2007.09.30

琉球留記・附留 繕縦邸清見寺(おきつ・せいけんじ)

 標題の清見寺(せいけんじ)を見て、はっ、ほぉ、あれ〜などと思われた方(かた)は、多少なりとも鉄分(てっちゃん度)があるのではなかろうか。わたくしも、その前を何度か通り過ぎたことがあるが、今回、初めて、訪ねた。例によって、所用の帰り、藤枝文学館(9月29日開館、藤枝市サイトより)はまだなので、こちらに足を延ばした。興津駅を降りて、清水側に戻る、予想外に暑い日(9・27)であったので、国道を避け、家並(南側)と線路(北側)の間にある狭隘な路に入り、日陰を探しながら10分ほど歩いていくと、いつのまにか、路は境内となって、当然ながら、鉄路もお寺の中に、そういう状況が鉄分たっぷりということである。こういうのは、鉄分の足りない、わたくしには、あまり経験がない。青森の三沢市というところに古牧(こまき)温泉というのがあって、そこへ行くと、東北本線が敷地内を通っていて、ご丁寧にも、民鉄である十和田観光電鉄も逆(西)側を走っている。ただし、清見寺にも古牧温泉にも駅はない(あると面白いけれども)。
[踏切の右も左も清見寺]
興津2画像0011
[清見寺の境内を走る東海道線・電車の向こうもお寺さん]
興津1画像0013
 今回は、鉄分補給のために来たわけではない、第一、わたくしには鉄分よりマグネシウム(足の攣りに有効なので)の方が重要である。清見寺へうかがったのには別の目的があった。境内に入り、本堂をみると、玄関先に「見学を希望される方は、鐘を鳴らしてください云々」とあった。面白そうなので、堂内にお邪魔すると、鐘が鎮座していた。脇にある木槌でもって小突くと、カ〜ンという響きに反応して、奥のほうからハ〜イと声が、ご住職だろうか、と、私、行きますと、別の声がして、奥方が出ていらした。
 「あのう〜、琉球王子のお墓を・・・」と申し訳なさそうに言うと、ご丁寧に教えてくださり、いったん、境内を出て、というか、線路づたいに北側に通じる道があって、途中から跨線橋になっており、さらに上っていくと、小山を開いた中に墓群がみえてくる。少し脱線するが、この付近は海と山が「接するほど」近づいており、平坦な部分がたいへん少ない地形となっている。したがって、その狭く、長細い土地に家も畑も道路も鉄路も、すべてがひしめきあっている。今はどうか知らないけれども、新幹線および東名道ができて数年あるいは10年ぐらいは社会の教科書に必ずといってよいほど、この辺り(由比付近?)の写真が載っていて、新幹線、東海道線、国道1号線(東海道)、そして東名高速道路が海と山に挟まれた中で併走していた、という(あてにならない)記憶がある。
 話を戻す。
 1609(慶長14)年に琉球は鹿児島藩の手に落ち、第7代尚寧王は薩摩に連行され、そののち、京、駿府(家康と会う)、そして、江戸において将軍秀忠と謁見する。その際、佐敷王子朝昌(のちの8代王、尚豊)とともに江戸に向かった一人が寧王の弟尚宏(しょう・こう、大・具志頭王子朝盛)である。尚宏は薩摩に連行され、いったん、琉球に戻るが、謁見のために再び寧王らと合流する。兄の補佐役、また、その兄に万が一があった場合のお世継ぎという立場、そうした心労・疲労もあったのであろう、駿府で病床に伏し、兄たちを見送るが、1610(慶長15)年8月21日、薨御、清見寺に埋葬云々・・・と、「喜安日記」(沖縄の歴史情報 第9巻/筑波大学所蔵琉球関係資料 収録資料一覧)にある。小高い山のなお一層高所のほぼ中央に尚宏のお墓がある。丁寧な説明を受けたのにもかかわらず(わたくしの)方向音痴はここでも同じで、ずいぶんと探したけれども、ようやく、対面できた。天辺に球形の墓石を頂き、供花がまだ瑞々しく、最近、訪ねられた方がいらっしゃることが想像でき、また、お墓の中台には白化したあとの珊瑚の骸が数片、丁寧に置かれていて、想像がより膨らんでいく。脇に建てられた案内識には、尚宏の死後、江戸上りする琉球からの遣いが必ず立ち寄った(筆註:ある種の諭祭;ゆさいともいえる、沖縄県;Wonder沖縄より)とある。今も、そのような諭祭の方(かた)が居られるのであろう。しばらく、留まっていた。お彼岸も過ぎており、墓地の拡張工事なのであろうか、その関係者以外、誰もいない、もちろん、自分が、ここにいる理由はまったくないけれども、ことの成り行きとでもいうのであろうか、ここへ来ることで留記を終えることができると思った。
 ここ(お墓)から、1万4000キロ彼方に琉球が望める、そういう風にも思ったのであろうか、あいにく、それから、400年経っており、樹木が欝蒼としていて、只今は望めないが、電子地図でもって検めると、真っ直ぐに、視線を見すえた先に、確かに琉球をみることができる気分であり、実際、お墓を去る際、立ち止まって、樹間から、垣間見た向こうに琉球を見た思いである。
[尚宏のお墓のやや下方から琉球をみる:斎場御獄(セイファウタキ)ではありません]
海望む画像0017
 
 求玉院殿大洋尚公大居士

 尚宏のお墓に刻まれた名である。玉とは琉球および民の平和と、勝手に解釈した。それを尚公(尚宏)は大海のごとく広い気持ちでもって望んでいたのだろうか。

Posted at 17:18 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2007.09.25

琉球留記寧がもたらした濘

 1609年、鹿児島(島津)藩は琉球王国を支配下に治めた(薩摩の琉球侵攻)。時代は江戸期に入っていたが、豊臣秀吉の時代にはすでに、独立国「琉球王国」への介入あるいはその意思があったのであろう。そればかりか、秀吉は朝鮮に侵攻するという愚行にも出ている(文禄・慶長の役)。関が原で、西側についた鹿児島藩は赦されたものの、財政的負担を強いられ、上記、琉球侵攻に藩の存亡がかかっていた。それゆえ、幕府に許可を願い出て、家康(一応、将軍秀忠の認になる)も黙認している、ただし、その方が、自分(幕府)にとって、有利と考えたのであろう。島津に儲けさせて、上前を撥ね、いずれ、乗っ取ろうと、とでも思っていたと考えても、あまり、違和感はない。肝腎の明にも力はなかった(44年に滅びる)ので、たとえ、嘘でも、琉球王国が存続している限り、明・琉間の朝貢貿易として、益が出れば良かっただけのことかもしれない。ただし、東・南アジアの貿易は欧州列強(葡、西、蘭、英)も加わり、混沌としており、琉球にとっても必ずしも追い風というわけでもなかった。
 第二尚氏王統第7代尚寧王は、そういう時代の中に在った。今も、昔(当時)も評価は分かれよう。例えば、玉陵(たまうどぅん)に王は納められていないが、それは、オギヤカによる命を守ったといえば、それだけに過ぎないけれども、曾祖父の維衡は葬られている。もう、そういう時代でもなかったはずである。(オギヤカは寧王崩御の100年ほど前に斃れている)ただし、他人の目(評価)は二つあって、鹿児島藩に侵攻を許したから、「恥ずかしくて、入るのを憚った」という右目と、永く住んだ、浦添が自分の地(血=アイデンティティ)なので、「もともと、入る気はなかった」という左目である。わたくしはというと、左目を考えている。わたくしは、どうも、宣威(琉球留記)といい、維衡(琉球留記)といい、コッチ(左目)側に肩を入れ(持ち)すぎなのかもしれないけれども、やはり、そう思っている。島津の琉球侵攻については、もう、詳細は書かないが、わたくしには、解読不明である、当時の出来事を寧王の側近である喜安(きあん)が書いた「喜安日記」(伊波普猷文庫目録/琉球大学附属図書館)で知ることもできる。当時、大坂(泉州)・堺は自由都市として「世界」に知られる存在であったが、喜安もその自由の中に生き、1600年、琉球にわたった僧侶、茶人であった。時代はややずれるが、堺には千利休もいた。喜安については、よく分からない。「薩摩(島津)侵入の際には折衝にあたり、国王に随行し将軍にも謁見する」と沖縄コンパクト事典(琉球新報社編)にはある。寧王には仏・茶を通じて「やまと心」を教えたともいわれるが、この頃、先に記したように大和(正確には薩州をそう呼び、本土全体、幕府を大大和=ウフ・ヤマトとあらわした)は琉球に対して、さかんに密偵を送り込んでいたらしいから、さてはて、喜安はどうかということについては、今のところ、「?」である。喜安の伝えた茶心は、ぶくぶく茶として、今も残り、その派生としてだろうか、ぶくぶく珈琲というのもある。
 時を重ねるように、岩城の国生まれの浄土宗僧侶「袋中(たいちゅう)上人」が明への留学渡航を企てるが、上陸を拒否されて、琉球に漂着したことから、寧王と出逢うとされている(1603年)。上人については、今回、初めて知った。浄土宗の公式サイトを開くと、法然上人とその弟子の僧らについて書かれているが、その中で袋中についてもふれられている。3年間、在琉して、念仏を広めており、那覇・小禄には袋中寺(浄土宗サイトより)という所縁のお寺もある。儀間真常(ぎま・しんじょう)という人も熱心な信徒のひとりで、のちに、サツマイモ栽培の振興、木綿布の生産(琉球絣となる)、また、製糖技術の導入などに注力し、貿易以外の産業を琉球にもたらした。(惜しまれながら?)琉球を去った袋中は京に戻り、檀王法林寺(浄土宗サイトより)に落ち着く。
 寧王も深く帰依したとある(上記、「袋中」)。浄土宗の教えは『阿弥陀仏の平等のお慈悲(じひ)を信じ、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とみ名を称(とな)えて、人格を高め、社会のためにつくし、明るいやすらかな毎日を送り、往生(西方極楽浄土に生まれること)を願う信仰です。』と上記公式サイトにあり、いわゆる、他力本願である。ただし、自力(念仏)がなければ、他(本願)力はないという風に考えると、寧王がどれだけ念仏に熱心であったかどうかは、かなり身びいきである、わたくしも肩を入れあぐんでいる。二たび、100年前に戻ると、オギヤカ(尚円の夫人)は宣威(第2代王、尚円の弟)筋の排除を徹底しており、繰り返すが、宣威の孫、維衡を廃嫡させ、以降、オギヤカ直系の王位が続く。当然ながら維衡の曾孫である寧にとっては、即位はハプニングのような事象であったのではないかとも思う。本来ならば、尚永(第6代)の弟・大金武王子尚久であろう。うがってみれば、寧王即位(1589年)の事前には、すでに、侵攻の兆しがあり、それを察知していた「オギヤカ」筋が歴史的な辱めを回避したということも妄想できるが、そこまで、わたくしも、肩入れ(持ち)するつもりはない。ただし、尚久の子、尚豊(第8代)は即位前を佐敷王子朝昌といって、島津の侵攻後、寧王とともに鹿児島(薩摩)に渡り、江戸での将軍謁見もしている。その後、琉球に戻り、再び、国質(人質)として、薩摩に送られるが、この間、いえ、その前からなのかもしれないけれども、朝昌(尚豊)は島津による附庸「化」政策を受け容れているフシもある。
 以上も、以下も、もちろん、想像のことである。
 寧王は、期せずして、附庸に傾いていた琉球を牽引することになるが、心は、もう、そこになかったのかもしれない。もちろん、謝名親方(じゃな・うぇーかた)らの心・気概に動かされないはずはないが、その親方も含め、(島津の圧倒的な武力を前にして)琉球の地を血で染めるのが本願ではないはず、ならばと、せめて、上人に会おうという想いではなかったか、と。寧王は袋中上人とふれあい、上人を通して、ウフ・ヤマト(本土)のこと、京のことなどを聞いていた。もちろん、他の、例えば、喜安などからも得ていただろうが、「上人の」は本物である、そういう風にでも思っていたのであろうか、2ヵ月半にもわたる、薩摩、駿府、江戸という人質としての送還も苦であろうし、辱(はじ)かもしれないけれども、それによって、琉球が残るなら、そして、上人と逢えるのなら、「それで、良いか」とでも考えたのであろうというのが、わたくしの勝手な想いである。ただし、京で上人に再会したということは、確認できていない。「喜安日記」(こちらは沖縄の歴史情報 第9巻/筑波大学所蔵琉球関係資料 収録資料一覧)には、京見物を固辞し、陸奥守(島津家久)の屋敷で歌舞伎を観たとある。あるいは、その場を、上人が訪ねたのであろうか。
 濘は、ぬかるみである。それは、寧王の断による、その後の琉球、そして、只今の沖縄をあらわしているのかもしれない。それ(濘)を、寧が流した涙と書けば、あなた、それは、肩入れ(肩を持つ)ではなく、間違いですと、言われるであろう。
 浄土宗には空也上人が創めたという踊念仏という、只今における盆踊りの原形がある。琉球のお盆に各地で繰り広げられるエイサーもまた、袋中上人による置き土産(踊念仏から生まれた)であるという。
 わたくしは、まだ、その場にいたことがない。
 以上の想像については、近々、訪ねることでもって、改めて、考えてきたいと思う。

Posted at 23:28 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2007.09.21

台風が貫けた(CARRIED OUT)

 水曜日(19日)、所用を終え、雨まじりであったが、「まめや」さんに。3度目(9・1と8に続き)である。前回2度は土曜日であったけれども、「混んでなくて、よかったですよ」とご主人に突っ込まれるほど、わたくしが行った夜はなぜか、ヒマである。あきらかに、わたくしの所為かと、少々、申し訳なくも思っている。もちろん、ご主人の前言にはそのような意味は含まれていないけれども、ゆっくり、お話できるということで、琉球タイムの流れを、流れてくる音曲とともに、楽しませていただいている。最初のオリオンビールを干す頃に、ご主人が、いきなり「阿波連の店、壊されました」と仰言った。わたくしというのは、言葉から想像できる範囲が狭い(貧相だ)から、てっきり、人為的な力でもって、いたずらされた(壊された)と、理解したが、渡嘉敷を訪ねる人が、そういうことはしない、もちろん島民も、と思い直したら、「台風ですよぉ」とご主人。続けて、仰言る。「せめて、向こうにいたらねぇ、防げたのにねぇ」と、昨年まで、台風が襲来するたびに、風のしのびよる前ぶれが、お店のどこかしこにあらわれるので、防禦体制に入るそうで、水道管だか何かがブルブルと震えた時は、奥さんが両手と一切の体重をかけて、押さえている間に、ご主人がワイヤーでもって補強する、そういうことの連続が渡嘉敷の今頃ですと説明してくださった。「(誰もいないから)今度はだめでした」と、ドアを突き破って、風が貫けた。まだ、様子を見ていないので、想像であるけれども、と断って、冷蔵庫とかも飛ばされているかもねぇ、安くないソフトクリーム機もだめかね、と、奥さんに語りかけるような、独り言のような、最後は自然、声も小さくなっていた。
 気象庁の「南西諸島(沖縄地方、奄美地方)への台風接近数(2006年までの確定値と2007年の速報値)」をみると、今年の台風接近数は現在の時点で6、過去56年間(51〜06年)の平均が7.6回であるから、ま、「並」という状況にある。近年では04年に15とあり、この56年の中での最多回数でもある。ちなみに、接近数とは台風の中心が鹿児島県の奄美地方、沖縄県のいずれかの気象官署から300km以内に近づいた場合を示しているけれど、発生数はというと、平均26.6回、04年は29回で最多ではないけれども、接近確率5割以上という、高率であった(平均は28.6%)。05年に何度も那覇に行っていて、「今年は台風が少ない」ということを聞いたが、去年は多かったということの裏返しになるのであろう。沖縄の場合、上陸の数はあまり問題にならない。近づいてくるだけで、もう大事である。特に、渡嘉敷では、島の西側にコースをとる台風が厄介だそうである。本島の東側ルートは、小さい(低い)ながらも(本島の)山々が護ってくれるといい、台風11号はまさに前者であり、9月15日夜半、940(hPa)へクトパスカルを下回る勢いでもって、島に向かっていた。(第二室戸台風925hPa、伊勢湾台風929hPa)
 以前、東京の居酒屋でお会いした青ヶ島の方から聞いたお話を思い出した。台風の風でもって、家財道具が家を飛び出していく=「もっていかれる(bring_off)」(06年12月5日付)という。上記、拙ブロにも書いたけれども、わたくしは伊勢湾台風を経験しているが、どうも事情が島では異なるらしい。台風を経験するのも琉球のうち、ご主人のお言葉に「甘えて」、台風シーズンのうちに、近々、訪ねてみようかと思う。

Posted at 22:49 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2007.09.17

琉球留記〜中室に置かれる棺の秘密

 何度も書くが玉陵のことである。何度も書いているうちに、玉陵ではなく、玉御殿(たまうどぅん)の方がふさわしいのかとも思っている。ただし、一般的には、やはり玉陵なのであろう、後者はカッコ書きという理解でよいのかもしれない。さて、玉陵は東室、中室、西室からなるとは、もう書いた。そして、東室が王および王妃のための安置所、西室が王族(子息、息女、夫人など)のためであり、中室は洗骨するまで、亡骸(遺骸)を納める場所とも書いた。さらに、その中室に一棺だけあって、誰であるかが分からない、というところまで記した(拙ブロ「琉球留記玉陵(たまうどぅん)」07年9月8日付)。本日は、そのことについてである。どこそこを訪ねる際に、メモをとればよいのであろうが、そういう習慣がなく、記憶に頼っている。もちろん、頼りにはならない。今は、携帯電話というものがあるから、メモがわりとして十分だし、頼りになるのであるけれども、そういうメンドなこともしない。とりあえず、頼りにならない記憶で書く。その棺の主は、王に仕えていた占い師である。他の家臣たちが、その重用ぶりを嫉んで、ある策略を図る。箱の中にネズミを入れ、何匹入っているかを占い師に当てるよう迫る。「3匹だ」と答える占い師、もちろん王も家臣も1匹であることを前もって知っている。王は、処刑を命じ、コトは家臣たちの思惑どおりとなる。しかし、箱を検めてみると中には占い師の言ったとおり3匹のネズミが・・・、孕んだ母ネズミが子を産んでいた。王は処刑中止のノロシを上げさせるが、受けた方は処刑を急げと勘違いしてしまう。重大な誤ちを犯したと悔いる王は、占い師の亡骸を玉陵の中室に葬った、というのが、玉陵の管理事務所地下展示室にあったパネル説明文に関するわたくしの記憶にある一切である。
 南城(なんじょう)市といって、昔でいえば、いずれも南山(山南)の要衝でもあった佐敷町と玉城、知念および大里3村が合わさった新しい都市名である。そこに沖縄本島最南端の出版社という「わらべ書房」があって、社長自らが記されているブログの中に『謎の厨子瓶』という記事を見つけた。実は、木田大時(むくた・うふとぅち)で検索すると、いくつかあって、5匹としているサイトもあり、そして、わらべ社は7匹と記されている。数は問題ではないことは承知しているけれども、やはり気にはなる。残念ながら、南城市のHPにある「玉城エリアの民話」を開くことができない。ネズミの匹数だけではなく、その際の王が誰(どなた)だったか、そういうことさえ、もう、さっぱり忘れている。次回は、面倒がらずにメモなり携帯なりに収めておこうと思う。
 妄想の延長線上としての可能性としては、である、けれども、異母弟である尚清(第4代王)によって、浦添ようどれから移葬された尚維衡という、想いもある。ただし、維衡は王族(王・王妃以外)であるから、普通に考えれば、西室に安置されたのであろうか。西室3には維衡長女ともある。もちろん、不明となっている東室の可能性も、尚清の兄への思い遣りから、あるのかもしれない。⇒参照「おきなわの世界遺産」(玉陵被葬者一覧)
 玉陵に関する留記はこれでお仕舞いにしたいと思う、もう一度、訪ねて来ようと思うのみである。留記はもう少し、続けていこうと考えている。

Posted at 21:38 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2007.09.15

琉球留記〜浦添朝満(尚維衡)の向こう側

 尚維衡(しょう・いこう、浦添朝満;うらそえ・ちょうまん、以降、朝満という)については、実はよく分からない。といっても、史上の話ではなく、わたくしの頭の中でのことである。朝満は例えば祖父(尚円)について、あるいは、その弟(尚宣威=こちらも祖父)について、父親(尚真)から、あるいは母親(居仁=尚宣威の娘)から、どう聞いていたのであろうかと想像すると、わたくしが、その立場であったなら(ありようはないが)、おおいに困惑するのではないかと思ってしまうからである。1494年に生まれており、もちろん、もう尚真王の時代であり、三つ違いの弟、中城王子(のちの第4代王、尚清;しょう・せい)などもいた。普通に過ごせば、次期王となる身分(王妃の長子)である。もうすでに、母方の祖父にあたる宣威はこの世にいないけれども、父(真)から、立派な人(叔父)だったとでも聞かされていたのであろうか。わたくしごとで申し訳ないが、幸いというのか、もちろん、期間の長短、接し方の濃淡は異なっているけれども、母方の祖父を除けば、祖父母とわたくしは現実に時間を共有することができた。したがって、自分の中に祖父母の存在がぼやっとした記憶の向こう側にわずかにある。しかし、朝満の向こう側は想像および伝聞という手法でしか啓くことができなかったはずである。母親(尚真王妃)は当然ながら祖父(尚宣威)のことを小声ながらも、口調は強く、「あなた(維衡)が世を継ぐのよ」というようなことを常々言っていたのかもしれない。繰り返すが、父親(尚真)もやはり、周り(オギヤカや夫人など)を気にしながら、宣威を悪くいい伝えるはずがない。ただし、朝満は父母の良い話ばかりに耳を傾けていたのではなかったのであろう。彼の想像力の問題である。(決して、良いことばかりではない)と意外と冷静に自分の置かれた立場をみていたのかもしれない。史上では、祖母にあたるオギヤカや異母弟(のちの尚清)の母である華后らの策略により、朝満は王の相続権を剥奪(廃嫡)されたとあるが、自ら、それを望んだと考えることもできる。「いや(厭)けがさした」というのであろうか、それが、彼の想像力が定めた結果であるのかもしれない。朝満は岳父(夫人の父親)を頼って、その字(あざな)のとおり浦添へ移った。義理の父というのは第一尚氏時代から重用されていたという家柄とあるが、そのことで、維衡が邪魔になったわけではないのであろう。仮に、そう考えるにしても、祖父である宣威の夫人(王妃)が誰かが分からない中では、それ以上の妄想を進めることはできない。歴史の上では、宣威そして維衡と第二尚氏王統の反主流が遠ざけられ、オギヤカらの意図どおり、以降、主流が王統を継いでいくはずであった。
 しかし、そうは、ならなかった。
[第二尚氏王統系図(抄)]
第二尚氏系図
 尚寧には第7代王としての心づもりはなかったと考えることもできる。6代(尚永=しょう・えい)にはお世継が生まれなかったこと、また、(尚永の)弟(大金武王子)尚久がお世継ぎを断ったため(これも不思議)、息女の婿という立場から、即位したらしい。いわば、傍流であるけれども、その糸を手繰れば、尚宣威そして尚維衡へといきつき、遠ざけられたはずの反主流にあった。拙い図であるが、尚稷(しょう・しょく)から尚寧までの系統を整理してみた(↑上図)。図で結んだ赤い線(糸)で「反主流」の王位復活を示したつもりである。ただし、もう、この頃には、第二尚氏王統内における世継ぎにまつわる目立った反目もないようであり、尚寧の即位を薦めた尚久の子、尚豊が第8代となり、その後、玉陵の東室には王と王妃が仲良く安置されており、陵内をみる限りでは「安寧」の時代を迎えたといえる。(参考;拙ブロ「琉球留記玉陵(たまうどぅん)07年9月8日付」の[被葬者(歴代王、王妃)] )

 尚寧は鹿児島(島津)藩の琉球侵略(1609年)による泥濘(ぬかるみ)の時代を受け容れ、その後の琉球を変える。
 袋中(たいちゅう)上人との遭遇が大きく関わっているというが、それについては、引き続き、考えてみる。

Posted at 19:56 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2007.09.13

引き続き理容

 前回はジッチャク(勢理客)と理容の勘違いについて書いたが、本日も、理容に引きづられてみたい。那覇(安里)で刈っていただいた理髪店は900円と書いたけれども、確かそうである程度に下方修正しておく、千円札を渡して、レジでもってニィちゃんが前もって100円を握りしめていたような記憶があるから、たぶん、そうであろう。ほかに1,000円のお店も3軒ほど見つけたが、何んとなく入るのが「怖かった」。今では、東京などでも1,000円カットというのが多くなり、「普通」の理容店でも1,300円とか1,600円という、ちょっと中途半端な価格ではあるが、そういうのが増えている。ただし、カットだけが基本である。わたくしが行くお店(例のチェーン店ではない)は1,000円で、頭・首のマッサージ付きであるが、受けたことはない(やはり、なんとなく、怖い)。このお店は下町にあって、3台を3人で切り盛りしている。たまに、お一人休まれている日などは大忙しで、常に3〜4人待っているという状態である。客層も都心と異なり、さまざまで、わたくしのようなオッチャンから、お子チャマ、奥様など、ビジネスマン相手であれば、そう違いはないけれども、刈り方も多様化しているので、さぞ、面倒ではないだろうかと思う。さて、例のごとく、家計消費をのぞいてみよう。ちょっと、意外なというか、ショッキングな結果が出ている。当然ながら、1,000円カットの普及により、理髪料にかける支出は年々減っていて、2006年はとうとう6,000円(年間)を「切った」。100世帯当りの購入頻度は190(06年)なので、1世帯当り年間2回弱行くということになろうか。わたくしの場合でも年3〜4回(3〜4ヶ月に1度ぐらい)であるから、生活実感的には少ないと思うけれども、これが統計という独特の感覚であると考えておく。なお、家計消費には理髪料のほかに、パーマネント代(6,431円、06年、以下同じ)、カット代(5,158円)、他の理美容代(13,907円)というのがあって、「美容」関連はコッチに含まれているので、「ボクは美容院」という人は理髪のほうには含まれていないから、理髪の購入頻度(利用回数)はゼロとなり、ボクが50人、わたくし(オッチャン)が50人いれば、その(理髪)平均は2回となる。詳しくは(収支項目分類及びその内容例示/(平成17年1月改定)/消費支出 交通・通信〜その他の消費支出)の符号892、894、899にある(家計調査)。
 以下に、家計消費のデータをあげる。
[1世帯における理髪料にかける支出額]
家計調査(理髪)
 さて、支出金額だけをみると、やや東高西低の傾向にあるが、ま、年間数千円という幅に分布しているといえる。で、ずっと、表を下の方へ進めると、那覇市2,567円というのが、かなり目立っている↑。といって、沖縄の人が理髪しないのではなく、とにかく、料金が安いという結果が出ている↓。下表は「小売物価統計調査」(総務省)、総合調髪の大人料金である。県庁所在地および人口15万人以上の71都市の中でもっとも高い厚木市と最低価格の那覇市とでは2,000円も差がある(06年の平均価格)。強いていえば、これも東高西低であるが、和歌山、岐阜、京都は高くて、青森は低い(ただし、06年のみのデータしか見ていない)。したがって、那覇の人は厚木の人の1回分で2回調髪できることになる。くどいようであるが、上記価格は「総合調髪」であり、カットのみの比較ではない。確かに、安里のお店も、フルセットで2,000円弱のようではなかったかと思う。(那覇市の)家計調査の支出金額が低いのはそういう事情にある。
[理髪料金の比較]
理髪料金年比較
 ついでに、お店の数も調べてみた。これも意外な結果が出ており、首都圏、阪神圏は1店舗当りの支持人口(人口÷店舗数)が高くなっている。単純にいえば競合度が低いということになる。「ボクたち」は美容院に行くので、両方を較べてみたけれども、同様の傾向にある。秋田県にいたっては、理・美容店ばかりという印象で、以前、そういうことを地元の方に聞いたこともある。「あぎだは酒屋と髪結いばかりだス」。
[理容所と美容所]←統計上は、こう称する
理容所・美容所数
 もちろん、規模の大小があって、東京や大阪など大都市部では1店当りの従業員数が多いので、処理能力を考えると、店舗数が少ないからといって、競合状況が緩いというわけではない。感覚的にいえば、大都市部のほうが広くて、妙に華やかな理・美容店が多いのであろう。経営状況はどっちも芳しい(~_~)とはいえないのかもしれないけれど、競合という意味では都会のほうが(-_-メ)なのかもしれない。沖縄は全国平均に較べて、やや施設が多い(競合度が高い)という結果である。しかも、1店舗当りの理容師・美容師は1人ちょっとであり、ほとんどが個人経営のお店という想像がつく。「父ちゃん・母(かぁ)ちゃん」が細々と、マチグヮー(市場)の片隅で、せっせと刈っているのかと思うと、なんだか、ほほえましい。ただし、そういう光景は一度も見ていない。
 漢和辞典をみると、「理」には治める、(玉を)磨くなどの意味もある。理容とあらわせば少し範囲が広がって、容(かたち)を整えるとなってしまう。わたくしの場合は、やはり、理髪がふさわしく、そのように職人(理容師)さんにも頑張っていただいているけれど、まったく「理」とはなってはいないのは、もと(素地=わたくし)の問題である。床屋か散髪かの問題もある。わたくしは、どっちだろうか、昔はサンパツといっていたような気もするがはっきりしない。全理連(全国理容生活衛生同業組合連合会)のサイトに、それについての面白い資料があった(「床屋と散髪の境界線〜東海北陸地域と近畿地域との間で日本を二分〜」)。結論だけ記すと、西はサンパツ、東はトコヤということのようである。沖縄はサンパツ、西でも、佐賀・長崎・熊本(いずれも肥の国)はトコヤらしい。何故そうなっているのか、時間があったら、調べてみたい思いもある。本文とは関係ないけれども、分布図に用いられている日本地図が、なんだか、ふっくらしていて、楽しい。(これも余計なことであるが、宮城県が二つある;重箱つつき)上記の調査概要(調査の方法、調査対象など)は分からないけれども、付記として、《強いて言えば「散髪」の方が多いが、年配の人ほど「床屋」が多くなる。》 《「床屋」は地方に多く、「散髪」は都市部に多い。 》とある。わたくしは、やはり、トコヤといっていたのであろう。美容室でなく、美容院ともいまだにいっているし。
 7月9日に安里でサンパツした。まだ、1ヶ月以上、行かなくても良い、そういう、わたくしのペースであるけれども、そろそろ、刈りたいという気もちが高まっている。収穫の秋である。

Posted at 22:25 | 雑に | COM(2) | TB(0) |
2007.09.12

勢理容

 那覇滞在中に髪を刈った(7月9日)。一般の理容店で、900円というのがあって、以前(2年前)、なんとなく、その前を通って、価格のことは憶えていなかったけれども、お店のことは記憶していた。崇元寺(そうげんじ)といって、那覇の西側がまだ海だったころに、この辺りから浮島(現在の若狭・松山・久米辺り)に橋梁が架かっていて、長虹堤(ちょうこうてい)という。冊封使(明・清代の中国皇帝が派遣した勅使)は、いったん浮島に上陸して、橋を渡って、まず、このお寺で先王の論祭(弔いの儀式)を行ない、のちに、首里城へ上がったといわれる。創建は尚巴志王代、尚円王代、尚真王代とはっきりしないが、残されている「下馬碑」は尚清王即位(1527年)の時に建てられたものである。(拙ブロ;琉球留記┘泪船筌哀遏爾肇泪船哀遏;07年8月25日付)補足すると、沖縄コンパクト事典(琉球新報社編)には以下のようにある。
 《尚金福王(筆註;第一尚氏第5代)が即位とともに、柵封使の来琉に備え、国相懐機に命じて築造(1452年)させた海中道路。那覇はかつて離れ島で(那覇浮島)と呼ばれ、首里との往来に不便をかこっていた。これにより那覇浮島と首里は陸路で結ばれた》
 以上の長虹堤と重なるように(わたくしの勝手な想いがあるけれども)、沖縄戦前には県営の軽便鉄道も走っていて、崇元寺付近にも繁華な様子が想像できる。国土地理院沖縄支所のサイトにケイビンの路線図が紹介されている。現在でいえば、御物城跡の向かいにある通堂(とんどう)駅から首里(只今の首里高校付近)まで延びている。現在はどちらかというと人通りの少ない寂れた印象が強いが、この崇元寺通りを市外線バスで出かける際はたいてい通っていて、車窓を見ながら、耳はバス停を告げるアナウンスに傾けている。泊高橋を経て、国道58号線に出る。目の前には渡嘉敷島などへ向かう離島船乗り場「とまりん(泊埠頭)」がでんとある。右折して、やがて、安謝(あじゃ)川を隔てて、浦添市内に入り、左手(海側)にキャンプキンザーが拡がる。この一帯を牧港(まきみなと)といって、宜野湾市にいたる路面にはさまざまなお店が賑やかに並び、ついつい途中下車したくもなる(したことはないけれども)。少し戻るが、安謝川に架かる橋付近のバス停(安謝)を出ると、「※●凸」という次停の案内が聞こえてくるが、よく分からない。いつも、分からないので、バス停に着くと、名前を確認している。それが標題の「勢理容」である。今回も7日(7月)に勝連城(グスク)を訪ねた際、利用した折にも通った。わたくしは、もともと目が良くないほうであるから、ずっと、そのように読んでいた。実は、その日も往き帰りにそのバス停を確認し、行くほど伸びていたわけでもなかったけれども、散髪に行こうと思った。バス停の名前になるほどであるから、その理容店はかなり大きい、あるいは有名なお店なのだろうか。商売的にも「勢い」のある理容店とばかり思っていた。ただし、※●凸はイキオイリヨウテンではなく、「ジッチャク」とコールされている。日本歴史地名体系というサイトがあって、そこに、勢理容に関する記述がある。狩俣繁久(かりまた・しげひさ)さんが書かれている。もともとは、『沖縄県の地名』という著作があるそうで、その補遺のようなページであるが、そこにある。《「事典」には書けなかった「歴史地名」もうひとつの読み方/第6回 琉球語と地名研究の可能性》をみると、勢理容ではなく、勢理「客」であった。勢理客は浦添だけでなく、金丸(尚円)の生地、伊是名島にもある。今帰仁にもあり、上記、狩俣さんの資料によれば、与論島や沖永良部島にもあるらしい。このことは、もう少し、妄想してみたい。
 その崇元寺を訪ねてから、散髪に行った。それから、ふた月ほど経っている、そろそろ、勢理容に行こうかなぁとも思う。

Posted at 23:56 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2007.09.11

琉球留記骨肉と血(「尚円、尚宣威、尚真」あたり)

 前回(琉球留記玉陵;たまうどぅん、2コ↓)、想像のうえで骨と肉を比較してみたが、第二尚氏王統の成立期には骨と肉の争いが絶えなかったらしい。それはそれで、数ある世界の歴史の中で、特に珍しいことではないし、すでに、第一尚氏から権威が移る際にも、そのような繰り返しが行なわれているともいえる。護佐丸、阿麻和利、鬼大城、百十(百度)踏揚、みな、そのような状況において、生き、斃れた(拙ブロ;球留記ε譽▲献△摑みかけた男〜勝連城「痕」07年8月18日付参照)。あるいは、ふれてはいないけれども志魯・布里(しろ・ふり)の乱(1453年)という骨肉もあった。第二尚氏2代王の尚宣威(しょう・せんい)は、兄である尚円(しょう・えん)の崩御のあと、即位する。兄の子(のちの第三代、尚真:しょう・しん)がまだ若いという理由から、引き受けた。ただし、商家の跡継ぎが成人するまでの後見人というわけにはいかなかった。宣威と兄(尚円)とは一回り以上(15歳)、歳の差があったらしいけれども、兄嫁(王妃、または側室の説もある)は尚円とは30も離れていたらしいから、宣威を一回り、若くして、なお、おつりが来る年端であったけれども、お姉さん(義理の姉)と呼ぶ立場にあった。そう呼んでいたかどうかは分からないけれど、そういう家族関係にあった。嫁をオギヤカ(宇喜也嘉)という。出自については、はっきりしない。尚円・宣威兄弟と同じ伊是名(いぜな)島というようにも考えたけれども、兄弟の父である尚稷(しょう・しょく)を祀っている伊是名玉陵にオギヤカと刻銘された石棺がある「沖縄の世界遺産」という、彼女の死後のことしか分かっていない。伊是名村(いぜな・そん)にある「NPO法人島の風」が管理運営している「伊是名島観光総合サイト」に島に伝わる民話が紹介されており、「高い所に流れる水」(第十三話をクリック)は金丸(かなまる;のちの尚円)にまつわる「お話」である。その中で、金丸は村(島)を追われて、ヤンバルに逃げ、そののち、西原・内間へ流れ着くという記述がある。また、他のいくつかのサイトによれば、伊是名からヤンバルまでは民話と同じであるが、金丸は首里に向かってから、出世して、内間御殿(ウチマウドゥン)に住むとあるけれども、それは、どちらでもよい。共通しているのは、伊是名を24歳前後に出ているということである。例として尚円王伝説【一介の百姓、遂に王位に登る】(伊是名の小説をクリック、カラムにて、尚円王伝説をクリック、伊是名村HPより)をみると、24歳の時に妻と弟(のちの尚宣威、当時9歳)を連れて、島を出るとあり、この際の妻が尚円の30歳年下であるオギヤカではないことを示している。いつ、オギヤカが尚円の妻(王妃か側室かは分からないが)となったのか、尚真(尚円とオギヤカの子)から逆算すれば、おそらく、西原内間か首里でということになろう。ただし、オギヤカの出自は分からないままである。尚真は尚円50歳頃の子である(尚円1415年生まれ、尚真65年生まれ)。尚円は、すでに御物城御鎖側官(註)にあって、第一尚氏は「尚泰久」から最後の王「尚徳」に移っていた(尚徳の在位は60〜69年)。そのあとに尚円が即位し、この先400年余の第二尚氏王統が始まる。
 (註)御物城(おものぐすく)は那覇港内の小島(現在は那覇軍港=筆註:米軍基地内)にあった王府の倉庫。海外との貿易品などを収めた。15世紀中期ごろから史料に見える。長官は鎖之側(さすぬすば)。(以下略、沖縄コンパクト事典;琉球新報社編より)※(筆註)鎖之側=御鎖側官
 弟(尚宣威)は、後見するつもりで、王位を引き受けたのであろうか。せめて、甥が成人するまで自分がという気になったのであろうか。第二尚氏王統は、まだ、横からひょいと突つけば、倒れそうな、危うい基盤の上にあった。兄の在位は10年弱であり、子(のちの尚真)はまだ11歳という状況の中では、むしろ当然の成り行きだったのかもしれない。諸説によれば、宣威はオギヤカの策略により、王の座を追われ、越来(ごえく;現在の沖縄市内)において隠居生活を送るとあり、この先、オギヤカは宣威の血筋を徹底的に排除するとされる。これ以降は、すべて想像でしか書けないけれど、人と人というのは相性で、その先すべてが決まることもある。よほど尚宣威とオギヤカは「肌があわなかった」のであろう。ことあるごとに、反目せざるを得なかった、もはや感情に走るしかなかったオギヤカ、そして、感情を封じ込めた宣威。もともと、宣威には王に就くつもりがなかったのかもしれない。弟が兄に連れられて伊是名島を離れたのは9歳の時である。もう、その時点で、兄の生活(生命)力に頼らざるを得ない状況に瀕しており、さいわい扶助された、そのことを生涯、やはり感謝する念の方が王位という座の魅力よりも強かったのではないだろうか、それゆえに、諍(あらが)うことなく、越来での遁世を、そして、その先(結果的には半年という短い生涯)を送る気になったのかもしれない。また、尚宣威は尚真を優れた王となることを予感していたのかもしれない。第一、第二王統を通じて、50年という在位期間は、もちろん若くして即位したという条件があるものの、やはり長い。ざっと、尚真の時期を振り返ると、評価に善悪が裏返しにあること、あるいは当時の琉球貿易が追い風にあったことを横に擱くとしても、国の基礎を固めたことは事実である。そのような未来を幼い甥の姿に宣威はみていて、兄(尚円)にかわり父親となっていたのであろうか。幼い尚真も宣威叔父を近しく想っていたであろう。その分、母、オギヤカは疎んじられていった。宣威が退き、真が即いたのは、そういう事情だったのかもしれない。当然、宣威の娘である居仁は父親にひっついて、真とは幼なじみの従兄妹(従弟姉かも)であったのであろう。尚真王と王妃の関係になるのは、「二人の親」である宣威が斃れた10数年後と想像できる(尚真30歳前後)。その年(1494年)、浦添朝満(尚維衡;しょう・いこう)が生まれている。
 以上は、ある意味、お家騒動のような出来事であり、1477年(尚宣威が即位〜退位〜崩御〜尚真が即位した年)は、京ではお家騒動の集合体のような「応仁の乱」が収束しつつあった。どこも、騒がしかった時代でもある。本土では、こののち、下克上を迎え、世の中はますます混乱期を迎える。
 琉球もまた、宣威の想いが影響を及ぼす世情がしばらく続く。次回は、維衡について。そして、尚寧(しょう・ねい)に馳せてみたい。

Posted at 23:10 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2007.09.10

豆名月

 いつだったか、月蝕があったという。皆既だったとも記憶している。拙ブロに付着している月齢表は只今、新月に向かっている(明晩11日)。いったん、満月(芋名月=中秋の名月、本年は9月25日、ただし、満月ではない)を迎え、二たび新月となって、のちの、旧暦9月13夜(日)を「豆名月」という。栗名月または、のちの月ともいうが、今は「まめ」にこだわっておく。満月の二夜前、つまり十三夜の月のことである。月齢表を確かめると、日付が微妙にずれ、本年は10月23日だそうであるけれども、2.5夜前に当たるのかもしれない。実は先週末(8日)にも「まめや」さんにうかがった。わたくしにとっての、豆名月である。お客さんが少ない分、お二人とまったりと過ごすことができた。
 秋が来る前にと、あわてて、『六花23号(07年夏号)』をアップした。今回は、原版に近い形で、要するに、わたくしの手抜きである_(._.)_。ただし、中味(内容)は手抜きではありません。どうぞ。

Posted at 20:51 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2007.09.08

琉球留記玉陵(たまうどぅん)

 とうとう、最後の日になってしまった。明日(11日)の今頃は、もうここ(琉球)にはいない。そういう瀬戸際になって、想ったのはやはり、首里へ行こうということ。また、忘れ物もたくさんあった。グスクの反対側に、ひっそりと、玉陵(たまうどぅん)はある。霊御殿(たまうどぅん)ともいう。玉=霊、そのことで、霊を祀る場所であることが想像できる。原則的には、第二尚氏王統の陵墓である。
 第一尚氏はというと、尚思招は「佐敷ようどれ」に、二代・尚巴志、三代・尚忠、四代・尚思達は読谷村(よみたん・そん)伊良皆(いらみな)のサシジャームイ(佐敷森)にあるという説(琉球王国)もあるが、一方で首里・天山陵を巴志の墓とする説(県立図書館)もあり、わたくしには分からないし、どちらでも良いという気もしている。ただ、第二尚氏王統に滅ぼされた系統の墓陵が切っ先にあるというのは、やはり落ち着かないのであろう、天山⇒佐敷森というのが妥当かもしれない。それ以上のことについては、調べる気分にない。読谷村伊良皆を電子地図で検めると、嘉手納空軍基地に呑みこまれそうな位置にあり、ふと下(南)をみると、嘉手納町屋良があり、阿麻和利(拙ブロ;琉球留記ε譽▲献△摑みかけた男〜勝連城「痕」07年8月19日付)が生まれ、棄てた(棄てられた)土地でもあり、また、彼の墓というのが読谷村古堅(ふるげん)地区にあるという。
 さて、玉陵は第三代尚真王により、初代の第二尚王である円王のために築造されたと、現地で頂いた小冊子に書かれている。この日も暑かったけれども、首里城と違い、木陰が多い分、コッチの方が有利である。しかも、さして、広くはない。(首里城;約2.5haに対して、その約1/10)もっとも、玉陵は首里グスクの一部と考える方が妥当で、とりたてて、分けて、比較することもない。陵内に入ると、手前に管理事務所があって、観覧券を支払う。ユイレールの駅で、ここも、一日乗車券を購入すると、大人200円が100円になると知っていたので、牧志駅で、そうしていた。細かい話であるが、牧志〜首里は片道230円、単純に求めれば660円(460円+200円)である。もちろん、1日券(600円)の方が高くなるが、そういう趣旨(企画の意図)はありがたいです、という意思をあらわすつもりでのことである。ただし、首里城内に入れば、(正価1,460円−割引価1,340円※)になるので、断然!お徳であり、残った(浮いた)金銭でもって、レストセンターの売店で島とうがらし入りソーセージ(105円だったか)を買うことができる。
※通常料金の場合
 牧志⇔首里 230円×2回=460円
 玉陵観覧料 200円
 首里城公園 800円、で、合計1,460円
※1日乗車券の場合
 (1日券) 600(プラス140円)
 玉陵観覧料 100円(▲100円)
 首里城公園 640円(▲800円)、で、合計1,340円
 最初に寄った管理事務所の地階に小さな展示室があるけれども、中味がぎっしりと詰まっている。先ほど外側から望ませていただいた東・中・西の各室内が模型として展示されている。前もって、紹介しておくと、「沖縄の世界遺産」というサイトで、今回の琉球留記でも、かなり、お世話になっている。この日は、筆記用具をもっていておらず(手ぶら)、書き留めることはできず、もちろん記憶に頼ることは不可能に近い。そのような状況の中で、上記サイトにある「被葬者一覧」によって、忘れかけた(忘れてしまった)その場で感じた想いを、辛うじて、引き戻していただいている。残念ながら、わたくしのブラウザに合っていないのか、画像が乱れていたので、無断ではあるが、エクセルに移してみた。そのうえで、少し、思ったことを書き留めたい。玉陵の核は東・中・西の各室である。中室は「洗骨」といって、亡(遺)骸を安置し、時間を経て、洗い清めた(洗骨)うえで、納骨する(東・西室)という琉球における先祖への弔い方を実践する場所である。もちろん、内部に入ることはできないけれども、おおかたのさまが、先の展示室で分かる。模型でもってみると、東・西室内には存外、大雑把に棺(厨子)が置かれ、整然感がない、それ(並べ方)にも何か意味があるのかもしれないが、今は確かめようがない。頭の中と指でもって、東室と西室の棺の関係を憶えていたつもりであるが、↑に書いたとおり、「沖縄の世界遺産」サイトに頼るしかなかった。ただ、中室に一棺だけ安置されていたのは、やはり印象的である。そのことについては、また、記したいと思う。
 中室における 洗骨というのは特別、琉球のみならず(東)アジア全般にもあって、床下埋葬というのも、そのような弔い方の過程のような気もするし、わたくしども、本土にも土葬というのが、つい最近まで広い地域において行なわれており、いったん埋葬し、何年か後に、洗骨をしたうえで、二次葬するということもあったという。以下は、わたくしの、想像である。骨と肉の比較をしている。弔った先祖の体を祀るのはミイラという方法があるけれども、わたくしどもには間遠な儀式である。むしろ、肉一切を絶って、骨として、遺すことのほうが一般的である。現在ではもっとも多い火葬はそのひとつである(ただし、機械的に過ぎるところがあるけれども)。もちろん、衛生上という理由を考えに含んでおかなければいけないが、結果だけみると、肉より骨である。もう少し、想像を勝手に拡げると、わたくしどもは、獣・魚肉を食べるが、骨は残すという、当たり前である食の行為を行なっている。これも、歯牙の強さに関わる部分があるが、わたくしども以外は食べ尽くすのが一般的であることと考えあわせれば、やはり骨に霊が宿っているという信じ方が普通なのかもしれない。それゆえ、骨を洗い、再度、葬る、肉より骨の方が物理的に「もつ」という合理的な面も含め、それが本来の弔いなのであろうか、そういう、つまらぬことを考えている。
 余計な方向に曲がってしまった、玉陵の話に戻る。「沖縄の世界遺産」による被葬者一覧を、わたくしなりに整理してみた。少し、単純化して、左欄に歴代の王を順番に安置し、右欄に王妃(尚典については夫人と記す)を照らしてみた。(実際には、東室に王・王妃、西室に子息、息女、夫人などが納められている。
[被葬者(歴代王、王妃)]
20070908121600.png
「沖縄の世界遺産/玉陵/被葬者一覧」
Copyright (C) 2005 Toru Nakamura. All Rights Reserved. をもとに作成
 みると、第8代尚豊以降については、王妃ともども、「仲良く」置かれていることが分かる。想像すれば、世が安寧であったということにもなろう(ただし、島津藩の侵略というコトの上に成り立っている)。時代を第二尚氏初代王である尚円から順に追ってみる。第2代「尚宣威(しょう・せんい)」、そして、7代「尚寧(しょう・ねい)」の名が玉陵にない。繰り返すが、8代以降は仲良く安置されていることを思えば、第二尚氏王統の成立期150年あまり(王統全体19代で約400年)の動乱期がのぞきみえてくる(16代尚成=しょう・せい、は幼くして即位したが、3〜5歳で崩御しているので未婚)。なお、もう一人、表中、青く標した「尚維衡(しょう・いこう)」は王位にはついていないが3代尚真の長子である。玉陵被葬者一覧では確認できないが、いったん、「浦添ようどれ」に埋葬され、のちに第4代尚清(しょう・せい=維衡の異母弟)によって、玉陵に遷葬されたという(同一覧の西室に維衡長女の名もある)。
 このこと(宣威、寧、維衡ら)について、引き続き、妄想している。

Posted at 19:50 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2007.09.07

万事豆腐

 まめやさんのつづきである。この日(9・1)は豆腐のみであった。もちろん、チャンプルもある。次回、うかがった際には、是非、ソッチ方面にも手(胃)を伸ばしてみようと思っている。今、わたくしどもは、豆腐だけで生きていくことができるかどうか、漠然と考えている。条件は厳しい。食材は豆腐のみで、おからは不可。ただし、生(き)のままでは食も進まないであろうから、醤油や酢などの調味料は使用可とする。当然ながら、お酒は調味料の一部と考える。ま、豆腐をあてに酒を呑む生活がいつまで続けることができるかということでもある。前回も参考にした全豆連(ぜんとうれん)のサイトによると、豆腐には、わたくしどもにとって不可欠な三大栄養素のうち、タンパク源に優れているとある(豆腐と栄養・健康)。例を挙げると、豆腐1丁(300グラム)に含まれるタンパク質は約20グラムで、これ相当を摂取するには、米飯ほぼ800グラム(お茶碗6杯)、鶏卵3〜4個(161グラム)、天然ひらめ1切れ(約100グラム)が必要であるそうだ。タンパク質だけに限れば、わたくしなら、やはり、米・卵・ひらめより豆腐を選ぶであろうか。
 以上のほか(残り二大)に、脂質(油脂類)と糖質(炭水化物)を必要とする。前者については、上記サイトによれば、リノール酸およびリノレン酸などが含まれているのでOKであるが、後者はやや困ってしまうし、それ以外にもビタミンやミネラルなどの摂取が必要になるのであろうから、実際には豆腐のみで万事が済むというわけにはいかないのであろう。ただし、健康にはよさそうである。ちなみに、まめやさんの「ユシ豆腐スバ」には三大栄養素がすべて含まれていると考えられる(⇒タンパク質=豆腐、炭水化物=そば、油脂=ユシではなく、豚肉の塩漬け)。
 チャンプルに用いられる豆腐は島豆腐という硬くて、(水分を放出するため)濃密な歯ごたえが特徴であり、煮(炒め)崩れしない。豆腐は沖縄の人たちの重要なタンパク源であるし、日常的な「おご馳走」でもある。ではと、例によって、調べてみると、家計調査の豆腐の消費支出額では、那覇市は盛岡市に次いで多くなっている。盛岡といえば、冷麺やわんこそばという単純な考えしかもっていない、わたくしであったけれども、豆腐消費量全国一の街であるらしい。(盛岡タイムス記事
[豆腐の年間消費支出額](00〜06年)※『家計調査』(総務省統計局)より
20070906124038.png
 上記表は金額であるが、消費の数量という視線で較べると、盛岡市民(世帯)は1年間で100丁を食すらしい。データは省くが、厚生労働省調べの都道府県別の豆腐製造業者数(06年3月末現在、衛生行政報告例)をみると、岩手県の人口当たり業者数は全国でもっとも多いという数字もある。では、那覇市はというと、65丁弱で、かなり下位にあるのが不思議でもある。(お店はソコソコ、全国平均以上ある)
[豆腐の消費量(丁)](04〜06年の平均)
20070906124315.png
「都道府県庁所在市別ランキング/乾物・海藻,大豆加工食品等」(家計調査/総務省統計局)より
 わたくしは、盛岡の方々に敵対的TOF(豆腐)を行なうつもりはないけれども、通常、豆腐1丁は400グラムと、全豆連の説明(豆腐の経済/流通・量目・表示)にあり、おそらく盛岡の豆腐もこの水準にある(500グラム程度もあるけれど、岩豆腐※豆腐1をクリック、4コ目)と思われるが、島豆腐(沖縄)は1キロもあって、単純に数量を重さに換算すれば、那覇市は名目(通常豆腐)65丁の倍以上の消費と考えることができ、やはり、全国一は那覇(沖縄)かとも思う。ま、あまり、(島豆腐は硬いけれど)物事は軟らかく考えた方がよろしいから、盛岡も那覇も豆腐の街ということで、お互い北と南で頑張ってくださるのが、うれしい。
 さて、足攣りには豆類が良いというのは何度も書いたけれども、豆腐にも豊富な足攣り防止源が含まれている。ニガリ自体の正体が塩化マグネシウムであり、もう、これだけで、攣りが治まる気分にもなる。たびたび、参考とするが、全豆連のサイトにも豆腐の栄養素成分について言及がある。もとのデータである「五訂(増補)日本食品標準成分表」(文部科学省)に詳しい内容がある。豆類3ページをみると、沖縄豆腐およびユシ豆腐の成分がわかる。目を惹くのは、ナトリウムとマグネシウムが多く含まれていることである。前者については塩分過多の危険性もあるけれど、筋肉や神経の機能を回復させる効果もあるらしいので、攣りにもふさわしい。もちろん、後者は適役である。
 どうやら、わたくしどもは、豆腐だけでは生きていけないのかもしれないようである。ただ、豆腐がないと、生きていけないこともあるのかなぁ、とも思っており、そのわりに、近頃は食べる機会がめっきり減っているというのも、やはり事実である。
 これから、せっせと、豆腐を食べに、うかがおう。

※NIKKEI NETの食べ物新日本奇行にも「豆腐」が特集されている。

Posted at 23:00 | 雑に | COM(0) | TB(1) |
2007.09.06

まめやさんへ

 その日(9・1)の国立新美術館は、失礼だけれども、前菜、突き出し、おまけ、あるいはアペリティフのようなものである。館を出ると、ミッドタウンまで歩き、ここにも、サントリー美術館というのがあるけれど、回避。本日は、そのまま土曜日の六本木ナイトを楽しもうという人たちが、うじゃうじゃと湧き上ってくる地下鉄大江戸線を逆方向に下る。この線には、年に1度乗るか乗らない程度の縁しかないこともあるけれど、不規則(不自然)な円(環状)を描いており、よく分からない。行き先は「飯田橋」であるが、どう乗ってよいのか、かなり迷うけれども、ま、これも、前菜だと思い、乗り換える。神楽坂というのは、かなり広い範囲をさしている。一丁目と六丁目では歩けば数分以上は要する。メインディッシュは一丁目にあるから、飯田橋でよいはずである。

 まめやさんには、ほぼ2年越しの、お初、である。

05年8月と9月に訪問、今年の7月に三度目、しかし、いずれも、渡嘉敷まめやさんには、ご縁がなかった。

 こんばんわと、まだ開店準備中のお二人が怪訝な顔でもって、わたくしをみる。↑の事情をお話し、携帯写真を見ていただく。戻ったあとに、ブログに気がつきましたと、そして、来ましたと。もちろん、東京のどまん中、島のような広さも青さもないけれども、まぎれもなく、まめやさんである。まず、ゆし豆腐を頼む、薦める、そういう呼吸でもって、しばらくすると、でてきた。本日は、豆腐のみである。もう、(新美術館や地下鉄といった)前菜やらアペリティフがあって、胃袋も限界ということもあり、本来、そば(すば)と刻み込まれたスーチカ入りのフルコースは、次回ということにしていただいた。スーチカとは、塩漬けのこと、スーチキーともいわれる。魚の塩漬けなども含まれているけれども、一般的には豚肉のそれをさす。スーチキージシあるいはスージシというと、ジシ(=シシ、肉)の塩漬けのことであるが、やはり、豚肉をさすことがフツウである。ちなみに、豚肉はウヮー・シシ、牛肉はウシ・ヌ・シシー、山羊さんはフィージャー・シシである(琉球語音声データベースより)。余談ではあるが、初めて、スーチカというメニューをみた時、СУЧКА(♀犬;露語)の肉かと、ドキッとしたことを憶えている。
 さて、ゆし豆腐はというと、おぼろ豆腐に似た、ニガリを入れて、固まる前の豆腐を掬(すく)うといえばよいのか。全豆連(ぜんとうれん)のサイトによれば、「寄せ豆腐」(豆腐の種類)ともある。YO−SE⇒YU−SHIなのだろうか。そこのところは、分からない。これは、想像であるが、発端は、水割りなんかを呑んでいて、気がつくと、氷が底をつきかけていて、冷蔵庫内の氷がまだ固まらない(凍らない)うちに、(待ちきれずに)取り出してしまうのと同じ、短気者の仕業なのかもしれない。ただ、おぼろ氷はいただけないけれども、豆腐はというと、硬い豆腐とは別物の軟らかい、ぼろぼろの、絶品豆腐が生まれる。ゆし豆腐は他所でも食したことはある。これは、雰囲気というのか、想い入れというのもあるのであろうが、まめやさんで頂いた、それには美味しいと、あらわすしかない。泡盛(久米仙)を頂きながら、ジーマーミドーフ、ジーマーミ揚げ出しドーフ、ジーマーミドーフプリンと頂戴した。こればかりは、わたくしの拙い言葉であらわしようがない。
 そう、まめやさんへ、と、ただただ、繰り返し、記す術しか、思い当たらない。(続く)

Posted at 23:43 | 雑に | COM(1) | TB(0) |