがあって、ここは生鮮品も置いてあり(コンパクト事典があらわす時代と異なり、こちらは冷蔵技術も加わっているので、生鮮も置ける。また、現代のマチヤグヮーは、以上のような理由から、肉・魚を扱かうことができる)、マチヤグヮーをちょっと大振りにしたようなお店であった。気になって、調べてみると、より大型のSCなどに押し潰されてしまったかなぁと案じたけれども、ご健在のようである。ただし、先、コンパクト事典の説明には「マチグヮーで手に入れることができた」と、過去の表現になっており、その(マチヤグヮー)存在が次第に失われているということも、残念ながら、事実のようである。
「ヤ」がとれて、マチグヮーになると「市(場)」であるという説明がある。
今、『琉球語音声データベース』(沖縄言語研究センター:琉球大学内)という、まことに便利な、まさに、琉球言葉のマチヤグヮーのようなサイトを参照にしている。
[マチグヮー;市(いち)。市場。芋や野菜類、豚肉、魚などを売っていた。ふつう、営業時間がみじかく、規模も小さい]とある。那覇市内にある、お馴染みの牧志公設市場や農連市場などはこれに当たるのだろうか。ただし、やはり、グヮーなので、小さい市(マチ)ということなってしまう。「マチ」とは「市(いち)」のことであり、グヮーは先のとおり「小さい」という意味であるから、↑データベースの説明どおり、厳密にあらわせば、営業時間が短く、規模も小さい市場をマチグヮーということになる。農連はそれに当たるかもしれないけれども、牧志市場周辺については、もはや、その域を通り越しているのであろう。もちろん、市民の台所という意味合いから、観光施設化しているということであるけれども、それでも、あの迷路のようなマチの「なり」はとても素的である。
では、と、マチヤグヮーに戻ると、真ん中にある「ヤ」が分からない。家(ヤ)であろうか。そう思い込んで、考えると、マチヤは市に建つお店ということになる。露店、出店は含まれない、こちらは集合体として、マチグヮーになるのであろうか。その辺りの繊細な部分が、そうでない、わたくしには分からない。そもそも、マチは本土語でいえば、町(街)であり、これも、もとは、市(マチ)の発展系あるいは固定化によるものである。何だか、分からないけれども、自然発生的に、近在から人々が集まってきて、そこ(広場のような、だだ広い場所)での物々交換から始まる。それが市(マチ)の発祥であり、いつのまにか、そこに居つく人々も出てきて、町(街)となる。そんな風に大雑把に整理すると、琉球におけるマチは、町(街)がマチ(市場)のままで、本土のマチが町(街)となって、壊れていったのに反して、今もなお、町(街)の原型であるマチとして、存在している・・・ややこしいけれども、そういうようなことを考えながら、一筋一筋ほっついていた。残念ながら、閉まっているお店もあるけれど、周りがカバーしている、そういう気分でもある。
とはいえ、今回はマチグヮーには1年半前ほど行っていない。いつもの定食屋さんには一度しか行っておらず(また、野菜そばを頂いた、美味!)、農連市場もすでに閉じている時間帯に、せめて、なりだけはみておこうと、通りかかっただけである。この日(9日)も、ちょっと気になっている場所があり、用件もあり、マチグヮーには行かずに、反対方向の、昨日、お世話になった安里川に出て、崇元寺の石門を訪ねた。この前の通りは崇元寺通りといって、市内線や市外線問わず、バスでよく往き来する場所で、その度に、この「お寺」が気になっていた。お寺といっても、その特異な石門しか残っていない。他は、沖縄戦によって、破壊されたということであるが、前記「沖縄コンパクト事典」によれば、「那覇市の安里川ほとりにあった臨済宗の寺。山号は霊徳山。沖縄戦で堂宇(註1)は壊滅、辛うじて、三つのアーチ門のある石垣前面部が残っているのみ。歴代国王の霊位を祭る国廟で、冊封使は王の柵封に先立ち、ここで先王の論祭(註2)を行なった。創建は尚巴志王代、尚円王代、尚真王代とはっきりしないが、残されている「下馬碑」は尚清王即位(1527年)の時に建てられたもので、このころに落成したとも考えられている。石門は国指定重要文化財。」とある。
(註1)堂宇;堂の建物、つまり、お寺本体をさす
(註2)弔いの儀式
要するに、よく分からないらしい。他のサイトにおいても、16世紀に建立とあるが、特定はできていない。尚巴志の時代に始まり、尚清時代になって、ようやく完成したと考えて良いのかもしれない。ほぼ1世紀かけてということであろうか。サグラダ・ファミリア(聖家族教会)並みである(もっとも、コッチはまだできていないらしい)。独特の石門が目を惹くけれども、その裏は、単なる公園でしかない。(暑いからか)人もいない、とりたてて、みるべきでもないのであろうか。確かに、そこでの居心地時間は短い。
「琉球留記ノ圧紊織りなす」で御物城について書いたが、只今は米軍基地の端っこにひっそりとある、この土地も往時は小島であり、現在の那覇市の大半は海であったとも書いた。ただし、首里城と浮島(今の若狭・松山・久米辺り)を結ぶ、今でいえば海中道路が、崇元寺付近から延びていたそうである。「長虹堤(ちょうこうてい)」という。当時、琉球は東アジアとの貿易により栄えており、浅瀬の多い那覇港に入りきれない明船などは、いったん、浮島に碇を下ろし、そこから、崇元寺の際に渡ったらしい。冊封使一行は、まず、ここで、王のご先祖を弔ったとあるが、意図的な、儀式的な面もあったようにも思われる。ただし、崇元寺については、今回は忘れものとなってしまった。臨済宗のお寺である。わたくしの知る範囲では東福寺(紅葉が有名)、南禅寺(湯豆腐が有名)程度しかない。次回、また、お邪魔しようと、往時あったという堤とは逆方向に歩き、安里交差点を渡って、散髪を済ますと(これが用件)、昼間の栄町マチグヮーに。狭い中通りで、偶然、見つけた看板を頼りに(誘われて)、定食屋さんへと。グルクンも付いているというお刺身4点盛定食を頼み、うっかりご飯半分という、わがままな注文を忘れたのにもかかわらず、すべて、食べてしまった(お刺身のほかに、てんぷら2品付き)。そのせいか、体が重く、もう、歩く元気もなく、ユイレールを一駅間だけ乗って、牧志まで戻った。
[マチヤグヮー;沖縄独特の日用雑貨店。住宅街に点在し、生活用品から食料品などの販売、庶民の生活を支えてきた。米、野菜、豆腐など、肉や魚以外のものはほとんどすべてがマチヤグヮーで手に入れることができた」
何でも屋さんということであろうか、本土にも、それに近いお店がある。近頃ではよほどの地方に行かないかぎり、みかけることはできなくなった。今風にいえば町場のコンビニであるけれども、趣きはまったく異なっている。以前、住んでいた最寄りに「よろづや」さんというスーパーマーケットがあって、ここは生鮮品も置いてあり(コンパクト事典があらわす時代と異なり、こちらは冷蔵技術も加わっているので、生鮮も置ける。また、現代のマチヤグヮーは、以上のような理由から、肉・魚を扱かうことができる)、マチヤグヮーをちょっと大振りにしたようなお店であった。気になって、調べてみると、より大型のSCなどに押し潰されてしまったかなぁと案じたけれども、ご健在のようである。ただし、先、コンパクト事典の説明には「マチグヮーで手に入れることができた」と、過去の表現になっており、その(マチヤグヮー)存在が次第に失われているということも、残念ながら、事実のようである。
「ヤ」がとれて、マチグヮーになると「市(場)」であるという説明がある。
今、『琉球語音声データベース』(沖縄言語研究センター:琉球大学内)という、まことに便利な、まさに、琉球言葉のマチヤグヮーのようなサイトを参照にしている。
[マチグヮー;市(いち)。市場。芋や野菜類、豚肉、魚などを売っていた。ふつう、営業時間がみじかく、規模も小さい]とある。那覇市内にある、お馴染みの牧志公設市場や農連市場などはこれに当たるのだろうか。ただし、やはり、グヮーなので、小さい市(マチ)ということなってしまう。「マチ」とは「市(いち)」のことであり、グヮーは先のとおり「小さい」という意味であるから、↑データベースの説明どおり、厳密にあらわせば、営業時間が短く、規模も小さい市場をマチグヮーということになる。農連はそれに当たるかもしれないけれども、牧志市場周辺については、もはや、その域を通り越しているのであろう。もちろん、市民の台所という意味合いから、観光施設化しているということであるけれども、それでも、あの迷路のようなマチの「なり」はとても素的である。
では、と、マチヤグヮーに戻ると、真ん中にある「ヤ」が分からない。家(ヤ)であろうか。そう思い込んで、考えると、マチヤは市に建つお店ということになる。露店、出店は含まれない、こちらは集合体として、マチグヮーになるのであろうか。その辺りの繊細な部分が、そうでない、わたくしには分からない。そもそも、マチは本土語でいえば、町(街)であり、これも、もとは、市(マチ)の発展系あるいは固定化によるものである。何だか、分からないけれども、自然発生的に、近在から人々が集まってきて、そこ(広場のような、だだ広い場所)での物々交換から始まる。それが市(マチ)の発祥であり、いつのまにか、そこに居つく人々も出てきて、町(街)となる。そんな風に大雑把に整理すると、琉球におけるマチは、町(街)がマチ(市場)のままで、本土のマチが町(街)となって、壊れていったのに反して、今もなお、町(街)の原型であるマチとして、存在している・・・ややこしいけれども、そういうようなことを考えながら、一筋一筋ほっついていた。残念ながら、閉まっているお店もあるけれど、周りがカバーしている、そういう気分でもある。
とはいえ、今回はマチグヮーには1年半前ほど行っていない。いつもの定食屋さんには一度しか行っておらず(また、野菜そばを頂いた、美味!)、農連市場もすでに閉じている時間帯に、せめて、なりだけはみておこうと、通りかかっただけである。この日(9日)も、ちょっと気になっている場所があり、用件もあり、マチグヮーには行かずに、反対方向の、昨日、お世話になった安里川に出て、崇元寺の石門を訪ねた。この前の通りは崇元寺通りといって、市内線や市外線問わず、バスでよく往き来する場所で、その度に、この「お寺」が気になっていた。お寺といっても、その特異な石門しか残っていない。他は、沖縄戦によって、破壊されたということであるが、前記「沖縄コンパクト事典」によれば、「那覇市の安里川ほとりにあった臨済宗の寺。山号は霊徳山。沖縄戦で堂宇(註1)は壊滅、辛うじて、三つのアーチ門のある石垣前面部が残っているのみ。歴代国王の霊位を祭る国廟で、冊封使は王の柵封に先立ち、ここで先王の論祭(註2)を行なった。創建は尚巴志王代、尚円王代、尚真王代とはっきりしないが、残されている「下馬碑」は尚清王即位(1527年)の時に建てられたもので、このころに落成したとも考えられている。石門は国指定重要文化財。」とある。
(註1)堂宇;堂の建物、つまり、お寺本体をさす
(註2)弔いの儀式
要するに、よく分からないらしい。他のサイトにおいても、16世紀に建立とあるが、特定はできていない。尚巴志の時代に始まり、尚清時代になって、ようやく完成したと考えて良いのかもしれない。ほぼ1世紀かけてということであろうか。サグラダ・ファミリア(聖家族教会)並みである(もっとも、コッチはまだできていないらしい)。独特の石門が目を惹くけれども、その裏は、単なる公園でしかない。(暑いからか)人もいない、とりたてて、みるべきでもないのであろうか。確かに、そこでの居心地時間は短い。
「琉球留記ノ圧紊織りなす」で御物城について書いたが、只今は米軍基地の端っこにひっそりとある、この土地も往時は小島であり、現在の那覇市の大半は海であったとも書いた。ただし、首里城と浮島(今の若狭・松山・久米辺り)を結ぶ、今でいえば海中道路が、崇元寺付近から延びていたそうである。「長虹堤(ちょうこうてい)」という。当時、琉球は東アジアとの貿易により栄えており、浅瀬の多い那覇港に入りきれない明船などは、いったん、浮島に碇を下ろし、そこから、崇元寺の際に渡ったらしい。冊封使一行は、まず、ここで、王のご先祖を弔ったとあるが、意図的な、儀式的な面もあったようにも思われる。ただし、崇元寺については、今回は忘れものとなってしまった。臨済宗のお寺である。わたくしの知る範囲では東福寺(紅葉が有名)、南禅寺(湯豆腐が有名)程度しかない。次回、また、お邪魔しようと、往時あったという堤とは逆方向に歩き、安里交差点を渡って、散髪を済ますと(これが用件)、昼間の栄町マチグヮーに。狭い中通りで、偶然、見つけた看板を頼りに(誘われて)、定食屋さんへと。グルクンも付いているというお刺身4点盛定食を頼み、うっかりご飯半分という、わがままな注文を忘れたのにもかかわらず、すべて、食べてしまった(お刺身のほかに、てんぷら2品付き)。そのせいか、体が重く、もう、歩く元気もなく、ユイレールを一駅間だけ乗って、牧志まで戻った。
2007.08.24
それが「怖い」
何故、日本国内の航空機事故(その所有者は中国台北、中華台北または台湾の会社である)に米国の機関が乗り出したのか、とっても不思議であったけれども、なんとなく、合点がいった。要するに、「ボーイング機」自体になんらかの不具合があったという記事が載っていた。※朝日コム(07年8月23日)この記事に出てくる「耐空性改善命令」(AD)については、ASCの勉強部屋というサイトの記述を引用させていただくと、
[ADはAirworthiness Directive(エアワーシネス・ダイレクティブ)のことで、アメリカ連邦航空局(FAA)やその他の国の民間(註;ママ)航空局が発行する耐空性改善命令です。TM(注)もADも外国政府の発行するものですから日本での法的拘束力はありませんが、実施しないと命に関わります]とある。
(注)TM;TECHNISCHE MITTEILUNG(テヒニッシェ・ミッタイルンク)の略でドイツ連邦航空局(LBA)が発行する耐空性改善命令のこと。(同サイト)
このADに基づいて(準拠)して通常は、各国の航空局などが発行するのが日本においては、TCD(耐空性改善通報、注)と呼ばれるものであるらしい。
(注)TCD(TECHNICAL CIRCULAR DIRECTIVE)とは国土交通省航空局(CAB)が発行する「耐空性改善通報」のことで、航空機や航空機に搭載する機器の耐空性に問題が発生した場合に(ようするに欠陥のあることが分かった場合に)、その対応策として指示されるもので、強制力があります。(ASCの勉強部屋より)
今回の事故については航空機の所有者が国外機であるため、当該国のTCDにあたる通報が発行されていたかどうか、また、それへの航空会社の対応が問題になるのであろうが、どういうわけか、日本の航空局も事故後の23日にTCDを発行しているという(「福井新聞オンライン」)。先の朝日記事による06年3月(あるいは05年12月末)のAD通達時においては発行していないということになるのであろうか。
ちなみに、国土交通省航空局のサイトで最新の耐空性改善通報発行状況(07年8月13〜17日分)には以下のTCDがあった。残念ながら、翌週(18日以降)の記録はまだ掲載されていない。
《TCD番号7150 − −2007
発行日08/17 発効日08/22
種類/プロペラ
準拠AD/EASA AD 2007−0223−E
適用型式/ダウティ・プロペラーズ式R408/6−123−F/17型プロペラを装備した航空機
概要/リーディング・エッジ・ガードがプロペラから剥離することにより、機体の損傷又は人員の負傷が発生する不具合防止
参照SB等/ダウティ・プロペラーズ・アラート・サービス・ブレティンNo.D8400−61−A69(注)
(注)SB;SERVICE BULLETIN(サービス・ブリテン)のことで、メーカーが発行するものです。法的拘束力はありませんが、命が惜しかったら実施した方がいいでしょう。でも、軽微で推奨に止まるものから、緊急度・重要度の高いものまで、内容はいろいろあります。(ASCの勉強部屋より)
また、過去15年間の通報(CAB)という資料をみると、件の機(ボーイング737−800型及び700型も該当する)についても、かなりの数のTSU−HO(TCD)が出ている。これらが、1週間後に各航空会社に届いたのかどうかは分からないけれども、通常、郵送で、通報が届くのに1週間かかるという、怖ろしいことになっている。[耐空性改善通報は、適用航空機の所有者(所有者から依頼があった場合には使用者または整備担当者)に対して配布いたしますが、緊急のものを除き郵送により配布するため、所有者の手元に届くまでに、発行日から1週間程度かかります。]※国土交通省航空局耐空性改善通報発行状況にある冒頭のコメント
06年3月に出されたADという情報(朝日コム)をもとに、同月のTCDの中から、今回と同型機関連を探してみた。3月14日に「TCD番号6811 − −2006」というのがあって、その内容(概要)は『昇降舵の制御が失われることにより、機体の操縦性が低下する不具合防止』とある。このことが今回の事故と関連するのかどうかは、わたくしには分からないけれども、素人考えで書けば、ADとTCDの間に、ほとんど違いはないようにも思えるのだが、1年半近いタイムラグ(AD→TCD)といい、郵送といい、そこが怖い。(※05年の12月近辺も当たったけれども、それらしいTCDはなかった。)
「白い恋人」事件に照らせば、製造したものの、「あ、ちょっと、賞味期限を直(改竄)しておいて、で、安全性については問題性が少ないとされているのにもかかわらず、×(販売停止・売場からの撤去)になったけれども、航空機の場合、そうはならず、「販売(使用)してもよいけれど、ちょっと、直しておいて」という命令(AD)があったにもかかわらず、(緊急性を感じなかったのであろうか)TCDとはならず、だから、国内航空会社も適切な対応をしていない(ADには強制力がないから)。また、当時、仮に、それが発行されていたとしても、おそらく(緊急とは思わないから)「郵送」になったのであろう。
「それが怖い」
※23日、耐空性改善通報TCD−7152−2007が発行されたようである。夕刻、確認すると、CABの新着情報としてUPされていた。
[ADはAirworthiness Directive(エアワーシネス・ダイレクティブ)のことで、アメリカ連邦航空局(FAA)やその他の国の民間(註;ママ)航空局が発行する耐空性改善命令です。TM(注)もADも外国政府の発行するものですから日本での法的拘束力はありませんが、実施しないと命に関わります]とある。
(注)TM;TECHNISCHE MITTEILUNG(テヒニッシェ・ミッタイルンク)の略でドイツ連邦航空局(LBA)が発行する耐空性改善命令のこと。(同サイト)
このADに基づいて(準拠)して通常は、各国の航空局などが発行するのが日本においては、TCD(耐空性改善通報、注)と呼ばれるものであるらしい。
(注)TCD(TECHNICAL CIRCULAR DIRECTIVE)とは国土交通省航空局(CAB)が発行する「耐空性改善通報」のことで、航空機や航空機に搭載する機器の耐空性に問題が発生した場合に(ようするに欠陥のあることが分かった場合に)、その対応策として指示されるもので、強制力があります。(ASCの勉強部屋より)
今回の事故については航空機の所有者が国外機であるため、当該国のTCDにあたる通報が発行されていたかどうか、また、それへの航空会社の対応が問題になるのであろうが、どういうわけか、日本の航空局も事故後の23日にTCDを発行しているという(「福井新聞オンライン」)。先の朝日記事による06年3月(あるいは05年12月末)のAD通達時においては発行していないということになるのであろうか。
ちなみに、国土交通省航空局のサイトで最新の耐空性改善通報発行状況(07年8月13〜17日分)には以下のTCDがあった。残念ながら、翌週(18日以降)の記録はまだ掲載されていない。
《TCD番号7150 − −2007
発行日08/17 発効日08/22
種類/プロペラ
準拠AD/EASA AD 2007−0223−E
適用型式/ダウティ・プロペラーズ式R408/6−123−F/17型プロペラを装備した航空機
概要/リーディング・エッジ・ガードがプロペラから剥離することにより、機体の損傷又は人員の負傷が発生する不具合防止
参照SB等/ダウティ・プロペラーズ・アラート・サービス・ブレティンNo.D8400−61−A69(注)
(注)SB;SERVICE BULLETIN(サービス・ブリテン)のことで、メーカーが発行するものです。法的拘束力はありませんが、命が惜しかったら実施した方がいいでしょう。でも、軽微で推奨に止まるものから、緊急度・重要度の高いものまで、内容はいろいろあります。(ASCの勉強部屋より)
また、過去15年間の通報(CAB)という資料をみると、件の機(ボーイング737−800型及び700型も該当する)についても、かなりの数のTSU−HO(TCD)が出ている。これらが、1週間後に各航空会社に届いたのかどうかは分からないけれども、通常、郵送で、通報が届くのに1週間かかるという、怖ろしいことになっている。[耐空性改善通報は、適用航空機の所有者(所有者から依頼があった場合には使用者または整備担当者)に対して配布いたしますが、緊急のものを除き郵送により配布するため、所有者の手元に届くまでに、発行日から1週間程度かかります。]※国土交通省航空局耐空性改善通報発行状況にある冒頭のコメント
06年3月に出されたADという情報(朝日コム)をもとに、同月のTCDの中から、今回と同型機関連を探してみた。3月14日に「TCD番号6811 − −2006」というのがあって、その内容(概要)は『昇降舵の制御が失われることにより、機体の操縦性が低下する不具合防止』とある。このことが今回の事故と関連するのかどうかは、わたくしには分からないけれども、素人考えで書けば、ADとTCDの間に、ほとんど違いはないようにも思えるのだが、1年半近いタイムラグ(AD→TCD)といい、郵送といい、そこが怖い。(※05年の12月近辺も当たったけれども、それらしいTCDはなかった。)
「白い恋人」事件に照らせば、製造したものの、「あ、ちょっと、賞味期限を直(改竄)しておいて、で、安全性については問題性が少ないとされているのにもかかわらず、×(販売停止・売場からの撤去)になったけれども、航空機の場合、そうはならず、「販売(使用)してもよいけれど、ちょっと、直しておいて」という命令(AD)があったにもかかわらず、(緊急性を感じなかったのであろうか)TCDとはならず、だから、国内航空会社も適切な対応をしていない(ADには強制力がないから)。また、当時、仮に、それが発行されていたとしても、おそらく(緊急とは思わないから)「郵送」になったのであろう。
「それが怖い」
※23日、耐空性改善通報TCD−7152−2007が発行されたようである。夕刻、確認すると、CABの新着情報としてUPされていた。
2007.08.23
琉球留記渡嘉敷島阿波連「まめや」さん三訪記
すでに、那覇での逗留も後半になってしまった(7月2日〜11日)。本日は7月8日で、那覇の日でもある。7(ナ)・8(ハ)という至極単純で分かりやすいことであり、3日前を名護(7・5)の日とする動きもあるらしい。本年の「那覇の日」は日曜日であり、山羊料理屋さんは原則的に休業日であるので、この日の予定だけは、那覇に来る前から漠然と決めていた。島を離れて島へ行こうと。当ては渡嘉敷島である。2日前に、とまりん(泊埠頭)にある渡嘉敷村那覇連絡事務所へ電話を入れ、朝一番の高速船(9時発)と同日の最終便(高速船;17時発)を照会した。まだ、シーズンのトップではないこともあり、すんなりと確保できたし、実際、船内は比較的空いていたような気もする。と思っていたら、渡嘉敷の港に着くと、阿波連(あはれん)ビーチ行きのマイクロバスはどれも予約客の方などで混んでおり、ようやく、最後の一台に乗ることができて、途中、稲田や放し飼いの山羊さんを眺めながら、浜に。わたくしは、ここで泳ぐ気もないし、潜るわけでもない。バスを降りると、浜とは逆方向へと、歩いた。幸い、泊埠頭(とまりん)の売店でつばつきの帽子を買っておいたので、強い陽射しをなんとか凌ぐことができたけれども、やはり、暑いのは仕方がない。数分で、お目当ての場所にたどり着いた。それが、「まめや」さんである。これが、三度目になる。
最初は05年の8月だった。⇒拙ブロ;泊・時間(那覇周辺訪問雑記NO4)05年8月25日付
二度目は翌月に⇒拙ブロ;空白(那覇周辺印象雑記)05年9月22日付
顚末は長く書かないけれども、結局、「まめや」さんのおとうふは食べることができていない。極端にいえばである、まめやさんは今回の琉球訪問の忘れ物の中でも一頭、地を抜いている。
[閉まったままの”まめや”さん]

三度目の正直はなかった、その、かわりに、二度あることは三度目があった、ということであろう。
こういうのをなんと表現すればよいのだろうか。要するに、わたくしの堕落しなさということである。事前に、琉球を訪ねる前に検めておけば良いことである。渡嘉敷島 まめや、で検索すれば、以下のようなご案内が最初に出てくる。その作業を「前」にしておけばということだけ、のことである。
《まめやさん神楽坂に》
10日ほど前(現在時点から)に所用で出かけた駅近くにある伊勢丹で、今年も「めんそ〜れ大沖縄展」が催されていて、もちろん、覘いた。まめやさんの看板を探したけれども、そこにはいらっしゃらず、別のお豆腐屋さんが出店されていた。申し訳ないけれども、そのお店は素通りして、別のお店にて、亀の甲せんべいのジュニア版を購入してきた。子亀は初めてであるが、親亀の方は、那覇で食べていて、その味が、やきそば同様に塩味が好きな、わたくしを、塩世界(マースぬシケー;合っているかどうかは分からない)へと曳きこんでくれた。
[子亀]

まめやさんは、沖縄県立博物館(拙ブロ;琉球留記 粗畴討任遼困貶をとりに、07年7月13日付)とともに、もう、とり(戻し)にいけなくなったけれども、そのかわり、見っけもん(神楽坂)があって、近々、訪ねてみたいと思っている。
阿波連を発ち、港から泊埠頭(とまりん)まで。以前もそうであったけれども、お馴染みさん(往きの船も同じ、日帰り客の方という程度であるが)とともに、那覇に戻り、タクシー待ちの列を横目に、牧志まで歩いた。わたくしは、極度の方向音痴であるので、安里川に身を任せた。途中、久茂地川(下流で国場川に合流する)にぶつかる辺りで、ほぼ行くべき場所が分かり、国際通りに出ると、テンブス館前の広場では、ナハ(7・8)の日に関連した催事が行なわれていて、周りには人もおおぜい出っ張っており、その向こうから心地よい琉球の音が流れてきた。まだ、明るい那覇の空を見上げながら、ひょっとして、と思い、宿を通り過ぎ、山羊料理屋さんの看板の灯りが点いていることを、嬉しく思いながら、お邪魔した。
「今日は、那覇の日だから、開けなくてはねぇ」
と、女将さんのお元気な声に迎えられた。
阿波連のまめやさんは一頭の忘れ物になってしまったけれども、那覇の山羊料理屋さんは、忘れ物とは異なる、多くの(ご迷惑な)預け物を残したままの存在として、また、取りにうかがいたいと、残る三晩(8〜10日)も預けるだけ預けてこようと、この夜も、ゆったりとした時間を過ごさせていただいた。
最初は05年の8月だった。⇒拙ブロ;泊・時間(那覇周辺訪問雑記NO4)05年8月25日付
二度目は翌月に⇒拙ブロ;空白(那覇周辺印象雑記)05年9月22日付
顚末は長く書かないけれども、結局、「まめや」さんのおとうふは食べることができていない。極端にいえばである、まめやさんは今回の琉球訪問の忘れ物の中でも一頭、地を抜いている。
[閉まったままの”まめや”さん]

三度目の正直はなかった、その、かわりに、二度あることは三度目があった、ということであろう。
こういうのをなんと表現すればよいのだろうか。要するに、わたくしの堕落しなさということである。事前に、琉球を訪ねる前に検めておけば良いことである。渡嘉敷島 まめや、で検索すれば、以下のようなご案内が最初に出てくる。その作業を「前」にしておけばということだけ、のことである。
《まめやさん神楽坂に》
10日ほど前(現在時点から)に所用で出かけた駅近くにある伊勢丹で、今年も「めんそ〜れ大沖縄展」が催されていて、もちろん、覘いた。まめやさんの看板を探したけれども、そこにはいらっしゃらず、別のお豆腐屋さんが出店されていた。申し訳ないけれども、そのお店は素通りして、別のお店にて、亀の甲せんべいのジュニア版を購入してきた。子亀は初めてであるが、親亀の方は、那覇で食べていて、その味が、やきそば同様に塩味が好きな、わたくしを、塩世界(マースぬシケー;合っているかどうかは分からない)へと曳きこんでくれた。
[子亀]

まめやさんは、沖縄県立博物館(拙ブロ;琉球留記 粗畴討任遼困貶をとりに、07年7月13日付)とともに、もう、とり(戻し)にいけなくなったけれども、そのかわり、見っけもん(神楽坂)があって、近々、訪ねてみたいと思っている。
阿波連を発ち、港から泊埠頭(とまりん)まで。以前もそうであったけれども、お馴染みさん(往きの船も同じ、日帰り客の方という程度であるが)とともに、那覇に戻り、タクシー待ちの列を横目に、牧志まで歩いた。わたくしは、極度の方向音痴であるので、安里川に身を任せた。途中、久茂地川(下流で国場川に合流する)にぶつかる辺りで、ほぼ行くべき場所が分かり、国際通りに出ると、テンブス館前の広場では、ナハ(7・8)の日に関連した催事が行なわれていて、周りには人もおおぜい出っ張っており、その向こうから心地よい琉球の音が流れてきた。まだ、明るい那覇の空を見上げながら、ひょっとして、と思い、宿を通り過ぎ、山羊料理屋さんの看板の灯りが点いていることを、嬉しく思いながら、お邪魔した。
「今日は、那覇の日だから、開けなくてはねぇ」
と、女将さんのお元気な声に迎えられた。
阿波連のまめやさんは一頭の忘れ物になってしまったけれども、那覇の山羊料理屋さんは、忘れ物とは異なる、多くの(ご迷惑な)預け物を残したままの存在として、また、取りにうかがいたいと、残る三晩(8〜10日)も預けるだけ預けてこようと、この夜も、ゆったりとした時間を過ごさせていただいた。
2007.08.21
即席やきそば〜醤油味
少し、古い情報になってしまうけれども、第2回B−1グランプリの大会が6月2・3日と静岡県富士宮市で行なわれて、2年連続で、「富士宮のやきそば」が栄冠を勝ちとった。《第二回B−1グランプリin富士宮 投票結果最終発表》全体に、初出場組が健闘していて、ご当地ということもあってだろうか、静岡県勢が上位に。来年は久留米市での開催が予定されている。九州勢の参加が期待される。今回21品が出ているが、富士宮を筆頭に3品が「やきそば」であった。ほかに横手(秋田県)、上州太田(群馬県)で、また、焼きうどん(北九州市・小倉)も親戚のような品であるかもしれない。
わたくしも、「やきそば」が大好きで、特に、即席の安っぽい(メーカーには失礼だけれども)のが好きである。もともと、ソース味が好きでないのに、なぜか、即席やきそばはOKであるという、まあ、どうせ、いい加減な味覚ということである。数年前、即席塩やきそばはないものかと、悩んでいたところ、知人が教えてくれたのは、兄弟筋に当たる即席塩ラーメンをやきそば同様に調理して、最後に、スープを1/3程度、加えるという方法である。試したところ、立派な即席塩やきそばになった。(スープの加減はお好みで)もちろん、やきビーフン、そ〜めんちゃんぷ〜るも大好きである。(たくさん食べることはできないけれども)
そのようなわけで(即席のやきそばが大好きなので)、ソース味ではあるけれども、即席やきそばは常備している。ただ、お店などでは、ほとんど頼まない。あのソースの香、味がやはりだめなのであろうか、当然ながら、お好み焼きについても、ねぎ焼き(これは醤油味が多いから)以外は、醤油味へと強制的に修正して、食べている。(自分で焼く場合が多い東京風は自分で調製できるけれど、大阪で食べる時は、上記、醤油味のねぎ焼きを頼むことが多くなってしまうし、ねぎ焼きがないお店では醤油をこっそりと、たっぷりとかけている。ちなみにトンカツ、串揚げ系も醤油味、または、何もかけないで食べる味覚音痴である〜方向音痴でもある)
醤油味とはいえないかもしれないけれども、中華屋さんの堅やきそば、あるいは、長崎の皿うどん(堅)も好きである。どちらかというと、具(あんかけ)のぬるぬる感を麺(そば)に伝染させることが嫌いで、具は具として、麺は麺として、堅いままで、しゃきっとした状態で食べたい方である。(単なる、ワガママ)ただし、年々、歯の具合が悪くなり、近頃では、うっかりして、針のような(しゃきっとした)堅やきそばを歯茎に刺してしまうこともあり、食べる際も、慎重にならざるを得ないのが、寂しい。
本題は、即席の醤油味やきそばについてである。
日清チキンラーメンのやきそばバージョンが先月の17日に発売された。(日清食品蠅離螢蝓璽)そのほぼ1か月後にあたる8月17日に「本日の目玉商品」として、売られていた5個入りパックを購入してきた。
[焼きチキン]

早速、食べてみた。断っておくけれども、わたくしは、チキンラーメンは好きではない。したがって、焼きチキンを作る間、期待より不安の方が大きく、調理例には最初に卵を溶いて(スクランブルエッグ)と書いてあるのも心の動揺を増長させた。(卵もなかったし、第一、即席やきそばに具は必要がないと考えているので)できあがりは、以下(↓)の写真。
[調理後]※紅しょうがは、わたくしが即席やきそばを食べる時にと、常備しているモノ。

チキンラーメンを作っていることを忘れて、すっかり、スープが干上がった鍋をみて、それでも、他に食べるものがないので、(鍋に)焦げつきかかった麺を削ぎ落としながら、まんま食べた、と書けばよいのであろうか、そういうような味であり、おそらく、商品化のきっかけもそんなところなのであろうか。ただし、もともとチキンラーメンは醤油味系(焼きチキンには隠し味としてオイスターソースが入っているそうである)ではあるので、即席やきそばとしては、合格(わたくし的には)である。あれこれ、サイトをみていると、「ホンコンやきそば」(ヱスビー食品)がこの先駆けのようであるが、わたくしは、食べていないので、何とも書けないし、どうも、醤油味ではないというので、躊躇もしているが、一度は、食べてみようかなと、逡巡もしている。
近頃、お気に入りの「アラビヤン焼きそば」は、ソースが粉末であるのが嬉しい。液体はどうしても、全てを取り出せない=袋に付着する確率が高いので・・・わたくしが、単にせこいだけである。何故、アラブかということも含めて、只今のところ、他の即席やきそばは買っていない。

これも(↓)常備、塩ラーメンである。今、あるのは、みづらいけれども、「夏限定」というキャッチに惹かれて、ずいぶん前に購入した。未だ食べていないが、(やきそばとして、無理やり調製した場合)脳内想像では、やきそばというよりも、パスタに近い食感かもしれない。

やきそばに関するサイトを色々と検索したけれども、「即席・やきそば・醤油味」というのは中々見つからない。おそらく、もっと、真摯に探せば、あるのであろうが、もちろん、そういう気は、わたくしに一切ないけれども、やきそばや塩ラーメンに追いやられて、ひっそりと存在している醤油味のラーメンをみていると、ああ、これが(即席)醤油味やきそばになる、と、思わぬ発見をし、スープの量はどの程度が良いのかなぁ、と、考えている最中である。結果は、いずれ、また、ご報告したいと思う。
(参考拙ブロ)
味噌(07年4月26日付)※B−1グランプリなどについて
わたくしも、「やきそば」が大好きで、特に、即席の安っぽい(メーカーには失礼だけれども)のが好きである。もともと、ソース味が好きでないのに、なぜか、即席やきそばはOKであるという、まあ、どうせ、いい加減な味覚ということである。数年前、即席塩やきそばはないものかと、悩んでいたところ、知人が教えてくれたのは、兄弟筋に当たる即席塩ラーメンをやきそば同様に調理して、最後に、スープを1/3程度、加えるという方法である。試したところ、立派な即席塩やきそばになった。(スープの加減はお好みで)もちろん、やきビーフン、そ〜めんちゃんぷ〜るも大好きである。(たくさん食べることはできないけれども)
そのようなわけで(即席のやきそばが大好きなので)、ソース味ではあるけれども、即席やきそばは常備している。ただ、お店などでは、ほとんど頼まない。あのソースの香、味がやはりだめなのであろうか、当然ながら、お好み焼きについても、ねぎ焼き(これは醤油味が多いから)以外は、醤油味へと強制的に修正して、食べている。(自分で焼く場合が多い東京風は自分で調製できるけれど、大阪で食べる時は、上記、醤油味のねぎ焼きを頼むことが多くなってしまうし、ねぎ焼きがないお店では醤油をこっそりと、たっぷりとかけている。ちなみにトンカツ、串揚げ系も醤油味、または、何もかけないで食べる味覚音痴である〜方向音痴でもある)
醤油味とはいえないかもしれないけれども、中華屋さんの堅やきそば、あるいは、長崎の皿うどん(堅)も好きである。どちらかというと、具(あんかけ)のぬるぬる感を麺(そば)に伝染させることが嫌いで、具は具として、麺は麺として、堅いままで、しゃきっとした状態で食べたい方である。(単なる、ワガママ)ただし、年々、歯の具合が悪くなり、近頃では、うっかりして、針のような(しゃきっとした)堅やきそばを歯茎に刺してしまうこともあり、食べる際も、慎重にならざるを得ないのが、寂しい。
本題は、即席の醤油味やきそばについてである。
日清チキンラーメンのやきそばバージョンが先月の17日に発売された。(日清食品蠅離螢蝓璽)そのほぼ1か月後にあたる8月17日に「本日の目玉商品」として、売られていた5個入りパックを購入してきた。
[焼きチキン]

早速、食べてみた。断っておくけれども、わたくしは、チキンラーメンは好きではない。したがって、焼きチキンを作る間、期待より不安の方が大きく、調理例には最初に卵を溶いて(スクランブルエッグ)と書いてあるのも心の動揺を増長させた。(卵もなかったし、第一、即席やきそばに具は必要がないと考えているので)できあがりは、以下(↓)の写真。
[調理後]※紅しょうがは、わたくしが即席やきそばを食べる時にと、常備しているモノ。

チキンラーメンを作っていることを忘れて、すっかり、スープが干上がった鍋をみて、それでも、他に食べるものがないので、(鍋に)焦げつきかかった麺を削ぎ落としながら、まんま食べた、と書けばよいのであろうか、そういうような味であり、おそらく、商品化のきっかけもそんなところなのであろうか。ただし、もともとチキンラーメンは醤油味系(焼きチキンには隠し味としてオイスターソースが入っているそうである)ではあるので、即席やきそばとしては、合格(わたくし的には)である。あれこれ、サイトをみていると、「ホンコンやきそば」(ヱスビー食品)がこの先駆けのようであるが、わたくしは、食べていないので、何とも書けないし、どうも、醤油味ではないというので、躊躇もしているが、一度は、食べてみようかなと、逡巡もしている。
近頃、お気に入りの「アラビヤン焼きそば」は、ソースが粉末であるのが嬉しい。液体はどうしても、全てを取り出せない=袋に付着する確率が高いので・・・わたくしが、単にせこいだけである。何故、アラブかということも含めて、只今のところ、他の即席やきそばは買っていない。

これも(↓)常備、塩ラーメンである。今、あるのは、みづらいけれども、「夏限定」というキャッチに惹かれて、ずいぶん前に購入した。未だ食べていないが、(やきそばとして、無理やり調製した場合)脳内想像では、やきそばというよりも、パスタに近い食感かもしれない。

やきそばに関するサイトを色々と検索したけれども、「即席・やきそば・醤油味」というのは中々見つからない。おそらく、もっと、真摯に探せば、あるのであろうが、もちろん、そういう気は、わたくしに一切ないけれども、やきそばや塩ラーメンに追いやられて、ひっそりと存在している醤油味のラーメンをみていると、ああ、これが(即席)醤油味やきそばになる、と、思わぬ発見をし、スープの量はどの程度が良いのかなぁ、と、考えている最中である。結果は、いずれ、また、ご報告したいと思う。
(参考拙ブロ)
味噌(07年4月26日付)※B−1グランプリなどについて
2007.08.18
琉球留記ε譽▲献△摑みかけた男〜勝連城「痕」
琉球は広い、そう思いながらのバスでの往復である。牧志の市外線バス停を10時過ぎに発ち、勝連(かつれん)城(グスク)跡に近い西原停に着いたのが、もう昼前後であった。やはり、暑い日であった。近くに営業中のお店があって、ジンギスカンとある。中には先客があって、ラム肉入りそばを食べていらした。わたくしには、少し重そうなので、ミニそばとオリオンビールを頂き、お城めぐりに備えた。
一度、琉球の歴史をざらっと、おさらいしてみる。舜天王統時代からでよいだろうか。舜天(しゅんてん)王即位は1187年、英祖(えいそ)王統(1260年〜)を経て、察度・武寧の察度(さっと)王朝が中山王を名乗り、中国(明)より冊封を受けている。「拙ブロ、琉球留記⊆洩庄(07年7月16日付)」
ところで、現在、世界遺産に登録されているグスク(城)群 (今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡、首里城跡)はごく一部であり、11世紀には各地にグスクが築城され、あいまいな形ではあったものの、国(領地)という概念がすでにあって、のちに本土で言えば豪族に当たるのであろうか、按司(あじ)たちが、勢力を競い合うようになって、より明確な領主の居城(砦)という存在になった。ただし、一律にそうとも言えないようである。第一、グスク=城というのも便宜的なことであり、本土の城ともどこか異なる。もちろん、単なる一般の住居でないことは違いないのであろう。むしろ、神の拠所(御嶽:ウタキ)との関連性が強い、そういう気もする。
按司の闘いは13〜14世紀ごろには三山時代といわれる北山、中山、南山にほぼ統一される。佐敷の按司であった尚思紹(しょう・ししょう)、巴志(はし)親子は南山の大里王統を攻めるが、目的はそこにはなく、中山王統にあった。1406年、武寧を倒した尚氏は中山王を名乗り、16年に北山、29年に南山を落とし、琉球の統一を「ほぼ」果たした。(第一尚王統の誕生)組織であらわせば、国王がいて、そのもとに按司が仕えるという図式になったのであろうか。第二尚王統(1470年〜)になって、按司は浦添から遷都された首里(首里城の原型は以前からあったが、遷都は1406年以降との説がある)に集められることになるが、それ以前は、まだ、地方では按司が力をもっていたことになる。
勝連グスクの話である。ほぼ全土を統一した第一尚氏は以降7代続くが、6代目泰久(たいきゅう)の時代に一人の人物(按司)がいた。それが、東アジアを摑みかけた男、勝連グスクの第10代按司「阿麻和利(あまわり)」である。10代といっても世継ぎではなく、茂知附按司(もちづき・あじ)を襲って、襲った(あとをひき継いだ)。彼については、詳しいことはよく分からない。沖縄コンパクト事典(琉球新報社編)によると、北谷(ちゃたん)間切屋良村(註:現在の嘉手納町屋良付近か?間切は、現在でいう市町村単位の呼称)の農家に生まれたという口伝があると書かれている。嘉手納は1948年に基地のために、北谷から分村した町(間切)である。勝連行きのバスからみると、コザ市街地にさしかかった頃に広大な(約20k屐嘉手納町に占める比率は8割)嘉手納空軍基地を隔てた向こう側にある。みると、といっても、もちろん見えない。阿麻和利は何を思って、西海岸に近い嘉手納を出て、東海岸に突き出る勝連(与勝)半島へ向かったのであろうか。
[勝連グスク跡]

勝連城跡休憩所といって、グスクの麓、道路を挟んだ反対側にある市の施設で、観光ボランティアの方たちが詰めていて、団体客や希望される観光客に案内をしているらしい。グスクを下り、ここに涼を求めて、入ったときに、ちょうど、お役目があったらしく、一人の初老の方がハンドマイク片手に外へ出られた。他のボランティアの方が、今日のはちょっと大きいので、重いかもしれませんと渡したマイクは確かにラッパみたいに立派ななりで、グスクを去り、バス停(着時刻まで時間があったので、1停飛ばして、先の照間で歩いてみた)に向かう際、風に流されて、仔細は聞こえなかったものの、たいていのことが、鳴り響いて、聴こえてきた。
同所で頂いた小冊子(うるま市教育委員会)には、阿麻和利は小さい頃、病弱で、山に捨てられたとある。(労力としての役割ができなかったからか?)であれば、屋良には戻らないであろう、また、悲しいあるいは辛い想いのある西に行くより、何も知らないけれど、それゆえ夢がありそうな東へと向かったのであろう。琉球(首里・那覇)では東をアガリ、西をイリというそうである。(ニシは北、南はフェー)そこらへんにも、アマワリの気概が感じられる。実際、勝連は前にも増して栄えた(アガった)。
『おもろさうし』は琉球における最初の歌謡集である。中に、阿麻和利および勝連グスクに関する謡いも収録されていて、「沖縄通信2005年4月号」より引用すると、
《勝連の阿麻和利、十百歳(とひゃくさ)、ちよわれ(千年もこの勝連を治めよ)・・・》
《勝連わ、何(なお)にぎや、たとゑる、大和の、鎌倉に、たとゑる》
などがある。
前者は、「若くして勝連の按司となった阿麻和利は、人々から慕われた・・・」(前出、小冊子より)を裏づけているようだし、その繁栄ぶりが後者によって謳われている。
尚氏にとっては当然ながら、畏怖となる。護佐丸(ごさまる)といって、阿麻和利を鏡で映した向こう側に居るような男がいた。巴志らとともに北山を攻め、討つなど、王統に随(したが)った有力な按司であったが、1458年、泰久王の命によって、中城湾という鏡面を隔てて、勝連グスクと対峙した中グスクに構えていた護佐丸を阿麻和利が討つ事件は琉球史上でも有名なお話である。一方、王は娘を阿麻和利に嫁がせてもいる。百十(百度)踏揚(むむ[もも]とふみあがり)である。少し、急ぐが、護佐丸を制した阿麻和利は首里(王府)を攻めようとするのだが、踏揚と旧来からの彼女のお付き(恋人という説もあり、こちらの方が話は膨らんでいくのであろう)である鬼大城[うにうふぐすく)、または大城賢雄(うふぐすく・けんゆう)]の報せにより、叛乱を察知した王は鬼大城を阿麻和利に向けて、彼を討ちとった(1458年)。これによって、第一尚王統は安寧を得たともいえるが、阿麻和利という強力なレジスタンス(護佐丸もそれに近いとも考えることができよう)があらわれ、その対応に迫られていたということから思えば、すでに、王統としての求心力が弱まっていたのであろう。12年後(1470年)に、第二尚王統にその席を譲っている。百十踏揚は鬼大城と再婚するが、夫は第二王統派により斃れ、彼女自身は失意の余生を送った(らしい)。
踏揚を考えていると、督姫に想いがいく。徳川家康の次女として生まれた督姫は当時、織田信長の死後で混乱している世の駆け引きの渦に巻き込まれ、敵対関係にあった北条氏直に嫁がされる。しかし、秀吉の小田原攻めにより、氏直は助命されるも、追放されるけれども、家康の娘婿ということでもあり、大名として復活する。ただし、急逝、督姫は池田輝政と再婚する。単純に図式化すれば、
^に穗騨=氏直⇔[踏揚=督姫]⇔鬼大城=輝政
ということでしかない。
もし(IF)はない、が歴史というけれども、もし、氏直が生き延びていれば、国持大名として、北条氏の復活がなったともいわれている。あるいは、もし、第一尚王統が永らえていれば鬼大城は。そして、百十踏揚、督姫は・・・。
おもろさうしに勝連グスクは「大和の、鎌倉に、たとゑる」とある、鎌倉時代に栄えた北条氏と氏直の北条氏とは別のものであるけれども、どこかでつながっているのであろうか。
勝連グスクを訪ねたけれども、暑かったけれども、中グスクと対峙できる一の曲輪に立つと、阿麻和利が、東アジアを摑みとれそうな気分を味わえた。そして、阿麻和利の無念の想いが、今でも、あちこちに、生々しく傷痕として、残っている、そう感じながら、址を後にした。
[参考]
琉球大学附属図書館所蔵「伊波普猷(いは・ふゆう)文庫目録」より『おもろさうし 巻十五〜廿(仲吉朝助本)』を眺めながら、それに該当する二つの節をみている。いずれも巻十六「勝連具志川 おもろの御さうし』(天啓三年三月七日)にあって、《勝連の阿麻和利、十百歳(とひゃくさ)、ちよわれ(千年もこの勝連を治めよ)・・・》は(「三」)、《勝連わ、何(なお)にぎや、たとゑる、大和の、鎌倉に、たとゑる》は(「十八」)である。他の巻も眺めていて、ちょっと、思ったこともあるが、それは、別の機会にまた。
今回はやはり、疲れた。次回の琉球留記は、少し、リゾートしてみたい。
[リゾートしてみました]

一度、琉球の歴史をざらっと、おさらいしてみる。舜天王統時代からでよいだろうか。舜天(しゅんてん)王即位は1187年、英祖(えいそ)王統(1260年〜)を経て、察度・武寧の察度(さっと)王朝が中山王を名乗り、中国(明)より冊封を受けている。「拙ブロ、琉球留記⊆洩庄(07年7月16日付)」
ところで、現在、世界遺産に登録されているグスク(城)群 (今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡、首里城跡)はごく一部であり、11世紀には各地にグスクが築城され、あいまいな形ではあったものの、国(領地)という概念がすでにあって、のちに本土で言えば豪族に当たるのであろうか、按司(あじ)たちが、勢力を競い合うようになって、より明確な領主の居城(砦)という存在になった。ただし、一律にそうとも言えないようである。第一、グスク=城というのも便宜的なことであり、本土の城ともどこか異なる。もちろん、単なる一般の住居でないことは違いないのであろう。むしろ、神の拠所(御嶽:ウタキ)との関連性が強い、そういう気もする。
按司の闘いは13〜14世紀ごろには三山時代といわれる北山、中山、南山にほぼ統一される。佐敷の按司であった尚思紹(しょう・ししょう)、巴志(はし)親子は南山の大里王統を攻めるが、目的はそこにはなく、中山王統にあった。1406年、武寧を倒した尚氏は中山王を名乗り、16年に北山、29年に南山を落とし、琉球の統一を「ほぼ」果たした。(第一尚王統の誕生)組織であらわせば、国王がいて、そのもとに按司が仕えるという図式になったのであろうか。第二尚王統(1470年〜)になって、按司は浦添から遷都された首里(首里城の原型は以前からあったが、遷都は1406年以降との説がある)に集められることになるが、それ以前は、まだ、地方では按司が力をもっていたことになる。
勝連グスクの話である。ほぼ全土を統一した第一尚氏は以降7代続くが、6代目泰久(たいきゅう)の時代に一人の人物(按司)がいた。それが、東アジアを摑みかけた男、勝連グスクの第10代按司「阿麻和利(あまわり)」である。10代といっても世継ぎではなく、茂知附按司(もちづき・あじ)を襲って、襲った(あとをひき継いだ)。彼については、詳しいことはよく分からない。沖縄コンパクト事典(琉球新報社編)によると、北谷(ちゃたん)間切屋良村(註:現在の嘉手納町屋良付近か?間切は、現在でいう市町村単位の呼称)の農家に生まれたという口伝があると書かれている。嘉手納は1948年に基地のために、北谷から分村した町(間切)である。勝連行きのバスからみると、コザ市街地にさしかかった頃に広大な(約20k屐嘉手納町に占める比率は8割)嘉手納空軍基地を隔てた向こう側にある。みると、といっても、もちろん見えない。阿麻和利は何を思って、西海岸に近い嘉手納を出て、東海岸に突き出る勝連(与勝)半島へ向かったのであろうか。
[勝連グスク跡]

勝連城跡休憩所といって、グスクの麓、道路を挟んだ反対側にある市の施設で、観光ボランティアの方たちが詰めていて、団体客や希望される観光客に案内をしているらしい。グスクを下り、ここに涼を求めて、入ったときに、ちょうど、お役目があったらしく、一人の初老の方がハンドマイク片手に外へ出られた。他のボランティアの方が、今日のはちょっと大きいので、重いかもしれませんと渡したマイクは確かにラッパみたいに立派ななりで、グスクを去り、バス停(着時刻まで時間があったので、1停飛ばして、先の照間で歩いてみた)に向かう際、風に流されて、仔細は聞こえなかったものの、たいていのことが、鳴り響いて、聴こえてきた。
同所で頂いた小冊子(うるま市教育委員会)には、阿麻和利は小さい頃、病弱で、山に捨てられたとある。(労力としての役割ができなかったからか?)であれば、屋良には戻らないであろう、また、悲しいあるいは辛い想いのある西に行くより、何も知らないけれど、それゆえ夢がありそうな東へと向かったのであろう。琉球(首里・那覇)では東をアガリ、西をイリというそうである。(ニシは北、南はフェー)そこらへんにも、アマワリの気概が感じられる。実際、勝連は前にも増して栄えた(アガった)。
『おもろさうし』は琉球における最初の歌謡集である。中に、阿麻和利および勝連グスクに関する謡いも収録されていて、「沖縄通信2005年4月号」より引用すると、
《勝連の阿麻和利、十百歳(とひゃくさ)、ちよわれ(千年もこの勝連を治めよ)・・・》
《勝連わ、何(なお)にぎや、たとゑる、大和の、鎌倉に、たとゑる》
などがある。
前者は、「若くして勝連の按司となった阿麻和利は、人々から慕われた・・・」(前出、小冊子より)を裏づけているようだし、その繁栄ぶりが後者によって謳われている。
尚氏にとっては当然ながら、畏怖となる。護佐丸(ごさまる)といって、阿麻和利を鏡で映した向こう側に居るような男がいた。巴志らとともに北山を攻め、討つなど、王統に随(したが)った有力な按司であったが、1458年、泰久王の命によって、中城湾という鏡面を隔てて、勝連グスクと対峙した中グスクに構えていた護佐丸を阿麻和利が討つ事件は琉球史上でも有名なお話である。一方、王は娘を阿麻和利に嫁がせてもいる。百十(百度)踏揚(むむ[もも]とふみあがり)である。少し、急ぐが、護佐丸を制した阿麻和利は首里(王府)を攻めようとするのだが、踏揚と旧来からの彼女のお付き(恋人という説もあり、こちらの方が話は膨らんでいくのであろう)である鬼大城[うにうふぐすく)、または大城賢雄(うふぐすく・けんゆう)]の報せにより、叛乱を察知した王は鬼大城を阿麻和利に向けて、彼を討ちとった(1458年)。これによって、第一尚王統は安寧を得たともいえるが、阿麻和利という強力なレジスタンス(護佐丸もそれに近いとも考えることができよう)があらわれ、その対応に迫られていたということから思えば、すでに、王統としての求心力が弱まっていたのであろう。12年後(1470年)に、第二尚王統にその席を譲っている。百十踏揚は鬼大城と再婚するが、夫は第二王統派により斃れ、彼女自身は失意の余生を送った(らしい)。
踏揚を考えていると、督姫に想いがいく。徳川家康の次女として生まれた督姫は当時、織田信長の死後で混乱している世の駆け引きの渦に巻き込まれ、敵対関係にあった北条氏直に嫁がされる。しかし、秀吉の小田原攻めにより、氏直は助命されるも、追放されるけれども、家康の娘婿ということでもあり、大名として復活する。ただし、急逝、督姫は池田輝政と再婚する。単純に図式化すれば、
^に穗騨=氏直⇔[踏揚=督姫]⇔鬼大城=輝政
ということでしかない。
もし(IF)はない、が歴史というけれども、もし、氏直が生き延びていれば、国持大名として、北条氏の復活がなったともいわれている。あるいは、もし、第一尚王統が永らえていれば鬼大城は。そして、百十踏揚、督姫は・・・。
おもろさうしに勝連グスクは「大和の、鎌倉に、たとゑる」とある、鎌倉時代に栄えた北条氏と氏直の北条氏とは別のものであるけれども、どこかでつながっているのであろうか。
勝連グスクを訪ねたけれども、暑かったけれども、中グスクと対峙できる一の曲輪に立つと、阿麻和利が、東アジアを摑みとれそうな気分を味わえた。そして、阿麻和利の無念の想いが、今でも、あちこちに、生々しく傷痕として、残っている、そう感じながら、址を後にした。
[参考]
琉球大学附属図書館所蔵「伊波普猷(いは・ふゆう)文庫目録」より『おもろさうし 巻十五〜廿(仲吉朝助本)』を眺めながら、それに該当する二つの節をみている。いずれも巻十六「勝連具志川 おもろの御さうし』(天啓三年三月七日)にあって、《勝連の阿麻和利、十百歳(とひゃくさ)、ちよわれ(千年もこの勝連を治めよ)・・・》は(「三」)、《勝連わ、何(なお)にぎや、たとゑる、大和の、鎌倉に、たとゑる》は(「十八」)である。他の巻も眺めていて、ちょっと、思ったこともあるが、それは、別の機会にまた。
今回はやはり、疲れた。次回の琉球留記は、少し、リゾートしてみたい。
[リゾートしてみました]

2007.08.17
琉球留記ノ圧紊織りなす
前回(8月11日)の続きである。最初に、訂正を。御人柱に関わることで、海津町の「若宮さま」について書いたけれども、正しくは、海津市の、であり、町ということに、こだわれば、(合併前の)旧平田町勝賀地区に伝わるお話であった。
(お詫びに(..))海津市のHPから治水のあしあとを掲載する。その中にある治水神社には宝暦治水といわれる大規模な工事にかかわり、多くの犠牲者を出した薩摩藩士を祀っている。当時の総指揮(総奉行)を担っていたのが同藩家老の平田靱負(ひらた ゆきえ)(鹿児島県港湾・空港整備事務所サイトより)である。1955(昭和30)年のいわゆる昭和の大合併時に、旧今尾町と旧海西村が合わさる際、彼の名をとって、平田町としたという説もある。毎年8月10日に開かれる「大池まつり」は人柱となった庄屋の佐平治(あるいは左平次)さんに感謝するものでもある。
さて、本日(7月6日)より再開した那覇市歴史博物館を訪ねたことについてである。1周年記念展は那覇士族『貝氏』(ばいうじ)の系統にある福地家所蔵の衣裳などがきらびやかに飾られていた。(7月6日〜9月17日「おしゃれ・モダン 王国の技〜那覇士族『貝氏』福地家伝世品」)
同館の主幹・学芸員である宮里正子氏が琉球新報に載せられた原稿がある。『時を越えて伝えるもの』(新報07年8月4日付)少し、引用させていただくと、
《那覇士族として最高の役職「御物(おもの)城(ぐすく)」に2人も就いた、富裕な福地家に大事に保管されていた、最高の技術で製作された紅型や絣(かすり)織りの衣装などである。》
とある。
那覇士族とは、首里、久米、泊とともに、かつて存在した富裕な(宮里氏の表現による)層であり、当然ながら、普通の民と異なる暮らしぶりがあったが、《福地家の人々の沖縄文化への熱い思いによって、戦中戦後の困難な時代も守られてきた品々》(宮里氏)であることが、わたくしどもと異なるのかもしれない。たいへん、大雑把にいうと、本土では、地方へ行けばいくほど、そのような希少な品が残っている確率が高い。ひとつには、前の戦時下で、暮らしに困った都市生活者(当時の)が衣服や身の回り品を米や野菜と換えたという事情(買い出し)がある。また、いわゆる空襲(たむ・たむページより)は軍需工場・施設の所在する都市近辺に集中したためという背景もある。(もっとも、都市への空襲は次第に軍需との関係が稀薄になり、むしろ人家の密集する地域へと繰り返され、特に東京市街地へ頻繁に落とされるようになった)もちろん、例外はあるけれども、以上のようなことから、結果として、希少品は都市から地方へと移動(疎開)するか、都市においては消失した。会津若松に何度か行っていた頃、民家の蔵が開けられて、所蔵(収納)している品々が盗まれるという事件が頻繁にあった。若松城(鶴ヶ城)は1965(昭和40)年に復元・再建されているが、1874(明治7)年に政府により廃城・取り壊しされたためであり、若松には空襲はなかった。したがって、この街の蔵内には希少品が残っていたのであろう。(若松(鶴ヶ)城の歴史)(会津若松観光公社)
琉球の場合、全土が空襲、陸襲である、希少品が残っていること自体、稀少ということかもしれない。歴史博物館の「衣裳たち」はそういう事情をくぐり抜けて、今がある。
福地家の祖先が仕えていたという御物城については「那覇港内の小島(現在は那覇軍港)にあった王府の倉庫。海外との貿易品などを収めた。十五世紀中期ごろから史料に見える。長官は鎖之側(註:さすのそば、言頭に「御」を冠して、おさすのそば、とも記す)。海外貿易の衰退により十八世紀初期にはすでに廃されていた。」(沖縄コンパクト事典:琉球新報社編)とあり、電子地図及びグルグルアースで確認すると、那覇軍港(米軍基地内)の先端にその名残りがある。もちろん、中に入ることはできない。福地家のご先祖も、おそらく、そこに仕えていたのであろう、那覇からなので、そう遠くない通勤であったに違いないけれども、当時は小さいといえども、島であったから、もしかしたら、仮宿舎などもあったのであろうか。
「300年前の那覇」というサイト(沖縄県立図書館収蔵)が見つかった。現在の那覇市の大半が海であり、前日(5日)訪れた奥武山公園辺りもそう(海の中)である。だから、くじら公園(子供の遊び場)なのだろうか?余談であるけれども慶良間諸島では冬の間クジラ見物ができるということで、夏とは異なった趣きの海があるようである。
♯♯♯♯♯♯♯♯♯♯♯♯♯♯♯♯♯♯♯♯♯♯♯♯♯♯
1年半前に訪ねた際には、「包む」が、わたくしの心のかなりの部分を占めていた。泡盛および抱瓶(ダチビン)という二品からの単純な発想でしかないけれど、そのことは、只今でも変わることはない。さらに、今回は「織」が加わったような気もする。わたくしには博物館の衣裳も含め、織物については何も分からない。ただし、織物がタテとヨコの交互の組み合わせによる成形物であることは何かで知っていた。時間というタテと空間というヨコを織れば宇宙になるのであろうか。人と自然を縦横に織れば破壊になるのであろうか。そして、人と人とでは、憎悪、愛情、そして、戦争という織物が成形されるのであろうか。
わたくし的な身勝手な想いであり、そう書くと、おそらく、琉球の方から、(神をおろそかにしていると)お叱りを受けるかもしれないが、琉球というのは、人と神の織りなす世界であると考えている。双者によって形成(かたちづく)られた織物は誰の目にも美しく、誰をもが心を魅入られるような神聖さを備えていたのであろう。それが、琉球の姿である。ただし、その美を欲しがる誰か(わたくしども)が、神聖さ及び琉球の民の心を踏み躙(にじ)って、奪い合っているということも、先に書いた人と人の形成という撚糸の渦に(望んでいないにもかかわらず)巻き込まれているという事実である。
そういうふうに、歴史博物館の衣裳たちの、一本一本の糸をのぞき込んでいた。織物については分からないけれども。
次回(琉球留記Α┐そらく)は、その一本の糸を考えてみる。
(お詫びに(..))海津市のHPから治水のあしあとを掲載する。その中にある治水神社には宝暦治水といわれる大規模な工事にかかわり、多くの犠牲者を出した薩摩藩士を祀っている。当時の総指揮(総奉行)を担っていたのが同藩家老の平田靱負(ひらた ゆきえ)(鹿児島県港湾・空港整備事務所サイトより)である。1955(昭和30)年のいわゆる昭和の大合併時に、旧今尾町と旧海西村が合わさる際、彼の名をとって、平田町としたという説もある。毎年8月10日に開かれる「大池まつり」は人柱となった庄屋の佐平治(あるいは左平次)さんに感謝するものでもある。
さて、本日(7月6日)より再開した那覇市歴史博物館を訪ねたことについてである。1周年記念展は那覇士族『貝氏』(ばいうじ)の系統にある福地家所蔵の衣裳などがきらびやかに飾られていた。(7月6日〜9月17日「おしゃれ・モダン 王国の技〜那覇士族『貝氏』福地家伝世品」)
同館の主幹・学芸員である宮里正子氏が琉球新報に載せられた原稿がある。『時を越えて伝えるもの』(新報07年8月4日付)少し、引用させていただくと、
《那覇士族として最高の役職「御物(おもの)城(ぐすく)」に2人も就いた、富裕な福地家に大事に保管されていた、最高の技術で製作された紅型や絣(かすり)織りの衣装などである。》
とある。
那覇士族とは、首里、久米、泊とともに、かつて存在した富裕な(宮里氏の表現による)層であり、当然ながら、普通の民と異なる暮らしぶりがあったが、《福地家の人々の沖縄文化への熱い思いによって、戦中戦後の困難な時代も守られてきた品々》(宮里氏)であることが、わたくしどもと異なるのかもしれない。たいへん、大雑把にいうと、本土では、地方へ行けばいくほど、そのような希少な品が残っている確率が高い。ひとつには、前の戦時下で、暮らしに困った都市生活者(当時の)が衣服や身の回り品を米や野菜と換えたという事情(買い出し)がある。また、いわゆる空襲(たむ・たむページより)は軍需工場・施設の所在する都市近辺に集中したためという背景もある。(もっとも、都市への空襲は次第に軍需との関係が稀薄になり、むしろ人家の密集する地域へと繰り返され、特に東京市街地へ頻繁に落とされるようになった)もちろん、例外はあるけれども、以上のようなことから、結果として、希少品は都市から地方へと移動(疎開)するか、都市においては消失した。会津若松に何度か行っていた頃、民家の蔵が開けられて、所蔵(収納)している品々が盗まれるという事件が頻繁にあった。若松城(鶴ヶ城)は1965(昭和40)年に復元・再建されているが、1874(明治7)年に政府により廃城・取り壊しされたためであり、若松には空襲はなかった。したがって、この街の蔵内には希少品が残っていたのであろう。(若松(鶴ヶ)城の歴史)(会津若松観光公社)
琉球の場合、全土が空襲、陸襲である、希少品が残っていること自体、稀少ということかもしれない。歴史博物館の「衣裳たち」はそういう事情をくぐり抜けて、今がある。
福地家の祖先が仕えていたという御物城については「那覇港内の小島(現在は那覇軍港)にあった王府の倉庫。海外との貿易品などを収めた。十五世紀中期ごろから史料に見える。長官は鎖之側(註:さすのそば、言頭に「御」を冠して、おさすのそば、とも記す)。海外貿易の衰退により十八世紀初期にはすでに廃されていた。」(沖縄コンパクト事典:琉球新報社編)とあり、電子地図及びグルグルアースで確認すると、那覇軍港(米軍基地内)の先端にその名残りがある。もちろん、中に入ることはできない。福地家のご先祖も、おそらく、そこに仕えていたのであろう、那覇からなので、そう遠くない通勤であったに違いないけれども、当時は小さいといえども、島であったから、もしかしたら、仮宿舎などもあったのであろうか。
「300年前の那覇」というサイト(沖縄県立図書館収蔵)が見つかった。現在の那覇市の大半が海であり、前日(5日)訪れた奥武山公園辺りもそう(海の中)である。だから、くじら公園(子供の遊び場)なのだろうか?余談であるけれども慶良間諸島では冬の間クジラ見物ができるということで、夏とは異なった趣きの海があるようである。
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1年半前に訪ねた際には、「包む」が、わたくしの心のかなりの部分を占めていた。泡盛および抱瓶(ダチビン)という二品からの単純な発想でしかないけれど、そのことは、只今でも変わることはない。さらに、今回は「織」が加わったような気もする。わたくしには博物館の衣裳も含め、織物については何も分からない。ただし、織物がタテとヨコの交互の組み合わせによる成形物であることは何かで知っていた。時間というタテと空間というヨコを織れば宇宙になるのであろうか。人と自然を縦横に織れば破壊になるのであろうか。そして、人と人とでは、憎悪、愛情、そして、戦争という織物が成形されるのであろうか。
わたくし的な身勝手な想いであり、そう書くと、おそらく、琉球の方から、(神をおろそかにしていると)お叱りを受けるかもしれないが、琉球というのは、人と神の織りなす世界であると考えている。双者によって形成(かたちづく)られた織物は誰の目にも美しく、誰をもが心を魅入られるような神聖さを備えていたのであろう。それが、琉球の姿である。ただし、その美を欲しがる誰か(わたくしども)が、神聖さ及び琉球の民の心を踏み躙(にじ)って、奪い合っているということも、先に書いた人と人の形成という撚糸の渦に(望んでいないにもかかわらず)巻き込まれているという事実である。
そういうふうに、歴史博物館の衣裳たちの、一本一本の糸をのぞき込んでいた。織物については分からないけれども。
次回(琉球留記Α┐そらく)は、その一本の糸を考えてみる。
2007.08.16
観光力(カンコウカ)
標題は、週刊ダイヤモンド07年7月28日号の特集にある「初調査!都道府県別ランキング」の試みである。結果から示せば、1位北海道、2位長野県、3位静岡県、4位兵庫県、5位東京都・・・45位佐賀県、46位高知県、47位徳島県ということであるそうだ。え〜え〜えっ!と思われる方も多いであろうが、そういうことらしい。ちなみに、沖縄県は36位である。(-_-メ)
まず、その算出方法を記すと、以下の項目ごとに全国平均値との乖離を、[各都道府県の数値÷全国平均値−1]により算出。観光力ランキングは都道府県ごとに全13項目のポイント(上の乖離のことである)の平均値で順位をつけた、とある。そして、項目とは、―蒜餞儻入込客数登録ホテル旅館総客室数4儻ボランティアガイド数だこΠ篁梱ス駟建造物ほか国立公園・国定公園Р浩湧出量合計(自噴+動力)┣浩地宿泊施設収容定員ゴルフ場ホール数博物館・美術館動植物園遊園地・テーマパークスキー場である。
13項目をみて、まず思ったのは、未だに、ゴルフ、スキーかということであり、ゴルフでいえば、北海道、長野、静岡県とも全国値を上回っているほか、千葉、茨城、栃木、兵庫などが観光力の一要素として浮かび上がってしまう。スキー場に関していえば、それはないよと、南国が一斉に兵庫県、広島県を除けば西日本(関西以西)はマイナスばかり。しかも、(スキー場が)ある都道府県とそうでないのでは差がありすぎるのも難点である。総合1・2位の北海道、長野はここでずいぶん稼がせてもらっている。当然ながら、沖縄はゼロに決まっているので、不利。その沖縄には世界遺産があるけれども、母数が少ないので、全体的な浮揚には効果がない。博物館・美術館及び動植物園は、むずかしいかもしれないけれども、入場(入館)者数であらわしてほしかった。旭山があるから、北海道はもっと評価が上がるだろうし、沖縄も、チュ(美)ら海で・・・。遊園地・テーマパークだって、と、千葉県にも言いたいことはあろう。,鮟蒜馥込客数にした点は、ああ、そうだよねと思うけれども、できれば、△魑匱爾任覆収容人員にして、年間の稼働率(どれだけ泊っているのか)にしていただければ、とも思う。単純に 爿◆滷械僑菊を計算してみたら、北海道はマイナス0.25(対全国値)、部屋数は多いものの、すべてのホテル・旅館がうまくいっているわけでもないということになってしまった。
全体に、この観光力はハード(スケール)に依存していることは分かるけれども、それを「パワー」と評価してしまってよいものか、↑にも書いたが、集客数であるとか、あるいは、海や河川の水質、または定住人口当たりでは、といった視点が付加されていたらなぁと、個人的に思っている。
とりあえず、沖縄36位、徳島県47位というのは、県人ではないけれども、最近、訪ねたばかりの身としては、寂しい限りである。もちろん、同誌も指摘していることであるが、「海がきれい!」「オイシイ(~_~)」「やさしい人ばかり〜ぃ」といったような「感想・実感」が数値化できれば、このランキングもかなり異なった様子となるのであろう。
ちなみに、この特集の次頁に「全国土産物売れ行きランキング」があって、ナンバーワンに「白い恋人」があるのも今となっては、何だかね、となってしまっている。わたくし的には、「呑み」系がないのが残念であるけれども、第7位の「さつま揚げ」に一票というところか。お土産あるいはお遣い物は、第一に日持ちというのも求める方の条件にある。相手にその日のうちに渡すことができるとは限らないからである。したがって、どうしても、日持ち(消費・賞味期限)が気になる。そこらに、作る側と買う側の間に予期せぬ符牒をもたらした理由があるのだろう。作って、すぐ、買われ、求めた人は、すぐに食す、あるいは、店から、日頃お世話になっている、お宅をすぐに訪ね、「生ものですから、お早く、お召し上がりになってください」ということであれば、誰も、そのようなことを気にしないで済んだ。
参考1(消費期限と賞味期限の違い)※分かりづらいけど厚生労働省の指針
参考2(白い恋人の関連記事)※では、法的に何が問題なのか、よく、分からない、わたくしである。
以下、記事の引用。(BNNサイトより)
《札幌市保健所の柏原守食品指導課長は、問題点を次のように指摘した。
「焼き菓子である『白い恋人』は食品衛生法上、賞味期限を付ける必要はない。しかし、石屋製菓が『白い恋人』の賞味期限を4カ月としている以上、賞味期限を延ばすことは許されない。賞味期限はメーカーがさまざまな保存条件などを調べた上で自ら設定するものだが、油脂分の変化(劣化)の有無や微生物の増加量などを調べ、消費者から説明を求められた場合の根拠となるものが必要。『白い恋人』の中には賞味期限を5カ月、6カ月に設定しているものがある。賞味期限を4カ月と決めた以上、4カ月を守るべき。石屋製菓の製品が直ちに健康被害に結びつくことはないと考えているが、衛生管理に対する会社全体の考え方が不十分だった」
※法律が不十分ではとも思うけれども、未だに、どれがどうなの、ということが、分からない、難解な法律である。
まず、その算出方法を記すと、以下の項目ごとに全国平均値との乖離を、[各都道府県の数値÷全国平均値−1]により算出。観光力ランキングは都道府県ごとに全13項目のポイント(上の乖離のことである)の平均値で順位をつけた、とある。そして、項目とは、―蒜餞儻入込客数登録ホテル旅館総客室数4儻ボランティアガイド数だこΠ篁梱ス駟建造物ほか国立公園・国定公園Р浩湧出量合計(自噴+動力)┣浩地宿泊施設収容定員ゴルフ場ホール数博物館・美術館動植物園遊園地・テーマパークスキー場である。
13項目をみて、まず思ったのは、未だに、ゴルフ、スキーかということであり、ゴルフでいえば、北海道、長野、静岡県とも全国値を上回っているほか、千葉、茨城、栃木、兵庫などが観光力の一要素として浮かび上がってしまう。スキー場に関していえば、それはないよと、南国が一斉に兵庫県、広島県を除けば西日本(関西以西)はマイナスばかり。しかも、(スキー場が)ある都道府県とそうでないのでは差がありすぎるのも難点である。総合1・2位の北海道、長野はここでずいぶん稼がせてもらっている。当然ながら、沖縄はゼロに決まっているので、不利。その沖縄には世界遺産があるけれども、母数が少ないので、全体的な浮揚には効果がない。博物館・美術館及び動植物園は、むずかしいかもしれないけれども、入場(入館)者数であらわしてほしかった。旭山があるから、北海道はもっと評価が上がるだろうし、沖縄も、チュ(美)ら海で・・・。遊園地・テーマパークだって、と、千葉県にも言いたいことはあろう。,鮟蒜馥込客数にした点は、ああ、そうだよねと思うけれども、できれば、△魑匱爾任覆収容人員にして、年間の稼働率(どれだけ泊っているのか)にしていただければ、とも思う。単純に 爿◆滷械僑菊を計算してみたら、北海道はマイナス0.25(対全国値)、部屋数は多いものの、すべてのホテル・旅館がうまくいっているわけでもないということになってしまった。
全体に、この観光力はハード(スケール)に依存していることは分かるけれども、それを「パワー」と評価してしまってよいものか、↑にも書いたが、集客数であるとか、あるいは、海や河川の水質、または定住人口当たりでは、といった視点が付加されていたらなぁと、個人的に思っている。
とりあえず、沖縄36位、徳島県47位というのは、県人ではないけれども、最近、訪ねたばかりの身としては、寂しい限りである。もちろん、同誌も指摘していることであるが、「海がきれい!」「オイシイ(~_~)」「やさしい人ばかり〜ぃ」といったような「感想・実感」が数値化できれば、このランキングもかなり異なった様子となるのであろう。
ちなみに、この特集の次頁に「全国土産物売れ行きランキング」があって、ナンバーワンに「白い恋人」があるのも今となっては、何だかね、となってしまっている。わたくし的には、「呑み」系がないのが残念であるけれども、第7位の「さつま揚げ」に一票というところか。お土産あるいはお遣い物は、第一に日持ちというのも求める方の条件にある。相手にその日のうちに渡すことができるとは限らないからである。したがって、どうしても、日持ち(消費・賞味期限)が気になる。そこらに、作る側と買う側の間に予期せぬ符牒をもたらした理由があるのだろう。作って、すぐ、買われ、求めた人は、すぐに食す、あるいは、店から、日頃お世話になっている、お宅をすぐに訪ね、「生ものですから、お早く、お召し上がりになってください」ということであれば、誰も、そのようなことを気にしないで済んだ。
参考1(消費期限と賞味期限の違い)※分かりづらいけど厚生労働省の指針
参考2(白い恋人の関連記事)※では、法的に何が問題なのか、よく、分からない、わたくしである。
以下、記事の引用。(BNNサイトより)
《札幌市保健所の柏原守食品指導課長は、問題点を次のように指摘した。
「焼き菓子である『白い恋人』は食品衛生法上、賞味期限を付ける必要はない。しかし、石屋製菓が『白い恋人』の賞味期限を4カ月としている以上、賞味期限を延ばすことは許されない。賞味期限はメーカーがさまざまな保存条件などを調べた上で自ら設定するものだが、油脂分の変化(劣化)の有無や微生物の増加量などを調べ、消費者から説明を求められた場合の根拠となるものが必要。『白い恋人』の中には賞味期限を5カ月、6カ月に設定しているものがある。賞味期限を4カ月と決めた以上、4カ月を守るべき。石屋製菓の製品が直ちに健康被害に結びつくことはないと考えているが、衛生管理に対する会社全体の考え方が不十分だった」
※法律が不十分ではとも思うけれども、未だに、どれがどうなの、ということが、分からない、難解な法律である。
2007.08.13
最低の試合、最低の契約
昨夜はペルセウス流星群を、と思っていたけれども、やはり、だめであった。理由はふたつあって、週末(お盆休み)しかも、ほぼ新月にもかかわらず、周りが明るかったこと(近くにゴルフ練習場がある)、そして、何よりも、夜更けまで、わたくしが、もたなかったことである。ただし、夜半から、俄かに雲がたちはじめ、都心の上空には環八雲のような怪しげな姿まであらわれ、夜空一面が白味を帯びて、☆が見えず、★☆★★★★★△★★☆★☆★★★★★★状態になっていた。
国見高校を出て、フリューゲルスというまことに奇妙なチームに入団しながら、異彩を放っていた選手が、昨日、その落とし子のようなチームでもある横浜FCに完全移籍した。チーム内にはカズ(三浦知良)さん、ブー(高木琢也=現監督)さんというドーハで世界との格差を体験した二人がいる。他に、山口素弘、奥大介、山田卓也、久保竜彦、滝澤邦彦(敬称略)など、好みは別として、一級品(J1級という意味)が揃っている。しかし、11日には「低な」ゲームをした。それ以上に、「テイ」なのは、本日、発表されたアツの契約内容である、ヴィッセル神戸のサイトを引用する。
《2007/08/13;10/20対横浜FC戦での三浦淳宏選手の試合出場について〜昨日(12日)発表しましたMF三浦淳宏選手の横浜FCへの完全移籍について、ヴィッセル神戸と横浜FCの両クラブ間において、下記試合について同選手が出場しないことを契約にて締結、決定していますことをお知らせいたします。》
■カード:2007J1リーグ戦第29節 ヴィッセル神戸VS.横浜FC
■日時:2007年10月20日 16:00キックオフ
■会場:ホームズスタジアム神戸
11日、横浜ダービーはFC1−8(F.マリノス)であった。ちなみに、同日のプロ野球の結果をみると、ソフトバンク6点(オリックス3点)が最多得点である。FCは12日現在、7差の最下位、神戸は10位である。現実は、前者が厳しい(J2落ち)。そのような状況において結ばれた契約が、ますます日本のサッカーを貶(おとし)めている。ドーハの(悲喜)劇は今もなお、演じられている。そう思っている。
神戸の「ヴィッセル(VISSEL)」は、英語の「VICTORY(勝利)」と「VESSEL(船)」を合成したそうである。順位だけでいえば、もちろん、横浜FCは只今、負けても敗れても、それを掻き分けなければ、生き残れないという、そういう立場にいるのではあるけれども、それはそれで、よい。むしろ、神戸には、ラッセル(LOSSEL)とでも名義変更してもらって、負の船に乗り続けてほしい、そういう、わがままな想いがある。
今夜は、(昨夜にまして)、雲の多い夜であり、わたくしもまた、より、睡魔に襲われている。ひょっとしたら、長月の予兆なのかもしれない、わずかに、風が涼しい。寒蝉鳴。
国見高校を出て、フリューゲルスというまことに奇妙なチームに入団しながら、異彩を放っていた選手が、昨日、その落とし子のようなチームでもある横浜FCに完全移籍した。チーム内にはカズ(三浦知良)さん、ブー(高木琢也=現監督)さんというドーハで世界との格差を体験した二人がいる。他に、山口素弘、奥大介、山田卓也、久保竜彦、滝澤邦彦(敬称略)など、好みは別として、一級品(J1級という意味)が揃っている。しかし、11日には「低な」ゲームをした。それ以上に、「テイ」なのは、本日、発表されたアツの契約内容である、ヴィッセル神戸のサイトを引用する。
《2007/08/13;10/20対横浜FC戦での三浦淳宏選手の試合出場について〜昨日(12日)発表しましたMF三浦淳宏選手の横浜FCへの完全移籍について、ヴィッセル神戸と横浜FCの両クラブ間において、下記試合について同選手が出場しないことを契約にて締結、決定していますことをお知らせいたします。》
■カード:2007J1リーグ戦第29節 ヴィッセル神戸VS.横浜FC
■日時:2007年10月20日 16:00キックオフ
■会場:ホームズスタジアム神戸
11日、横浜ダービーはFC1−8(F.マリノス)であった。ちなみに、同日のプロ野球の結果をみると、ソフトバンク6点(オリックス3点)が最多得点である。FCは12日現在、7差の最下位、神戸は10位である。現実は、前者が厳しい(J2落ち)。そのような状況において結ばれた契約が、ますます日本のサッカーを貶(おとし)めている。ドーハの(悲喜)劇は今もなお、演じられている。そう思っている。
神戸の「ヴィッセル(VISSEL)」は、英語の「VICTORY(勝利)」と「VESSEL(船)」を合成したそうである。順位だけでいえば、もちろん、横浜FCは只今、負けても敗れても、それを掻き分けなければ、生き残れないという、そういう立場にいるのではあるけれども、それはそれで、よい。むしろ、神戸には、ラッセル(LOSSEL)とでも名義変更してもらって、負の船に乗り続けてほしい、そういう、わがままな想いがある。
今夜は、(昨夜にまして)、雲の多い夜であり、わたくしもまた、より、睡魔に襲われている。ひょっとしたら、長月の予兆なのかもしれない、わずかに、風が涼しい。寒蝉鳴。