2008.02.29
黄金・大金(小金城趾あたり)
所用もあり、少し、足を延ばした。常磐線「馬橋」駅より総武流山電鉄に乗り換えて、二つ目の「小金城趾」(こがねじょうし)駅まで。二つ目といっても、残りは終着の「流山」駅を含んでも三つしかない(合計6駅)。前々から、訪ねてみたいという気もちがあって、ようやく、実現した。さいわい、陽気もよかったので、北小金駅(常磐線)まで、ぷらぽらと、歩いてみた。城趾駅付近を「大金平」(おおがねだいら)という。小金より一頭上の地名づけであって、このあたりに、金に価する、例えば鉱物であるとか、あるいは、水とか塩とか、そういう、その時代にとっての黄金が満ちていたのであろうかと、勝手に想像したが、あとで地図でもって周りをみると、大谷口(お城趾のある付近)、小金(北小金駅南側、旧水戸街道小金宿あたり)および平賀(殿平賀、久保平賀など)に囲まれた一帯であり、その一文字づつを頂戴して、附けたのかもしれないと、思い直した。ただし、本当のところは分からない。
[小金城趾駅]※城趾までは徒歩で10分ぐらい。

城趾であるので、今は、公園になっていて、それらしき気配はどこにもない。わずかながら、敵の侵入を防ぐために造られた畝堀(うねほり)の名残りがある程度である。千葉氏の流れとされる高城(たかぎ)氏の居城である。訪ねてみて、その小ささに高城殿は貧乏だったのかと、これまた勝手な想像をしたが、公園(城趾)内にある案内板に現在(といっても1962=昭和37年当時)の航空地図に往時の城勢が重ねられていて、それによると、ずいぶんと大きな、立派な「なり」をしていたらしい。城というのは正確ではなく、館あるいは取手(砦)とあらわしたほうが良いのかもしれないが、いずれにしても、戦いの最前線という緊張感のうえで築かれたシロではないようで、積まれた土塁も敵から防ぐという意図よりも、周囲から身を隠す(お風呂場を簾で遮蔽するような)ほどの緩さであったらしい。秀吉による小田原攻め(1590=天正18年)の際、(後)北条氏についた高城氏は崩壊、小金城は、のちに、家康の五男、武田信吉(のぶよし)が佐倉を経て、水戸に移るまで、城主として居たが、その後、廃された。信吉は短命(22歳に逝去)であったが、もともと、病弱であったためか、家康も心に留めていたのであろう、ほとんど実勢のない小金城を与え、佐倉、そして、水戸へと。お蔭(実際は関が原における西軍であったため、あるいは、どっち付かず)でもって、水戸の佐竹氏は久保田(秋田)へと移封された。また、佐竹氏はというと、小金城(高城氏)が断たれるもととなった小田原攻めの功でもって、水戸(常陸)に封じているのだから、見方によっては、小金城は興味深い、おシロなのである。
[畝掘:ただし、関東ローム層の泥土が歩兵の足を滑りやすくしていたとあった]

房総半島一帯は古くから、馬の放牧地(牧〜まき)でもあったらしい。江戸に入って、幕府は次々と各地の牧を「国営化」した(「官牧〜かんぼく・かんもく?)。小金城趾周辺も広大な牧であって、(まんま)「小金牧」といわれていた。上野、中野、下野、高田台、そして、今もその名の印西(牧の原)があって、小金五牧ともいわれた。軍用馬の育成が主だっており、そのせいなのか、現在も千葉県は乗用馬の飼養数では北海道に次ぎ(乗用馬の飼養状況〜社団法人日本馬事協会)、乗馬クラブも多く、ケイバ場もある。所用は東武野田線「豊四季」駅近くにあったが、このなんとも「モダーン」な名づけは明治期にさかのぼる。小金牧は、佐倉牧(成田市周辺)と併わせ、「民活」が導入され、墾(やぶ)られ、農地化、宅地化され、只今の姿となっている。開墾の順番が「入植者」の願いも篭めて地名に照らされている(11以降は・・・)。成田市教育委員会教育指導課の「十余三の開墾のお話 とよみのかいこんのおはなし」から引用すると、
1.初富村(はつとみむら)→鎌ケ谷市 (かまがやし)
2.二和村(ふたわむら)→船橋市 (ふなばしし)
3.三咲村(みさきむら)→船橋市 (ふなばしし)
4.豊四季村(とよしきむら)→柏市 (かしわし)
5.五香村(ごこうむら)→松戸市 (まつどし)
6.六実村(むつみむら)→松戸市 (まつどし)
7.七栄村(ななえむら)→富里町 (とみさとまち)※現在は富里市
8.八街村(やちまたむら)→八街市(やちまたし)
9.九美上村(くみあげむら)→佐原市(さわらし)※現在は香取市
10.十倉村(とくらむら)→富里町 (とみさとまち)
11.十余一村(とよひとむら)→臼井町(うすいまち)※現在は佐倉市
12.十余二村(とよふたむら)→柏市 (かしわし)
13.十余三村(とよみむら)→成田市 (なりたし)
である。一戸、二戸、三戸・・・は、南部藩の「柵」をもとにして附された地名であるが、これに比して、やはり、明治の人は、名づけ上手である。
帰り途、まだ、莟(つぼみ)の梅を観た。慶林寺といって、高城氏ゆかりとあった。

梅の莟は今頃、もう、殻を墾って、美事に映えているのであろうか。(21日・訪)
[小金城趾駅]※城趾までは徒歩で10分ぐらい。

城趾であるので、今は、公園になっていて、それらしき気配はどこにもない。わずかながら、敵の侵入を防ぐために造られた畝堀(うねほり)の名残りがある程度である。千葉氏の流れとされる高城(たかぎ)氏の居城である。訪ねてみて、その小ささに高城殿は貧乏だったのかと、これまた勝手な想像をしたが、公園(城趾)内にある案内板に現在(といっても1962=昭和37年当時)の航空地図に往時の城勢が重ねられていて、それによると、ずいぶんと大きな、立派な「なり」をしていたらしい。城というのは正確ではなく、館あるいは取手(砦)とあらわしたほうが良いのかもしれないが、いずれにしても、戦いの最前線という緊張感のうえで築かれたシロではないようで、積まれた土塁も敵から防ぐという意図よりも、周囲から身を隠す(お風呂場を簾で遮蔽するような)ほどの緩さであったらしい。秀吉による小田原攻め(1590=天正18年)の際、(後)北条氏についた高城氏は崩壊、小金城は、のちに、家康の五男、武田信吉(のぶよし)が佐倉を経て、水戸に移るまで、城主として居たが、その後、廃された。信吉は短命(22歳に逝去)であったが、もともと、病弱であったためか、家康も心に留めていたのであろう、ほとんど実勢のない小金城を与え、佐倉、そして、水戸へと。お蔭(実際は関が原における西軍であったため、あるいは、どっち付かず)でもって、水戸の佐竹氏は久保田(秋田)へと移封された。また、佐竹氏はというと、小金城(高城氏)が断たれるもととなった小田原攻めの功でもって、水戸(常陸)に封じているのだから、見方によっては、小金城は興味深い、おシロなのである。
[畝掘:ただし、関東ローム層の泥土が歩兵の足を滑りやすくしていたとあった]

房総半島一帯は古くから、馬の放牧地(牧〜まき)でもあったらしい。江戸に入って、幕府は次々と各地の牧を「国営化」した(「官牧〜かんぼく・かんもく?)。小金城趾周辺も広大な牧であって、(まんま)「小金牧」といわれていた。上野、中野、下野、高田台、そして、今もその名の印西(牧の原)があって、小金五牧ともいわれた。軍用馬の育成が主だっており、そのせいなのか、現在も千葉県は乗用馬の飼養数では北海道に次ぎ(乗用馬の飼養状況〜社団法人日本馬事協会)、乗馬クラブも多く、ケイバ場もある。所用は東武野田線「豊四季」駅近くにあったが、このなんとも「モダーン」な名づけは明治期にさかのぼる。小金牧は、佐倉牧(成田市周辺)と併わせ、「民活」が導入され、墾(やぶ)られ、農地化、宅地化され、只今の姿となっている。開墾の順番が「入植者」の願いも篭めて地名に照らされている(11以降は・・・)。成田市教育委員会教育指導課の「十余三の開墾のお話 とよみのかいこんのおはなし」から引用すると、
1.初富村(はつとみむら)→鎌ケ谷市 (かまがやし)
2.二和村(ふたわむら)→船橋市 (ふなばしし)
3.三咲村(みさきむら)→船橋市 (ふなばしし)
4.豊四季村(とよしきむら)→柏市 (かしわし)
5.五香村(ごこうむら)→松戸市 (まつどし)
6.六実村(むつみむら)→松戸市 (まつどし)
7.七栄村(ななえむら)→富里町 (とみさとまち)※現在は富里市
8.八街村(やちまたむら)→八街市(やちまたし)
9.九美上村(くみあげむら)→佐原市(さわらし)※現在は香取市
10.十倉村(とくらむら)→富里町 (とみさとまち)
11.十余一村(とよひとむら)→臼井町(うすいまち)※現在は佐倉市
12.十余二村(とよふたむら)→柏市 (かしわし)
13.十余三村(とよみむら)→成田市 (なりたし)
である。一戸、二戸、三戸・・・は、南部藩の「柵」をもとにして附された地名であるが、これに比して、やはり、明治の人は、名づけ上手である。
帰り途、まだ、莟(つぼみ)の梅を観た。慶林寺といって、高城氏ゆかりとあった。

梅の莟は今頃、もう、殻を墾って、美事に映えているのであろうか。(21日・訪)
2008.02.20
寝台特急「なは」
標題は毎年、3月15日に行なわれる大掛かりなダイヤ改正に伴なって、廃止されてしまう寝台特急の名称である。JR九州(九州旅客鉃道株式会社)の運行である。由来は本土復帰を願って、公募から選ばれたトレイン・ネームだったらしく、もともとは、九州内の昼間特急ともある(ブルートレイン・夜行列車一覧より)。その公募というのが、琉球新報によるものであったらしい。
[琉球新報で報じられている(ナハ)の廃止](08年1月16日付)
わたくしは、もちろん、乗ったことはないけれども、廃止されると聞けば、乗りたい、という心理は当然あるはずで、鉄分一杯の方たちも、そうでない方も、「スワ、ナハへ」ということでもって、今、「切符」が取りづらいらしい。試しにJRサイバーステーションでもって23日の京都〜熊本で空席状況を調べてみたが、B寝台のみ(ソロ、デュエットあり)の編成ですべて×、前日(金曜日)も×、さすがに、翌日曜日はまだ「空」ありである。23日の逆区間(熊本〜京都)は2月17日現在では若干あり△(喫煙のみ)だったが、本日(20日)、あらためて、検索すると、×に変わっていた。
上記(ブルートレイン・夜行列車一覧)サイトにもあるが、当然ながら、「なは」に乗っても那覇には行くことはできない。色々と調べてみたが、どう小細工しても、熊本から那覇には、やはり、列車だけでは行くことはできないし、代替としての「船」もないようである。わたくしが、この名を知ったのは、おそらく、熊本へ出かける際に(乗ってみようかと)企てた時だと思う。記憶をたどれば、那覇にうかがった頃でもあるから、おそらく2〜3年前だろうか。ただ、条件(発着時刻など)が一致せず、実現はしなかった。
「夢を与えてくれる」名前だなぁと、いつか、と思ってはいたけれども、時間切れである、もう、乗ることはできなさそうである。
1930(昭和5年)10月1日の東海道・山陽線、東京−神戸間各等特急11・12列車超特急「燕」(洋食堂車付)新設、所要9時間という、なんだか、わくわくする記事(サイト)を見つけた。「栗太郡綣村人(くりたぐんへそむらじん) のページ」といって、他項にも興味が沸くけれども本日は「時刻表蔵書目録」に絞る。各等というのは、一等、二等および三等座席(車両)がついていたということであろう。少し、飛んで、「超特急」とあるのは、やはり、この9時間というのは、チョォ〜!速かったということなのか、只今は、東京〜大阪間はシンカンセン利用で3時間弱が最速であるけれども、当時としては、やはり、超なのであろう。個人的な秤(はかり)であらわせば、3時間では居眠り(-_-)z程度であるが、3倍あれば熟睡(-_-)zzz・・・が可能である(ただし、終着駅まで乗るとしてである。眠りの途中で起きるのは好まない)。そう(睡眠)でなくても、ふだんはできない「時間消費」(あるいは、暇つぶし)もできる。前回ブログにも記したが、読書(暇つぶしではないにしても)もできる(仕事はしない)。少し、戻るが、JR九州の「つばめ」に関する記事をみつけた。もちろん、現在、運行している九州シンカンセンのことであるが、「燕(ツバメ)」という名づけへの、あるいは列車(つばめ)の歴史へのコダワリが充満している。1934(昭和9)年に東京〜大阪間を8時間ジャスト!とあって、これでは(わたくしの大好きな)睡眠時間が削られてしまう。
[つばめ列車の歴史](まったく、列車が可哀いJR九州のサイト、より)
まさに、「この」時簡の短縮過程が「なは・あかつき」はじめ寝台特急を失っていく、大きな要因となっている。もはや、列車で朝を迎えるということは、一部の特別仕立て列車(トワイライトEX、カシオペア、北斗☆など)以外では客車事業としては成り立たないということであろうか。今、漠然と考えていることのひとつに、「この先」というお題目があって、100メートル走は9秒台が限界なのであろうか?あるいはフルマラソンは、いつ頃2時間を切るかといった「テーマ」のほかに、列車はいったい時速何キロメートルまで延ばすのだろうかというのもある。2025年(17年後)にはリニアが500キロメートル超の走行をめざすということがJR東海(東海旅客鉃道株式会社)から発表された。今、航空機の離陸時速度は300〜350キロメートル/時速、ちなみに巡航速度は800〜900キロメートルということなので(※もう、日本の空からは「ほぼ」消えてしまったのだが、YS−11巡航速度は450キロメートル前後だったらしい)、リニアに羽根とかいろいろ付着させれば、今でも離陸可能な速度であり、もしかしたら、50年後には時速800キロメートルを実現して、航空機並みに巡航できてしまう・・・それでは、列車ではなくなってしまう、といったような、阿呆なことを妄想している。
できれば、採算を度外視した寝台特急を、何両か復活させていただきたい、そういうふうに、願っている。ネット・トレイン、一日中、走っている列車の中で、揺られてみたい、そういう心づもりは、いつでもある。「なは」はなくなるが、「左沢(あてらざわ)」まで、あるいは、「神町(じんまち)」まで、夢の超鈍行を走らせていただきたい。

あぁ、もちろん、3月14日京都駅(20:02発)〜熊本駅(翌07:42着)および同日の熊本駅(20:14発)〜京都駅(翌08:20着)は、いずれも満席(室)であるので、68年10月1日大阪―西鹿児島間(現在は鹿児島中央駅)に昼間特急として始まった「なは」のフィナーレをともに迎えたい方は、熊本駅あるいは京都駅でどうぞ。わたくしも・・・。
[琉球新報で報じられている(ナハ)の廃止](08年1月16日付)
わたくしは、もちろん、乗ったことはないけれども、廃止されると聞けば、乗りたい、という心理は当然あるはずで、鉄分一杯の方たちも、そうでない方も、「スワ、ナハへ」ということでもって、今、「切符」が取りづらいらしい。試しにJRサイバーステーションでもって23日の京都〜熊本で空席状況を調べてみたが、B寝台のみ(ソロ、デュエットあり)の編成ですべて×、前日(金曜日)も×、さすがに、翌日曜日はまだ「空」ありである。23日の逆区間(熊本〜京都)は2月17日現在では若干あり△(喫煙のみ)だったが、本日(20日)、あらためて、検索すると、×に変わっていた。
上記(ブルートレイン・夜行列車一覧)サイトにもあるが、当然ながら、「なは」に乗っても那覇には行くことはできない。色々と調べてみたが、どう小細工しても、熊本から那覇には、やはり、列車だけでは行くことはできないし、代替としての「船」もないようである。わたくしが、この名を知ったのは、おそらく、熊本へ出かける際に(乗ってみようかと)企てた時だと思う。記憶をたどれば、那覇にうかがった頃でもあるから、おそらく2〜3年前だろうか。ただ、条件(発着時刻など)が一致せず、実現はしなかった。
「夢を与えてくれる」名前だなぁと、いつか、と思ってはいたけれども、時間切れである、もう、乗ることはできなさそうである。
1930(昭和5年)10月1日の東海道・山陽線、東京−神戸間各等特急11・12列車超特急「燕」(洋食堂車付)新設、所要9時間という、なんだか、わくわくする記事(サイト)を見つけた。「栗太郡綣村人(くりたぐんへそむらじん) のページ」といって、他項にも興味が沸くけれども本日は「時刻表蔵書目録」に絞る。各等というのは、一等、二等および三等座席(車両)がついていたということであろう。少し、飛んで、「超特急」とあるのは、やはり、この9時間というのは、チョォ〜!速かったということなのか、只今は、東京〜大阪間はシンカンセン利用で3時間弱が最速であるけれども、当時としては、やはり、超なのであろう。個人的な秤(はかり)であらわせば、3時間では居眠り(-_-)z程度であるが、3倍あれば熟睡(-_-)zzz・・・が可能である(ただし、終着駅まで乗るとしてである。眠りの途中で起きるのは好まない)。そう(睡眠)でなくても、ふだんはできない「時間消費」(あるいは、暇つぶし)もできる。前回ブログにも記したが、読書(暇つぶしではないにしても)もできる(仕事はしない)。少し、戻るが、JR九州の「つばめ」に関する記事をみつけた。もちろん、現在、運行している九州シンカンセンのことであるが、「燕(ツバメ)」という名づけへの、あるいは列車(つばめ)の歴史へのコダワリが充満している。1934(昭和9)年に東京〜大阪間を8時間ジャスト!とあって、これでは(わたくしの大好きな)睡眠時間が削られてしまう。
[つばめ列車の歴史](まったく、列車が可哀いJR九州のサイト、より)
まさに、「この」時簡の短縮過程が「なは・あかつき」はじめ寝台特急を失っていく、大きな要因となっている。もはや、列車で朝を迎えるということは、一部の特別仕立て列車(トワイライトEX、カシオペア、北斗☆など)以外では客車事業としては成り立たないということであろうか。今、漠然と考えていることのひとつに、「この先」というお題目があって、100メートル走は9秒台が限界なのであろうか?あるいはフルマラソンは、いつ頃2時間を切るかといった「テーマ」のほかに、列車はいったい時速何キロメートルまで延ばすのだろうかというのもある。2025年(17年後)にはリニアが500キロメートル超の走行をめざすということがJR東海(東海旅客鉃道株式会社)から発表された。今、航空機の離陸時速度は300〜350キロメートル/時速、ちなみに巡航速度は800〜900キロメートルということなので(※もう、日本の空からは「ほぼ」消えてしまったのだが、YS−11巡航速度は450キロメートル前後だったらしい)、リニアに羽根とかいろいろ付着させれば、今でも離陸可能な速度であり、もしかしたら、50年後には時速800キロメートルを実現して、航空機並みに巡航できてしまう・・・それでは、列車ではなくなってしまう、といったような、阿呆なことを妄想している。
できれば、採算を度外視した寝台特急を、何両か復活させていただきたい、そういうふうに、願っている。ネット・トレイン、一日中、走っている列車の中で、揺られてみたい、そういう心づもりは、いつでもある。「なは」はなくなるが、「左沢(あてらざわ)」まで、あるいは、「神町(じんまち)」まで、夢の超鈍行を走らせていただきたい。

あぁ、もちろん、3月14日京都駅(20:02発)〜熊本駅(翌07:42着)および同日の熊本駅(20:14発)〜京都駅(翌08:20着)は、いずれも満席(室)であるので、68年10月1日大阪―西鹿児島間(現在は鹿児島中央駅)に昼間特急として始まった「なは」のフィナーレをともに迎えたい方は、熊本駅あるいは京都駅でどうぞ。わたくしも・・・。
2008.02.16
霊岸橋(れいがんばし)
近頃は、毎日、外出(所用)しており、そのお蔭もあって、あちこち、みることもできる。乗換駅の市ヶ谷駅から望む桜はまだらしいけれど、それはどうでも良い。釣り堀で何かTVかラジオか分からないが、数人の明らかに釣り人に見えない方たちが右往左往しているのが遠目に見えて、気になった。久しぶりに、代々木に行った思いであるが、そこに全理連ビルを見つけて、「理容ミュージアム」を訪ねようかと思ったけれども、その(済ませた所用の)あとも、約束があって、また、ミュージアムは予約制と知っていたから、諦めた、いずれ。(全理連:全国理容生活衛生同業組合連合会のHP/理容史料館の案内・・・内容は現在と異なっているかも)
14日は新川(シンカワ)に出かけることに、少し、早目に行き、所用場所近くのカフェで読書。阿部和重さんの「シンセミア」は結局、文庫本を買って、正解であったのかもしれない。こういう時(外出時の所用の合い間)にしか本を読めなくなっているようで、部屋に戻ると、呑んでばかりいて、読めない。なんとか、半分(4分冊)まで至ったというのも、外出が多いからである。(電車内でも、せっせと「読」)
所用を終え、場の引けた株屋街は家路(呑み路かも)に急ぐ人たちが駅方向へと一斉に向かっていて、同じように、わたくしも茅場町駅に呑みこまれた。この界隈には古い建物がずいぶんと残っており、駅への途中、信号待ちの合い間を縫って、ふと、見かけたビルを撮ってみた。呑み屋のように思えたので、いずれ、また、所用でなく、この辺りを訪ねたいと思う。ほかにも、いくつか、気になることもあるので。(目的は「呑み」だけれども)
[呑み屋さんのような・・・]※でなかったら、この件(建物)に関しては、終わり(追加報告なし)

今月中には、シンセミアを読み了えることができそうである。それだけ、「外」が多いということでもある。
14日は新川(シンカワ)に出かけることに、少し、早目に行き、所用場所近くのカフェで読書。阿部和重さんの「シンセミア」は結局、文庫本を買って、正解であったのかもしれない。こういう時(外出時の所用の合い間)にしか本を読めなくなっているようで、部屋に戻ると、呑んでばかりいて、読めない。なんとか、半分(4分冊)まで至ったというのも、外出が多いからである。(電車内でも、せっせと「読」)
所用を終え、場の引けた株屋街は家路(呑み路かも)に急ぐ人たちが駅方向へと一斉に向かっていて、同じように、わたくしも茅場町駅に呑みこまれた。この界隈には古い建物がずいぶんと残っており、駅への途中、信号待ちの合い間を縫って、ふと、見かけたビルを撮ってみた。呑み屋のように思えたので、いずれ、また、所用でなく、この辺りを訪ねたいと思う。ほかにも、いくつか、気になることもあるので。(目的は「呑み」だけれども)
[呑み屋さんのような・・・]※でなかったら、この件(建物)に関しては、終わり(追加報告なし)

今月中には、シンセミアを読み了えることができそうである。それだけ、「外」が多いということでもある。
2008.02.10
宝の暦
宝暦というのは、1751〜63年までの13年間である(※51年は寛延4年と重なり、64年は途中まで宝暦14年ののち、明和元年となる)。前回でふれた最上徳内は宝暦5(1755)年に羽州・村山・楯岡に生まれた(54年という説もある)。宝暦生まれをざっと挙げてみた。
・・・元(寛延4)/上杉鷹山、笠森お仙(おせん)、大黒屋光太夫
・・・7/大槻玄沢
・・・8/松平定信、良寛
・・10/葛飾北斎、華岡青洲
・・13/小林一茶、谷文晁
当然、同時代に生きているのだから、関係(つながり)を見ることができる。例えば、松平定信(8代将軍吉宗の孫)は田沼意次によって始められた蝦夷開発を止め、いちじ、徳内は立場を失う。定信は有名な寛政の改革(倹約令)を推し進め、名君といわれた上杉鷹山が米沢藩にあらわれる。ついでに記せば、定信は徳内の生地楯岡を治めていた白河藩主に就いている。1783(天明3)年のことである。その2年前に徳内は江戸に出ている。大黒屋光太夫は漂流のうえ、ペテルブルクでエカチェリーナ2世と謁見するという希有な体験をしており、のちの対ロシヤに関わざるを得なかった。蘭学者の大槻玄沢も光太夫から数々を学んでいる。大槻は杉田玄白、前野良沢の弟子で、それぞれ一字を戴いた。玄白、良沢はシーボルトらを訪ねに、しばしば長崎屋に詣でていた、おそらく、大槻も随伴していただろうから、徳内とすれ違っていた可能性もおおいにある。華岡青洲は外科医、近代において初めて麻酔を用いた手術を行なっている。
笠森お仙は谷中にあった水茶屋「鍵屋」の売れっ娘で、絵師・鈴木春信が好んで描いていたらしい。
[絵師・鈴木春信による(お仙像)](実在の笠森お仙2/おせん・きくち正太ファンサイトより)
※若い衆が吸っているキセルに用いる葉を徳内は売って歩いていた。
一茶と良寛、北斎に文晁、なんとなく、なんとなくである。
かなり、恣意的であるが、宝暦生まれの人々である。そして、もう一人、徳内とほぼ同い年の菅江真澄(4年生まれ)である。徳内が27歳で東北から江戸に向かったのに対し、真澄は30歳(29歳説もある)の時に、それが最期の旅立ちともなる東北へと(最終的には秋田)。二人は同じ時代にありながら、お互いを知る由もなかったのであろうか。北海道知内(しりうち)町に雷公神社がある。そこをふたりが訪ねているという記述が見つかった(雷公神社〜BEST! from 北海道)。もちろん、別々にではあると思う。徳内はというと、定信による蝦夷開発中止の後も、蝦夷地に出向いており、生涯で九度といわれている。真澄は1788(天明8)〜92年に蝦夷地(松前周辺)を訪問している。真澄が在蝦夷の5年間のうち、徳内は3度目の蝦夷が89年(7月松前入り、9月江戸へ)、4度目の蝦夷が91年(1月松前入り、探検後、11月に松前に戻り、江戸へ)、そして5度目の蝦夷では92年2月に松前入り、同10月初に松前戻りとある。真澄はというと、91年に長万部、有珠岳などを歩き、92年1月に松前福山に戻っている。そして、10月に大間(青森)へ渡る。ふたりが出会うには、89年および92年に機会はあった。ただ、89年は同行した青島俊蔵とともに幕府から嫌疑をかけられ、翌年、徳内は入牢している(青島は獄死、徳内は師である本多利明らの尽力もあり、釈放された)ことから、接点は、92(寛政4)年以外にない。この9か月のどこかで、会うことは歴史的にはないとしても、物理的には可能である。9月に、ラクスマン事件(ロシア使節のラクスマンが根室に上陸)が起きているので、ゆっくり会うとなれば、年初め、危急で会わざるを得ないとすれば、やはり、9月である。もちろん、そういう史実はない。
※徳内の行動⇒「行動の人・最上徳内、城山来る。」(屋根のない博物館ホームページより)
※真澄の行動⇒「菅江真澄」(田口昌樹氏著〜秋田文化出版社より)
[参考]
菅江真澄著:「蝦夷喧辞辨」(エミシ・ノ・サエギ)北大附属図書館北方資料室(これも、達筆なので・・・)
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
真澄や徳内が生まれた宝暦4〜5年にかけて、宝暦治水事件といわれる幕府によって鹿児島藩に架せられた木曽三川治水工事にまつわる悲劇が起きている。拙ブロ「琉球留記ノ圧紊織りなす」(07年8月17日付)で真玉橋(まだんばし)の『七色ムーティー(元結)』という人柱伝説に類似した例として、岐阜県海津市平田町の若宮さまを紹介したが、長良川はじめ木曽三川(他に、揖斐川、木曽川)の氾濫を食い止めるべき努めたのが鹿児島(薩摩)藩士らであり、多くの犠牲も負い、今でも治水神社に祀られているが、この時の総指揮(奉行)が平田靱負(ひらた ゆきえ)といって、上記、町名のもととなっていると記した。靱負は部下たちの殉死(病死、事故死など)を受けて、工事終了後に自らを絶つ。もともと、幕府の要求は無茶であった。藩士の気もちとしては、討幕心が支配していたけれども、それを抑えて、なお、自ら、実務に当たったのが、靱負(のちに正輔と改名)である。(幕府への)体裁を整えたうえで、部下の(藩への)不信・不満および(工事による)犠牲を自らの死でもって、清算した。そういう人物である。
一と半世紀ほど時を戻す。
鹿児島藩の琉球侵攻については、もう、何度も記している。家康の言質を得た島津は1609(慶長14)年、奄美、そして、琉球へと進み、ついには、首里城を落とす。尚寧(しょうねい)王はじめ重役は、鹿児島及び江戸に引き回されたことも書いた。そして、唯ひとり、薩摩による琉球支配を認めなかったのが謝名親方(じゃな・うぇーかた)であり、刑を処された。
平田増宗(ますむね)は鹿児島藩副官として、派遣されている。
当時の島津はお世継ぎ争いの渦中にあって、増宗は帰国後(琉球侵攻後)、謀叛の罪で藩主家久によって処(暗殺)され、お家断絶となっている。傍系が継いで、靱負が生まれている。(平田氏系図⇒「秘武道の世界」より)
昨年10月に沖縄を訪ねた。その際、久米、若狭あたりを二度歩き、そのこと(謝名親方)について、考えていて、以上(平田家)のことをあわせていた。それが、徳内に至るとは思わなかったけれども、すこし、想いを、琉球に、よせてみたい。(次回以降、ぽつぼつと・・・)
・・・元(寛延4)/上杉鷹山、笠森お仙(おせん)、大黒屋光太夫
・・・7/大槻玄沢
・・・8/松平定信、良寛
・・10/葛飾北斎、華岡青洲
・・13/小林一茶、谷文晁
当然、同時代に生きているのだから、関係(つながり)を見ることができる。例えば、松平定信(8代将軍吉宗の孫)は田沼意次によって始められた蝦夷開発を止め、いちじ、徳内は立場を失う。定信は有名な寛政の改革(倹約令)を推し進め、名君といわれた上杉鷹山が米沢藩にあらわれる。ついでに記せば、定信は徳内の生地楯岡を治めていた白河藩主に就いている。1783(天明3)年のことである。その2年前に徳内は江戸に出ている。大黒屋光太夫は漂流のうえ、ペテルブルクでエカチェリーナ2世と謁見するという希有な体験をしており、のちの対ロシヤに関わざるを得なかった。蘭学者の大槻玄沢も光太夫から数々を学んでいる。大槻は杉田玄白、前野良沢の弟子で、それぞれ一字を戴いた。玄白、良沢はシーボルトらを訪ねに、しばしば長崎屋に詣でていた、おそらく、大槻も随伴していただろうから、徳内とすれ違っていた可能性もおおいにある。華岡青洲は外科医、近代において初めて麻酔を用いた手術を行なっている。
笠森お仙は谷中にあった水茶屋「鍵屋」の売れっ娘で、絵師・鈴木春信が好んで描いていたらしい。
[絵師・鈴木春信による(お仙像)](実在の笠森お仙2/おせん・きくち正太ファンサイトより)
※若い衆が吸っているキセルに用いる葉を徳内は売って歩いていた。
一茶と良寛、北斎に文晁、なんとなく、なんとなくである。
かなり、恣意的であるが、宝暦生まれの人々である。そして、もう一人、徳内とほぼ同い年の菅江真澄(4年生まれ)である。徳内が27歳で東北から江戸に向かったのに対し、真澄は30歳(29歳説もある)の時に、それが最期の旅立ちともなる東北へと(最終的には秋田)。二人は同じ時代にありながら、お互いを知る由もなかったのであろうか。北海道知内(しりうち)町に雷公神社がある。そこをふたりが訪ねているという記述が見つかった(雷公神社〜BEST! from 北海道)。もちろん、別々にではあると思う。徳内はというと、定信による蝦夷開発中止の後も、蝦夷地に出向いており、生涯で九度といわれている。真澄は1788(天明8)〜92年に蝦夷地(松前周辺)を訪問している。真澄が在蝦夷の5年間のうち、徳内は3度目の蝦夷が89年(7月松前入り、9月江戸へ)、4度目の蝦夷が91年(1月松前入り、探検後、11月に松前に戻り、江戸へ)、そして5度目の蝦夷では92年2月に松前入り、同10月初に松前戻りとある。真澄はというと、91年に長万部、有珠岳などを歩き、92年1月に松前福山に戻っている。そして、10月に大間(青森)へ渡る。ふたりが出会うには、89年および92年に機会はあった。ただ、89年は同行した青島俊蔵とともに幕府から嫌疑をかけられ、翌年、徳内は入牢している(青島は獄死、徳内は師である本多利明らの尽力もあり、釈放された)ことから、接点は、92(寛政4)年以外にない。この9か月のどこかで、会うことは歴史的にはないとしても、物理的には可能である。9月に、ラクスマン事件(ロシア使節のラクスマンが根室に上陸)が起きているので、ゆっくり会うとなれば、年初め、危急で会わざるを得ないとすれば、やはり、9月である。もちろん、そういう史実はない。
※徳内の行動⇒「行動の人・最上徳内、城山来る。」(屋根のない博物館ホームページより)
※真澄の行動⇒「菅江真澄」(田口昌樹氏著〜秋田文化出版社より)
[参考]
菅江真澄著:「蝦夷喧辞辨」(エミシ・ノ・サエギ)北大附属図書館北方資料室(これも、達筆なので・・・)
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
真澄や徳内が生まれた宝暦4〜5年にかけて、宝暦治水事件といわれる幕府によって鹿児島藩に架せられた木曽三川治水工事にまつわる悲劇が起きている。拙ブロ「琉球留記ノ圧紊織りなす」(07年8月17日付)で真玉橋(まだんばし)の『七色ムーティー(元結)』という人柱伝説に類似した例として、岐阜県海津市平田町の若宮さまを紹介したが、長良川はじめ木曽三川(他に、揖斐川、木曽川)の氾濫を食い止めるべき努めたのが鹿児島(薩摩)藩士らであり、多くの犠牲も負い、今でも治水神社に祀られているが、この時の総指揮(奉行)が平田靱負(ひらた ゆきえ)といって、上記、町名のもととなっていると記した。靱負は部下たちの殉死(病死、事故死など)を受けて、工事終了後に自らを絶つ。もともと、幕府の要求は無茶であった。藩士の気もちとしては、討幕心が支配していたけれども、それを抑えて、なお、自ら、実務に当たったのが、靱負(のちに正輔と改名)である。(幕府への)体裁を整えたうえで、部下の(藩への)不信・不満および(工事による)犠牲を自らの死でもって、清算した。そういう人物である。
一と半世紀ほど時を戻す。
鹿児島藩の琉球侵攻については、もう、何度も記している。家康の言質を得た島津は1609(慶長14)年、奄美、そして、琉球へと進み、ついには、首里城を落とす。尚寧(しょうねい)王はじめ重役は、鹿児島及び江戸に引き回されたことも書いた。そして、唯ひとり、薩摩による琉球支配を認めなかったのが謝名親方(じゃな・うぇーかた)であり、刑を処された。
平田増宗(ますむね)は鹿児島藩副官として、派遣されている。
当時の島津はお世継ぎ争いの渦中にあって、増宗は帰国後(琉球侵攻後)、謀叛の罪で藩主家久によって処(暗殺)され、お家断絶となっている。傍系が継いで、靱負が生まれている。(平田氏系図⇒「秘武道の世界」より)
昨年10月に沖縄を訪ねた。その際、久米、若狭あたりを二度歩き、そのこと(謝名親方)について、考えていて、以上(平田家)のことをあわせていた。それが、徳内に至るとは思わなかったけれども、すこし、想いを、琉球に、よせてみたい。(次回以降、ぽつぼつと・・・)
2008.02.09
むらやま・楯岡(たておか)貮〜エドへ、エゾへ
甑岳(こしきだけ)は村山平野を一望できるとある。※甑岳からの眺望(おいら的素浪人通信より)もちろん、登ったことがないのだから、想像でしかないけれども、より以遠を望むことも可能であったのであろう。元吉(げんきち)はここにしばしば登り、江戸へ行き、侍(さむらい)になりたいと思っていたそうである。おそらく、ほかに誰もいないことを確認して、大声で叫んでいたのかもしれない。その想い(叫び)は天に通じて、元吉(のちに最上徳内;もがみ・とくない、を名乗る)は江戸に居た。ただし、侍といっても、江戸中期においては戦いを職とする武士という意味あいはほとんど失われており、今でいえば、お役人あるいは公務員のような、近侍の人(侍人じじん、侍士じし)だったのであろう。実際、徳内は56歳の時、大奥の庶務係に就いていると、訪れた最上徳内記念館の年譜にもあった。しかし、本来の目的については、諸説あって、はっきりしないけれども、楯岡などという狭苦しい、貧しい田舎から抜け出て、より広い江戸という「世界」に飛び込みたいという気もちが、甑岳からの遠景を眺めることで、次第に膨脹していったのであるまいか。また、幼少時代の元吉には、すでに、その潜在的な能力と環境が存在していた。
徳内は楯岡村の貧しい農家に生まれた。今、市役所の隣に、徳内の業績を讃えた記念館がある。展示のひとつに家系譜があり、近江高宮氏から創(はじ)まっている。ただし、直接の関係はなさそうで、近江の国、高宮のご城下にいたということのようである。そこから、加賀金沢に移り、徳内の三代前の時代に楯岡に流れている。祖父は初代太右衛門太郎兵衛で、その三男(?)甚兵衛の子が元吉(徳内)である。類縁は高宮姓を名乗ったという記述があるが、おそらく、もといた近江高宮氏にちなんでのことであろう。琵琶湖を中心とした戦乱の中で、当時、勢いを増していたのは織田信長である。高宮氏は時流(信長流)に巧く乗ることができず、力は衰える一方で、末裔は、大坂夏の陣で西側についたともされ、断絶している。(「高宮氏」播磨屋より)
元吉が生まれたのは1755(宝暦5)年(54年という説もある)であり、信長も夏の陣も、もう過去の話であり、その頃は、祖父あたりが楯岡に移ろうかという時期である。1838(天保9)年というから、徳内の没2年後の楯岡村は阿部氏白河藩10万石のご領地であり、村の石高(村高)は6,500石、うち町(楯岡宿場町内)の分は3,590石、戸数644、民1,843人とある(同記念館展示資料から)。一石=一人(一年におおよそ一人が一石を食す)と考えると、多いような気もするが、五公(年貢あるいは地主への配分)五民とすれば、やや苦しいことになる。もちろん、仮定の話であるので、徳内の実際の暮らしぶりを反映しているとはいえないが、徳内の生家、また、楯岡村のすべてが、いくばくかの農作とタバコ葉の栽培で細々と「くらし」を営んでいたという方が実態に近い気がする。わたくしの育った町でも以前はタバコ農家が何軒かあって、それは専業ではなく、農作との兼業が多かったけれども、敷地内にタバコ専用の作業場があり、そこは、乾燥・醗酵させた葉を燻すのが主な用途であったように思う。小学生の、わたくしは、友人らと、悪戯でもって、燻す前の葉を巻いて、火を点けたが、ろくに煙も出ず、だいいち、タバコの味など知らないから、ただ、不味いと感じるしかなかった記憶が今でもある(そのくせ、今は吸っているが)。徳内は燻した葉を器用に刻んで(切って)、行商に出かけたという。東北一帯を歩いたともあるから、当然、それより間近の大石田や谷地村へは足繁く通ったのであろう。前者は最上川が集落に最接近する地でもあり、舟運業で栄えた町である。後者も、現在は河北町(かほくちょう)といって、紅花「貿易」で、やはり繁栄した。大石田には1689(元禄2)年に松尾芭蕉も訪ねており、すでに、最上川は諸国に知られていた、いわば観光地でもあったのであろう。・・・さみだれをあつめてすゞしもがみ川
10代初め頃の徳内にとって、行商は「知」の世界を広める術として恰好であった。タバコを売るには、商人らが集まりそうな宿やお茶屋に行けば良い、また、相手はたいてい大人であるから、徳内の知らないことを教えてくれたし、生来、好奇心が強かっただろう徳内も執(しつ)こく大人に訊いて回ったのであろうか。
「親想いの、賢い子だこと」と、訊かれた旅人、商人も、時間が許す限り、自慢話も含めて、貧しい家を援(たす)けるために行商をし、眼を見開いて、人の話を傾聴し、呑みこみの速い元吉少年には、なんでも話したのかもしれない。何人かは、お得意さんがいて、その度に、京かどこかから荷の中に漢籍か算術書の類を携えて、徳内への褒美としていたのかもしれない。このようにして、徳内は自らの「侍」になるための知を蓄積していったのであろう。のちに、最上を名乗るが、その理由として、楯山にあった楯岡城主「最上」氏にちなんだともいわれる(同城は1622=元和8年に廃されている)が、甑岳と最上川が徳内のそばになかったら、おそらく、貧農の子として、一生を終えているのではないかという、無茶な想像が、わたくしの中にあり、甑岳により志の高さを積み、そして、最上川により、知の広さを会得した徳内(元吉)が、特に、後者への想いから最上を名乗った、か、あるいは、他人様から、最上で良いのではないかと、そう呼ばれても、あえて、そういう気もち(最上川への)があったので、拒まずに、通り名となった、と、勝手に想像している。徳内・・・これについては、考えもしていないが。
[最上徳内像](村上市HPより)
[最上徳内記念館]

[村山駅の徳内幟]

最上徳内は影の人でもある。
例えば、日本各地を測量した人物・・・あ、伊能忠敬ね、北方を探検した人物・・・それは、間宮林蔵だわね、と、必ず、先に名前が挙げられ、徳内が最初ということはまずないのである。択捉島に上陸するが、この時も近藤重蔵の名が先んじる。そういうお方なのだと思えば何ということはないが、どうも(影が)薄い。それが、東北の寒村生まれの特徴(良さ)なのであろうか。
今、わたくしが想っていることは、徳内の「覇気」についてである。徳内は27歳で江戸に出る。当時の平均寿命というのは50歳前後であったが、50歳前後の人の余命は15年前後であったらしいので、仮に65歳とすれば、人生2/5でのことである。今でいえば、30歳を過ぎた頃に、東京へという感覚であり、情報が少ないことを考えれば、ひょっとしたら、不惑を越えてのことという冒険だったのかもしれない。(ただ、徳内は長命の部類で、82歳まで生きた)
もっとも、同郷(今の山形市)で10ばかり年上の会田安明も23歳で江戸に出ているといるというから、それが当たり前で、わたくしだったら、そうはできない、というだけのことかもしれない。覇気がない、そういうことであるけれども、徳内に対しては、やはり、なにかしら、特別な力を感じている。
会田は、徳内とはのちに本多の音羽塾でともに学ぶが、徳内のことを「異人」と称している。変人、奇人は多いが、異人と呼ばれたのは、おそらく、徳内しか記憶にないし、それ以外に想いつくのは、「赤い靴、はいてた、おんなのこ〜・・・・、」の異(国)人さんのみである。その異人さんから絶賛を浴びている。1826(文政9)年に徳内は日本橋の薬種問屋であり、オランダ商館人らの定宿である「長崎屋」を訪ねている。これが、3度目で、ようやく、目的を果たすことができた。シーボルトとの面会である。徳内72歳、シーボルト31歳であった。一目で、ふたりは「(年は離れているけれども)はらから」となったようである。
《十八世紀における最も卓越した探検家》
シーボルトが徳内をあらわした精一杯の言葉である。
徳内はシーボルトに自らの成果を含め、情報を出し惜しみしなかった。今でいえば、情報公開なのであるが、当時はご禁制が含まれており、のちにシーボルト事件となるが、さいわい、徳内は免れた。徳内に他意はなかったと思う。まだ、楯岡で煙草切りの行商をしていた頃に、お得意客にしてもらったように、訊かれたことには答える、ただ、それだけのことでしかなかったように思う。(シーボルトへの畏敬の念は別にあるけれども)
蝦夷探検以降の徳内については、いまさら記すこともない。
むらかみへの訪問は以上である。おまけ(神町など)もたくさん付いた。
河北はじめ各所で、もう、ひな祭りが始まっている。村山駅でいただいた小冊子によると、村山地域14市町で、2〜4月にかけて、続く。むらやまは全長43メートル、4700体のロングひな祭り(3月20〜25日)、谷地ひなまつり(河北町)は月遅れの4月2〜3日、同両日、大石田でも各家の自慢のお雛様が公開される。最上、庄内、置賜(おきたま)においても雛の華が咲くそうである。
「やまがた雛のみち」(山形県村山総合支庁)
[参考]
森銑三氏「最上徳内」日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
秦恒平氏「湖(うみ)の本 32 北の時代=最上徳内」
司馬遼太郎氏「街道をゆく/本郷界隈」
大成建設蟒鬼文春コラム「立ち話」
・不屈の北方探検家・最上徳内(1)
・不屈の北方探検家・最上徳内(2)
・不屈の北方探検家・最上徳内(3)
なお、「蝦夷草紙」は北大附属図書館北方資料室によって閲覧可能である。(ただし、判読困難)
・蝦夷草紙(上)
・蝦夷草紙(下)
徳内は楯岡村の貧しい農家に生まれた。今、市役所の隣に、徳内の業績を讃えた記念館がある。展示のひとつに家系譜があり、近江高宮氏から創(はじ)まっている。ただし、直接の関係はなさそうで、近江の国、高宮のご城下にいたということのようである。そこから、加賀金沢に移り、徳内の三代前の時代に楯岡に流れている。祖父は初代太右衛門太郎兵衛で、その三男(?)甚兵衛の子が元吉(徳内)である。類縁は高宮姓を名乗ったという記述があるが、おそらく、もといた近江高宮氏にちなんでのことであろう。琵琶湖を中心とした戦乱の中で、当時、勢いを増していたのは織田信長である。高宮氏は時流(信長流)に巧く乗ることができず、力は衰える一方で、末裔は、大坂夏の陣で西側についたともされ、断絶している。(「高宮氏」播磨屋より)
元吉が生まれたのは1755(宝暦5)年(54年という説もある)であり、信長も夏の陣も、もう過去の話であり、その頃は、祖父あたりが楯岡に移ろうかという時期である。1838(天保9)年というから、徳内の没2年後の楯岡村は阿部氏白河藩10万石のご領地であり、村の石高(村高)は6,500石、うち町(楯岡宿場町内)の分は3,590石、戸数644、民1,843人とある(同記念館展示資料から)。一石=一人(一年におおよそ一人が一石を食す)と考えると、多いような気もするが、五公(年貢あるいは地主への配分)五民とすれば、やや苦しいことになる。もちろん、仮定の話であるので、徳内の実際の暮らしぶりを反映しているとはいえないが、徳内の生家、また、楯岡村のすべてが、いくばくかの農作とタバコ葉の栽培で細々と「くらし」を営んでいたという方が実態に近い気がする。わたくしの育った町でも以前はタバコ農家が何軒かあって、それは専業ではなく、農作との兼業が多かったけれども、敷地内にタバコ専用の作業場があり、そこは、乾燥・醗酵させた葉を燻すのが主な用途であったように思う。小学生の、わたくしは、友人らと、悪戯でもって、燻す前の葉を巻いて、火を点けたが、ろくに煙も出ず、だいいち、タバコの味など知らないから、ただ、不味いと感じるしかなかった記憶が今でもある(そのくせ、今は吸っているが)。徳内は燻した葉を器用に刻んで(切って)、行商に出かけたという。東北一帯を歩いたともあるから、当然、それより間近の大石田や谷地村へは足繁く通ったのであろう。前者は最上川が集落に最接近する地でもあり、舟運業で栄えた町である。後者も、現在は河北町(かほくちょう)といって、紅花「貿易」で、やはり繁栄した。大石田には1689(元禄2)年に松尾芭蕉も訪ねており、すでに、最上川は諸国に知られていた、いわば観光地でもあったのであろう。・・・さみだれをあつめてすゞしもがみ川
10代初め頃の徳内にとって、行商は「知」の世界を広める術として恰好であった。タバコを売るには、商人らが集まりそうな宿やお茶屋に行けば良い、また、相手はたいてい大人であるから、徳内の知らないことを教えてくれたし、生来、好奇心が強かっただろう徳内も執(しつ)こく大人に訊いて回ったのであろうか。
「親想いの、賢い子だこと」と、訊かれた旅人、商人も、時間が許す限り、自慢話も含めて、貧しい家を援(たす)けるために行商をし、眼を見開いて、人の話を傾聴し、呑みこみの速い元吉少年には、なんでも話したのかもしれない。何人かは、お得意さんがいて、その度に、京かどこかから荷の中に漢籍か算術書の類を携えて、徳内への褒美としていたのかもしれない。このようにして、徳内は自らの「侍」になるための知を蓄積していったのであろう。のちに、最上を名乗るが、その理由として、楯山にあった楯岡城主「最上」氏にちなんだともいわれる(同城は1622=元和8年に廃されている)が、甑岳と最上川が徳内のそばになかったら、おそらく、貧農の子として、一生を終えているのではないかという、無茶な想像が、わたくしの中にあり、甑岳により志の高さを積み、そして、最上川により、知の広さを会得した徳内(元吉)が、特に、後者への想いから最上を名乗った、か、あるいは、他人様から、最上で良いのではないかと、そう呼ばれても、あえて、そういう気もち(最上川への)があったので、拒まずに、通り名となった、と、勝手に想像している。徳内・・・これについては、考えもしていないが。
[最上徳内像](村上市HPより)
[最上徳内記念館]

[村山駅の徳内幟]

最上徳内は影の人でもある。
例えば、日本各地を測量した人物・・・あ、伊能忠敬ね、北方を探検した人物・・・それは、間宮林蔵だわね、と、必ず、先に名前が挙げられ、徳内が最初ということはまずないのである。択捉島に上陸するが、この時も近藤重蔵の名が先んじる。そういうお方なのだと思えば何ということはないが、どうも(影が)薄い。それが、東北の寒村生まれの特徴(良さ)なのであろうか。
今、わたくしが想っていることは、徳内の「覇気」についてである。徳内は27歳で江戸に出る。当時の平均寿命というのは50歳前後であったが、50歳前後の人の余命は15年前後であったらしいので、仮に65歳とすれば、人生2/5でのことである。今でいえば、30歳を過ぎた頃に、東京へという感覚であり、情報が少ないことを考えれば、ひょっとしたら、不惑を越えてのことという冒険だったのかもしれない。(ただ、徳内は長命の部類で、82歳まで生きた)
もっとも、同郷(今の山形市)で10ばかり年上の会田安明も23歳で江戸に出ているといるというから、それが当たり前で、わたくしだったら、そうはできない、というだけのことかもしれない。覇気がない、そういうことであるけれども、徳内に対しては、やはり、なにかしら、特別な力を感じている。
会田は、徳内とはのちに本多の音羽塾でともに学ぶが、徳内のことを「異人」と称している。変人、奇人は多いが、異人と呼ばれたのは、おそらく、徳内しか記憶にないし、それ以外に想いつくのは、「赤い靴、はいてた、おんなのこ〜・・・・、」の異(国)人さんのみである。その異人さんから絶賛を浴びている。1826(文政9)年に徳内は日本橋の薬種問屋であり、オランダ商館人らの定宿である「長崎屋」を訪ねている。これが、3度目で、ようやく、目的を果たすことができた。シーボルトとの面会である。徳内72歳、シーボルト31歳であった。一目で、ふたりは「(年は離れているけれども)はらから」となったようである。
《十八世紀における最も卓越した探検家》
シーボルトが徳内をあらわした精一杯の言葉である。
徳内はシーボルトに自らの成果を含め、情報を出し惜しみしなかった。今でいえば、情報公開なのであるが、当時はご禁制が含まれており、のちにシーボルト事件となるが、さいわい、徳内は免れた。徳内に他意はなかったと思う。まだ、楯岡で煙草切りの行商をしていた頃に、お得意客にしてもらったように、訊かれたことには答える、ただ、それだけのことでしかなかったように思う。(シーボルトへの畏敬の念は別にあるけれども)
蝦夷探検以降の徳内については、いまさら記すこともない。
むらかみへの訪問は以上である。おまけ(神町など)もたくさん付いた。
河北はじめ各所で、もう、ひな祭りが始まっている。村山駅でいただいた小冊子によると、村山地域14市町で、2〜4月にかけて、続く。むらやまは全長43メートル、4700体のロングひな祭り(3月20〜25日)、谷地ひなまつり(河北町)は月遅れの4月2〜3日、同両日、大石田でも各家の自慢のお雛様が公開される。最上、庄内、置賜(おきたま)においても雛の華が咲くそうである。
「やまがた雛のみち」(山形県村山総合支庁)
[参考]
森銑三氏「最上徳内」日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
秦恒平氏「湖(うみ)の本 32 北の時代=最上徳内」
司馬遼太郎氏「街道をゆく/本郷界隈」
大成建設蟒鬼文春コラム「立ち話」
・不屈の北方探検家・最上徳内(1)
・不屈の北方探検家・最上徳内(2)
・不屈の北方探検家・最上徳内(3)
なお、「蝦夷草紙」は北大附属図書館北方資料室によって閲覧可能である。(ただし、判読困難)
・蝦夷草紙(上)
・蝦夷草紙(下)
2008.02.08
紅梅、白梅〜世田谷・若林天満宮
前回の拙ブロ、「むらやま・楯岡(たておか)壱〜市(いち)へ」(08年2月6日付、すぐ↓)で、「(わたくしは)桜が好きでない」と記した。
そのぶん、「梅は嫌いでない」。本日、所用でもって、久しぶりの玉電に乗り、若林まで出かけた。三茶方向の出口を降り、右手に折れ、環七沿いを、少し南下したところに「若林天満宮」はある。いうまでもなく、学問の神、天神様である。もう、受験シーズンの峠は越えたのであろうか、参拝客はさっぱりである。絵馬というのも、みかけなかったような気がする。不思議なもので、うるさい車通りの直前にありながら、わたくしのような、無信心モノでさえ、そこだけのしじま(静寂)に包まれ、もう、過ぎてしまったけれども恵方のしじま(無言)に似た感覚に陥る。そこで、好きな梅を今年初めて、観て、はっとして(照れて)いる。さいわい、誰もいないので、少し、はしゃいでしまったが、すぐに、所用を思い出した。わずか数分の逢瀬である。
[お堂脇の紅梅、まだ、雪が残っている]

[環七沿いに映える白梅]※でも背後のビルも白いので、映えていない

[境内奥にある紅梅]

弘法さんは21日、天神さんは25日に、ご縁日が行なわれると、それぞれ、東寺、北野天満宮(いずれも京)の歳時記にある。あらわしようによっては、門前を廿日一(はつか・ついたち)町、あるいは、廿日五(いつか)町と謂ったのかもしれない(八戸には、それに近い町がある)。
ちなみに弘法さんには桜が、天神さんには梅がつきものであるが、わたくしは、まだ、ここ(京)の天神さんを、訪ねたことがない。どうりで、と、想うばかりである(もちろん、筆の方もさっぱりであるが)。
むらやま(楯岡)のことを考えているうちに、そういう梅日記を書きたくなった。
そのぶん、「梅は嫌いでない」。本日、所用でもって、久しぶりの玉電に乗り、若林まで出かけた。三茶方向の出口を降り、右手に折れ、環七沿いを、少し南下したところに「若林天満宮」はある。いうまでもなく、学問の神、天神様である。もう、受験シーズンの峠は越えたのであろうか、参拝客はさっぱりである。絵馬というのも、みかけなかったような気がする。不思議なもので、うるさい車通りの直前にありながら、わたくしのような、無信心モノでさえ、そこだけのしじま(静寂)に包まれ、もう、過ぎてしまったけれども恵方のしじま(無言)に似た感覚に陥る。そこで、好きな梅を今年初めて、観て、はっとして(照れて)いる。さいわい、誰もいないので、少し、はしゃいでしまったが、すぐに、所用を思い出した。わずか数分の逢瀬である。
[お堂脇の紅梅、まだ、雪が残っている]

[環七沿いに映える白梅]※でも背後のビルも白いので、映えていない

[境内奥にある紅梅]

弘法さんは21日、天神さんは25日に、ご縁日が行なわれると、それぞれ、東寺、北野天満宮(いずれも京)の歳時記にある。あらわしようによっては、門前を廿日一(はつか・ついたち)町、あるいは、廿日五(いつか)町と謂ったのかもしれない(八戸には、それに近い町がある)。
ちなみに弘法さんには桜が、天神さんには梅がつきものであるが、わたくしは、まだ、ここ(京)の天神さんを、訪ねたことがない。どうりで、と、想うばかりである(もちろん、筆の方もさっぱりであるが)。
むらやま(楯岡)のことを考えているうちに、そういう梅日記を書きたくなった。
2008.02.06
むらやま・楯岡(たておか)壱〜市(いち)へ
[神町→山形]

神町(じんまち)から山形まで下った。この日の「停泊」地である。山形市には何度か来ているはずなのに、印象が薄い。あらためて、訪ねて、その訳がこの(冬)時季に来たことがないということだと気づいた。地元の方のご苦労は別に擱かせていただき、傍観的観光客には、やはり、東北は冬、しかも雪積りの風景なのであろう。駅周辺を歩こうと、翌日(29日)、仙台行きの列車時間までの3時間ほどをあてた。したがって、ほんのわずかである。ある程度決めていたのは、せめて歌懸(うたかけ)稲荷神社までは行こうというだけのことである。すなわち、十日町近辺でしかない。日付が付く街区というのは、おおむね、三斎市、六斎市といわれる月に3回(日)あるいは6回、定期的な市(いち)が開かれていた名残である。どちらかというと、東北地方に多く残っており、例えば、青森県の八戸市はその代表で、現存する町(△日町)をあちこち歩いていると、毎日、どこかで市が立っていた当時の賑やかしい様子が浮かんでくる。2・12・22日と市(いち)が立てば二日町、四日市市(よっかいち・し)は、4・14・24と月3回の三斎市があったことに由来する。わたくしの育った田舎では「二・七の市」つまり、2日、7日、12日、17日・・・と、月6回「あった」ので、六斎市である。その日だけ焼いていた「みたらしだんご」が楽しみで、毎回訪ねていた記憶がある。ただ、ニ・七日町という名づけはされなかった。本来は、2か7のいずれかであったのであるが、売上げを伸ばすために三回(斎)を六回(斎)に水増しただけのことであったらしい。
山形の十日町は、毎月10日に行なわれる、いわば一斎市である。只今は、現代風の市に様がわりしており、百貨店や商店が通り沿いに軒を並べている。わたくしは、足許の雪ばかりに気をとられていたのか、うっかりしていたけれども、蔵店(くらみせ)といって、古い蔵を再利用した、お店がいくつかある(あった)らしい。
[山形市十日町の蔵店](「山形の過去、現在、未来」より)
[こっち↓は裏通りの未使用?の蔵]※お蔵入り、か?

創(はじ)まりは、歌懸稲荷神社の縁日であった。今でも1月10日は初市であり、月次祭も同日に行なわれている。(山形市十日町町商店街HPより)。もっとも、「斎」というのは、神仏と深いかかわりのある言葉であって、モノイミ、イツキなどとも読み下される。お清めの前に飲食や活動(外出など)そのものを慎むこと(物忌み)であり、その見返りとして、市(いち)が立った。だから、よけい、楽しかったのかもしれない。そのうち、モノイミは脇に追いやられ、市はというと、九斎あるいは十五斎へと展(の)び、今では「いち」というのは、もう毎日立って(開いて)いるようなもので、便利さは増したけれども、楽しさ(わたくしにとっては、焼きたてのみたらしだんご)は薄くなってしまったようにも思う。
(日付が戻る)※1月28日から27日へ
毎と日をひっくり返すと、晦(みそか〜晦日)と読める。99年に山形新幹線が新庄駅まで延伸され、村山駅も同時開業し、駅名を地区の名を附した楯岡(たておか)駅から変えた。ここに晦日町がある。村山には別の目的があって、実は、そのことが、今回のブロ旅(一応、所用も)を始めるきっかけであったが、例によって、電子地図上で、はたっと、歩が止まってしまった。楯岡晦日町は村山駅の東側一帯、旧宿場町にある。暖簾分けにより、「パンの田宮」はこの地で創業した(ただし、阿部和重さんの『シンセミア』の中のこと)。駅から歩くと、十日町もあり、ほかに、二日町、五日町も残っている。とはいえ、この時季というハンディを差し引いても、決して、繁華な様子を見ることはできない、むしろ、駅西側の「新開地」には羽州街道に変わる国道13号や市役所もあり、もはや、振り子はそちらに寄っていて、晦日町近辺はますます廃れているという気配が強い。泊ろうと思い、一軒だけビジネスホテルをみつけて、事前に電話したが(ネット予約が見つからないので)、とうとう、不通で、あきらめた。そういうこともあり、わたくしの印象はいたって表層(氷層)に軽くふれている程度のものでしかないのであるが、地軸は「こっち(東側)」にあって、吸っている空気の質・密度も上等である、と思っている。
[楯岡晦日町]

[氷柱]※↑住居表示のお宅にて

みっけものをした。
楯岡晦日町を訪ねる際に目印を得性寺(とくしょうじ)と定めていた。それが、方向音痴のわたくしにとって、最大の拠りどころであった。結果的には迷ったが、どうにか、たどり着いて、そのあたりが晦日町であることを確認できた。同寺は門前が雪でもって遮られており、また、掻き分けて、お邪魔するほどの気持ちも湧かず、駅に取って返そうと、ふと、通りから、まだ早過ぎる春をみかけた。愛宕神社の枝垂れ桜である。もちろん、今は、花のかわりに、六花(りっか)の重みが枝垂れを増しているようで、可哀相でもある。桜が好きでない、わたくしであるが、この桜には、もう一度、満つる頃にお逢いしてみたいものだと、頭の中ではもう、再訪を決めている。
[愛宕神社の枝垂れ・雪櫻]

晦日町から東(1キロちょっと)にバラと桜が有名な東沢公園があり、その脇に楯山(標高は約200メートル)がある。本日は、いずれも、望むことはできない。もちろん、その先の甑岳(こしきだけ;標高千メートルちょっと)は、わたくしにお姿を見せてはくれない。
[そこら?の山]※楯山ではないと思う

[この先に甑岳?]※当てずっぽうで、当てにならない

時間をもう少しだけ戻して、この項を続けたい。

神町(じんまち)から山形まで下った。この日の「停泊」地である。山形市には何度か来ているはずなのに、印象が薄い。あらためて、訪ねて、その訳がこの(冬)時季に来たことがないということだと気づいた。地元の方のご苦労は別に擱かせていただき、傍観的観光客には、やはり、東北は冬、しかも雪積りの風景なのであろう。駅周辺を歩こうと、翌日(29日)、仙台行きの列車時間までの3時間ほどをあてた。したがって、ほんのわずかである。ある程度決めていたのは、せめて歌懸(うたかけ)稲荷神社までは行こうというだけのことである。すなわち、十日町近辺でしかない。日付が付く街区というのは、おおむね、三斎市、六斎市といわれる月に3回(日)あるいは6回、定期的な市(いち)が開かれていた名残である。どちらかというと、東北地方に多く残っており、例えば、青森県の八戸市はその代表で、現存する町(△日町)をあちこち歩いていると、毎日、どこかで市が立っていた当時の賑やかしい様子が浮かんでくる。2・12・22日と市(いち)が立てば二日町、四日市市(よっかいち・し)は、4・14・24と月3回の三斎市があったことに由来する。わたくしの育った田舎では「二・七の市」つまり、2日、7日、12日、17日・・・と、月6回「あった」ので、六斎市である。その日だけ焼いていた「みたらしだんご」が楽しみで、毎回訪ねていた記憶がある。ただ、ニ・七日町という名づけはされなかった。本来は、2か7のいずれかであったのであるが、売上げを伸ばすために三回(斎)を六回(斎)に水増しただけのことであったらしい。
山形の十日町は、毎月10日に行なわれる、いわば一斎市である。只今は、現代風の市に様がわりしており、百貨店や商店が通り沿いに軒を並べている。わたくしは、足許の雪ばかりに気をとられていたのか、うっかりしていたけれども、蔵店(くらみせ)といって、古い蔵を再利用した、お店がいくつかある(あった)らしい。
[山形市十日町の蔵店](「山形の過去、現在、未来」より)
[こっち↓は裏通りの未使用?の蔵]※お蔵入り、か?

創(はじ)まりは、歌懸稲荷神社の縁日であった。今でも1月10日は初市であり、月次祭も同日に行なわれている。(山形市十日町町商店街HPより)。もっとも、「斎」というのは、神仏と深いかかわりのある言葉であって、モノイミ、イツキなどとも読み下される。お清めの前に飲食や活動(外出など)そのものを慎むこと(物忌み)であり、その見返りとして、市(いち)が立った。だから、よけい、楽しかったのかもしれない。そのうち、モノイミは脇に追いやられ、市はというと、九斎あるいは十五斎へと展(の)び、今では「いち」というのは、もう毎日立って(開いて)いるようなもので、便利さは増したけれども、楽しさ(わたくしにとっては、焼きたてのみたらしだんご)は薄くなってしまったようにも思う。
(日付が戻る)※1月28日から27日へ
毎と日をひっくり返すと、晦(みそか〜晦日)と読める。99年に山形新幹線が新庄駅まで延伸され、村山駅も同時開業し、駅名を地区の名を附した楯岡(たておか)駅から変えた。ここに晦日町がある。村山には別の目的があって、実は、そのことが、今回のブロ旅(一応、所用も)を始めるきっかけであったが、例によって、電子地図上で、はたっと、歩が止まってしまった。楯岡晦日町は村山駅の東側一帯、旧宿場町にある。暖簾分けにより、「パンの田宮」はこの地で創業した(ただし、阿部和重さんの『シンセミア』の中のこと)。駅から歩くと、十日町もあり、ほかに、二日町、五日町も残っている。とはいえ、この時季というハンディを差し引いても、決して、繁華な様子を見ることはできない、むしろ、駅西側の「新開地」には羽州街道に変わる国道13号や市役所もあり、もはや、振り子はそちらに寄っていて、晦日町近辺はますます廃れているという気配が強い。泊ろうと思い、一軒だけビジネスホテルをみつけて、事前に電話したが(ネット予約が見つからないので)、とうとう、不通で、あきらめた。そういうこともあり、わたくしの印象はいたって表層(氷層)に軽くふれている程度のものでしかないのであるが、地軸は「こっち(東側)」にあって、吸っている空気の質・密度も上等である、と思っている。
[楯岡晦日町]

[氷柱]※↑住居表示のお宅にて

みっけものをした。
楯岡晦日町を訪ねる際に目印を得性寺(とくしょうじ)と定めていた。それが、方向音痴のわたくしにとって、最大の拠りどころであった。結果的には迷ったが、どうにか、たどり着いて、そのあたりが晦日町であることを確認できた。同寺は門前が雪でもって遮られており、また、掻き分けて、お邪魔するほどの気持ちも湧かず、駅に取って返そうと、ふと、通りから、まだ早過ぎる春をみかけた。愛宕神社の枝垂れ桜である。もちろん、今は、花のかわりに、六花(りっか)の重みが枝垂れを増しているようで、可哀相でもある。桜が好きでない、わたくしであるが、この桜には、もう一度、満つる頃にお逢いしてみたいものだと、頭の中ではもう、再訪を決めている。
[愛宕神社の枝垂れ・雪櫻]

晦日町から東(1キロちょっと)にバラと桜が有名な東沢公園があり、その脇に楯山(標高は約200メートル)がある。本日は、いずれも、望むことはできない。もちろん、その先の甑岳(こしきだけ;標高千メートルちょっと)は、わたくしにお姿を見せてはくれない。
[そこら?の山]※楯山ではないと思う

[この先に甑岳?]※当てずっぽうで、当てにならない

時間をもう少しだけ戻して、この項を続けたい。
2008.02.04
神町へ(3)〜若(おさな)きココロ
若木(おさなぎ)山をあとにすると、通りをはさんで、市街地があり、その鳥羽口に神町(じんまち)小学校がある。あまり、うろちょろすると、怪しまれるので、外側から、周りを眺めてみたが、校門前に定番のお店(文具、雑貨、食品などを販売する)がなく、もう、商いを閉じてしまったのかもしれない。それにしては、人口1万人程度の町ながら、神町小学校HP(TOP右カラムの学校紹介をクリック)によると、児童数は県内3位であり、自衛隊の駐屯地があることから、「出入り」も激しいそうである。商売を十分、続けていけそうな気もするが。
※児童数855人;06年5月1日現在、東根市による
※東根市の人口は約4万6千人である、そのうち神町地区に1万人が住んでいらっしゃる
阿部和重さんのグランド・フィナーレはその定番店(文房具屋さん)を主な舞台とする。実際に、あったのかどうかはわからない。ただし、阿部さんの生家は通りにあるベーカリーであると、のちほど知る。遅い、朝・昼食をと思い、通りに出て、右に駅方向へ向かおうと思って、ふと、左を振り返ると、書店の文字が眼に入り、転換した。あすなろ書店という。小学校の近くにある本屋さんの名に似つかわしい。中に入って、阿部さんの作品を探すが、中央あたりの書棚には一切ない。もっとも文庫本ばかりであって、奥に、と思い、進むと、ここはコミック本ばかりである。カウンター脇には文具もあり、どうやら、定番の店の一部を担っているようだ(飲食は取り扱っていない)。ないのか、と、(中央)書棚の裏に回ると、単行本が並べられていて、そこに小さな阿部コーナーがあって、おそらくであるが、全作品が置かれている(文庫本も)。というよりも、飾られている。グランド・フィナーレを手にとり、めくると、直筆サインもあったので、
「あのう、ここのは販売されているんでしょうか」と、ご店主におうかがいすると、
「はぁ〜、もちろんです」と、不思議がられた。
それではと、一冊持ったまま、支払いをして、「きれいに飾ってありますね」と《冷やかす》と、
「阿部さんの実家は、前のパン屋さんです」と、言って、ドアの向こう側を手差しでもって、教えてくださった。まだ、食事前だったので、ここへ入るときに見かけて、思わず、寄ろうと思ったお店である。
ちょっと待っててくださいと、阿部コーナーに戻っていかれ、手づくりの「シンセミア地図」を一部、どうぞと、くださったので、みると、そこに、まだ、読んでいないこの長編小説に登場する「パンの田宮」が阿部さんの生家、そして、向かいが「金沢書店」、あすなろ書店であると分かる。書店の隣に銀行(今もある)があって、その隣が映画館であったと、インタビューで阿部さんご本人が答えている。今は、もうなく、コンビニがある辺りのことであろうか。
「ここから飛行場は見えないのですね」と訊くと、
「離着陸は見えますが、残念ながら・・・。向こう(駅の西側)に大きな通りがあって、空港と隣接しているのですが、高い壁で遮られています」
わたくしは、大きな思い違いをしたまま、神町まで来ていた。神町駅から、飛行場は見えないのである。
[神町駅から飛行場の方向を]※見えないけれども・・・

本来の目的を果たせないまま、その土地を去るのは、寂しい限りであり、後ろ髪を思い切り引っぱられている感じであるが、今回は、それほどでもない。むしろ、少年が、自分だけの「秘密の城」を見つけて、(誰にも教えずに)ひとりで、わくわく、にやにやしているような、若(おさな)いココロに還ったようで、楽しい。ただし、皆さんには教えてしまったけれども・・・。
折角だから、シンセミアを読んでみようかと思うが、さて、単行本にしようか、文庫本の方が旅先で便利だろうか、ずいぶんと悩んでいる。
[神町駅舎]

[無人駅の待合]※本場の山形語を知ることができる

これから、所用で出かけるので、その間に、どちらにするかを決めて、夜には、手許に置いていると思う。
(終わり)
※児童数855人;06年5月1日現在、東根市による
※東根市の人口は約4万6千人である、そのうち神町地区に1万人が住んでいらっしゃる
阿部和重さんのグランド・フィナーレはその定番店(文房具屋さん)を主な舞台とする。実際に、あったのかどうかはわからない。ただし、阿部さんの生家は通りにあるベーカリーであると、のちほど知る。遅い、朝・昼食をと思い、通りに出て、右に駅方向へ向かおうと思って、ふと、左を振り返ると、書店の文字が眼に入り、転換した。あすなろ書店という。小学校の近くにある本屋さんの名に似つかわしい。中に入って、阿部さんの作品を探すが、中央あたりの書棚には一切ない。もっとも文庫本ばかりであって、奥に、と思い、進むと、ここはコミック本ばかりである。カウンター脇には文具もあり、どうやら、定番の店の一部を担っているようだ(飲食は取り扱っていない)。ないのか、と、(中央)書棚の裏に回ると、単行本が並べられていて、そこに小さな阿部コーナーがあって、おそらくであるが、全作品が置かれている(文庫本も)。というよりも、飾られている。グランド・フィナーレを手にとり、めくると、直筆サインもあったので、
「あのう、ここのは販売されているんでしょうか」と、ご店主におうかがいすると、
「はぁ〜、もちろんです」と、不思議がられた。
それではと、一冊持ったまま、支払いをして、「きれいに飾ってありますね」と《冷やかす》と、
「阿部さんの実家は、前のパン屋さんです」と、言って、ドアの向こう側を手差しでもって、教えてくださった。まだ、食事前だったので、ここへ入るときに見かけて、思わず、寄ろうと思ったお店である。
ちょっと待っててくださいと、阿部コーナーに戻っていかれ、手づくりの「シンセミア地図」を一部、どうぞと、くださったので、みると、そこに、まだ、読んでいないこの長編小説に登場する「パンの田宮」が阿部さんの生家、そして、向かいが「金沢書店」、あすなろ書店であると分かる。書店の隣に銀行(今もある)があって、その隣が映画館であったと、インタビューで阿部さんご本人が答えている。今は、もうなく、コンビニがある辺りのことであろうか。
「ここから飛行場は見えないのですね」と訊くと、
「離着陸は見えますが、残念ながら・・・。向こう(駅の西側)に大きな通りがあって、空港と隣接しているのですが、高い壁で遮られています」
わたくしは、大きな思い違いをしたまま、神町まで来ていた。神町駅から、飛行場は見えないのである。
[神町駅から飛行場の方向を]※見えないけれども・・・

本来の目的を果たせないまま、その土地を去るのは、寂しい限りであり、後ろ髪を思い切り引っぱられている感じであるが、今回は、それほどでもない。むしろ、少年が、自分だけの「秘密の城」を見つけて、(誰にも教えずに)ひとりで、わくわく、にやにやしているような、若(おさな)いココロに還ったようで、楽しい。ただし、皆さんには教えてしまったけれども・・・。
折角だから、シンセミアを読んでみようかと思うが、さて、単行本にしようか、文庫本の方が旅先で便利だろうか、ずいぶんと悩んでいる。
[神町駅舎]

[無人駅の待合]※本場の山形語を知ることができる

これから、所用で出かけるので、その間に、どちらにするかを決めて、夜には、手許に置いていると思う。
(終わり)
2008.02.03
神町へ(2)〜若木(おさなぎ)山
若木山は標高200メートル弱の小山である。この時季は枯れていて、白(雪)、黒・茶(地肌)としたさまであり、麓といえば、開拓345年を記念した公園もすべて、雪の中にある。
[作りかけのダルマ下半身(上・中央)と長靴(右下)]作り主および持ち主は何処へ?

途中、山肌にいくつもコンクリート製と思われる構築物が嵌めこまれており、堅く閉まったドアには立ち入り禁止の札もある。さらに、山に沿って進むと、表示のないモノもある。
[不思議な構築物]|詐討小屋か?煙突がない?

[不思議な構築物]何かの作業小屋?

[不思議な構築物]カラオケボックス?

[不思議な構築物]いΔΔ燹

後日、役所にでも電話でお聞きしようと思い、写真に納めて、若木神社方面へ、と、ちょうど、作業中の年輩の方が、わたくしの方へ近づいてくるので、長くて、重たそうな管を担いでいるのにもかかわらず、ひき留めて、お話をうかがった。
「あれは何ですか」
わたくしなりに想像していた答えをあえて、言わずに訊いた。
「防空壕だぁ」(山形語のつもり)
現在の山形空港はもとは旧海軍の基地であって、空襲も受けたらしい。東根市より南へ30キロほど下った上山(かみのやま)市に生まれた斎藤茂吉氏に「三年」(青空文庫より)という小品があり、同作は東京から逃れて故郷に疎開したご本人の回想録のような文であり、中で、そのこと(神町の空襲)にふれられている。
《それから米空軍の編隊が蔵王山のやや西方の空を通つて、神町(じんまち)の飛行場を襲うたが、日本の飛行機は何一つ手出しが出来なかつた。》(三年、青空文庫より)
△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲
「大森山にもっと大きなのがあるわぁ」
、とここ(若木山)の北東3キロ弱にある山の名前を教えてくださった。あいにく、そこへ行くことはできなかったけれども、こんな小さな町へも米軍機は飛来したのである。
『予科練教育、特攻兵器「秋水」搭乗員の訓練の目的で東北地方に適地を探していた日本海軍が神町に航空隊の設置を決めたのは昭和十八年。昭和十九年二月工事開始、八月滑走路完成。二十年八月九日滑走路付近が爆撃され兵三十人ほど死亡。住民も三人が犠牲になった。』
以上は「若木山防空壕」というサイトにある神町飛行場の空襲についての記述である。同サイトに若木山の防空壕について、その内部画像とともに詳しい。2005年に公開された時に撮影されたようである。何でも、5年に一度公開されるそうで、機会があれば、訪ねてみようかと、2010年のことを考えている。追い払うはずの鬼さんたちに笑われそうである。さて、山の周りには16箇所の壕があるそうで、崩落の危険があるため埋め戻されたものもあるが、定期的に公開されるもの、そして、地域の祭り道具や資材を保管する倉庫として、日常的に使用されているものもある(前記サイトより)。いくつかに立ち入り禁止の札がなかったのが、それに当たるのであろうか。飛行場(現在の山形空港)からは1.5キロぐらい離れているとはいえ、ここに避難した住民にとっては、生死を分ける思いであって、その距離感はないに等しかったのであろう。山の北西麓に神社が鎮座している。もとは、山頂にあったが、飛行場の建設に伴い、砲台を設置するため、麓に遷されたともある。(もっと知ってほしい歴史より)
疱瘡(天然痘)の神様(ほうそう神)でもある。現在は撲滅されたといわれる天然痘は江戸期に猛威を振るった。「お薬博物館/薬と歴史シリーズ 第三弾」(東京都薬剤師会北多摩支部)というサイトによれば、江戸期における死因の一、二位あたりを常に占めており、その症状から、あばた(痘痕)面とも蔑称されていた。また、座頭や瞽女(ごぜ)たちは疱瘡の後遺症により失明したとも記されている。山の神といわれることもある。
[若木(おさなぎ)神社]

若木神社には山岳信仰の特徴があると、前記「もっと知ってほしい歴史」にもあった。社内にはいくつもの石像、石碑の類があり、中には「湯殿山」と刻まれた石もあった。山形といえば、出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)があり、山伏など修験者の宝庫である。神町で、最初に「こんにちわ」と声をかけてくださった方が山伏さんというのも、なんだか、それらしくて、今となっては嬉しい気もちである。
神町の住民がここに、壕を造ろう(掘ろう)と思ったのは、もちろん、生活の場から近い(避難しやすい)という実利的な理由もあったのであろうが、この杜(社)、山の神に護ってもらおうという気持ちが強かったからなのでもあろう。
わたくしにとっての「神」町が2/3程度、ようやく、終わった。
(続く)
[作りかけのダルマ下半身(上・中央)と長靴(右下)]作り主および持ち主は何処へ?

途中、山肌にいくつもコンクリート製と思われる構築物が嵌めこまれており、堅く閉まったドアには立ち入り禁止の札もある。さらに、山に沿って進むと、表示のないモノもある。
[不思議な構築物]|詐討小屋か?煙突がない?

[不思議な構築物]何かの作業小屋?

[不思議な構築物]カラオケボックス?

[不思議な構築物]いΔΔ燹

後日、役所にでも電話でお聞きしようと思い、写真に納めて、若木神社方面へ、と、ちょうど、作業中の年輩の方が、わたくしの方へ近づいてくるので、長くて、重たそうな管を担いでいるのにもかかわらず、ひき留めて、お話をうかがった。
「あれは何ですか」
わたくしなりに想像していた答えをあえて、言わずに訊いた。
「防空壕だぁ」(山形語のつもり)
現在の山形空港はもとは旧海軍の基地であって、空襲も受けたらしい。東根市より南へ30キロほど下った上山(かみのやま)市に生まれた斎藤茂吉氏に「三年」(青空文庫より)という小品があり、同作は東京から逃れて故郷に疎開したご本人の回想録のような文であり、中で、そのこと(神町の空襲)にふれられている。
《それから米空軍の編隊が蔵王山のやや西方の空を通つて、神町(じんまち)の飛行場を襲うたが、日本の飛行機は何一つ手出しが出来なかつた。》(三年、青空文庫より)
△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲
「大森山にもっと大きなのがあるわぁ」
、とここ(若木山)の北東3キロ弱にある山の名前を教えてくださった。あいにく、そこへ行くことはできなかったけれども、こんな小さな町へも米軍機は飛来したのである。
『予科練教育、特攻兵器「秋水」搭乗員の訓練の目的で東北地方に適地を探していた日本海軍が神町に航空隊の設置を決めたのは昭和十八年。昭和十九年二月工事開始、八月滑走路完成。二十年八月九日滑走路付近が爆撃され兵三十人ほど死亡。住民も三人が犠牲になった。』
以上は「若木山防空壕」というサイトにある神町飛行場の空襲についての記述である。同サイトに若木山の防空壕について、その内部画像とともに詳しい。2005年に公開された時に撮影されたようである。何でも、5年に一度公開されるそうで、機会があれば、訪ねてみようかと、2010年のことを考えている。追い払うはずの鬼さんたちに笑われそうである。さて、山の周りには16箇所の壕があるそうで、崩落の危険があるため埋め戻されたものもあるが、定期的に公開されるもの、そして、地域の祭り道具や資材を保管する倉庫として、日常的に使用されているものもある(前記サイトより)。いくつかに立ち入り禁止の札がなかったのが、それに当たるのであろうか。飛行場(現在の山形空港)からは1.5キロぐらい離れているとはいえ、ここに避難した住民にとっては、生死を分ける思いであって、その距離感はないに等しかったのであろう。山の北西麓に神社が鎮座している。もとは、山頂にあったが、飛行場の建設に伴い、砲台を設置するため、麓に遷されたともある。(もっと知ってほしい歴史より)
疱瘡(天然痘)の神様(ほうそう神)でもある。現在は撲滅されたといわれる天然痘は江戸期に猛威を振るった。「お薬博物館/薬と歴史シリーズ 第三弾」(東京都薬剤師会北多摩支部)というサイトによれば、江戸期における死因の一、二位あたりを常に占めており、その症状から、あばた(痘痕)面とも蔑称されていた。また、座頭や瞽女(ごぜ)たちは疱瘡の後遺症により失明したとも記されている。山の神といわれることもある。
[若木(おさなぎ)神社]

若木神社には山岳信仰の特徴があると、前記「もっと知ってほしい歴史」にもあった。社内にはいくつもの石像、石碑の類があり、中には「湯殿山」と刻まれた石もあった。山形といえば、出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)があり、山伏など修験者の宝庫である。神町で、最初に「こんにちわ」と声をかけてくださった方が山伏さんというのも、なんだか、それらしくて、今となっては嬉しい気もちである。
神町の住民がここに、壕を造ろう(掘ろう)と思ったのは、もちろん、生活の場から近い(避難しやすい)という実利的な理由もあったのであろうが、この杜(社)、山の神に護ってもらおうという気持ちが強かったからなのでもあろう。
わたくしにとっての「神」町が2/3程度、ようやく、終わった。
(続く)
2008.02.02
神町へ(1)〜板垣大通り〜08年1月28日
うっかり、事前に時刻表を確認していなかったものだから、さくらんぼ東根駅で1時間半ほど列車を待つことになった。「神町(じんまち)」駅までの所要時間はたった2分、歩こうかとも思ったが、慣れない雪道であるし、そういう無茶なことは思いとどまった。そのかわり、駅内の食堂で、ラ・フランスジュースを頼んで、ねばった。3階造りのまだ新しい駅内をほっついてみると、サクランボの木があって、温室内で育てられている。年に数回結実するそうで、よくみると、青い実がぽっこりとでている。ほかに図書館(この日はお休み)、観光案内所とともに、勝手に使えるパソコンコーナーもあって、汽車待ちも楽しく過ごせそうである。
[駅内さくらんぼの木]

東根市はサクランボの生産量日本一だそうで、佐藤錦という名ブランド発祥の地でもある。神町駅を降りたあとも、至るところにサクランボ園があって、中には温室栽培もあり、雪が解ける頃には実るのであろう。わたくしが、神町にこだわった理由はサクランボの粒にも満たないちっぽけなことである。神町駅は奥羽本線の一駅にしか過ぎないのであるが、ほぼ隣に山形空港があって、もしかしたら、駅から飛行場を見ることができるかもしれないという、ことである。ただ、事前に電子地図をアレコレみているうちに、駅を少し南に下った場所から真っ直ぐ「東」方向を貫いている通りに、(眼が)留まった。通りの名は、「板垣大通り」といって、途中から、営団大通りと名を変える。どうしても、歩いてみたくなった。
[板垣大通り]※市街地方面を眺める

[営団大通り]※先には何もない・・・

(わたくしの頭は)単純なものだから、すぐに板垣退助かと思ったけれども、退助は土佐藩士である。東根とは、どう結んでみても、ほどけてしまう。板垣董五郎(いたがき・とうごろう)といって、東根村北方名主であり、1869(明治2)年に松前藩より500両をもって若木(おさなぎ)原60町歩の払い下げを受け、開墾を行うため移民を募り、移民には小作料免除、宅地、小屋、農具、肥料を与えるなど、全私財を投じて開墾事業を成し遂げ、板垣新田を開村した、と、東根市のサイトにある(果樹王国ひがしね宣言)。さらに、東根市立神町小学校のサイトにもあった。同校は阿部和重さんの母校でもある。引用すると、
《町開拓(じんまちかいたく)の祖(そ)は,1658年の江戸時代(えどじだい)に,当時(とうじ)の東根を治(おさ)めていた,松平下総守(まつだいらしもふさのかみ)という殿様(とのさま)に,新町(しんまち=神町の旧称)の開墾(かいこん)を最初(さいしょ)に申(もう)し出(で)たと言(い)われている,百姓與右衛門(ひゃくしょうよえもん)他(ほか),数名(すうめい)の農民(のうみん)と言われています。
その後,すばらしい果樹地帯(かじゅちたい)になったのは,板垣董五郎(いたがきとうごろう)翁(おきな),岡田円蔵(おかだえんぞう)翁(おきな)をはじめとした,先人(せんじん)の努力(どりょく)と知恵(ちえ)のおかげです。神町小学校の教育目標(きょういくもくひょう)の一つである「たくましく」には,この開拓魂(かいたくだましい)がうけつがれています。
板垣,岡田両翁の意志(いし)をうけつぎ,明治時代(めいじじだい)からはじまった開拓(かいたく)は,大正(たいしょう),昭和時代(しょうわじだい)になっても続(つづ)き若木(おさなぎ),営団(えいだん)という,新しい広い土地も生まれました。》(神町のMini歴史より)
この板垣董五郎翁の偉業を称えて、その名を通りに遺したということらしい。途中、板垣神社もあり、半分ほど雪に埋もれた井戸もあった。
[板垣神社](神町小学校サイトより)
[古井戸](同上)
営団というのは、今はもう、東京メトロ(地下鉄)となったが、営団地下鉄として、長く、呼ばれてきた、そのエイダンと同じ字ある。ただし、こちら(神町)の方は、営農団体の略で、開拓に活躍されたのは、もちろん、人々なのであるが、組織として、エイダンがあった。板垣大通りの先を営団大通りというのは、神町小のサイトにあるように、先ず拓かれた板垣新田、中島新田に倣って、のちに果樹王国の名を冠するまでに発展した営団(新田)の開拓を今もなお記憶にとどめるために、名づけられたのであろう。
若木(おさなぎ)地区もそのひとつであり、実際には板垣・営団大通りの中を割って、若木大通りとある。中心集落は大通りの南側に位置し、陸上自衛隊第6師団神町駐屯地と接している。一面、さくらんぼの樹地であり、今の時季、市場にはリンゴが集まっていたが、初夏にはサクランボの実で埋めつくされるのであろう。
[神町青果卸売市場]

[ 金は 協へ]※おそらく、貯金は農協へ、か?もしかしたら、借金は農協へ、か?

若木(おさなぎ)開拓歴史資料館という小ぶりな建物が弥栄(やさか)神社の隣にあった。入口までの様子では新雪が踏まれていないので、閉館なのかと思ったが、雪を踏みしめて、近づき、中を覗いてみると、暗く、そして、室内に「この時期は農協にご連絡くだされば、開けます」といった趣旨の貼り紙があり、先ほど通った農協事務所へとも思ったけれども、お手間をとらせることもないと、あきらめた。
[若木(おさなぎ)開拓歴史資料館]※手前が弥栄神社の鳥居、左奥にある神社(祠)は修復中

[とおりがかりの私邸のお庭]※天上の御石が素的

まだ、道半ばである。ようやく、若木(おさなぎ)山を近くに感じることができる。歩く人はいらっしゃらず、全身の力をふりしぼるように白い息を排きだしている車がタイヤをきしきし、と、軋ませながら、蛇行していくばかりである。裏通りにも、ようやく、除雪車が駆り出されている。車が過ぎると、まったく、静かなので、背後からの人の気配がすぐに分かる。(重いリュックを背負っているものだから)時機的に二度目の肩休めをと、思い、もちろん、地元の方の歩速と、わたくしのとは較べものにならないので、お先にどうぞ、という意味も込めて、角地で止まった。とにかく、若木山の麓へと思った。神町駅を降り、板垣大通りを進み始めた時に、山伏さんにお会いしている。白装束で、背には木箱を抱えていらっしゃる。それだけでも、好奇心が涌くというものである。
[若木山]

まだ、神町の一端を歩いただけである。
(続く)
[駅内さくらんぼの木]

東根市はサクランボの生産量日本一だそうで、佐藤錦という名ブランド発祥の地でもある。神町駅を降りたあとも、至るところにサクランボ園があって、中には温室栽培もあり、雪が解ける頃には実るのであろう。わたくしが、神町にこだわった理由はサクランボの粒にも満たないちっぽけなことである。神町駅は奥羽本線の一駅にしか過ぎないのであるが、ほぼ隣に山形空港があって、もしかしたら、駅から飛行場を見ることができるかもしれないという、ことである。ただ、事前に電子地図をアレコレみているうちに、駅を少し南に下った場所から真っ直ぐ「東」方向を貫いている通りに、(眼が)留まった。通りの名は、「板垣大通り」といって、途中から、営団大通りと名を変える。どうしても、歩いてみたくなった。
[板垣大通り]※市街地方面を眺める

[営団大通り]※先には何もない・・・

(わたくしの頭は)単純なものだから、すぐに板垣退助かと思ったけれども、退助は土佐藩士である。東根とは、どう結んでみても、ほどけてしまう。板垣董五郎(いたがき・とうごろう)といって、東根村北方名主であり、1869(明治2)年に松前藩より500両をもって若木(おさなぎ)原60町歩の払い下げを受け、開墾を行うため移民を募り、移民には小作料免除、宅地、小屋、農具、肥料を与えるなど、全私財を投じて開墾事業を成し遂げ、板垣新田を開村した、と、東根市のサイトにある(果樹王国ひがしね宣言)。さらに、東根市立神町小学校のサイトにもあった。同校は阿部和重さんの母校でもある。引用すると、
《町開拓(じんまちかいたく)の祖(そ)は,1658年の江戸時代(えどじだい)に,当時(とうじ)の東根を治(おさ)めていた,松平下総守(まつだいらしもふさのかみ)という殿様(とのさま)に,新町(しんまち=神町の旧称)の開墾(かいこん)を最初(さいしょ)に申(もう)し出(で)たと言(い)われている,百姓與右衛門(ひゃくしょうよえもん)他(ほか),数名(すうめい)の農民(のうみん)と言われています。
その後,すばらしい果樹地帯(かじゅちたい)になったのは,板垣董五郎(いたがきとうごろう)翁(おきな),岡田円蔵(おかだえんぞう)翁(おきな)をはじめとした,先人(せんじん)の努力(どりょく)と知恵(ちえ)のおかげです。神町小学校の教育目標(きょういくもくひょう)の一つである「たくましく」には,この開拓魂(かいたくだましい)がうけつがれています。
板垣,岡田両翁の意志(いし)をうけつぎ,明治時代(めいじじだい)からはじまった開拓(かいたく)は,大正(たいしょう),昭和時代(しょうわじだい)になっても続(つづ)き若木(おさなぎ),営団(えいだん)という,新しい広い土地も生まれました。》(神町のMini歴史より)
この板垣董五郎翁の偉業を称えて、その名を通りに遺したということらしい。途中、板垣神社もあり、半分ほど雪に埋もれた井戸もあった。
[板垣神社](神町小学校サイトより)
[古井戸](同上)
営団というのは、今はもう、東京メトロ(地下鉄)となったが、営団地下鉄として、長く、呼ばれてきた、そのエイダンと同じ字ある。ただし、こちら(神町)の方は、営農団体の略で、開拓に活躍されたのは、もちろん、人々なのであるが、組織として、エイダンがあった。板垣大通りの先を営団大通りというのは、神町小のサイトにあるように、先ず拓かれた板垣新田、中島新田に倣って、のちに果樹王国の名を冠するまでに発展した営団(新田)の開拓を今もなお記憶にとどめるために、名づけられたのであろう。
若木(おさなぎ)地区もそのひとつであり、実際には板垣・営団大通りの中を割って、若木大通りとある。中心集落は大通りの南側に位置し、陸上自衛隊第6師団神町駐屯地と接している。一面、さくらんぼの樹地であり、今の時季、市場にはリンゴが集まっていたが、初夏にはサクランボの実で埋めつくされるのであろう。
[神町青果卸売市場]

[ 金は 協へ]※おそらく、貯金は農協へ、か?もしかしたら、借金は農協へ、か?

若木(おさなぎ)開拓歴史資料館という小ぶりな建物が弥栄(やさか)神社の隣にあった。入口までの様子では新雪が踏まれていないので、閉館なのかと思ったが、雪を踏みしめて、近づき、中を覗いてみると、暗く、そして、室内に「この時期は農協にご連絡くだされば、開けます」といった趣旨の貼り紙があり、先ほど通った農協事務所へとも思ったけれども、お手間をとらせることもないと、あきらめた。
[若木(おさなぎ)開拓歴史資料館]※手前が弥栄神社の鳥居、左奥にある神社(祠)は修復中

[とおりがかりの私邸のお庭]※天上の御石が素的

まだ、道半ばである。ようやく、若木(おさなぎ)山を近くに感じることができる。歩く人はいらっしゃらず、全身の力をふりしぼるように白い息を排きだしている車がタイヤをきしきし、と、軋ませながら、蛇行していくばかりである。裏通りにも、ようやく、除雪車が駆り出されている。車が過ぎると、まったく、静かなので、背後からの人の気配がすぐに分かる。(重いリュックを背負っているものだから)時機的に二度目の肩休めをと、思い、もちろん、地元の方の歩速と、わたくしのとは較べものにならないので、お先にどうぞ、という意味も込めて、角地で止まった。とにかく、若木山の麓へと思った。神町駅を降り、板垣大通りを進み始めた時に、山伏さんにお会いしている。白装束で、背には木箱を抱えていらっしゃる。それだけでも、好奇心が涌くというものである。
[若木山]

まだ、神町の一端を歩いただけである。
(続く)
2008.02.01
黒岩比佐子(くろいわ・ひさこ)さん
アンメルツの謎はいまだ解けていない。いいえ、もう、これ以上、追うつもりもないのであるけれども、二度ほど、《按摩(あんま)の瓶詰》の画像を使用させていただいた、「古書の森日記 by Hisako」のことを記しておく必要がある。その際は、画像ばかりに気がいっていて、申し訳ないことに、サイトには目が向いていなかったけれども、後日、あらためて、みると、このサイト(ブログ)の持ち主が標題の黒岩さんであると知った。URLをよくみると、hisako 9618、とあることに、もっと早く気づくべきである。『「食道楽」の人 村井弦斎』で、2004年度サントリー学芸賞「社会・風俗部門」を受けていらっしゃる。わたくしは、少食であるものだから、まだ、読んでいないのであるが、村井弦斎(むらい・げんさい)という人は、明治期〜大正期のジャーナリストであり、今でいうところのグルマン(少し、異なるかもしれないが)でもあったらしい。
「このころ、『食道楽』で人もうらやむ大成功を収めた弦斎は、大隈重信と後藤象二郎の親戚である美しい妻と子供たちと共に、神奈川県平塚市に約一万六千四百坪の土地を得て、自給自足に近い田園生活を楽しんでいた。・・・」
以上は、黒岩さんが05年に発表された『日露戦争 勝利のあとの誤算』という著作の一部である。全体に張りつめている調べにある同著の中では、ちょっと横道(道草)のようでホッとする章でもあるのだけれど、趣旨は村井氏がロシヤ軍兵士俘虜を厚遇したという事実をあらわすためである。村井氏の経緯については、また、いずれと思うけれども、父君である清氏の『西洋十字文』を読んでも、例のごとく、判読不明、同じ言葉であるはずなのに、読めない、自分が恥ずかしいと思っている最中である。日露戦争というのは、日本の歴史にとって、ひとつの転換点であるということは、黒岩さんが同著のあとがきに標されているように、司馬遼太郎氏がもっとも「気」にかけていらっしゃったことではないかと、わたくし自身も認識している。もう、どの作品でかは記憶にないけれども司馬氏が数々の名著を書くきっかけは、江戸そして明治を大きく活(生)き、死んでいった人たちの上に成り立った新政府が何故、その後、機能しなくなったかという疑問からであったと書かれている(このことは、わたくしの薄い記憶に頼っているので、また、記・改めたいと思う)。確認しておくと、日露戦争というのは、明治37(1904)年2月8日に始まり、翌年の9月5日に締結されたポーツマス講和条約までをいう。有名な、日本海海戦は同年(05)の5月27日に当時、世界最強といわれた、ラジェーストヴィンスキイィ総督率いるバルチック艦隊を東郷平八郎司令官(大将)が指揮する大日本帝国海軍がおおかたの予想を覆して破るという大金星をあげたことが突出して、その後も語り継がれていた(いまは、ほぼ、そういうことも、ない)。
平坦ではあるけれど、ベースボールでいえば、二軍が一軍に勝ったようなもので、二軍一同は手放しで、歓喜し、45(昭和20)年に、そのツケを負い、今もって、完済していないどころから、利子が脹(ふく)らんでいる。
黒岩さんが、それについて追っている。タイトルに惹かれて、(数か月前に)求め、読んだのが、前著であるが、まさか、按摩の瓶詰が、とは思わなかった。黒岩さんの言葉をお借りすると、「そのあとの(うれしい)誤算」である。
「二〇〇五年九月五日 日比谷焼打ち事件から百年後の日に」
というのが、あとがきの終わりである。
日比谷焼打ち事件というのはロシヤとの戦争に「勝った」帝国日本が、やれ、賠償金だぁ、カラフト委譲だの、と膨らんでいた皮算用が外れたものだから、こぞって、その不満を、新聞や雑誌が囃したて、「群集」が日頃のやるかたなさ(憤懣)もノセて、ノッタという数日間のできごとである。厖大な資料をもとに、検証されているのが、前著である。中でも、交番やら、新聞社を焼き尽くしていく「群衆」なのにもかかわらず、商店の物を盗ることはなかったと同書にあって、もちろん、今以上に「あらひとかみ」のご存在が大きいとはいえ、群衆(集)から公衆という、以前から、悩んでいた変態(これは、いわゆるヘンタイではなく、環境に応じて成長するという意味である)について、示唆していただいた。
ガブリエル・タルドについては、のちほど、また(いつになるかは分からないけれども)。
ロシヤはというと、もうすでに、帝政は崩れかかっており、17年には手折れた。日露の戦いというのはJリーグであらわせば、デビジョン1と2の入替れのようなものであり、両国ともに、不安定な国情であったことは、その後の歴史を振り返れば、分かるような気もするし、だいいち、プレミアや、リーガエスパニョ〜ルににょこにょこと出てくる「チーム」ではなかったと思う。余計なことを記せば、いまだに、やはり、日露関係は引きずっている。このことは、山形・村上の拙ブロ(予定)で、また、ふれたいと思う。
日露戦争は、わたくしの中では、正(征)露丸、ならびに上記、東郷大将および乃木希典(のぎ・まれすけ)大将しか、ない。東郷大将が海で、乃木大将は陸である。明治は1912年に終わった、当たり前であるが、あらひとかみが崩御したということである(公式記録は7月30日である)。同年9月13日に乃木大将は伴侶ともども、自決している。殉死といわれている。森鴎外翁は「興津弥五右衛門の遺書」でプラス1程度の書き方をしていらっしゃる。この作が歴史小説の最初ともいわれ、洋の西周(にし・あまね)から国(邦)、福羽美静(ふくば(わ)・よししず(びせい)へとヘンタイした時期と重なっているのかもしれない。「こころ」というのは、そういう印象でなかったけれども、改めて読んでみると、夏目漱石伯は、相変わらす彽徊(ていかい)である。だから、プラスマイナス(±)ゼロ。
龍之介さんは、プラス1を超えようと、そちらに向かいながら、彽徊を通り過ぎて、マイナス(新たな世界)へと、走っている。最後の何行かである。以下、「将軍」(青空文庫)より引用する。
「しかし青年は不相変(あいかわらず)、顔色(かおいろ)も声も落着いていた。
「無論俗人じゃなかったでしょう。至誠の人だった事も想像出来ます。ただその至誠が僕等には、どうもはっきりのみこめないのです。僕等より後(のち)の人間には、なおさら通じるとは思われません。……」
父と子とはしばらくの間(あいだ)、気まずい沈黙を続けていた。
「時代の違いだね。」
少将はやっとつけ加えた。
「ええ、まあ、――」
青年はこう云いかけたなり、ちょいと窓の外のけはいに、耳を傾けるような眼つきになった。
「雨ですね。お父さん。」
「雨?」
少将は足を伸ばしたまま、嬉しそうに話頭を転換した。
「また榲桲(マルメロ)が落ちなければ好(い)いが、……」
マルメロは形でいえば、諏訪あたりでよく採れるカリンのようであって、いずれも、まんまでは食用に適していないらしい。だから、抛っておいて、自然と、成ることを、少し、甘さ(砂糖の類)でもって、柔らかくして、その後、ひとの舌を、胃を、堪能させるらしい。それだけ、一筋縄ではいかない、果物なのである。もちろん、「また、・・・落ちなければ、好いが」は乃木大将のことであり、龍さんが直感した、「その後」は、着実に、只今も進んでいて、世代間格差どころか、毎日、マルメロは落ちている。
しかし、龍さんの時代には、ら・ふらんすはなく、この実(み)は、今のところ、さいわいに、落ちてはいない。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
1月19日〜3月2日まで「神奈川近代文学館」において、《収蔵コレクション展「『食道楽』の人 村井弦斎展」》が開(ひら)かれており、少し、間近すぎるが、明日(2月2日)には、黒岩さんの講演がある。お近くの方、ご興味のある方、大食漢(グルマン)の方は、どうぞ。
「このころ、『食道楽』で人もうらやむ大成功を収めた弦斎は、大隈重信と後藤象二郎の親戚である美しい妻と子供たちと共に、神奈川県平塚市に約一万六千四百坪の土地を得て、自給自足に近い田園生活を楽しんでいた。・・・」
以上は、黒岩さんが05年に発表された『日露戦争 勝利のあとの誤算』という著作の一部である。全体に張りつめている調べにある同著の中では、ちょっと横道(道草)のようでホッとする章でもあるのだけれど、趣旨は村井氏がロシヤ軍兵士俘虜を厚遇したという事実をあらわすためである。村井氏の経緯については、また、いずれと思うけれども、父君である清氏の『西洋十字文』を読んでも、例のごとく、判読不明、同じ言葉であるはずなのに、読めない、自分が恥ずかしいと思っている最中である。日露戦争というのは、日本の歴史にとって、ひとつの転換点であるということは、黒岩さんが同著のあとがきに標されているように、司馬遼太郎氏がもっとも「気」にかけていらっしゃったことではないかと、わたくし自身も認識している。もう、どの作品でかは記憶にないけれども司馬氏が数々の名著を書くきっかけは、江戸そして明治を大きく活(生)き、死んでいった人たちの上に成り立った新政府が何故、その後、機能しなくなったかという疑問からであったと書かれている(このことは、わたくしの薄い記憶に頼っているので、また、記・改めたいと思う)。確認しておくと、日露戦争というのは、明治37(1904)年2月8日に始まり、翌年の9月5日に締結されたポーツマス講和条約までをいう。有名な、日本海海戦は同年(05)の5月27日に当時、世界最強といわれた、ラジェーストヴィンスキイィ総督率いるバルチック艦隊を東郷平八郎司令官(大将)が指揮する大日本帝国海軍がおおかたの予想を覆して破るという大金星をあげたことが突出して、その後も語り継がれていた(いまは、ほぼ、そういうことも、ない)。
平坦ではあるけれど、ベースボールでいえば、二軍が一軍に勝ったようなもので、二軍一同は手放しで、歓喜し、45(昭和20)年に、そのツケを負い、今もって、完済していないどころから、利子が脹(ふく)らんでいる。
黒岩さんが、それについて追っている。タイトルに惹かれて、(数か月前に)求め、読んだのが、前著であるが、まさか、按摩の瓶詰が、とは思わなかった。黒岩さんの言葉をお借りすると、「そのあとの(うれしい)誤算」である。
「二〇〇五年九月五日 日比谷焼打ち事件から百年後の日に」
というのが、あとがきの終わりである。
日比谷焼打ち事件というのはロシヤとの戦争に「勝った」帝国日本が、やれ、賠償金だぁ、カラフト委譲だの、と膨らんでいた皮算用が外れたものだから、こぞって、その不満を、新聞や雑誌が囃したて、「群集」が日頃のやるかたなさ(憤懣)もノセて、ノッタという数日間のできごとである。厖大な資料をもとに、検証されているのが、前著である。中でも、交番やら、新聞社を焼き尽くしていく「群衆」なのにもかかわらず、商店の物を盗ることはなかったと同書にあって、もちろん、今以上に「あらひとかみ」のご存在が大きいとはいえ、群衆(集)から公衆という、以前から、悩んでいた変態(これは、いわゆるヘンタイではなく、環境に応じて成長するという意味である)について、示唆していただいた。
ガブリエル・タルドについては、のちほど、また(いつになるかは分からないけれども)。
ロシヤはというと、もうすでに、帝政は崩れかかっており、17年には手折れた。日露の戦いというのはJリーグであらわせば、デビジョン1と2の入替れのようなものであり、両国ともに、不安定な国情であったことは、その後の歴史を振り返れば、分かるような気もするし、だいいち、プレミアや、リーガエスパニョ〜ルににょこにょこと出てくる「チーム」ではなかったと思う。余計なことを記せば、いまだに、やはり、日露関係は引きずっている。このことは、山形・村上の拙ブロ(予定)で、また、ふれたいと思う。
日露戦争は、わたくしの中では、正(征)露丸、ならびに上記、東郷大将および乃木希典(のぎ・まれすけ)大将しか、ない。東郷大将が海で、乃木大将は陸である。明治は1912年に終わった、当たり前であるが、あらひとかみが崩御したということである(公式記録は7月30日である)。同年9月13日に乃木大将は伴侶ともども、自決している。殉死といわれている。森鴎外翁は「興津弥五右衛門の遺書」でプラス1程度の書き方をしていらっしゃる。この作が歴史小説の最初ともいわれ、洋の西周(にし・あまね)から国(邦)、福羽美静(ふくば(わ)・よししず(びせい)へとヘンタイした時期と重なっているのかもしれない。「こころ」というのは、そういう印象でなかったけれども、改めて読んでみると、夏目漱石伯は、相変わらす彽徊(ていかい)である。だから、プラスマイナス(±)ゼロ。
龍之介さんは、プラス1を超えようと、そちらに向かいながら、彽徊を通り過ぎて、マイナス(新たな世界)へと、走っている。最後の何行かである。以下、「将軍」(青空文庫)より引用する。
「しかし青年は不相変(あいかわらず)、顔色(かおいろ)も声も落着いていた。
「無論俗人じゃなかったでしょう。至誠の人だった事も想像出来ます。ただその至誠が僕等には、どうもはっきりのみこめないのです。僕等より後(のち)の人間には、なおさら通じるとは思われません。……」
父と子とはしばらくの間(あいだ)、気まずい沈黙を続けていた。
「時代の違いだね。」
少将はやっとつけ加えた。
「ええ、まあ、――」
青年はこう云いかけたなり、ちょいと窓の外のけはいに、耳を傾けるような眼つきになった。
「雨ですね。お父さん。」
「雨?」
少将は足を伸ばしたまま、嬉しそうに話頭を転換した。
「また榲桲(マルメロ)が落ちなければ好(い)いが、……」
マルメロは形でいえば、諏訪あたりでよく採れるカリンのようであって、いずれも、まんまでは食用に適していないらしい。だから、抛っておいて、自然と、成ることを、少し、甘さ(砂糖の類)でもって、柔らかくして、その後、ひとの舌を、胃を、堪能させるらしい。それだけ、一筋縄ではいかない、果物なのである。もちろん、「また、・・・落ちなければ、好いが」は乃木大将のことであり、龍さんが直感した、「その後」は、着実に、只今も進んでいて、世代間格差どころか、毎日、マルメロは落ちている。
しかし、龍さんの時代には、ら・ふらんすはなく、この実(み)は、今のところ、さいわいに、落ちてはいない。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
1月19日〜3月2日まで「神奈川近代文学館」において、《収蔵コレクション展「『食道楽』の人 村井弦斎展」》が開(ひら)かれており、少し、間近すぎるが、明日(2月2日)には、黒岩さんの講演がある。お近くの方、ご興味のある方、大食漢(グルマン)の方は、どうぞ。
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