2007.12.30
肩胛骨(けんこうこつ)
もう、※十年来の悩みが、標題周りの痛みであった。疲れていたり、寒い日には、左側の背中あたりが痛みだし、それによって、心臓を圧迫されているような衝撃となって、激痛が襲う。足攣りの比ではなく、腕をグルングルン回したり、例えば、電車内であった場合は、つり革でなく、それを吊り留めている支柱にぶら下がるような形でもって、降りるまで保っている。素人考えでは、肩胛骨辺りの骨だか関節がずれており、それによって、上記のような症状が起きていると、何度か整形外科を訪ねたが、「異常なし」「運動不足」で片づけられていた。
数日前、ふと、左腕を上に挙げた際、パッ〜ッコンという音がして、以来、痛みがない。これまで、どこかしらがズレていた構造が元通りに戻ったシグナルだったのかもしれない。まだ、何日も経っていないので、一時的なものなのか、「戻った」のか判断することはできないけれども、お陰で、今は、平穏な状態が続いている。(足攣りは相変わらずであるが)
以下は伝え聞いた話なので、本当なのかどうかは分からない。ある人が歩行中に車と接触して、膝あたりの関節だかなんだかをズラしたそうで、その痛みに悩まされていたらしい。ある日、手術へと、外に出た途端、再び車に接触され、あっと、思った、次の瞬間、痛みが消えていて、どうやら、二度目の衝突で、元通りになったという・・・。今の、わたくしも、その方(かた)と近い思いで、「もとに戻った」という安寧感にひたっている。
しかし、戻らないこともある。
「薬害」もそのひとつであり、つい最近でいえば、肝炎被害者についてのニュースであろう。誤解されるかもしれないが、戻るためには、特効薬が必要である。そういう、状態を余儀なくされている。
薬事というのは国が許認可の一切を掌握しているという点では、国に全ての責がある。ただし、仮に、国に責任があると「名言」しても、一体、誰が責任を取るのか、まったく明らかにならないだろうし、今後も、明確になることはないのである。
「国破れて山河在り」は有名な漢詩(杜甫)であるが、わたくしどもの国には「国破れ、山河果てても」、残っている化け物のような組織あるいは気配が蔓延している。
被害者の方々は、補償や謝罪(あるいは国の責任を明記する)でもって満願とは思われていないであろう、ただ、元通りになりたい、そういう気持ちを、誰が「酌める」のか。
数日前、ふと、左腕を上に挙げた際、パッ〜ッコンという音がして、以来、痛みがない。これまで、どこかしらがズレていた構造が元通りに戻ったシグナルだったのかもしれない。まだ、何日も経っていないので、一時的なものなのか、「戻った」のか判断することはできないけれども、お陰で、今は、平穏な状態が続いている。(足攣りは相変わらずであるが)
以下は伝え聞いた話なので、本当なのかどうかは分からない。ある人が歩行中に車と接触して、膝あたりの関節だかなんだかをズラしたそうで、その痛みに悩まされていたらしい。ある日、手術へと、外に出た途端、再び車に接触され、あっと、思った、次の瞬間、痛みが消えていて、どうやら、二度目の衝突で、元通りになったという・・・。今の、わたくしも、その方(かた)と近い思いで、「もとに戻った」という安寧感にひたっている。
しかし、戻らないこともある。
「薬害」もそのひとつであり、つい最近でいえば、肝炎被害者についてのニュースであろう。誤解されるかもしれないが、戻るためには、特効薬が必要である。そういう、状態を余儀なくされている。
薬事というのは国が許認可の一切を掌握しているという点では、国に全ての責がある。ただし、仮に、国に責任があると「名言」しても、一体、誰が責任を取るのか、まったく明らかにならないだろうし、今後も、明確になることはないのである。
「国破れて山河在り」は有名な漢詩(杜甫)であるが、わたくしどもの国には「国破れ、山河果てても」、残っている化け物のような組織あるいは気配が蔓延している。
被害者の方々は、補償や謝罪(あるいは国の責任を明記する)でもって満願とは思われていないであろう、ただ、元通りになりたい、そういう気持ちを、誰が「酌める」のか。
2007.12.28
HARD〜はぁ〜、堵
昨夜、うとうとと、お酒を呑みながら、少し酔い気味の耳をコミュニティFMに傾けていると、懐かしい曲調が空気を通じて伝わってきた。LAST AUTUMN′S DREAM という。もう、何年前かは忘れていた、調べると4・5年前である。今は、もうすっかり、していないが、MDを聴きながら歩いていた折りのお気に入りでもあるが、MD(ディスク)自体がイカレテ、途中、音源が途切れるようになってから、ご無沙汰でもあった(MDもゴブサタ)。で、ひさしぶりに、コンポの方を使って、途切れながら、聴いてみた。歩行中と違い、音量は下げざるを得ないけれども、しっかりと、響いてきた。
拙いブログを書きながら、引き続き、「黒夢」を聴いている。こちらは音源も無事で、大きな音で聴けないのが残念である(MDを確かめたら、充電不足・・・)。
Mikael Erlandsson(ミカエル・アーランドション)の2枚のアルバムも聴いてみようか?
疲れた〜HARD LUCKな日は、コレ (HARD ROCK)がなお一層、HARDで良い。
拙いブログを書きながら、引き続き、「黒夢」を聴いている。こちらは音源も無事で、大きな音で聴けないのが残念である(MDを確かめたら、充電不足・・・)。
Mikael Erlandsson(ミカエル・アーランドション)の2枚のアルバムも聴いてみようか?
疲れた〜HARD LUCKな日は、コレ (HARD ROCK)がなお一層、HARDで良い。
2007.12.24
24日12月
忙しいので、めりいくりすます、だけ。ブログは当分、お休み。
下はサンタさんの鉛筆削り。今は、もう、使うことが、さっぱりない。
先日、あるところで、カランダッシュの万年筆を観た。こちら(万年筆)も、さっぱり使うことがない。それだから、日に日に、字を忘れていく。
ちなみに、ロシア語でカランダーシ(КАРАНДАШ)は鉛筆。そういう、説明が1メートル四方のショーケースのキャプションにもあった。
[カランダッシュ]のサイト
[サンタさんの鉛筆削り]※サンタさんは忙しい

では、忙しいので。
下はサンタさんの鉛筆削り。今は、もう、使うことが、さっぱりない。
先日、あるところで、カランダッシュの万年筆を観た。こちら(万年筆)も、さっぱり使うことがない。それだから、日に日に、字を忘れていく。
ちなみに、ロシア語でカランダーシ(КАРАНДАШ)は鉛筆。そういう、説明が1メートル四方のショーケースのキャプションにもあった。
[カランダッシュ]のサイト
[サンタさんの鉛筆削り]※サンタさんは忙しい

では、忙しいので。
2007.12.19
百選
わたくしどもは、何かとつけて、選びたがる。それが、標題の百選にもつながっている。古くからでは、・・・三景、三大などが一般的で、拙ブロでも、そんなことを書いたことがあった。(「ふ(み)・づき」05年7月2日付)
ちなみに、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で「百選」をあたってみると、「百」を超える百選があって、ひとつひとつ、ふれていきたいけれども、時間も気力もないので、省くが、「日本百名山」(深田久弥氏・撰)がやはり、筆頭だろうか。同書が世に出たのが64年らしい、それ以前に雑誌などで発表されていたのをまとめたのであろうか、それにしても東京オリンピックの年に、そういう書が出ていたとは、うっかりであるが、知らなかった、注目されだしたのは、ずっと、あとのことである。上記、ウィキペディアによれば、80年代からとのことであるが、TVで、そのような内容のプログラムを見た憶えもある、たぶん、その頃より、だいぶあとであったように思う。ちょうど、バブルがはじけそうな(はじけた)頃で、山を登っていたつもりが、たちまち、転げ落ちていたことに気づいたからではないけれども、なんだか、むなしくて、「《山》にでも登ろう」という人が多くなったのかもしれない。ちなみに、わたくしは、もちろん、ひとつも登ったことも転げ落ちたこともない。最近では金立(きんりゅう)山に登る羽目になったが、これは、いき(ゆき)ががりのうえであり、本人の意志ではなかった。(拙ブロ「不慣れ」07年4月7日付)
昨日(18日)、時事.COMから、一つ、また、百選が出たということを知った。(12月18日付)※リンク切れありかも?「郷土料理百選」という。内容については、以下を参照してほしい。
[農山漁村の郷土料理百選](農林水産省サイトより)
また、農山漁村に限定しない、「御当地人気料理特選」というのが23コあって、コッチを眺めていると、「B−1グランプリ」“出品”作がいくつか重なっていた。それ以外の作についても、もしかしたら、B級グルメとして、近い将来に登場するのかもしれない。
(それは)さて(おき)、このような「選びたがり」を、冒頭に記したように、わたくしどもは大好きで、最近発刊された☆☆ミシュラン☆なども、その良い例である(発刊者の本来の意図は別として)。ただ、選んだほう、あるいは選ばれたほうはフンフンと納得顔なのであろうが、そうでない側はナゼ?と振り上げたコブシの置き所に困るところであろう。そもそも、選ぶということ自体、無茶な相談ということは分かっていても、選んでしまうところが、「たがり」なのである。買っただけで、使っていない古語辞典をひっぱってみた(拙ブロ「古書店にて」07年11月8日付)。一方には出ていないので、他方を引用する。
【たがる】表現者以外の者が希望している意を表す。(中略)希望の助動詞「たし」の語幹「た」+接尾語「がる」の一語化・・・(最新 詳解古語(佐藤定義氏編・明治書院より)
ちなみに「がる」は《・・・のように思う、ふるまう、感じる》という意味があるそうだ(出典は前記と同じ)。したがって、わたくしどもは・・・たがるという表現は誤っており、わたくし以外ども、は、・・・たがるという、高慢な物謂いになってしまうので、上記は訂正、「一般に」とでも置き換えておこう。粋(いき)がるという、「ぶる」とも似ている(選びたぶる、とはあらわさないけれど)。ブルぶるは、ブルジョアぶる、ぶりっ子もおそらく、その派生言葉であろう、「ぶる」は「ガル」以上に高慢な言い方でもあるらしい。
今、一度、郷土料理に戻る。
郷土料理選考委員会も、そのあたり(選びたがる)を酌んでか、100のうち、1席だけ、空けておいてくれた。同審査過程の報告には、
《また、郷土料理には、一人ひとりそれぞれの思い入れがあると思います。選定委員会は、「皆様のそれぞれの思いで、ご自分の一押しの農山漁村の郷土料理を最後の1品に加えてもらい、百選を完成させていただきたい」との考えで、選定数を99品としました。》と、ある。(平成19年12月18日〜第3回郷土料理百選選定委員会の結果について)
折角だから、お言葉に甘えて、足しておきたいと思う。
郷土料理は郷土の数だけあり、お土産物はそこを訪ねた人の数だけある。おふくろの味はおふくろの数、いえ、それを口にした姉妹兄弟の数だけある、などと、粋がっている場合ではない。
さてぇ、なんにしようか?
ちなみに、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で「百選」をあたってみると、「百」を超える百選があって、ひとつひとつ、ふれていきたいけれども、時間も気力もないので、省くが、「日本百名山」(深田久弥氏・撰)がやはり、筆頭だろうか。同書が世に出たのが64年らしい、それ以前に雑誌などで発表されていたのをまとめたのであろうか、それにしても東京オリンピックの年に、そういう書が出ていたとは、うっかりであるが、知らなかった、注目されだしたのは、ずっと、あとのことである。上記、ウィキペディアによれば、80年代からとのことであるが、TVで、そのような内容のプログラムを見た憶えもある、たぶん、その頃より、だいぶあとであったように思う。ちょうど、バブルがはじけそうな(はじけた)頃で、山を登っていたつもりが、たちまち、転げ落ちていたことに気づいたからではないけれども、なんだか、むなしくて、「《山》にでも登ろう」という人が多くなったのかもしれない。ちなみに、わたくしは、もちろん、ひとつも登ったことも転げ落ちたこともない。最近では金立(きんりゅう)山に登る羽目になったが、これは、いき(ゆき)ががりのうえであり、本人の意志ではなかった。(拙ブロ「不慣れ」07年4月7日付)
昨日(18日)、時事.COMから、一つ、また、百選が出たということを知った。(12月18日付)※リンク切れありかも?「郷土料理百選」という。内容については、以下を参照してほしい。
[農山漁村の郷土料理百選](農林水産省サイトより)
また、農山漁村に限定しない、「御当地人気料理特選」というのが23コあって、コッチを眺めていると、「B−1グランプリ」“出品”作がいくつか重なっていた。それ以外の作についても、もしかしたら、B級グルメとして、近い将来に登場するのかもしれない。
(それは)さて(おき)、このような「選びたがり」を、冒頭に記したように、わたくしどもは大好きで、最近発刊された☆☆ミシュラン☆なども、その良い例である(発刊者の本来の意図は別として)。ただ、選んだほう、あるいは選ばれたほうはフンフンと納得顔なのであろうが、そうでない側はナゼ?と振り上げたコブシの置き所に困るところであろう。そもそも、選ぶということ自体、無茶な相談ということは分かっていても、選んでしまうところが、「たがり」なのである。買っただけで、使っていない古語辞典をひっぱってみた(拙ブロ「古書店にて」07年11月8日付)。一方には出ていないので、他方を引用する。
【たがる】表現者以外の者が希望している意を表す。(中略)希望の助動詞「たし」の語幹「た」+接尾語「がる」の一語化・・・(最新 詳解古語(佐藤定義氏編・明治書院より)
ちなみに「がる」は《・・・のように思う、ふるまう、感じる》という意味があるそうだ(出典は前記と同じ)。したがって、わたくしどもは・・・たがるという表現は誤っており、わたくし以外ども、は、・・・たがるという、高慢な物謂いになってしまうので、上記は訂正、「一般に」とでも置き換えておこう。粋(いき)がるという、「ぶる」とも似ている(選びたぶる、とはあらわさないけれど)。ブルぶるは、ブルジョアぶる、ぶりっ子もおそらく、その派生言葉であろう、「ぶる」は「ガル」以上に高慢な言い方でもあるらしい。
今、一度、郷土料理に戻る。
郷土料理選考委員会も、そのあたり(選びたがる)を酌んでか、100のうち、1席だけ、空けておいてくれた。同審査過程の報告には、
《また、郷土料理には、一人ひとりそれぞれの思い入れがあると思います。選定委員会は、「皆様のそれぞれの思いで、ご自分の一押しの農山漁村の郷土料理を最後の1品に加えてもらい、百選を完成させていただきたい」との考えで、選定数を99品としました。》と、ある。(平成19年12月18日〜第3回郷土料理百選選定委員会の結果について)
折角だから、お言葉に甘えて、足しておきたいと思う。
郷土料理は郷土の数だけあり、お土産物はそこを訪ねた人の数だけある。おふくろの味はおふくろの数、いえ、それを口にした姉妹兄弟の数だけある、などと、粋がっている場合ではない。
さてぇ、なんにしようか?
2007.12.17
粧芸(Chingay)
所用で新加坡(星港)を旅している。もちろん、机上、電子上であり、心は別として、身はコッチにある(ココロも半分以上はコッチだけど)。もう、コッチは正月まで「もういくつ・・・」の段階に近づいてきたけれども、中国暦(旧暦)における正月(春節)は、もう少し寝ないと来ないようで、次年は2月7日(木曜)である。何度か横浜の中華街や神戸南京町で、その夜にぶつかったことがあり、龍の舞やら爆竹の音を肴に呑んでいたことがある。
標題は所用の旅路(バーチャル)で知ったことである。チンゲイ〜思わず珍芸と解釈したが、そうではなかった。「仮装の技(芸)」(Art of masquerading)ともいわれる。※「チンゲイパレードについて」(財団法人自治体国際化協会[CLAIR]シンガポール事務所サイトより)
正月明けの最初の週末がその日に当るようである。来年は2月16日(土)、もちろん、お祭であるから前夜祭も附いている(15日)。どうやら「Chingay PARADE OF DREAMS」というのが正式な名前のようで、公式サイトには、そうある。シンガポールは8割程度が中国系の人たちで占められるが、他に、マレー系、ヒンズー系の人々も住んでいるから、正月も3度(西暦を加えると4度)あり、楽しそうである。チンゲイはその中でももっとも賑わうのであろう。わたくしが横浜や神戸で体験したようにアチラコチラで響いていた爆竹が、72年に星港(シンガポールの別称)の市街地で暴発し、死亡者がでてしまったことから、同政府は爆竹の使用を禁じ、翌年、(爆竹にかわる「華」として)チンゲイが創(はじ)まったと、上記公式サイトにある。決して、喜ばしい創まりではない。また、チンゲイそのものは、マレーシアのペナンで19世紀末に創まったともあり、これをヒントに当時のリー・クアン・ユー(Lee Kuan Yew)首相が発案したものとも書かれている(ABOUT CHINGAY〜公式サイトより)。
今年(07年)で35回目になるのであろうか、日本からの参加もあり、90年に「だんじり」が初めて参加し、以降、毎年ではないものの、94年「博多どんたく」「阿波踊り」、96年「いか踊り」(函館市)と「さんさ踊り」(岩手県)、99年には「エイサー」も参加している。98年の「伊賀忍者」は是非見ておきたかった。(「シンガポールの政策(2005年改訂版)」〜32頁〜CLAIRより)来年は36回目(計算が間違っていなければ)、3と(+)6で9(※3×6=18で、1+8で9、※2008年2月16日で9=[0=2+0+0+8]+[9=2+1+6])、華人系の方(かた)が好む数字でもあり、なお、いっそうの賑わいになるのであろう。
標題は所用の旅路(バーチャル)で知ったことである。チンゲイ〜思わず珍芸と解釈したが、そうではなかった。「仮装の技(芸)」(Art of masquerading)ともいわれる。※「チンゲイパレードについて」(財団法人自治体国際化協会[CLAIR]シンガポール事務所サイトより)
正月明けの最初の週末がその日に当るようである。来年は2月16日(土)、もちろん、お祭であるから前夜祭も附いている(15日)。どうやら「Chingay PARADE OF DREAMS」というのが正式な名前のようで、公式サイトには、そうある。シンガポールは8割程度が中国系の人たちで占められるが、他に、マレー系、ヒンズー系の人々も住んでいるから、正月も3度(西暦を加えると4度)あり、楽しそうである。チンゲイはその中でももっとも賑わうのであろう。わたくしが横浜や神戸で体験したようにアチラコチラで響いていた爆竹が、72年に星港(シンガポールの別称)の市街地で暴発し、死亡者がでてしまったことから、同政府は爆竹の使用を禁じ、翌年、(爆竹にかわる「華」として)チンゲイが創(はじ)まったと、上記公式サイトにある。決して、喜ばしい創まりではない。また、チンゲイそのものは、マレーシアのペナンで19世紀末に創まったともあり、これをヒントに当時のリー・クアン・ユー(Lee Kuan Yew)首相が発案したものとも書かれている(ABOUT CHINGAY〜公式サイトより)。
今年(07年)で35回目になるのであろうか、日本からの参加もあり、90年に「だんじり」が初めて参加し、以降、毎年ではないものの、94年「博多どんたく」「阿波踊り」、96年「いか踊り」(函館市)と「さんさ踊り」(岩手県)、99年には「エイサー」も参加している。98年の「伊賀忍者」は是非見ておきたかった。(「シンガポールの政策(2005年改訂版)」〜32頁〜CLAIRより)来年は36回目(計算が間違っていなければ)、3と(+)6で9(※3×6=18で、1+8で9、※2008年2月16日で9=[0=2+0+0+8]+[9=2+1+6])、華人系の方(かた)が好む数字でもあり、なお、いっそうの賑わいになるのであろう。
2007.12.15
矢切と矢作
昨日、岩盤浴に出かけた。わずか25分の「盤上浴」であるが、汗がひとしきり大量で、そのあとの水分補給が美味しかった。その前に、気になっていた栗山浄水場に寄った(拙ブロ「|2|(絶対値2)」07年12月2日付)。幹線道路を離れ、住宅地を抜けると、そこに、鎮座していた。もう一度、繰り返すと、「栗山浄水場」は千葉県内では千葉市内矢作にある塔と同時期に建設された施設であり、戦禍をまぬかれて、当時の姿に近い容(かたち)でもって遺(のこ)っているそうである。現地の案内板によると、「配水塔」が正しいようで(浄水場はあたり一帯の施設を示している)、塔の高低差圧でもって、現在も配水を行なっているとあったけれども、どういうことか、わたくしには、さっぱり分からない。高低ということであれば、配水塔に向かうまでの道のりは予想外に上っており、暖かなお日和であったから、ここで、もう汗を流していたのかもしれない、その作用の所為なのだろうか、あとの岩盤で、残りがいっせいに噴きだしたのであろう。
[栗山浄水場“の”配水塔]

矢切の地名は「谷切れ(やきれ)」から来ているのでは、と知った。松戸市のサイトに同市の標高(=海抜)が紹介されていて、おおざっぱに記せば、東側が台地上(最高地点は32.4メートル〜21世紀の森と広場内生命の森付近)であり、西漸するにしたがって、標高は下がり、同市栄町周辺では5歳児の背丈(文部科学省・平成19年度学校保健統計調査速報より)ほど(110センチ)になる。矢切の渡しがある江戸川付近も、もちろん台地より低く、現在の「矢切」辺り一帯はその北隣を「小山(こやま)」と謂い、南を「栗山」と呼んだ(現在も同じ)。この二つの山に沿って谷を切っているから、「やきれ→やきり」らしい。したがって、今でも、「やぎり」ではなく、「やきり」がこの辺りの方(かた)の謂い方だともある。(「ふれあいGASパーク/ふれあい交差点/地名町名の由来/6・中世豪族と地名/松戸編(中)」京葉ガスHPより)
[タバコ屋の“やきり”屋さん]まったく知らないけれど。
[やきり放課後児童クラブ]もちろん、知らないけれども、やはり、やきり、である。(松戸市放課後児童クラブ運営費補助金交付要綱より)
栗山の配水塔は谷の上手にあって、少し高くなっている。とはいえ、松戸市自体が坦とした「なり」をしているから、お世辞にも高いとは言えないないのであるが、坦(たい)らかであるがゆえに、周りから望めば山に見えるのである。そこへ、配水塔が立った(建った)。1937(昭和12)年のことである。高さ31.9メートルだから、21世紀の森(同市の最高地点)と遜色がなく、また、周りが低く、そこ(栗山)だけが高いから、以前は、その容姿がはっきりと、遠目からも眺めることができたのであろう。只今は、その頭だけが、「にょこ(き)」と矢切駅付近から拝めるだけなのかもしれない。
参考1;[矢切の由来(謂われ)](Ena(イーナ)/国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所より)
参考2;[「栗山配水塔」が土木学会選奨土木遺産に認定されました。](千葉県水道局のサイトより)
参考3;これも[栗山浄水場の配水塔](「ウェブ版千葉県の産業・交通遺跡へようこそ」より)
土木学会選奨土木遺産は栗山の配水塔とほぼ同時期にできた「千葉高架水槽」(旧千葉県都川給水塔)を03年度に認定している。こちらは千葉市中央区矢作町670(誉田給水場千葉分場内)にあって、千葉東金道路が京葉道路とぶつかる辺りを西に少し寄った場所にある。容は、栗山のとは若干異なってみえるが、「様(さま)」は似ている。矢作(やはぎ)町は縄文来の遺跡(矢作貝塚)があるという。いわれは、矢を作っていた場所ということらしく、現在でいう水塔付近である。愛知県のほぼ中央を流れる川を矢作川という。その由来もやはり、矢を作る民が住んでいたという説がある。[矢作川の名前の由来](国土交通省中部地方整備局豊橋河川事務所)
矢作は、矢矧とも記して、「矧」には「竹に鳥の羽をはめ込んで、矢を作る」と漢和辞典にある。「空撮 矢作貝塚・矢作砦 (1974年)」というページが千葉市の遺跡を歩く会のサイトにあって、おおよその位置関係が分かる。そこに「竹山」という地名らしき文字もあり、ソコラで採取した竹を細工して、弁天様の杜に巣くっているワシやタカが落とした羽根でも拾い集めて、矧(は)いでいたのであろうか。
今、矢切付近では外環道路の工事が進んでいて、谷ばかりか、土地ごと、ものすごい、勢いで切られており、滑走路並みの威容(異様)を、バスから眺めて、少し、戸惑った。
[守れ!矢切](松戸市矢切・小山地区外環道路問題対策協議会)
[外環道の計画](国土交通省関東地方整備局首都国道事務所)※しかし、国交省には一体、いくつの事務所があるのだろうか(?)
坦蕩(たんとう)という言葉がある。日頃から、その筋(蕩)には流されないよう気を留めているけれども、たんとう、は、そうでもない。
「やきり」のお湯に浸かっていると、そういう感じ(漢字)を想い出した。そこに住んでいない、身勝手な遊蕩気分でしかない。
[栗山浄水場“の”配水塔]

矢切の地名は「谷切れ(やきれ)」から来ているのでは、と知った。松戸市のサイトに同市の標高(=海抜)が紹介されていて、おおざっぱに記せば、東側が台地上(最高地点は32.4メートル〜21世紀の森と広場内生命の森付近)であり、西漸するにしたがって、標高は下がり、同市栄町周辺では5歳児の背丈(文部科学省・平成19年度学校保健統計調査速報より)ほど(110センチ)になる。矢切の渡しがある江戸川付近も、もちろん台地より低く、現在の「矢切」辺り一帯はその北隣を「小山(こやま)」と謂い、南を「栗山」と呼んだ(現在も同じ)。この二つの山に沿って谷を切っているから、「やきれ→やきり」らしい。したがって、今でも、「やぎり」ではなく、「やきり」がこの辺りの方(かた)の謂い方だともある。(「ふれあいGASパーク/ふれあい交差点/地名町名の由来/6・中世豪族と地名/松戸編(中)」京葉ガスHPより)
[タバコ屋の“やきり”屋さん]まったく知らないけれど。
[やきり放課後児童クラブ]もちろん、知らないけれども、やはり、やきり、である。(松戸市放課後児童クラブ運営費補助金交付要綱より)
栗山の配水塔は谷の上手にあって、少し高くなっている。とはいえ、松戸市自体が坦とした「なり」をしているから、お世辞にも高いとは言えないないのであるが、坦(たい)らかであるがゆえに、周りから望めば山に見えるのである。そこへ、配水塔が立った(建った)。1937(昭和12)年のことである。高さ31.9メートルだから、21世紀の森(同市の最高地点)と遜色がなく、また、周りが低く、そこ(栗山)だけが高いから、以前は、その容姿がはっきりと、遠目からも眺めることができたのであろう。只今は、その頭だけが、「にょこ(き)」と矢切駅付近から拝めるだけなのかもしれない。
参考1;[矢切の由来(謂われ)](Ena(イーナ)/国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所より)
参考2;[「栗山配水塔」が土木学会選奨土木遺産に認定されました。](千葉県水道局のサイトより)
参考3;これも[栗山浄水場の配水塔](「ウェブ版千葉県の産業・交通遺跡へようこそ」より)
土木学会選奨土木遺産は栗山の配水塔とほぼ同時期にできた「千葉高架水槽」(旧千葉県都川給水塔)を03年度に認定している。こちらは千葉市中央区矢作町670(誉田給水場千葉分場内)にあって、千葉東金道路が京葉道路とぶつかる辺りを西に少し寄った場所にある。容は、栗山のとは若干異なってみえるが、「様(さま)」は似ている。矢作(やはぎ)町は縄文来の遺跡(矢作貝塚)があるという。いわれは、矢を作っていた場所ということらしく、現在でいう水塔付近である。愛知県のほぼ中央を流れる川を矢作川という。その由来もやはり、矢を作る民が住んでいたという説がある。[矢作川の名前の由来](国土交通省中部地方整備局豊橋河川事務所)
矢作は、矢矧とも記して、「矧」には「竹に鳥の羽をはめ込んで、矢を作る」と漢和辞典にある。「空撮 矢作貝塚・矢作砦 (1974年)」というページが千葉市の遺跡を歩く会のサイトにあって、おおよその位置関係が分かる。そこに「竹山」という地名らしき文字もあり、ソコラで採取した竹を細工して、弁天様の杜に巣くっているワシやタカが落とした羽根でも拾い集めて、矧(は)いでいたのであろうか。
今、矢切付近では外環道路の工事が進んでいて、谷ばかりか、土地ごと、ものすごい、勢いで切られており、滑走路並みの威容(異様)を、バスから眺めて、少し、戸惑った。
[守れ!矢切](松戸市矢切・小山地区外環道路問題対策協議会)
[外環道の計画](国土交通省関東地方整備局首都国道事務所)※しかし、国交省には一体、いくつの事務所があるのだろうか(?)
坦蕩(たんとう)という言葉がある。日頃から、その筋(蕩)には流されないよう気を留めているけれども、たんとう、は、そうでもない。
「やきり」のお湯に浸かっていると、そういう感じ(漢字)を想い出した。そこに住んでいない、身勝手な遊蕩気分でしかない。
2007.12.14
我々は存在する価値有りや?!(IE版)
一昨日の拙ブロが乱れているということらしい。もともと、乱れているので、いまさら何をと思っていたけれども、どうも、文字が化けているというか、ある箇所から以降が、「大」表示になっているようである。詳しい原因は分からないが、どうも、ブラウザによる影響らしい。わたくしは、ふだん、FIREFOXを使っており、緊急用(サイトによっては、FF対応でない場合があるので)としてNETSCAPEを備えている。しかし、IE(インターネットエクスプローラー)はまるで範囲外なのである。そこのところに訳があった。試しに、電子地図のヘルプ(IE対応)から、拙ブロを検索し、画面を確かめてみると、あれあれ、「殿、ご乱心」というのか、たいへんなことになっている。申し訳ないけれども、火狐かネスケで見て、と書きたいところだが、そうもいかないので、あらためて、「難しい漢字」の字体を通常サイズに戻し、再録した。
「麤」(鹿鹿の上に鹿)、この字が出ないようでもある・・・・。
まだ、おかしいようだったら、やはり、ブラウザの変更を薦める。
(後記)やはり、おかしいのは、鹿鹿鹿のようであったので、前回の分を修正したら〜凹(鹿鹿の上に鹿)、IEでも通常表示されている。(-_-メ)
以下、繰り返しになるが、あえて、残しておく。
二たび「我々は存在する価値有りや?!」
相変わらず、呑んでいて、ちょっと、胃に入れておこうかと、スーパーフレッシュ柿の種(6袋詰め)を口に落としている。各袋の裏面には「けなげ組」(なかなか、そうは読むことはできなかったが、そうらしい)という豆(種か?)知識が記載されていて、なかなか面白い。今ある手持ちの4袋(2袋は食べて、もう、ない)をみると、「ろくろ」(会員番号51)、「なずな(ペンペン草)」(同54)、あるいは、「肝臓」(同49)などという、ちょっとドキッとするのもある。その中のひとつ(食べてしまった空の袋)に会員番号59「難しい漢字」というのがあって、それが、下の画像であり、脚注として、標題の「我々は・・・」が付けられている。そのとおりで、難しい。
[KY](漢字読めない、し、KK漢字書けない)

上の画像では分からないので、手書き入力で「作って」みた。字画が多すぎるので、字のサイズを「大」指定にした。これらについて、あらためて、漢和辞典と照らし、知ったかぶりの蘊蓄(これも難しい字である)を記す。なお、字の前にあるのは、わたくしの能力、KY(読めない) =×、読めた=△(ただし、書けない)の意味で(○はない・・・)、後のカタカナ表記は音読み、ひらがなは訓読みである。
×蠶 サン、ゾン、かいこ
蚕の旧字である。かなり略体されている。蚕糸はサンシ、養蚕はヨウサン、ただし、ゾンと読まれる使用例は、見当たらないし、国語辞典にもない。もちろん、初めて、知った。ついででもって、似たような字面であったので、記しておく。《タテガミ》である。
×鬣 リョウ たてがみ(※これは「けなげ組」にはない)
馬のタテガミ(刺し)というのがあって、以前、熊本を訪ねた際に見かけて、頼んでみたが、、脂っこくて、ダメであった。
×殲 セン つくす ほろぼす
これは懺悔か、と思ったけれども、それ以上に深刻な漢字であった。漢和辞典には「ひとり残らず殺す」とある。殲滅(せんめつ)。
△鬱 ウチ ウツ ふさぐ
これは読むことはできたが、書けない。
△變 ヘン かわる かえる
変梃(へんてこ)の變である。「へんてこ」については、もっか調査中である。(拙ブロ「変梃」11月12日付)
△顰 ヒン ビン しかめる ひそめる
わたくしが、いつも買っている(買わせている)ヤツである。
×鹽 エン しお
塩である。
鹵莽(ろもう)といって、「おおざっぱで、細かい気配りがない」(顰蹙モノ)ことを意味するが、鹵という字にも塩の意があり、こっちは塩土(転じて、荒れ地)、塩辛いのほかに、にぶいなどとも解される。莽は草(ぼうぼう)の「ぼう」である。もちろん、知らなかった。
×齲 ク ウ むしば
横(禹)だけであれば読めたのにねえ、歯(齒)が生えてしまったから、読めない。実際は、その逆のようである。
×麤 ソ あらい
×驫 ヒョウ (※これは「けなげ組」にはない)
鹿というのは、そういう扱いをされているのであろうか、「粗忽もの、細かくない」そのような意味である。ではと、馬三匹はどうかというと、驫(ひょう)、残念ながら手許の辞書には載っていない。轟は「とどろき(く)」であるが、自動車の前は汽車、その前は馬であったので、これも、「とどろき(く)」でよさそうである。トドロキとキーをたたくと、驫木とあった。五能線にある駅名そして所在する土地の名前だそうである。試しに電子地図でみると、エライ場所にあるが、いつか、行ってみたい。
×讎 シュウ ズ むくいる あだ かたき
誰かと誰かが一方が読み、他方が聞きとっていく地味で、根気を要する作業を「讎」というらしいけれども、これが本来の校正であるらしい。
△鑿 サク、ザク、のみ、うがつ
鏨(サン、ゼン、セン)、金属や石を彫る場合はこちらを使う(らしい)。
△黴 バイ、ビ、かび
手持ちの辞書には、もともと、「青黒くなる現象」とある、なるほど、黒が用いられている。白カビの類は、とも思ったが、特に区別はないようである。
△蠻 バン、メン、えびす
「變→変」の法則に倣えば、蠻→蛮ということであろう。えびす様というと、なんだかおめでたいけれども、蠻、あるいは、戎、胡、夷とあらわすと、この「様」は結構複雑な、お方のようである。
本日は、難しいブログになってしまった。(疲)
「柿の種」関連で、おもしろい記事を見つけたので、紹介しておく。
[【緊急調査】亀田の柿ピーの柿の種とピーナツの比率]
けなげ組はこっちで。
「けなげ組み会員番号59」(亀田製菓蝓
ついでに、
参考拙ブロ「東海道新幹線味巡り」07年11月14日付)
KYとは。
参考:KY 空気読めない(ということらしい)
参考:K・Y 朝日新聞によるサンゴ報道の捏造記事で刻まれた(傷つけられた)イニシアル
[朝日新聞HP]
「麤」(鹿鹿の上に鹿)、この字が出ないようでもある・・・・。
まだ、おかしいようだったら、やはり、ブラウザの変更を薦める。
(後記)やはり、おかしいのは、鹿鹿鹿のようであったので、前回の分を修正したら〜凹(鹿鹿の上に鹿)、IEでも通常表示されている。(-_-メ)
以下、繰り返しになるが、あえて、残しておく。
二たび「我々は存在する価値有りや?!」
相変わらず、呑んでいて、ちょっと、胃に入れておこうかと、スーパーフレッシュ柿の種(6袋詰め)を口に落としている。各袋の裏面には「けなげ組」(なかなか、そうは読むことはできなかったが、そうらしい)という豆(種か?)知識が記載されていて、なかなか面白い。今ある手持ちの4袋(2袋は食べて、もう、ない)をみると、「ろくろ」(会員番号51)、「なずな(ペンペン草)」(同54)、あるいは、「肝臓」(同49)などという、ちょっとドキッとするのもある。その中のひとつ(食べてしまった空の袋)に会員番号59「難しい漢字」というのがあって、それが、下の画像であり、脚注として、標題の「我々は・・・」が付けられている。そのとおりで、難しい。
[KY](漢字読めない、し、KK漢字書けない)

上の画像では分からないので、手書き入力で「作って」みた。字画が多すぎるので、字のサイズを「大」指定にした。これらについて、あらためて、漢和辞典と照らし、知ったかぶりの蘊蓄(これも難しい字である)を記す。なお、字の前にあるのは、わたくしの能力、KY(読めない) =×、読めた=△(ただし、書けない)の意味で(○はない・・・)、後のカタカナ表記は音読み、ひらがなは訓読みである。
×蠶 サン、ゾン、かいこ
蚕の旧字である。かなり略体されている。蚕糸はサンシ、養蚕はヨウサン、ただし、ゾンと読まれる使用例は、見当たらないし、国語辞典にもない。もちろん、初めて、知った。ついででもって、似たような字面であったので、記しておく。《タテガミ》である。
×鬣 リョウ たてがみ(※これは「けなげ組」にはない)
馬のタテガミ(刺し)というのがあって、以前、熊本を訪ねた際に見かけて、頼んでみたが、、脂っこくて、ダメであった。
×殲 セン つくす ほろぼす
これは懺悔か、と思ったけれども、それ以上に深刻な漢字であった。漢和辞典には「ひとり残らず殺す」とある。殲滅(せんめつ)。
△鬱 ウチ ウツ ふさぐ
これは読むことはできたが、書けない。
△變 ヘン かわる かえる
変梃(へんてこ)の變である。「へんてこ」については、もっか調査中である。(拙ブロ「変梃」11月12日付)
△顰 ヒン ビン しかめる ひそめる
わたくしが、いつも買っている(買わせている)ヤツである。
×鹽 エン しお
塩である。
鹵莽(ろもう)といって、「おおざっぱで、細かい気配りがない」(顰蹙モノ)ことを意味するが、鹵という字にも塩の意があり、こっちは塩土(転じて、荒れ地)、塩辛いのほかに、にぶいなどとも解される。莽は草(ぼうぼう)の「ぼう」である。もちろん、知らなかった。
×齲 ク ウ むしば
横(禹)だけであれば読めたのにねえ、歯(齒)が生えてしまったから、読めない。実際は、その逆のようである。
×麤 ソ あらい
×驫 ヒョウ (※これは「けなげ組」にはない)
鹿というのは、そういう扱いをされているのであろうか、「粗忽もの、細かくない」そのような意味である。ではと、馬三匹はどうかというと、驫(ひょう)、残念ながら手許の辞書には載っていない。轟は「とどろき(く)」であるが、自動車の前は汽車、その前は馬であったので、これも、「とどろき(く)」でよさそうである。トドロキとキーをたたくと、驫木とあった。五能線にある駅名そして所在する土地の名前だそうである。試しに電子地図でみると、エライ場所にあるが、いつか、行ってみたい。
×讎 シュウ ズ むくいる あだ かたき
誰かと誰かが一方が読み、他方が聞きとっていく地味で、根気を要する作業を「讎」というらしいけれども、これが本来の校正であるらしい。
△鑿 サク、ザク、のみ、うがつ
鏨(サン、ゼン、セン)、金属や石を彫る場合はこちらを使う(らしい)。
△黴 バイ、ビ、かび
手持ちの辞書には、もともと、「青黒くなる現象」とある、なるほど、黒が用いられている。白カビの類は、とも思ったが、特に区別はないようである。
△蠻 バン、メン、えびす
「變→変」の法則に倣えば、蠻→蛮ということであろう。えびす様というと、なんだかおめでたいけれども、蠻、あるいは、戎、胡、夷とあらわすと、この「様」は結構複雑な、お方のようである。
本日は、難しいブログになってしまった。(疲)
「柿の種」関連で、おもしろい記事を見つけたので、紹介しておく。
[【緊急調査】亀田の柿ピーの柿の種とピーナツの比率]
けなげ組はこっちで。
「けなげ組み会員番号59」(亀田製菓蝓
ついでに、
参考拙ブロ「東海道新幹線味巡り」07年11月14日付)
KYとは。
参考:KY 空気読めない(ということらしい)
参考:K・Y 朝日新聞によるサンゴ報道の捏造記事で刻まれた(傷つけられた)イニシアル
[朝日新聞HP]
2007.12.12
我々は存在する価値有りや?!
相変わらず、呑んでいて、ちょっと、胃に入れておこうかと、スーパーフレッシュ柿の種(6袋詰め)を口に落としている。各袋の裏面には「けなげ組」(なかなか、そうは読むことはできなかったが、そうらしい)という豆(種か?)知識が記載されていて、なかなか面白い。今ある手持ちの4袋(2袋は食べて、もう、ない)をみると、「ろくろ」(会員番号51)、「なずな(ペンペン草)」(同54)、あるいは、「肝臓」(同49)などという、ちょっとドキッとするのもある。その中のひとつ(食べてしまった空の袋)に会員番号59「難しい漢字」というのがあって、それが、下の画像であり、脚注として、標題の「我々は・・・」が付けられている。そのとおりで、難しい。
[KY](漢字読めない、し、KK漢字書けない)

上の画像では分からないので、手書き入力で「作って」みた。字画が多すぎるので、字のサイズを「大」指定にした。これらについて、あらためて、漢和辞典と照らし、知ったかぶりの蘊蓄(これも難しい字である)を記す。なお、字の前にあるのは、わたくしの能力、KY(読めない) =×、読めた=△(ただし、書けない)の意味で(○はない・・・)、後のカタカナ表記は音読み、ひらがなは訓読みである。
×蠶サン、ゾン、かいこ
蚕の旧字である。かなり略体されている。蚕糸はサンシ、養蚕はヨウサン、ただし、ゾンと読まれる使用例は、見当たらないし、国語辞典にもない。もちろん、初めて、知った。ついででもって、似たような字面であったので、記しておく。《タテガミ》である。
×鬣リョウ たてがみ(※これは「けなげ組」にはない)
馬のタテガミ(刺し)というのがあって、以前、熊本を訪ねた際に見かけて、頼んでみたが、、脂っこくて、ダメであった。
×殲セン つくす ほろぼす
これは懺悔か、と思ったけれども、それ以上に深刻な漢字であった。漢和辞典には「ひとり残らず殺す」とある。殲滅(せんめつ)。
△鬱ウチ ウツ ふさぐ
これは読むことはできたが、書けない。
△變ヘン かわる かえる
変梃(へんてこ)の變である。「へんてこ」については、もっか調査中である。(拙ブロ「変梃」11月12日付)
△顰ヒン ビン しかめる ひそめる
わたくしが、いつも買っている(買わせている)ヤツである。
×鹽エン しお
塩である。
鹵莽(ろもう)といって、「おおざっぱで、細かい気配りがない」(顰蹙モノ)ことを意味するが、鹵という字にも塩の意があり、こっちは塩土(転じて、荒れ地)、塩辛いのほかに、にぶいなどとも解される。莽は草(ぼうぼう)の「ぼう」である。もちろん、知らなかった。
×齲ク ウ むしば
横(禹)だけであれば読めたのにねえ、歯(齒)が生えてしまったから、読めない。実際は、その逆のようである。
×凹(鹿鹿の上に鹿)ソ あらい
×驫 ヒョウ (※これは「けなげ組」にはない)
鹿というのは、そういう扱いをされているのであろうか、「粗忽もの、細かくない」そのような意味である。ではと、馬三匹はどうかというと、驫(ひょう)、残念ながら手許の辞書には載っていない。轟は「とどろき(く)」であるが、自動車の前は汽車、その前は馬であったので、これも、「とどろき(く)」でよさそうである。トドロキとキーをたたくと、驫木とあった。五能線にある駅名そして所在する土地の名前だそうである。試しに電子地図でみると、エライ場所にあるが、いつか、行ってみたい。
×讎シュウ ズ むくいる あだ かたき
誰かと誰かが一方が読み、他方が聞きとっていく地味で、根気を要する作業を「讎」というらしいけれども、これが本来の校正であるらしい。
△鑿サク、ザク、のみ、うがつ
鏨(サン、ゼン、セン)、金属や石を彫る場合はこちらを使う(らしい)。
△黴バイ、ビ、かび
手持ちの辞書には、もともと、「青黒くなる現象」とある、なるほど、黒が用いられている。白カビの類は、とも思ったが、特に区別はないようである。
△蠻(バン、メン、えびす)
「變→変」の法則に倣えば、蠻→蛮ということであろう。えびす様というと、なんだかおめでたいけれども、蠻、あるいは、戎、胡、夷とあらわすと、この「様」は結構複雑な、お方のようである。
本日は、難しいブログになってしまった。(疲)
「柿の種」関連で、おもしろい記事を見つけたので、紹介しておく。
[【緊急調査】亀田の柿ピーの柿の種とピーナツの比率]
けなげ組はこっちで。
「けなげ組み会員番号59」(亀田製菓蝓
ついでに、
参考拙ブロ「東海道新幹線味巡り」07年11月14日付)
KYとは。
参考:KY 空気読めない(ということらしい)
参考:K・Y 朝日新聞によるサンゴ報道の捏造記事で刻まれた(傷つけられた)イニシアル
[朝日新聞HP]
[KY](漢字読めない、し、KK漢字書けない)

上の画像では分からないので、手書き入力で「作って」みた。字画が多すぎるので、字のサイズを「大」指定にした。これらについて、あらためて、漢和辞典と照らし、知ったかぶりの蘊蓄(これも難しい字である)を記す。なお、字の前にあるのは、わたくしの能力、KY(読めない) =×、読めた=△(ただし、書けない)の意味で(○はない・・・)、後のカタカナ表記は音読み、ひらがなは訓読みである。
×蠶サン、ゾン、かいこ
蚕の旧字である。かなり略体されている。蚕糸はサンシ、養蚕はヨウサン、ただし、ゾンと読まれる使用例は、見当たらないし、国語辞典にもない。もちろん、初めて、知った。ついででもって、似たような字面であったので、記しておく。《タテガミ》である。
×鬣リョウ たてがみ(※これは「けなげ組」にはない)
馬のタテガミ(刺し)というのがあって、以前、熊本を訪ねた際に見かけて、頼んでみたが、、脂っこくて、ダメであった。
×殲セン つくす ほろぼす
これは懺悔か、と思ったけれども、それ以上に深刻な漢字であった。漢和辞典には「ひとり残らず殺す」とある。殲滅(せんめつ)。
△鬱ウチ ウツ ふさぐ
これは読むことはできたが、書けない。
△變ヘン かわる かえる
変梃(へんてこ)の變である。「へんてこ」については、もっか調査中である。(拙ブロ「変梃」11月12日付)
△顰ヒン ビン しかめる ひそめる
わたくしが、いつも買っている(買わせている)ヤツである。
×鹽エン しお
塩である。
鹵莽(ろもう)といって、「おおざっぱで、細かい気配りがない」(顰蹙モノ)ことを意味するが、鹵という字にも塩の意があり、こっちは塩土(転じて、荒れ地)、塩辛いのほかに、にぶいなどとも解される。莽は草(ぼうぼう)の「ぼう」である。もちろん、知らなかった。
×齲ク ウ むしば
横(禹)だけであれば読めたのにねえ、歯(齒)が生えてしまったから、読めない。実際は、その逆のようである。
×凹(鹿鹿の上に鹿)ソ あらい
×驫 ヒョウ (※これは「けなげ組」にはない)
鹿というのは、そういう扱いをされているのであろうか、「粗忽もの、細かくない」そのような意味である。ではと、馬三匹はどうかというと、驫(ひょう)、残念ながら手許の辞書には載っていない。轟は「とどろき(く)」であるが、自動車の前は汽車、その前は馬であったので、これも、「とどろき(く)」でよさそうである。トドロキとキーをたたくと、驫木とあった。五能線にある駅名そして所在する土地の名前だそうである。試しに電子地図でみると、エライ場所にあるが、いつか、行ってみたい。
×讎シュウ ズ むくいる あだ かたき
誰かと誰かが一方が読み、他方が聞きとっていく地味で、根気を要する作業を「讎」というらしいけれども、これが本来の校正であるらしい。
△鑿サク、ザク、のみ、うがつ
鏨(サン、ゼン、セン)、金属や石を彫る場合はこちらを使う(らしい)。
△黴バイ、ビ、かび
手持ちの辞書には、もともと、「青黒くなる現象」とある、なるほど、黒が用いられている。白カビの類は、とも思ったが、特に区別はないようである。
△蠻(バン、メン、えびす)
「變→変」の法則に倣えば、蠻→蛮ということであろう。えびす様というと、なんだかおめでたいけれども、蠻、あるいは、戎、胡、夷とあらわすと、この「様」は結構複雑な、お方のようである。
本日は、難しいブログになってしまった。(疲)
「柿の種」関連で、おもしろい記事を見つけたので、紹介しておく。
[【緊急調査】亀田の柿ピーの柿の種とピーナツの比率]
けなげ組はこっちで。
「けなげ組み会員番号59」(亀田製菓蝓
ついでに、
参考拙ブロ「東海道新幹線味巡り」07年11月14日付)
KYとは。
参考:KY 空気読めない(ということらしい)
参考:K・Y 朝日新聞によるサンゴ報道の捏造記事で刻まれた(傷つけられた)イニシアル
[朝日新聞HP]
2007.12.09
サンセットストリート”千住緑町”
プリンターのインクが切れたそうになったため、ウエノに出かけた。「ついで」に、以前から気になっていた場所に寄ってみた。京成に乗って、「千住大橋」という駅で降りる。その名のとおり、駅から数百メートル南下すると、隅田川に架かる大橋がある。とりあえず、駅員さんに川方面への方向を聞き、それに従って、線路沿いを歩く。途中、脇道が幾筋もあって、寄り道しようかと思ったけれども、とにかく、川にたどり着かなければ、ついでの用件をこなすことができないと思い、我慢した。あとで、地図をみると、横にそれていたら、間違いなく、目的地には到達できなかっただろうと確信した。ただし、方向感覚さえ備えていれば、複雑な道ではない、わたくしが、そのようなセンスをもっていないだけのことである。すぐに、千住スポーツ公園というのがあって、小学生のフットボールの大会が行なわれていて、少し眺めていた。道を進めるだけ進むと、鉄路は隅田川を渡って、町屋方面へ、しかし、道路は思いのほか高い壁(堤)によって、遮られ、それ以上、進むことはできない。ここから先は、(見えない)川沿いに歩いていけば良いはずである。
以前、本所吾妻橋をほっついていた際、隅田川に架かる橋を見たくなったので、河口から溯ってみた、もちろん、電子上のことであるけれども、つつぅ、と、(電子上)舟遊びをしているうちに、千住大橋の先にある「橋」をくぐることになった。詳細に記せば、千住大橋⇒京成電車鉄橋⇒ふにゃふにゃ⇒尾竹橋の順である。わたくしが普段使っている一方の電子地図では通行可能に見えるが、他方は、そうなっていない。そのことが、ずいぶんと気になってしまった。何度か京成線を利用する際に確認することはできるのであるが、横面しか見えないので、一体、橋は渡ることが可能なのか、そうではないのかを確かめに行ったわけである。実をいえば、色々なサイトで、それが水道管であるらしいという情報は得ていたのであるが、やはり、現場に行くのが良いのであろうということで、ツイデをした。地図上では、「緑町商店街」という四町・丁(400メートル)ほどのこじんまりとした通りがあるようなので、そこもツイデのツイデにと思っていた。
[ゆうやけ通り緑町商店街]※商店街の方が個人的に作成していらっしゃるそうだ
[ゆうやけ通り]※駅に戻りながら、通りを歩いてみたけれど、残念ながら、寂しい。。。

橋の正体は、やはり水道管(水道橋)であった。それ以上のことは分からないし、調べようとも思わない。ただ、それが、渡ることのできない橋であったことが分かっただけでよい。
[千住緑町の水道橋]※階段があるが、敷地全体が閉鎖されていて、そこまですら、行くことができない・・・

おそらくは、であるが、渡ることはできるのであろうが、その必要は、わたくしにはないし、たとえ、あっても、渡る許可は出ないのであろう。この辺りには「一本松の渡し」があった、と『渡し碑コレクション』というサイトに紹介されていて、コチラのほうが、数十倍、映りの良い画像を見ることができる。
[水道橋とメトロの排気孔]※見づらいが、中央が水道橋、左はメトロ千代田線の排気孔(真下を走っている)

夕刻には、向こうの空が染まるのであろうか、この日は、午過ぎであったので、それまで、お邪魔できなかったけれども、さぞ、きれいな夕陽なのであろう。帰り途、ゆうやけ通りを突き抜けて、フットボールの続きを少し、のぞいて、駅に戻った。
隅田川のいくつかの橋(上流方面)については、只今、訪ねようかどうか、思案中である。もちろん、電子上ではなく、生身で、である。まだ、幾つか、気になることもあって、また、幾つも、気になることができて、ゆうやけ通りの歳末大売り出し(秋の味覚祭りになっているけれど)の二等狙い(どうせ、当らないけれども〜くじ運が0%のわたくしなので)で、二たび訪ねてみようか、とも、考えている。(くじ引きは13〜15日まで)
[ゆうやけ通りのゆうやけ](ゆうやけ合同新聞)※ちょっと、いえ、たいへん幻想的、年に何度もないようである
以前、本所吾妻橋をほっついていた際、隅田川に架かる橋を見たくなったので、河口から溯ってみた、もちろん、電子上のことであるけれども、つつぅ、と、(電子上)舟遊びをしているうちに、千住大橋の先にある「橋」をくぐることになった。詳細に記せば、千住大橋⇒京成電車鉄橋⇒ふにゃふにゃ⇒尾竹橋の順である。わたくしが普段使っている一方の電子地図では通行可能に見えるが、他方は、そうなっていない。そのことが、ずいぶんと気になってしまった。何度か京成線を利用する際に確認することはできるのであるが、横面しか見えないので、一体、橋は渡ることが可能なのか、そうではないのかを確かめに行ったわけである。実をいえば、色々なサイトで、それが水道管であるらしいという情報は得ていたのであるが、やはり、現場に行くのが良いのであろうということで、ツイデをした。地図上では、「緑町商店街」という四町・丁(400メートル)ほどのこじんまりとした通りがあるようなので、そこもツイデのツイデにと思っていた。
[ゆうやけ通り緑町商店街]※商店街の方が個人的に作成していらっしゃるそうだ
[ゆうやけ通り]※駅に戻りながら、通りを歩いてみたけれど、残念ながら、寂しい。。。

橋の正体は、やはり水道管(水道橋)であった。それ以上のことは分からないし、調べようとも思わない。ただ、それが、渡ることのできない橋であったことが分かっただけでよい。
[千住緑町の水道橋]※階段があるが、敷地全体が閉鎖されていて、そこまですら、行くことができない・・・

おそらくは、であるが、渡ることはできるのであろうが、その必要は、わたくしにはないし、たとえ、あっても、渡る許可は出ないのであろう。この辺りには「一本松の渡し」があった、と『渡し碑コレクション』というサイトに紹介されていて、コチラのほうが、数十倍、映りの良い画像を見ることができる。
[水道橋とメトロの排気孔]※見づらいが、中央が水道橋、左はメトロ千代田線の排気孔(真下を走っている)

夕刻には、向こうの空が染まるのであろうか、この日は、午過ぎであったので、それまで、お邪魔できなかったけれども、さぞ、きれいな夕陽なのであろう。帰り途、ゆうやけ通りを突き抜けて、フットボールの続きを少し、のぞいて、駅に戻った。
隅田川のいくつかの橋(上流方面)については、只今、訪ねようかどうか、思案中である。もちろん、電子上ではなく、生身で、である。まだ、幾つか、気になることもあって、また、幾つも、気になることができて、ゆうやけ通りの歳末大売り出し(秋の味覚祭りになっているけれど)の二等狙い(どうせ、当らないけれども〜くじ運が0%のわたくしなので)で、二たび訪ねてみようか、とも、考えている。(くじ引きは13〜15日まで)
[ゆうやけ通りのゆうやけ](ゆうやけ合同新聞)※ちょっと、いえ、たいへん幻想的、年に何度もないようである
2007.12.06
Jリーグ・デビジョン1/机上(空想)観戦
暇だったので、Jリーグ公式サイトを眺めていたら、《試合記録2007年》が気になって、(暇だったので)少し、遊んでみた。以下はデータによる本年のJ1をふり返るという、無茶なものである。最初に記しておくと、優勝は34節、すなわち最終ゲームで鹿島アントラーズが浦和レッズをかわし、栄冠に輝いている。J2への自動降格は横浜FC(18位)とヴァンフォーレ甲府(17位)、そして、昨日、第一戦が行なわれた入れ替え戦には16位のサンフレッチェ広島が、J2・3位の京都サンガと戦った。同1位のコンサドーレ札幌と2位の東京ヴェルディが来季デビジョン1に昇格することも決まっている。
さて、以上のようなことをふまえ、本日は、デビジョン1で最後まで優勝を争った鹿島及び浦和、残念ながらデビジョン2降格となった横浜FCと甲府、まだ、タイヘンな広島、及び、来季、ピクシーが率いる名古屋のゲームを上記Jリーグの公式記録をもとに、ふり返りながら、どこがどう、であったかを考えてみる。もちろん、あくまでも時間帯の得・失点であり、最終的な試合結果とは異なっている。0-10で負けることもあれば、1-0で勝つこともあるし、スコアレスドロウ(0-0)による「貴重な勝ち点1」もある。そのことには言及できないし、だいいち、実際にゲームを観ていないので、お気楽・観戦雑記(机上)という前提には変わりはない。
しかし、拙ブロ上にデータをあれこれ紹介(アップロード)できない・分からないので、かわりに、前々から思っていた「ブログトコラボ」を試してみた。内容はソッチでご確認のほどを。最近、HPの方は、いじっていないので、悪戦苦闘に陥ってしまった。したがって、両方(HPとブロ)をアップするまで、結果が分からない。のちほど、修正も含めて、ナニ(とらぶる)があるか、予想がついていない。
[ブログトコラボへ]
さて、以上のようなことをふまえ、本日は、デビジョン1で最後まで優勝を争った鹿島及び浦和、残念ながらデビジョン2降格となった横浜FCと甲府、まだ、タイヘンな広島、及び、来季、ピクシーが率いる名古屋のゲームを上記Jリーグの公式記録をもとに、ふり返りながら、どこがどう、であったかを考えてみる。もちろん、あくまでも時間帯の得・失点であり、最終的な試合結果とは異なっている。0-10で負けることもあれば、1-0で勝つこともあるし、スコアレスドロウ(0-0)による「貴重な勝ち点1」もある。そのことには言及できないし、だいいち、実際にゲームを観ていないので、お気楽・観戦雑記(机上)という前提には変わりはない。
しかし、拙ブロ上にデータをあれこれ紹介(アップロード)できない・分からないので、かわりに、前々から思っていた「ブログトコラボ」を試してみた。内容はソッチでご確認のほどを。最近、HPの方は、いじっていないので、悪戦苦闘に陥ってしまった。したがって、両方(HPとブロ)をアップするまで、結果が分からない。のちほど、修正も含めて、ナニ(とらぶる)があるか、予想がついていない。
[ブログトコラボへ]
2007.12.04
白い街
ただし、ふたつあって、ベイルートと、本日、少し書く、ベオグラードである。前者には10代の頃から、訪ねてみたいと思っていたけれども、機会は「まだ」ない。その頃、たまたま見た写真が白い街で、とても美しく映えていて、行きたいと思った。ただし、モノクローム写真であったかもしれないけれど、その鮮明さが未だに残っている。(こんな感じ)※4travel.jpのアリヤンさん撮影による、撮影時期も、わたくしの妄想期に近い頃である。
後者は、幸い、一度、その地を踏むことができた。ただし、最低な想いしか残っていなくて、それが、払拭できていないので、ここで、記すほどの街でもない、と、結構、強気になっている。まだ、東西が冷静時代でなかった頃であったが、旧ユーゴスラビアは比較的寛大で、西の(貧乏)旅行者を受け容れていた。もちろん、他の“東”国も受容はしたけれども、ハードルは高く、やれ査証代だの、1日何ドル分の強制両替だの、ひどいのでは、駅(空港)〜ホテル間の送迎代を徴収されたこともあり、なんだか、ずいぶん、面倒くさかったけれども、ユーゴだけは、「ハイ、どうぞ」という感じでもって、お気楽に入国できた。チトーという大統領の影響も大きかったとも思う。もともと、ユーゴスラビアという国も民族も存在しておらず、最小単位でも現在の6カ国、実際には何百にも分かれているけれども、当時は、どこへ行ってもユーゴスラビアであった。もちろん、「国」によって、さまざまなことが異なっていることは、いうまでもないが、とりあえず、入る(訪ねる)側からすれば、同じ国には違いなかった(安易だけど)。ざっと、コースをたどると、先の6ヶ国でいえば、スロベニア、ボスニア・へルツェゴヴィナ、クロアチア、モンテネグロ、セルビア、そして、マケドニアの順である。もちろん、長くは滞在していないので、宿泊先ということでは、たったの3ヶ所であった(リュとサラとドブロ)から、相当の駆け足である。当然、憬れの「白い街」ベオグラードに滞在する気は満々であったのだけれども、宿がとれなかった・・・・・駅にある案内所の対応も悪く感じられて、そのまま、南に向かう列車に乗ってしまったので、滞在は、おそらく数時間であったと思う。もちろん、何も決めずにふらっと寄っている旅行者の方も悪いのであって、機会があれば、もう一度、訪れたいと思うし、早く、悪い印象を掃いたい。
ドラガン・ストイコヴィッチ(ピクシー)さんについて書きたいと思う。セルビア共和国ニシュ近郊で生まれたそうである(1965年3月3日)。
[セルビア共和国の大雑把な地図](世界地図〜Sekai Chizuより)※ベオグラードとはずいぶん離れているようである
わたくしは、日本リーグ時代のサッカー(以下、フットボール)から見ていたけれども、全てがTVによるもので、初めて、ホンモノを昨年の大晦日に観た(拙ブロ「0-0と0-0」06年12月31日付〜絶対値23〜|23|)。実は、その前からナントカして、ピクシーを観ておきたいと思うばかりで、中々実現しないうちに引退されてしまった。彼のプレイについては、その(引退)年だったか、nhkで何度か放映され、それを都度観て、都合4度観た記憶がある。もう、有名なシーンであるが、最初の驚きは、雨混じりのピッチでボールを細かくリフティングするシーンである。今、調べてみると、その試合は3−1でグランパスが勝利したとまで、分かったけれども、ピクシーがゲットしたかどうかは分からない。↓の記録画像で、その場面もあるが、ゴールまで追っていないし、わたくし自身もそのプレイばかりが残っていて、結末は憶えていない(・・?。
[サッカーJリーグ動画大全/ドラガン・ストイコビッチプレー集]
または、
[U−TUBE【名古屋】ドラガン・ストイコビッチ-Dragan Stojkovic]
普通、何というのであろうか、チェンジサイド(サイドチェンジ)であろうか、要するに手(足)持ちのボールを、例えばピッチの左側(どちらかというと守備的な位置で)に立たされた時、そのまま真っ直ぐ、左サイドにパスするのと、相手の目先を変え(惑わし)、右側に大きく、交叉するようにパス(振る)するかの違いが、フットボールの基本的な戦術であるが、それを「忠実に」実行していたのが、ピクシーである。(当時のアルセーヌ・ベンゲル監督の考えかもしれないが)
[サイドチェンジの解説]
ただし、ピクシーは図↑に示されているサイドハーフ付近にいて、図のフォワードの右で、サイドに走ろうとしている(ただし、画面上では敵の選手だけど)、当時の名古屋でいえば、森山泰行(または岡山哲也)選手にパスするようなチェンジをしていた。わたくしは、まったくの素人であるが、フットボールのダイナミズムにふれ、今はもう、やることはないが、フットボールのゲームソフトで遊んでいた時、わざと、誰もいないであろう、スペースにパスをして、ピクシーの真似をしたことがあるけれども、ゴールの確率は他より高かった(あくまでも、素人のゲームだけど)。
「360度と13秒先の眼を持つ」というのは、もう引退してしまった中田ヒデさんへの勝手な想いであるけれども、その素人考えというのは、どこへパスを出せばよいかというピッチ上における観察・監理能力(前後左右の状況を見きわめる)と、13秒後(おおむね、この程度の時間でもってゴールは生まれる、ただし、受けた側がゴールできるかどうかは運もある・・・)の想像能力に秀でていたということであるけれども、ピクシーは、プラス、高低角度という能力を有しており、常に、スタンドのサポーター及びアンチサポーターをも魅了するサービス精神をあわせもっている、と、これまた、シロウトの考えにすぎないが、魅了されていたことは事実である。
1日にフットボールをスーパー銭湯で見ていた。“カズ”がアシストし、ついでに、信じられないパフォーマンスを(誰もいないゴールに、右足でシュートを決めたけれども、自分の左足でクリアしてしまった)。
ピクシーが還ってくる
[ピクシーの記者会見](グランパス公式サイトより)
そのことは、たいへん嬉しいし、同じ、ナゴヤの落合ピクシーのような、面白さを期待している。ただ、(ぜいたくをいえば)できることなら、選手として、じかに観たい。キングカズ(1967年2月26日生まれ)は頑張っているし(無理かね)。
今年も暮れに高校選手権を観にいこうかと思う。そして、来季は森山(ゴリ)選手もJに戻ってくる。
後者は、幸い、一度、その地を踏むことができた。ただし、最低な想いしか残っていなくて、それが、払拭できていないので、ここで、記すほどの街でもない、と、結構、強気になっている。まだ、東西が冷静時代でなかった頃であったが、旧ユーゴスラビアは比較的寛大で、西の(貧乏)旅行者を受け容れていた。もちろん、他の“東”国も受容はしたけれども、ハードルは高く、やれ査証代だの、1日何ドル分の強制両替だの、ひどいのでは、駅(空港)〜ホテル間の送迎代を徴収されたこともあり、なんだか、ずいぶん、面倒くさかったけれども、ユーゴだけは、「ハイ、どうぞ」という感じでもって、お気楽に入国できた。チトーという大統領の影響も大きかったとも思う。もともと、ユーゴスラビアという国も民族も存在しておらず、最小単位でも現在の6カ国、実際には何百にも分かれているけれども、当時は、どこへ行ってもユーゴスラビアであった。もちろん、「国」によって、さまざまなことが異なっていることは、いうまでもないが、とりあえず、入る(訪ねる)側からすれば、同じ国には違いなかった(安易だけど)。ざっと、コースをたどると、先の6ヶ国でいえば、スロベニア、ボスニア・へルツェゴヴィナ、クロアチア、モンテネグロ、セルビア、そして、マケドニアの順である。もちろん、長くは滞在していないので、宿泊先ということでは、たったの3ヶ所であった(リュとサラとドブロ)から、相当の駆け足である。当然、憬れの「白い街」ベオグラードに滞在する気は満々であったのだけれども、宿がとれなかった・・・・・駅にある案内所の対応も悪く感じられて、そのまま、南に向かう列車に乗ってしまったので、滞在は、おそらく数時間であったと思う。もちろん、何も決めずにふらっと寄っている旅行者の方も悪いのであって、機会があれば、もう一度、訪れたいと思うし、早く、悪い印象を掃いたい。
ドラガン・ストイコヴィッチ(ピクシー)さんについて書きたいと思う。セルビア共和国ニシュ近郊で生まれたそうである(1965年3月3日)。
[セルビア共和国の大雑把な地図](世界地図〜Sekai Chizuより)※ベオグラードとはずいぶん離れているようである
わたくしは、日本リーグ時代のサッカー(以下、フットボール)から見ていたけれども、全てがTVによるもので、初めて、ホンモノを昨年の大晦日に観た(拙ブロ「0-0と0-0」06年12月31日付〜絶対値23〜|23|)。実は、その前からナントカして、ピクシーを観ておきたいと思うばかりで、中々実現しないうちに引退されてしまった。彼のプレイについては、その(引退)年だったか、nhkで何度か放映され、それを都度観て、都合4度観た記憶がある。もう、有名なシーンであるが、最初の驚きは、雨混じりのピッチでボールを細かくリフティングするシーンである。今、調べてみると、その試合は3−1でグランパスが勝利したとまで、分かったけれども、ピクシーがゲットしたかどうかは分からない。↓の記録画像で、その場面もあるが、ゴールまで追っていないし、わたくし自身もそのプレイばかりが残っていて、結末は憶えていない(・・?。
[サッカーJリーグ動画大全/ドラガン・ストイコビッチプレー集]
または、
[U−TUBE【名古屋】ドラガン・ストイコビッチ-Dragan Stojkovic]
普通、何というのであろうか、チェンジサイド(サイドチェンジ)であろうか、要するに手(足)持ちのボールを、例えばピッチの左側(どちらかというと守備的な位置で)に立たされた時、そのまま真っ直ぐ、左サイドにパスするのと、相手の目先を変え(惑わし)、右側に大きく、交叉するようにパス(振る)するかの違いが、フットボールの基本的な戦術であるが、それを「忠実に」実行していたのが、ピクシーである。(当時のアルセーヌ・ベンゲル監督の考えかもしれないが)
[サイドチェンジの解説]
ただし、ピクシーは図↑に示されているサイドハーフ付近にいて、図のフォワードの右で、サイドに走ろうとしている(ただし、画面上では敵の選手だけど)、当時の名古屋でいえば、森山泰行(または岡山哲也)選手にパスするようなチェンジをしていた。わたくしは、まったくの素人であるが、フットボールのダイナミズムにふれ、今はもう、やることはないが、フットボールのゲームソフトで遊んでいた時、わざと、誰もいないであろう、スペースにパスをして、ピクシーの真似をしたことがあるけれども、ゴールの確率は他より高かった(あくまでも、素人のゲームだけど)。
「360度と13秒先の眼を持つ」というのは、もう引退してしまった中田ヒデさんへの勝手な想いであるけれども、その素人考えというのは、どこへパスを出せばよいかというピッチ上における観察・監理能力(前後左右の状況を見きわめる)と、13秒後(おおむね、この程度の時間でもってゴールは生まれる、ただし、受けた側がゴールできるかどうかは運もある・・・)の想像能力に秀でていたということであるけれども、ピクシーは、プラス、高低角度という能力を有しており、常に、スタンドのサポーター及びアンチサポーターをも魅了するサービス精神をあわせもっている、と、これまた、シロウトの考えにすぎないが、魅了されていたことは事実である。
1日にフットボールをスーパー銭湯で見ていた。“カズ”がアシストし、ついでに、信じられないパフォーマンスを(誰もいないゴールに、右足でシュートを決めたけれども、自分の左足でクリアしてしまった)。
ピクシーが還ってくる
[ピクシーの記者会見](グランパス公式サイトより)
そのことは、たいへん嬉しいし、同じ、ナゴヤの落合ピクシーのような、面白さを期待している。ただ、(ぜいたくをいえば)できることなら、選手として、じかに観たい。キングカズ(1967年2月26日生まれ)は頑張っているし(無理かね)。
今年も暮れに高校選手権を観にいこうかと思う。そして、来季は森山(ゴリ)選手もJに戻ってくる。
2007.12.03
金山城(太田市そぞろ歩き、のつもりが、また、寄り道し過ぎ)
太田市というのは、あらためて俯瞰すると上州(上毛野国)と野州(下毛野国)のちょうど要にあるといってよい。そういう意味では隣・近接する足利、桐生や佐野あるいは館林もそうであるし、乱暴にいえば、この辺りが両国のせめぎ合いの行き着く場所である。両毛というのはそういうこともあるのであろう、本日は、特にふれないが、足利などという町は一頭の部類に入ると考えても良い。もちろん、足利氏のことであるが、義国の長子は新田に遷って、新田氏を興したものだからというわけではないが、いまだにグンマとトチギ(トチギとグンマか)の境がごちゃごちゃになっていて、困る。
さて、太田市は、歴史の中では青二才なのかもしれない。足利氏、桐生氏、佐野氏、いずれも、戦国時代(15〜16世紀)前からの名家であり、館林は江戸に入ってから、徳川四天王のひとり榊原康政そして、将軍継承前の綱吉(館林宰相と呼ばれていた)の居城ともなっている。これに較べると、この町の背北にある金山(かなやま)城の主はあまり知られていない。太田市のサイトによると、築城は1469(文明元)年、そして、1590(天正18)年には廃城とある。秀吉の天下統一の年であり、家康もすでに関東、江戸城に封じており、虎視眈々と天下盗りを狙っている。歴代の城主は、新田岩松氏、横瀬・由良氏、そして、小田原北条氏とあり、小田原征伐がこの城を事実上、陥したことを物語っている(「金山城の概要」より)。知らないのは、わたくしだけなのかもしれないけれども、今(もう、終わっているのか)、nhkで放っている信玄とか、そういう時代に、あらわれて、ぱっと消えた(消された)お城、という程度にしか、あるいは、そういう騒々しい時代にあっただけに過ぎないのかもしれない。望んだことはあるけれども、訪ねたことはないので、次回には登ってみたい。
現在の太田駅周辺を俯瞰すると、先の金山廃城が据わる北側一帯に最初の町ができたのであろうか。それが、例幣使街道、今の県道2号(主要地方道前橋館林線)、すなわち、ホテル古久三(穀三)に面した通りである。ただし、正確にはこの道は旧古河街道と呼ばれ、あれこれ調べていると、東武桐生線と2号がぶつかる辺りで、同じく交叉している県道312号(太田境東線)が例幣使のようである。(例幣使のルート/太田市観光協会より)いったん、古河(こが)という、これもまた一頭の町から延びる筋と合わさり、大田宿を過ぎると、例幣使は北上しつつ、東行する。余談であるが、古河藩の家老で鷹見泉石(たかみ・せんせき)という蘭学者がいて、藩主・土井利位(としつら)のもと、有名な大塩平八郎の乱を平定したともいわれている。わたくしの中には渡辺崋山による肖像画がある。利位のほうはというと、決して評判は芳しくなく、大塩の乱後、老中となった折りに水野忠邦(天保の改革を推進した)の足を引っぱったなどという逸話も残されている。ただ、日本で初めて、雪の結晶を観察した人物としても著名で、(新たな)学問に対する関心は旺盛だという評もあるが、これも、あれも、泉石のお陰であるという側面も否めない。(土井利位「雪華図説」Snow Worldより)※拙ブロ「六つの花(六花17号を公開)」06年1月15日付参照。
古河については、いずれ、また。
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例幣使街道太田宿に戻る。陸軍・軍医副、森林太郎(鴎外)は栃木、佐野などを経て、太田に逗留し、さらに西へと向かい、その日のうちには、前橋に着いている。その間の詳細は記しておらず、「北游日乗」には《(二月)十九日 はれたり太田を立つ・・・・夕暮に前橋本町なる白井といふ家に着きぬこゝにてからかぜといふ北風いと烈しそれがしといふもの訪ひ来て前橋の風俗を語る》とあることから、おそらく、古河街道を歩いたものと思われる。前橋駅を降り、県庁に向かう通りに「ホテル白井屋」がある、裏手に馬場川が流れ、萩原朔太郎の生家も近く、一帯は千代田の呑み夜街でもある。わたくしも何度か歩いた場所であるが、白井の記憶はまったくなく、ただ、裏手で呑んでいたことだけが残っている。
また、厩橋(前橋)については、実はまだ、色々と知りたいことがあって、近々、訪ねてみようと思っている。これまでは、急ぎ足もあって、留め書きすべきこともせず、お尋ねしなくてはと思ったことも、未だ、何もしていない、ていたらくである。・・・これも、また、いずれ。
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・・・・穀三辺りを東本町という。お城直下を本町とし、その東西を割った形でもって、御城下が開いている。東武の駅は1909(明治42)年に足利町駅(現在は足利市駅)から延長されたと、東武鉄道蠅離汽ぅ箸砲△襦(東武鉄道の歴史)只今の伊勢崎線をさしており、翌年、伊勢崎駅まで全通している。一方、当時の太田市は歴史上、まだもって、青二才が続いている。ところが、突如、成長する、おおざっぱにいって、第一次大戦前後からであろう。いうまでもなく、飛行機王・中島知久平翁の登場である。このことのついては、すでに、拙ブロ「尾島町〜北関東垂れ記2」(10月28日付)でもふれたことであるので、省くが、太田はその後、スバルの街に化(か)わる。富士重工業となるのは戦後10年ほど経ってからのことであるが(1953=昭和28年、ただし、創業は1917=大正6)、ご城下及び門前町(大光院)として、そして宿場町として栄えていた(現在でいう)北口はスバル街としておおいに繁華な賑わいがあったのだろうと想像できる。同社のサイトを検めたが、操業開始年が分からないので、はっきりしたことはいえないけれども、おそらく、本工場が最初なのであろう、太田市スバル町1−1に在る。もう、金山(城)の麓、お膝元に所在している。北口の商店は潤ったはずである。当時のことは、もちろん見ていないけれども、これもまた、想像はつく。当時、そういう街場がずいぶん多かったということは、クレイジーキャッツの映画を観て、教わった。駅南口にベルタウン(ユニーなど)が開業したのが1977(昭和52)年、これと同時に北口の商店街は使命を終えたのだろうか、そして、郊外の軍艦のようなSCにお客さんを奪われて、本年初めにベルタウンも閉めた。幸いというのか、その前に買い物ができた。今はどうもドン.キホーテになったらしい。駅前はますます、寂れていくけれども、女子高生(時々、男子)が多い地方の駅前にはドンキの方が合っているのかもしれない。
鴎外翁は空っ風(颪)を前橋(上州)の風俗と記している。太田駅の南口をつっと延びる30メートル幅の、しかも、歩道が妙に広い通りの両側にはさまざまなお店が並んでいる。面白いのは、フ〜ゾク、フツウ、フ〜ゾク、フ〜ゾク、フツウという順不同(の並び)であるから、行った方は迷う。ちょっとコじゃれた料理屋の両隣がもっとシャレてるフ〜ゾクだったりするから、混乱する。通常は、ブロックごとに固まっているという概念が働くが、ここは異なっていて、楽しい。南一番街といって、あとで調べると、北関東の歌舞伎町(asahi.com)ともあるが、それは、かなり一頭の感想(表現)であって、わたくしには、街の原点が詰まっているようで、まるで博覧会のようで、楽しい(ただし、フツウにもフ〜ゾクにも入ることはなかったけど)。
[南一番街の鋪道](マチダコーポレーション螢汽ぅ箸茲蝓吠眛擦広い!
太田というのは全国どこにでもある地方都市の情況を映しているだけのことかもしれない。強いていえば、あえて、太田市やここから電車でも通うことのできる(スバルに乗れば、すぐ)邑楽(おうら)郡大泉町の外国人比率(主に日系人の方)について、記すのを避けてきた。とはいえ、このことさえ、今となっては、各地にあるのだから、珍しくなく、特徴とも、特長ともいえない。
ただし、万国に拡がるハクランカイが、もし、ここ(南一番街)で繰り広げられることがあれば、この一帯は、歴史上、初めて、一頭の地になるのでは、と、(ひそかに)応援している。
さて、太田市は、歴史の中では青二才なのかもしれない。足利氏、桐生氏、佐野氏、いずれも、戦国時代(15〜16世紀)前からの名家であり、館林は江戸に入ってから、徳川四天王のひとり榊原康政そして、将軍継承前の綱吉(館林宰相と呼ばれていた)の居城ともなっている。これに較べると、この町の背北にある金山(かなやま)城の主はあまり知られていない。太田市のサイトによると、築城は1469(文明元)年、そして、1590(天正18)年には廃城とある。秀吉の天下統一の年であり、家康もすでに関東、江戸城に封じており、虎視眈々と天下盗りを狙っている。歴代の城主は、新田岩松氏、横瀬・由良氏、そして、小田原北条氏とあり、小田原征伐がこの城を事実上、陥したことを物語っている(「金山城の概要」より)。知らないのは、わたくしだけなのかもしれないけれども、今(もう、終わっているのか)、nhkで放っている信玄とか、そういう時代に、あらわれて、ぱっと消えた(消された)お城、という程度にしか、あるいは、そういう騒々しい時代にあっただけに過ぎないのかもしれない。望んだことはあるけれども、訪ねたことはないので、次回には登ってみたい。
現在の太田駅周辺を俯瞰すると、先の金山廃城が据わる北側一帯に最初の町ができたのであろうか。それが、例幣使街道、今の県道2号(主要地方道前橋館林線)、すなわち、ホテル古久三(穀三)に面した通りである。ただし、正確にはこの道は旧古河街道と呼ばれ、あれこれ調べていると、東武桐生線と2号がぶつかる辺りで、同じく交叉している県道312号(太田境東線)が例幣使のようである。(例幣使のルート/太田市観光協会より)いったん、古河(こが)という、これもまた一頭の町から延びる筋と合わさり、大田宿を過ぎると、例幣使は北上しつつ、東行する。余談であるが、古河藩の家老で鷹見泉石(たかみ・せんせき)という蘭学者がいて、藩主・土井利位(としつら)のもと、有名な大塩平八郎の乱を平定したともいわれている。わたくしの中には渡辺崋山による肖像画がある。利位のほうはというと、決して評判は芳しくなく、大塩の乱後、老中となった折りに水野忠邦(天保の改革を推進した)の足を引っぱったなどという逸話も残されている。ただ、日本で初めて、雪の結晶を観察した人物としても著名で、(新たな)学問に対する関心は旺盛だという評もあるが、これも、あれも、泉石のお陰であるという側面も否めない。(土井利位「雪華図説」Snow Worldより)※拙ブロ「六つの花(六花17号を公開)」06年1月15日付参照。
古河については、いずれ、また。
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例幣使街道太田宿に戻る。陸軍・軍医副、森林太郎(鴎外)は栃木、佐野などを経て、太田に逗留し、さらに西へと向かい、その日のうちには、前橋に着いている。その間の詳細は記しておらず、「北游日乗」には《(二月)十九日 はれたり太田を立つ・・・・夕暮に前橋本町なる白井といふ家に着きぬこゝにてからかぜといふ北風いと烈しそれがしといふもの訪ひ来て前橋の風俗を語る》とあることから、おそらく、古河街道を歩いたものと思われる。前橋駅を降り、県庁に向かう通りに「ホテル白井屋」がある、裏手に馬場川が流れ、萩原朔太郎の生家も近く、一帯は千代田の呑み夜街でもある。わたくしも何度か歩いた場所であるが、白井の記憶はまったくなく、ただ、裏手で呑んでいたことだけが残っている。
また、厩橋(前橋)については、実はまだ、色々と知りたいことがあって、近々、訪ねてみようと思っている。これまでは、急ぎ足もあって、留め書きすべきこともせず、お尋ねしなくてはと思ったことも、未だ、何もしていない、ていたらくである。・・・これも、また、いずれ。
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・・・・穀三辺りを東本町という。お城直下を本町とし、その東西を割った形でもって、御城下が開いている。東武の駅は1909(明治42)年に足利町駅(現在は足利市駅)から延長されたと、東武鉄道蠅離汽ぅ箸砲△襦(東武鉄道の歴史)只今の伊勢崎線をさしており、翌年、伊勢崎駅まで全通している。一方、当時の太田市は歴史上、まだもって、青二才が続いている。ところが、突如、成長する、おおざっぱにいって、第一次大戦前後からであろう。いうまでもなく、飛行機王・中島知久平翁の登場である。このことのついては、すでに、拙ブロ「尾島町〜北関東垂れ記2」(10月28日付)でもふれたことであるので、省くが、太田はその後、スバルの街に化(か)わる。富士重工業となるのは戦後10年ほど経ってからのことであるが(1953=昭和28年、ただし、創業は1917=大正6)、ご城下及び門前町(大光院)として、そして宿場町として栄えていた(現在でいう)北口はスバル街としておおいに繁華な賑わいがあったのだろうと想像できる。同社のサイトを検めたが、操業開始年が分からないので、はっきりしたことはいえないけれども、おそらく、本工場が最初なのであろう、太田市スバル町1−1に在る。もう、金山(城)の麓、お膝元に所在している。北口の商店は潤ったはずである。当時のことは、もちろん見ていないけれども、これもまた、想像はつく。当時、そういう街場がずいぶん多かったということは、クレイジーキャッツの映画を観て、教わった。駅南口にベルタウン(ユニーなど)が開業したのが1977(昭和52)年、これと同時に北口の商店街は使命を終えたのだろうか、そして、郊外の軍艦のようなSCにお客さんを奪われて、本年初めにベルタウンも閉めた。幸いというのか、その前に買い物ができた。今はどうもドン.キホーテになったらしい。駅前はますます、寂れていくけれども、女子高生(時々、男子)が多い地方の駅前にはドンキの方が合っているのかもしれない。
鴎外翁は空っ風(颪)を前橋(上州)の風俗と記している。太田駅の南口をつっと延びる30メートル幅の、しかも、歩道が妙に広い通りの両側にはさまざまなお店が並んでいる。面白いのは、フ〜ゾク、フツウ、フ〜ゾク、フ〜ゾク、フツウという順不同(の並び)であるから、行った方は迷う。ちょっとコじゃれた料理屋の両隣がもっとシャレてるフ〜ゾクだったりするから、混乱する。通常は、ブロックごとに固まっているという概念が働くが、ここは異なっていて、楽しい。南一番街といって、あとで調べると、北関東の歌舞伎町(asahi.com)ともあるが、それは、かなり一頭の感想(表現)であって、わたくしには、街の原点が詰まっているようで、まるで博覧会のようで、楽しい(ただし、フツウにもフ〜ゾクにも入ることはなかったけど)。
[南一番街の鋪道](マチダコーポレーション螢汽ぅ箸茲蝓吠眛擦広い!
太田というのは全国どこにでもある地方都市の情況を映しているだけのことかもしれない。強いていえば、あえて、太田市やここから電車でも通うことのできる(スバルに乗れば、すぐ)邑楽(おうら)郡大泉町の外国人比率(主に日系人の方)について、記すのを避けてきた。とはいえ、このことさえ、今となっては、各地にあるのだから、珍しくなく、特徴とも、特長ともいえない。
ただし、万国に拡がるハクランカイが、もし、ここ(南一番街)で繰り広げられることがあれば、この一帯は、歴史上、初めて、一頭の地になるのでは、と、(ひそかに)応援している。