2008.03.31
昨夜
今朝のことであるが、昨夜、ブログを公開しているのに気がついて、驚いた。わたくしの中では、まったく、記憶がない・・・。しかも、ブログトコラボも・・・。
(拙ブロを)よくみると、なんだか、いつもの「雑」さをはるかに上回る中途半端な雑さ状態である。公開の時間を確認すると、21:27分とあって、この数分後には寝ていたのか?そのわりに、パソコンは閉じてあったから、十数分後なのか、それすら、憶えていない。春眠暁(明け方)を覚えず、というが、わたくしの場合は、それ以前(夕〜夜)を憶えていない。危うい春眠である。
あらためて、蟻喰う(ALIC)について述べる。農畜産業振興機構(Agriculture & Livestock Industries Corporation)の略称である。以前は、農畜産業振興事業団および野菜供給安定基金といった。ALICは農畜産業振興事業団の略称でもあったので、「野菜」のほうを吸収合併したということであろうか(2003年10月1日に統合)。もちろん、天下り先である(役員の紹介)。理事長は、月額1,043,000円、 副理事長 は同954,000円しか貰っていない(独立行政法人農畜産業振興機構役員給与規程;平成19年3月22日18農畜機第4473号)。財団法人日本鯨類研究所の方が高い。クジラについては、Wein, Weib und Gesangさんが「調査と云う似非文化問題」(08年3月10日付:ドイツ時間?)でもって、言及されており、追って、記したいと思う。ちなみに、コッチ(鯨研)も農水省の下り先である。
さて、蟻喰う(ALIC)であるが、そのミッションは、ザッパにあらわせば、過去3年間の平均価格が100円であった商品が今年110円(10%アップ)になった際に、その差額分を補うために原材料を国が調達して、10円分を差っ引いて、売り渡す制度である。また、10円下がった場合は、生産した分について、保管経費の補助という名目で、値下がり分を補填することになっている。この制度を享受できるのは、バターなどの乳製品であるが、豚肉、牛肉、鶏卵、野菜(指定野菜と特定野菜がある)、そして、生糸にも類似の適用制度がある。目的は、価格安定という、訳の分からない理由である。[農畜産物の需給・価格安定対策](ALIC)
参考として、バターの小売価格の推移をながめている。ただし、91〜05年だけのデータである。最大72都市の年平均価格を単純に都市数で割っている。年によって、増えたり、消えている都市があって、ソッチの方も面白い(面白がってはいけないのだけれども)。例えば、95年以降、呉市が消えて、同じ広島県の福山市が引き継いでいる。呉以外に消えた町(都市)はないが、いくつか増えていたりする。今回は本筋ではないので、省く。データを整理しているが、直近3年の平均価格に対してマイナス10%を割り込んでいる年があった。96年である。詳しいことは、その年に、それなりの救済策が講じられたのか、あるいは、どういう事情であったかなどを検めてからと思うけれども、ALICのミッションに従えば、この年、値が下がった分、補填されているはずである。なお、10%上昇という記録はみつかっていない。(近いうちに、ご報告をしたい)
明日(08年4月1日)から、下がる(下げる、あるいは、もとに戻すだけ)ガソリンも、その手の話である。
結局は、
エイプリルフール、
でしかない。
(拙ブロを)よくみると、なんだか、いつもの「雑」さをはるかに上回る中途半端な雑さ状態である。公開の時間を確認すると、21:27分とあって、この数分後には寝ていたのか?そのわりに、パソコンは閉じてあったから、十数分後なのか、それすら、憶えていない。春眠暁(明け方)を覚えず、というが、わたくしの場合は、それ以前(夕〜夜)を憶えていない。危うい春眠である。
あらためて、蟻喰う(ALIC)について述べる。農畜産業振興機構(Agriculture & Livestock Industries Corporation)の略称である。以前は、農畜産業振興事業団および野菜供給安定基金といった。ALICは農畜産業振興事業団の略称でもあったので、「野菜」のほうを吸収合併したということであろうか(2003年10月1日に統合)。もちろん、天下り先である(役員の紹介)。理事長は、月額1,043,000円、 副理事長 は同954,000円しか貰っていない(独立行政法人農畜産業振興機構役員給与規程;平成19年3月22日18農畜機第4473号)。財団法人日本鯨類研究所の方が高い。クジラについては、Wein, Weib und Gesangさんが「調査と云う似非文化問題」(08年3月10日付:ドイツ時間?)でもって、言及されており、追って、記したいと思う。ちなみに、コッチ(鯨研)も農水省の下り先である。
さて、蟻喰う(ALIC)であるが、そのミッションは、ザッパにあらわせば、過去3年間の平均価格が100円であった商品が今年110円(10%アップ)になった際に、その差額分を補うために原材料を国が調達して、10円分を差っ引いて、売り渡す制度である。また、10円下がった場合は、生産した分について、保管経費の補助という名目で、値下がり分を補填することになっている。この制度を享受できるのは、バターなどの乳製品であるが、豚肉、牛肉、鶏卵、野菜(指定野菜と特定野菜がある)、そして、生糸にも類似の適用制度がある。目的は、価格安定という、訳の分からない理由である。[農畜産物の需給・価格安定対策](ALIC)
参考として、バターの小売価格の推移をながめている。ただし、91〜05年だけのデータである。最大72都市の年平均価格を単純に都市数で割っている。年によって、増えたり、消えている都市があって、ソッチの方も面白い(面白がってはいけないのだけれども)。例えば、95年以降、呉市が消えて、同じ広島県の福山市が引き継いでいる。呉以外に消えた町(都市)はないが、いくつか増えていたりする。今回は本筋ではないので、省く。データを整理しているが、直近3年の平均価格に対してマイナス10%を割り込んでいる年があった。96年である。詳しいことは、その年に、それなりの救済策が講じられたのか、あるいは、どういう事情であったかなどを検めてからと思うけれども、ALICのミッションに従えば、この年、値が下がった分、補填されているはずである。なお、10%上昇という記録はみつかっていない。(近いうちに、ご報告をしたい)
明日(08年4月1日)から、下がる(下げる、あるいは、もとに戻すだけ)ガソリンも、その手の話である。
結局は、
エイプリルフール、
でしかない。
2008.03.30
塩とちょこプラスα
マーケットで塩チョコ2品を求めた。一方は、ブルボンの「ビット/塩キャラメル」で、既知である。他方は、未知であって、明治製菓の「塩プラリネ」である。いずれも、フツウのチョコより、お値段は高い。それだけ、(騙されて)買う人が多いということなのであろうか(=わたくし)。
ただし、おいしい。
[ビット・塩キャラ]

[塩プラリネ]

ブログトコラボ(第4回)で、塩および砂糖の消費量を調べてみた。もちろん、いずれも、減っている。塩に関しては、97年に専売制が崩れ、02年に自由化されているが、砂糖は未だに統制価格の法下にある。北海道、鹿児島(奄美)、そして、沖縄という保護の目的が強いという事情があるから、あまり、否めない気分もあるが、よく分からない、独立行政法人が、未だに、お砂糖の価格を統制しているらしい。
その法人名が甘くて、おいしそうでもある。
農畜産業振興機構(Agriculture & Livestock Industries Corporation)
alic
アリ(ガ)クウ
ふざけている
ただし、おいしい。
[ビット・塩キャラ]

[塩プラリネ]

ブログトコラボ(第4回)で、塩および砂糖の消費量を調べてみた。もちろん、いずれも、減っている。塩に関しては、97年に専売制が崩れ、02年に自由化されているが、砂糖は未だに統制価格の法下にある。北海道、鹿児島(奄美)、そして、沖縄という保護の目的が強いという事情があるから、あまり、否めない気分もあるが、よく分からない、独立行政法人が、未だに、お砂糖の価格を統制しているらしい。
その法人名が甘くて、おいしそうでもある。
農畜産業振興機構(Agriculture & Livestock Industries Corporation)
alic
アリ(ガ)クウ
ふざけている
2008.03.29
昨土
先週の土曜(22日)、池袋に出かけた。もちろん、この雑煩な街に用はない。カーチャさんと岡田さんにお逢いするために来た。数時間、同じ空気を吸って、お別れした。次は、わたくしが行く番かもしれない。
ポーランドのウィスキーボンボンをいただいた。ただし、コニャックと標してある。記憶に頼れば、ボンボンは、コニャック(ブランデ〜)の筈ではなかったかと思うけれども、どうなのであろうか?もしかしたら、ウィスキーを砂糖塗れにしているので、そう思っただけのことかもしれない。といって、今、呑んでいるウィスキーにお砂糖を加える勇気はない。お砂糖をなめながら、ウィスキーを呑むのは、まったく、問題はないけれど。
まだ、食べて(呑んで)いない。
常に、視覚の範囲内に飾って、特別の想いでもって、(心で)齧っている。

ポーランドのウィスキーボンボンをいただいた。ただし、コニャックと標してある。記憶に頼れば、ボンボンは、コニャック(ブランデ〜)の筈ではなかったかと思うけれども、どうなのであろうか?もしかしたら、ウィスキーを砂糖塗れにしているので、そう思っただけのことかもしれない。といって、今、呑んでいるウィスキーにお砂糖を加える勇気はない。お砂糖をなめながら、ウィスキーを呑むのは、まったく、問題はないけれど。
まだ、食べて(呑んで)いない。
常に、視覚の範囲内に飾って、特別の想いでもって、(心で)齧っている。

2008.03.28
塗れ、まみれ
2008.03.22
塩チョコ
標題は、以前、ウィスキーのおまけにあったと記したものである。(拙ブロ;乙旨味(おつまみ)08年1月17日付)その後、マーケットで、以下(↓)の製品を見かけたのが、一ヶ月ほど前のことである。
Mini Bit Assort という。新潟県柏崎市に本社を置く株式会社ブルボンが販売者である。以前は、北日本食品工業蠅任△辰拭その頃の、ヒット商品(わたくし的な)は「ルマンド」であった。もう少し、遡ると、「最上屋」(現在も柏崎市にある和菓子屋さん)というのが、今の、わたくしには、もっと、ヒットしている(同社の沿革より)。
[思わず手が出たけれども、塩がない]

[5つのおいしさ!]※わたくし的には塩が入っていないので、不満!

[今年は、オリンピックイヤーということで・・・どうなることやら]

もちろん、もう、今は手元にはない(食べた)。塩味のチョコが流行っているという。どの程度かは、分からないけれども、「お汁粉に塩、スイカに塩」、を思いつけば、チョコに塩はあって当然である。諏訪に、塩羊羹というのがあるが、嫌いな人は嫌い、ただし、わたくしは大好きである。
以前も記したが、わたくしは、チョコレートが常備されていないと、柿の種と同等の不安に陥いるので、タイテイは手あるいは眼の近くに置いてある。実は、今夜は切れていて、かわりに、フルタ製菓蠅「窯焼きクッキー 特濃ミルク」で我慢している(これも、もちろん、美味しい)。といって、むやみに食べているわけではなく、ただ、ここにあるという安心感をチョコなり、代替としてのクッキー、あるいはスイーツに求めている。そこが、タバコやお酒と異なるところでもあり、これら(煙とアルコール)は吸引しないといけないけれども、それら(甘系)は食べなくても、在るだけで良いという曖昧さがあり、味覚ではなく、視覚としての存在価値が大きい。まぁ、それはどうでもよい。ビット塩キャラメルは単品であるらしいが、まだ、みかけたことがない。宣伝しているつもりはないが、もし、おみかけなされたら、いちど。
本日は、ブログトコラボを、ひさしぶりにしてみた。お題は、上記、チョコの「2月集中」と、まったく(季節的に)メリハリのない「お豆〜腐」についてである。ただし、家計調査は、2006(平成18)年のみのデータ、そして07年の↓協会調査に拠っているため、精度は欠けている。時間をみつけて、いつごろから、チョコ=2月になったかも、検めてみる。日本豆腐協会のサイトにも、よろしかったら、どうぞ。
今夕は、カーチャさんと岡田和也さんに、お逢いできるので、楽しみにしている。
Mini Bit Assort という。新潟県柏崎市に本社を置く株式会社ブルボンが販売者である。以前は、北日本食品工業蠅任△辰拭その頃の、ヒット商品(わたくし的な)は「ルマンド」であった。もう少し、遡ると、「最上屋」(現在も柏崎市にある和菓子屋さん)というのが、今の、わたくしには、もっと、ヒットしている(同社の沿革より)。
[思わず手が出たけれども、塩がない]

[5つのおいしさ!]※わたくし的には塩が入っていないので、不満!

[今年は、オリンピックイヤーということで・・・どうなることやら]

もちろん、もう、今は手元にはない(食べた)。塩味のチョコが流行っているという。どの程度かは、分からないけれども、「お汁粉に塩、スイカに塩」、を思いつけば、チョコに塩はあって当然である。諏訪に、塩羊羹というのがあるが、嫌いな人は嫌い、ただし、わたくしは大好きである。
以前も記したが、わたくしは、チョコレートが常備されていないと、柿の種と同等の不安に陥いるので、タイテイは手あるいは眼の近くに置いてある。実は、今夜は切れていて、かわりに、フルタ製菓蠅「窯焼きクッキー 特濃ミルク」で我慢している(これも、もちろん、美味しい)。といって、むやみに食べているわけではなく、ただ、ここにあるという安心感をチョコなり、代替としてのクッキー、あるいはスイーツに求めている。そこが、タバコやお酒と異なるところでもあり、これら(煙とアルコール)は吸引しないといけないけれども、それら(甘系)は食べなくても、在るだけで良いという曖昧さがあり、味覚ではなく、視覚としての存在価値が大きい。まぁ、それはどうでもよい。ビット塩キャラメルは単品であるらしいが、まだ、みかけたことがない。宣伝しているつもりはないが、もし、おみかけなされたら、いちど。
本日は、ブログトコラボを、ひさしぶりにしてみた。お題は、上記、チョコの「2月集中」と、まったく(季節的に)メリハリのない「お豆〜腐」についてである。ただし、家計調査は、2006(平成18)年のみのデータ、そして07年の↓協会調査に拠っているため、精度は欠けている。時間をみつけて、いつごろから、チョコ=2月になったかも、検めてみる。日本豆腐協会のサイトにも、よろしかったら、どうぞ。
今夕は、カーチャさんと岡田和也さんに、お逢いできるので、楽しみにしている。
2008.03.20
身代わり地蔵さま
少し、復誦する。
文京・春日「こんにゃくえんま」様の地蔵さま(塩地蔵)は歯痛に効くとされる。具体的には、お塩を持参して、お地蔵さんに供す(塗す〜まぶす)。したがって、お地蔵さんは塩まみれになっている。また、備え付けのお杓で(まみれの)お地蔵さんのお塩を掬い、手にとって、頬にこすりつける、そういうことでもって、願懸けを行なっている。また、塩地蔵さんが同居する源覚寺の「こんにゃくえんま」様は眼に効くとされ、しかも、えんま様が身代わりとなってくれている。くりかえすと、前者は、願懸けで、後者は身代わりである。塩地蔵さまは塗(まみ)れるが、えんま様ご自身が身代わりとなって、失明したように、自らの歯を虫歯でぼろぼろにしたということではないらしい。ただし、お口を開けて、お歯をみせているのかどうか、確かめていないので、本当のところはわからないが、どうやら願いを請け負って、お釈迦様やら如来さん、あるいは同僚菩薩に申告しているらしい(根拠なし)。これが願懸けであり、たとえば、浅草観音で、焚いた煙を患部に当てたりするのも、その類になるのであろう。
眼科医でもあった作家、藤枝静男さんが、その著作「滝とビンズル」で、ビンズル信仰に困っていると記している。おビンズル様は万病に効くと謂われ、病んでいる体の部位と照らすようにおビンズル様を撫でて、返した手を自分にも当てる。眼を患った人が、(おビンズル様の)眼あたりを撫でては、(自身の)眼に当てる。ところが、これが願懸けにはならず、逆に、眼病、特にトラコーマの伝染を助長している眼ざわりな存在だと、氏は云う。(拙ブロ;おビンズル様07年10月7日付)
目黒の蟠龍寺(ばんりゅうじ)には白粉(おしろい)地蔵さんがいて、こちらは願懸けであるようだ。でなければ(身代わりであれば)、ここのお地蔵さんはずいぶんと辛い想いをされていることであろう。実際には、ふんだんに白粉を施されているものだから、本来は美しいお地蔵さん(目黒区サイトより)のはずであるが、塗られすぎて、目鼻立ちがはっきりしていない。(拙ブロ;メグロのタヌキ08年3月15日付)
2月に訪れた山形市の歌懸(うたかけ)稲荷神社の場合は少し異なり、お参りする人が、短冊に歌を認(したた)めて奉納したことから、そう呼ばれるようになった(歌懸稲荷神社/十日町商店街サイトより)。ただ、歌を懸けるが、その奥底には願を懸けるという気もちがあったのであろう。「今(イマ)」も継続されている絵馬(エマ)を懸けるという信仰も歌懸に親(ちか)しい気がする。拙ブロ;むらやま・楯岡(たておか)壱〜市(いち)へ(08年2月6日付)
さて、標題にある身代わり地蔵といえば、やはり、「安寿と厨子王」であろうか。森鴎外翁の『山椒大夫』をひさびさに読んでみた(青空文庫)。姉弟の災難を身代わりとなって、守ってくださったお地蔵様が「主役」である。厨子王は、その後、丹後の国守りになる、というのも、ここのところ、関わってきた「堀様」に通じていて、もちろん、偶然であるが、楽しい。今、広沢の池付近の石仏は出ているかと、電子地図を開いたままにしているが、そこから丹後由良はそう遠くない位置にある(嵯峨嵐山〜丹後由良まで2時間半前後)。ふたりは由良の山椒大夫に売られていった。身代わり地蔵は、ここにあった(如意寺の身代わり地蔵/宮津市由良〜京都新聞より)。また、現在のいわき市にも由縁の地蔵尊像があるとも。キリスト教では、身代わりを、受難(Sufferings)というのであろうか。向こう(キリスト)はひとりで背負っているのに、こっち(地蔵さま)は日本中にいて、分担している。地蔵さんは、どこにでも、いらっしゃるところが良い、助かる。ああ、もちろん、だからといって、キリスト様を否定していることではないし、C様も十字架、イコンなどとして、随所に居られる。
今、チベットは深刻な状態に陥っているが、下の写真はいわゆる摩尼車(まにぐるま)、目黒の大円寺のものである。一回一誦(いっかいいちじゅ/いちえいちじゅ/いちえいちず)、一廻りすることで、お経を読了したとされる。
[大円寺のマニ車(縦廻し型)]

[獣像;大円寺]※ついで

[笛吹童子(女)?;大円寺]※ついでのついで

あんじゅ(安寿)恋しや、ほうやれほ。
ず(づ)しおう(厨子王)恋しや、ほうやれほ。
鳥も生(しょう)あるものなれば、
疾(と)う疾う逃げよ、逐(お)わずとも。
以上は、『山椒大夫』の結段である。母を捜す厨子王が、ひとりの盲目の女に牽かれ、その詞(上記4行)に聞き惚れた。その声主が、母親であった。
「ほうやれほ」の意味は分からない。ただ、女(母親)は、「蓆(むしろ)に干してある粟の穂が、雀の来て啄(ついば)むのを逐(お)っている」(山椒大夫より)。
鳥追い唄である。
あさ鳥ほほほ ゆう鳥ほほほ
長者どのの囲地(かくち)には
鳥もないかくちだ
やいほい はたはた (大滝/大館市) ※以前にも紹介した
朝鳥ほいほい 夕とりほいほい
長者殿の囲地さ 鳥が一羽おりた
どうこの鳥だ 鎌倉の鳥だ
頭きってしほつけて 塩俵(しよだら)にぶちこんで
佐渡が島さへ ぼってやれ ぼってやれ (谷地中/五城目町)
「菅江真澄」(田口昌樹氏著/秋田文化出版社)にある、真澄が集録されたといわれる唄である。二句目の佐渡については、ほかの地域唄にもでてくる。(安寿と厨子王の)母親が売られていったのは佐渡(山岡太夫)である。
生き別れた安寿、厨子王が恋しくて(心配で)、鳥追いなどには身も入らない。(わたしは)鳥を追い払う気もちもないけれども、生きているのなら、鳥も、安寿も、厨子王も、追っ手より「疾(と)う疾う」逃げて、どうか、生き永らえて、という、(母の希みをあらわした)追っ手追い唄でもある。
ほうやれほ
文京・春日「こんにゃくえんま」様の地蔵さま(塩地蔵)は歯痛に効くとされる。具体的には、お塩を持参して、お地蔵さんに供す(塗す〜まぶす)。したがって、お地蔵さんは塩まみれになっている。また、備え付けのお杓で(まみれの)お地蔵さんのお塩を掬い、手にとって、頬にこすりつける、そういうことでもって、願懸けを行なっている。また、塩地蔵さんが同居する源覚寺の「こんにゃくえんま」様は眼に効くとされ、しかも、えんま様が身代わりとなってくれている。くりかえすと、前者は、願懸けで、後者は身代わりである。塩地蔵さまは塗(まみ)れるが、えんま様ご自身が身代わりとなって、失明したように、自らの歯を虫歯でぼろぼろにしたということではないらしい。ただし、お口を開けて、お歯をみせているのかどうか、確かめていないので、本当のところはわからないが、どうやら願いを請け負って、お釈迦様やら如来さん、あるいは同僚菩薩に申告しているらしい(根拠なし)。これが願懸けであり、たとえば、浅草観音で、焚いた煙を患部に当てたりするのも、その類になるのであろう。
眼科医でもあった作家、藤枝静男さんが、その著作「滝とビンズル」で、ビンズル信仰に困っていると記している。おビンズル様は万病に効くと謂われ、病んでいる体の部位と照らすようにおビンズル様を撫でて、返した手を自分にも当てる。眼を患った人が、(おビンズル様の)眼あたりを撫でては、(自身の)眼に当てる。ところが、これが願懸けにはならず、逆に、眼病、特にトラコーマの伝染を助長している眼ざわりな存在だと、氏は云う。(拙ブロ;おビンズル様07年10月7日付)
目黒の蟠龍寺(ばんりゅうじ)には白粉(おしろい)地蔵さんがいて、こちらは願懸けであるようだ。でなければ(身代わりであれば)、ここのお地蔵さんはずいぶんと辛い想いをされていることであろう。実際には、ふんだんに白粉を施されているものだから、本来は美しいお地蔵さん(目黒区サイトより)のはずであるが、塗られすぎて、目鼻立ちがはっきりしていない。(拙ブロ;メグロのタヌキ08年3月15日付)
2月に訪れた山形市の歌懸(うたかけ)稲荷神社の場合は少し異なり、お参りする人が、短冊に歌を認(したた)めて奉納したことから、そう呼ばれるようになった(歌懸稲荷神社/十日町商店街サイトより)。ただ、歌を懸けるが、その奥底には願を懸けるという気もちがあったのであろう。「今(イマ)」も継続されている絵馬(エマ)を懸けるという信仰も歌懸に親(ちか)しい気がする。拙ブロ;むらやま・楯岡(たておか)壱〜市(いち)へ(08年2月6日付)
さて、標題にある身代わり地蔵といえば、やはり、「安寿と厨子王」であろうか。森鴎外翁の『山椒大夫』をひさびさに読んでみた(青空文庫)。姉弟の災難を身代わりとなって、守ってくださったお地蔵様が「主役」である。厨子王は、その後、丹後の国守りになる、というのも、ここのところ、関わってきた「堀様」に通じていて、もちろん、偶然であるが、楽しい。今、広沢の池付近の石仏は出ているかと、電子地図を開いたままにしているが、そこから丹後由良はそう遠くない位置にある(嵯峨嵐山〜丹後由良まで2時間半前後)。ふたりは由良の山椒大夫に売られていった。身代わり地蔵は、ここにあった(如意寺の身代わり地蔵/宮津市由良〜京都新聞より)。また、現在のいわき市にも由縁の地蔵尊像があるとも。キリスト教では、身代わりを、受難(Sufferings)というのであろうか。向こう(キリスト)はひとりで背負っているのに、こっち(地蔵さま)は日本中にいて、分担している。地蔵さんは、どこにでも、いらっしゃるところが良い、助かる。ああ、もちろん、だからといって、キリスト様を否定していることではないし、C様も十字架、イコンなどとして、随所に居られる。
今、チベットは深刻な状態に陥っているが、下の写真はいわゆる摩尼車(まにぐるま)、目黒の大円寺のものである。一回一誦(いっかいいちじゅ/いちえいちじゅ/いちえいちず)、一廻りすることで、お経を読了したとされる。
[大円寺のマニ車(縦廻し型)]

[獣像;大円寺]※ついで

[笛吹童子(女)?;大円寺]※ついでのついで

あんじゅ(安寿)恋しや、ほうやれほ。
ず(づ)しおう(厨子王)恋しや、ほうやれほ。
鳥も生(しょう)あるものなれば、
疾(と)う疾う逃げよ、逐(お)わずとも。
以上は、『山椒大夫』の結段である。母を捜す厨子王が、ひとりの盲目の女に牽かれ、その詞(上記4行)に聞き惚れた。その声主が、母親であった。
「ほうやれほ」の意味は分からない。ただ、女(母親)は、「蓆(むしろ)に干してある粟の穂が、雀の来て啄(ついば)むのを逐(お)っている」(山椒大夫より)。
鳥追い唄である。
あさ鳥ほほほ ゆう鳥ほほほ
長者どのの囲地(かくち)には
鳥もないかくちだ
やいほい はたはた (大滝/大館市) ※以前にも紹介した
朝鳥ほいほい 夕とりほいほい
長者殿の囲地さ 鳥が一羽おりた
どうこの鳥だ 鎌倉の鳥だ
頭きってしほつけて 塩俵(しよだら)にぶちこんで
佐渡が島さへ ぼってやれ ぼってやれ (谷地中/五城目町)
「菅江真澄」(田口昌樹氏著/秋田文化出版社)にある、真澄が集録されたといわれる唄である。二句目の佐渡については、ほかの地域唄にもでてくる。(安寿と厨子王の)母親が売られていったのは佐渡(山岡太夫)である。
生き別れた安寿、厨子王が恋しくて(心配で)、鳥追いなどには身も入らない。(わたしは)鳥を追い払う気もちもないけれども、生きているのなら、鳥も、安寿も、厨子王も、追っ手より「疾(と)う疾う」逃げて、どうか、生き永らえて、という、(母の希みをあらわした)追っ手追い唄でもある。
ほうやれほ
2008.03.19
*)雑(*
常備おつまみである亀田の柿の種、「けなげ組」のことである。
今回(今袋)のお題は「雑」、なんとなく、拙ブロの、雑に、さ、を囁かれているようで、気になる。
[けなげ組・会員番号39/雑](亀田製菓蠅離汽ぅ箸茲蝓
なるほど、粗末に(ザツに)扱われているようで、しかし、なんとなく「根性」がありそうな・・・そういう漢字として、みることもできる。
手許の漢和辞典によると、
・まじる(交)
(ごたごたいりまじる、入り乱れる、、色どりがまざる
・まぜる(混)
(ごたごたにする、混合する)
・飾る
・そまつな、下等な
・身分がいやしい
・こまごました
とあり、国語辞典には、「ごたごたして、わずらわしい」「価値の低い」という意味もあった。いずれも、良いイメージとは決して思えない(飾るにしても、おそらく、コテコテ系「な」飾りなのであろう)。
京浜急行に「雑色」(ぞうしき)という名の駅があるが、そこの商店街のサイトに、雑色には中間系色という意味があるともあった。まぁ、なんとなく、あいまい、はっきりしな〜いと解釈するのは失礼か?雑嚢(ざつのう)は「いろいろなものを入れるふくろ」、その袋(嚢)からいろいろ出しているのが、ドラえもん。
雑遝(ざっとう〜雑沓、雑踏)は好きである。ただし、それを眺めているあいだだけで、いったん、雑(ま)じってしまうと、煩わしい、必ず、誰かに足を踏まれたりするので、好きではない。
ちなみに、同時(同袋)掲載の会員番号40は「食パンの耳」、これも、なんだか、さびしいトーンであるが、仰せのとおり、油で揚げると、とても、オイシイ、おつまみになる。
これからも、安否確認の要請(?)を慮りながら、雑ブロを、続けさせていただく。<(_雑_)>
今回(今袋)のお題は「雑」、なんとなく、拙ブロの、雑に、さ、を囁かれているようで、気になる。
[けなげ組・会員番号39/雑](亀田製菓蠅離汽ぅ箸茲蝓
なるほど、粗末に(ザツに)扱われているようで、しかし、なんとなく「根性」がありそうな・・・そういう漢字として、みることもできる。
手許の漢和辞典によると、
・まじる(交)
(ごたごたいりまじる、入り乱れる、、色どりがまざる
・まぜる(混)
(ごたごたにする、混合する)
・飾る
・そまつな、下等な
・身分がいやしい
・こまごました
とあり、国語辞典には、「ごたごたして、わずらわしい」「価値の低い」という意味もあった。いずれも、良いイメージとは決して思えない(飾るにしても、おそらく、コテコテ系「な」飾りなのであろう)。
京浜急行に「雑色」(ぞうしき)という名の駅があるが、そこの商店街のサイトに、雑色には中間系色という意味があるともあった。まぁ、なんとなく、あいまい、はっきりしな〜いと解釈するのは失礼か?雑嚢(ざつのう)は「いろいろなものを入れるふくろ」、その袋(嚢)からいろいろ出しているのが、ドラえもん。
雑遝(ざっとう〜雑沓、雑踏)は好きである。ただし、それを眺めているあいだだけで、いったん、雑(ま)じってしまうと、煩わしい、必ず、誰かに足を踏まれたりするので、好きではない。
ちなみに、同時(同袋)掲載の会員番号40は「食パンの耳」、これも、なんだか、さびしいトーンであるが、仰せのとおり、油で揚げると、とても、オイシイ、おつまみになる。
これからも、安否確認の要請(?)を慮りながら、雑ブロを、続けさせていただく。<(_雑_)>
2008.03.18
高校生のとき、ひとりで、土筆を、採って、煎って、食べていた
所用のあと、川面にあがった。江戸川である。でも、何もなく、ずいぶん昔に、春になると、川を訪ねて、土筆(つくし)を観ていたものであるが、今は、駆逐しているらしい、それらしき、白い粉末(石灰?)も撒かれていた。狭い家庭(家の庭)ではないのだから、土筆ぐらい、面倒看てほしいと思ったけれども、河川工事というのは、一切に対して、とんじゃくしないようである。(昔の、わたくしのことであるけれども)何を思ったか、土筆を採って、煎って、食べていた。そういうことを(ひとりで)していた。以前から、バスで通過していて、ずっと、気になっていた、お屋敷の、裏(奥)側を、本日初めて、徒歩でもって、川(江戸川の枝)沿いにながめて、ずっと、ずっと、気になってしまった。電子地図には、建物の形状しか、載っていない。むしろ、フリー(無料)なものだから、フルイ地図のままであるグルグルの方に、残鏡があった。本日は、時間もなく、また、とつぜん、訪れる勇気もないものだから、そそくさと、先を急いだ(振り)をした。できることなら、近日中に、と。
以下は、白山神社(文京区)で撮った梅と、御神輿の納め処を、撮らえたつもり・・・。





以下は、白山神社(文京区)で撮った梅と、御神輿の納め処を、撮らえたつもり・・・。





2008.03.17
はるか春日
堀様は、結構複雑で、今もって、(わたくしが)分かっていない。したがって、ここでは記すことは難しいが、駒込吉祥寺の丹後守(直寄)も、また、丹波守も傍系であり、本流は別にあった。例えば、秀政(ひでまさ)というと、信長、秀吉に就いて、活躍した武将である。それは、さておき、としておく。
文京区春日(かすが)の名づけというのは、家光の乳母、のちの春日局(かすのつぼね)に由来するとのことであるが、直寄の方、つまり傍系のお殿様に局(おつぼね)の姪を配偶者としたという関係があるということだけは解った。
12日に駒込吉祥寺から始まったブロ旅は、結局、春日に戻ることになった。どうしても、と、すでに書いたが、「えんま地蔵さん」にという気もちが強かった。正式には浄土宗常光山向西院源覚寺「こんにゃくえんま」様といい、いわれは、眼を患った老婆が大好きな「こんにゃく」を断って、お祈りをしていたところ、えんま様が身(眼)代わりとなってくださって、片目を失い、お婆さんの眼は回復したことから、と、門前にある商店街(えんま商盛会)のサイトに紹介されている。[えんま商盛会のHP]
この日は、奥でもってご葬儀が行なわれていたこと、また、お参りの方がいらしたこともあり、10分程度でお暇したが、お堂前には、眼癒しを祈願した、さまざまな「こんにゃく」が供されている。また、こんにゃくは、眼ばかりでなく、「困厄」(KON−YAKU)から逃れるという意味もあると、前記サイトにあった。地蔵さまもいらっしゃって、「塩地蔵」といい、まさに塩まみれのお地蔵さんで、傍(はた)からみていると、なんだか苦しそうである。歯痛にご利益があるというので、皆、詣でて、お地蔵さんに塩をかけていくものだから、塩まみれ、治ったあかつきには倍にして、お礼をするものだから、塩まみれ×2。たまたま、願懸けされていた方はお地蔵さんのお塩を備え付けの小さな杓でもって掬い、ご自身の頬あたりに擦りつけていらした。歯を塩で揉むと歯茎が締まって、丈夫になると聞くし、実際に、塩味の歯磨き粉もある。この頃(お地蔵さんは寛永以前にすでにあったという)にはもう、そういう理論(塩で歯を磨く習慣)が根づいていた。消毒、殺菌効果という点では、経験則的な理に適った「お手当て」だったのであろうか。しかも、寛永時代には塩以外の成分を有す歯磨き粉を朝鮮半島からの渡来者に教わって、作って(販売して)いたという記録もあるそうだ。このことは、また、いずれ。
ふと、年数回煩っている、わたくしの口内炎による腫れ( ^)o(^ )にも効くものかと、思ったが、混雑していて(といっても、お二方であるが、さして広い場所ではない)、あきらめた。
えんま様といい、お地蔵さまといい、身代わりになったり、塩まみれになったり、と、ずいぶん、献身的で、頭が下がる思いである。
帰りがけに梅をと、みると、一本だけみつけた。
[こんにゃくえんまさんの梅]

気になっていたので、また、途中の立ち呑み屋さんを我慢したせいもあり、あるいは、塩地蔵さんを観たばかりなので、口腔および咽喉周りが渇いてしまったので、「えんまや」さんに寄った。5時過ぎか、まだ、ほかにお客さんがいなかったが、わたくしが呑みだして、ほどなく、ぱらぱら、そして、30分もすると、団体さんやらが二階席に上がっていき、日暮れも近づいたとあって、どうやら、ご盛況のようである。ここで、「アブラゲ」のねぎみそ焼きをいただきながら、憶えているうちにと、本日のできごとをメモしていた。突き出しが鷹の爪(歯痛に効く)入りで、甘辛くした「こんにゃく炊き」というのも、偶然にしては、できすぎ、という想いになった。まだ、気に懸かることがたくさんあって、二たび、と、メグロから始まったブロ旅はいちおう、終わりとする。
[えんまやさん]※お箸袋、お店のカウンターにて

はるか春日山(越後)。
長尾・上杉氏ゆかりの此のお城に秀政の嫡男、秀治(ひではる)は移るが、お堀の本流がよみがえることはなかった。
文京区春日(かすが)の名づけというのは、家光の乳母、のちの春日局(かすのつぼね)に由来するとのことであるが、直寄の方、つまり傍系のお殿様に局(おつぼね)の姪を配偶者としたという関係があるということだけは解った。
12日に駒込吉祥寺から始まったブロ旅は、結局、春日に戻ることになった。どうしても、と、すでに書いたが、「えんま地蔵さん」にという気もちが強かった。正式には浄土宗常光山向西院源覚寺「こんにゃくえんま」様といい、いわれは、眼を患った老婆が大好きな「こんにゃく」を断って、お祈りをしていたところ、えんま様が身(眼)代わりとなってくださって、片目を失い、お婆さんの眼は回復したことから、と、門前にある商店街(えんま商盛会)のサイトに紹介されている。[えんま商盛会のHP]
この日は、奥でもってご葬儀が行なわれていたこと、また、お参りの方がいらしたこともあり、10分程度でお暇したが、お堂前には、眼癒しを祈願した、さまざまな「こんにゃく」が供されている。また、こんにゃくは、眼ばかりでなく、「困厄」(KON−YAKU)から逃れるという意味もあると、前記サイトにあった。地蔵さまもいらっしゃって、「塩地蔵」といい、まさに塩まみれのお地蔵さんで、傍(はた)からみていると、なんだか苦しそうである。歯痛にご利益があるというので、皆、詣でて、お地蔵さんに塩をかけていくものだから、塩まみれ、治ったあかつきには倍にして、お礼をするものだから、塩まみれ×2。たまたま、願懸けされていた方はお地蔵さんのお塩を備え付けの小さな杓でもって掬い、ご自身の頬あたりに擦りつけていらした。歯を塩で揉むと歯茎が締まって、丈夫になると聞くし、実際に、塩味の歯磨き粉もある。この頃(お地蔵さんは寛永以前にすでにあったという)にはもう、そういう理論(塩で歯を磨く習慣)が根づいていた。消毒、殺菌効果という点では、経験則的な理に適った「お手当て」だったのであろうか。しかも、寛永時代には塩以外の成分を有す歯磨き粉を朝鮮半島からの渡来者に教わって、作って(販売して)いたという記録もあるそうだ。このことは、また、いずれ。
ふと、年数回煩っている、わたくしの口内炎による腫れ( ^)o(^ )にも効くものかと、思ったが、混雑していて(といっても、お二方であるが、さして広い場所ではない)、あきらめた。
えんま様といい、お地蔵さまといい、身代わりになったり、塩まみれになったり、と、ずいぶん、献身的で、頭が下がる思いである。
帰りがけに梅をと、みると、一本だけみつけた。
[こんにゃくえんまさんの梅]

気になっていたので、また、途中の立ち呑み屋さんを我慢したせいもあり、あるいは、塩地蔵さんを観たばかりなので、口腔および咽喉周りが渇いてしまったので、「えんまや」さんに寄った。5時過ぎか、まだ、ほかにお客さんがいなかったが、わたくしが呑みだして、ほどなく、ぱらぱら、そして、30分もすると、団体さんやらが二階席に上がっていき、日暮れも近づいたとあって、どうやら、ご盛況のようである。ここで、「アブラゲ」のねぎみそ焼きをいただきながら、憶えているうちにと、本日のできごとをメモしていた。突き出しが鷹の爪(歯痛に効く)入りで、甘辛くした「こんにゃく炊き」というのも、偶然にしては、できすぎ、という想いになった。まだ、気に懸かることがたくさんあって、二たび、と、メグロから始まったブロ旅はいちおう、終わりとする。
[えんまやさん]※お箸袋、お店のカウンターにて

はるか春日山(越後)。
長尾・上杉氏ゆかりの此のお城に秀政の嫡男、秀治(ひではる)は移るが、お堀の本流がよみがえることはなかった。
2008.03.16
白山・さ迷い
繰り返すが、駒込吉祥寺近辺は、振袖火事(明暦の大火)で消失した現在の水道橋あたりにあった吉祥寺が移って、それとともに、門前の住人もここに身を寄せ、のちに吉祥寺門前町となった。明治2(1869)年に、一帯(お寺および門前町)を駒込吉祥寺町とした。以上は、裏通りに貼られていた文京区の銘盤による。
[旧駒込吉祥寺町]

お七が焦がれたのは吉三(きちざ、きちさ)という説も太い。お七が火刑に処され、それを追って吉三が大川に身を投げた。彼岸で逢瀬を果たし、二人抱きあったが、火と水で、ジュウ(7+3)というのは、どうか分からないけれども、観劇気分でいえば、もうひとり、介していたほうが、ジュウ(充)でもある。それが、佐兵衛で、吉祥寺の小姓で、天和元年2月の大火で焼きだされたお七家族が檀那である吉祥寺境内または門前に一時しのぎした際に、ふたりは出逢う。仔細はわからないが、お七の一目惚れと、いずれの資料にもある。男子を尊び、女子を卑しむという変わらぬ事情を酌んだとしても、燃えさかる火炎と焦がれる恋心をあらわすには、こちらのほうがよいのかもしれない。♂が冒したら、単なる放火犯で話は裁つ。佐兵衛説では、吉三は、再建した本郷(焼け出される前にあった八百屋の所在)の家をもう一度焼けば、逢えるぜぇ、と(お七を)そそのかして、本人は火事場泥棒的な悪さを考えていたと諸説にある。(七と三でジュウは、こちら「ぼやで身を焼く八百屋お七」東京消防庁サイトから)
さて、上記の銘盤に、駒込吉祥寺一帯に堀丹後守の下屋敷があったと記されている。拙ブロ「いよ・ぼや」(08年3月2日)は新潟県村上市のお話であるが、この丹後守というのは越後村上藩主、堀直寄(ほり・なおより、直竒あるいは、寄のウカンムリなし、とも記す)のことであろうか。江戸初期ということからも、そのようである。直寄はお家騒動の末、信濃飯山藩を家康から与えられた。その後、長岡藩を治め、当時藩領の粗れ地に過ぎなかった新潟(市)を日本海側随一の街に変えたのも、直寄の功が大きいといわれる。ただし、いよ・ぼや(鮭)の養殖は、村上堀家(直寄から数えて三代でもって)が絶えて久しい約150年後、内藤信敦(ないとう・のぶあつ)が藩主の頃、青砥武平治(あおと・ぶへいじ)という藩士が鮭の回帰性に着目し、孵化に成功、現在の三面川におけるイヨボヤのもとを築いている。(「世界で初めてサケの回帰性を発見した男/青砥武平治」村上市より)
前回、紹介した「黄金餅」の長屋一行の道中づけ(道筋の説明)は下谷山崎町を出て、しばらくすると、堀様と鳥居様のお屋敷の前に到る。こちらの堀様は、丹波守で、断絶した直寄の次男、直時(なおとき)が、安田を経て、村松藩主となって、その二代目直吉(なおよし、のちに丹後守)と五代目直尭(なおたか、のち丹後守)、六代直教(なおのり)、九代目直央(なおひで)、十代目直休(なおやす)が丹波守を授かっている(これも諸説あり、目安として、以下のサイトを引用、参照とした⇒《越後村松藩〜堀氏/苗字一覧》。
直吉は寛永二十年(1643)年に家督を継ぎ、直休は万延元年(1860)年に歿しているから、黄金餅は、この間のお噺なのであろうか(落語自体が作られたのは、その先)。鳥居様は三河譜代の鳥居氏か。まぁ、それほど、深刻になることもないか。
枕がことのほか長くなった、本題にはいる。ただし、オチはない。
吉祥寺を八百屋お七の舞台とする一方で、より白山に近い、圓乘(円乗)寺を、そうだとする向きもあり、そこも訪ねたかった。かなり、迷いながら、みつけた(地図は持参している)。旧白山通りから坂を下り切る手前にある。大きくないので、つい通り過ぎてしまう。わたくしが、寺内を歩いて、通り(坂道)脇にある指ヶ谷(さしがや、さすがや)の碑奥にある「お七地蔵」をながめていると、ご婦人がお二方いらして、ここかい、と、怪訝な感じだったので、奥にありますよと、今、訪ねたばかりの場所の方向を指してあげた、そのぐらい、分かりづらい。10日にうかがった蟠龍寺も家屋、建物がいりこんだ細い路地が短い参道になっていたが、ここは、より狭隘で、どこかのお宅のお庭かという程度の印象である。お七のお墓は三基あり、中央がご住職によるもの、右側はお七を演じた岩井半四郎(五代か)、左は近隣住民が270回忌でもって、建立したと説明にあった。墓というよりはご供養塔(像)なのであろう。
[円乗寺]※旧町名(指ヶ谷〜サスガヤ!)を示す、この奥にお七地蔵、さらに奥まって、お七のお墓

(円乗寺/お七のお墓の由来/文京区サイトより)
円乗寺をあとにして、初めて、白山界隈を歩いたので、少し、とぐろを巻いてみた。都営地下鉄三田線「白山」駅方面に上って、旧白山通り、千石駅までとした、いきなり、みつけてしまったのが立ち呑み屋さん、中を覗くだけにして(何人かもういらっしゃった〜うらやましい)、前へと進んだものの、今度は、「ジャズスポット・映画館」を発見。窺ったが、まだ準備中らしいので、さらに、前へと、と、思ったけれども、左に折れて、白山神社へ。何種もの梅が満開をもう過ぎていて、きわどいけれども、時機を逸しない程度の日に訪ねることができて、よかった。
[立ち呑み屋さん〜16時から]

[JAZZ SPOT 映画館]

※サイトをみつけた・・・JAZZ&SOMETHIN’ELSEとある、16時開店が一応目標(この日は×)
[白山神社の梅]※酔心梅

白山神社というと、堀様(直寄)が築いた新潟を想い起こす。このことは、また、別の機会に記したいと思う。
千石まで、とにかく歩いた。もともと宛てはない、したがって、記すこともなく、地下駅に下り、もう一度、春日に戻って、えんま地蔵をと思った。
間に合った。次回に。
[旧駒込吉祥寺町]

お七が焦がれたのは吉三(きちざ、きちさ)という説も太い。お七が火刑に処され、それを追って吉三が大川に身を投げた。彼岸で逢瀬を果たし、二人抱きあったが、火と水で、ジュウ(7+3)というのは、どうか分からないけれども、観劇気分でいえば、もうひとり、介していたほうが、ジュウ(充)でもある。それが、佐兵衛で、吉祥寺の小姓で、天和元年2月の大火で焼きだされたお七家族が檀那である吉祥寺境内または門前に一時しのぎした際に、ふたりは出逢う。仔細はわからないが、お七の一目惚れと、いずれの資料にもある。男子を尊び、女子を卑しむという変わらぬ事情を酌んだとしても、燃えさかる火炎と焦がれる恋心をあらわすには、こちらのほうがよいのかもしれない。♂が冒したら、単なる放火犯で話は裁つ。佐兵衛説では、吉三は、再建した本郷(焼け出される前にあった八百屋の所在)の家をもう一度焼けば、逢えるぜぇ、と(お七を)そそのかして、本人は火事場泥棒的な悪さを考えていたと諸説にある。(七と三でジュウは、こちら「ぼやで身を焼く八百屋お七」東京消防庁サイトから)
さて、上記の銘盤に、駒込吉祥寺一帯に堀丹後守の下屋敷があったと記されている。拙ブロ「いよ・ぼや」(08年3月2日)は新潟県村上市のお話であるが、この丹後守というのは越後村上藩主、堀直寄(ほり・なおより、直竒あるいは、寄のウカンムリなし、とも記す)のことであろうか。江戸初期ということからも、そのようである。直寄はお家騒動の末、信濃飯山藩を家康から与えられた。その後、長岡藩を治め、当時藩領の粗れ地に過ぎなかった新潟(市)を日本海側随一の街に変えたのも、直寄の功が大きいといわれる。ただし、いよ・ぼや(鮭)の養殖は、村上堀家(直寄から数えて三代でもって)が絶えて久しい約150年後、内藤信敦(ないとう・のぶあつ)が藩主の頃、青砥武平治(あおと・ぶへいじ)という藩士が鮭の回帰性に着目し、孵化に成功、現在の三面川におけるイヨボヤのもとを築いている。(「世界で初めてサケの回帰性を発見した男/青砥武平治」村上市より)
前回、紹介した「黄金餅」の長屋一行の道中づけ(道筋の説明)は下谷山崎町を出て、しばらくすると、堀様と鳥居様のお屋敷の前に到る。こちらの堀様は、丹波守で、断絶した直寄の次男、直時(なおとき)が、安田を経て、村松藩主となって、その二代目直吉(なおよし、のちに丹後守)と五代目直尭(なおたか、のち丹後守)、六代直教(なおのり)、九代目直央(なおひで)、十代目直休(なおやす)が丹波守を授かっている(これも諸説あり、目安として、以下のサイトを引用、参照とした⇒《越後村松藩〜堀氏/苗字一覧》。
直吉は寛永二十年(1643)年に家督を継ぎ、直休は万延元年(1860)年に歿しているから、黄金餅は、この間のお噺なのであろうか(落語自体が作られたのは、その先)。鳥居様は三河譜代の鳥居氏か。まぁ、それほど、深刻になることもないか。
枕がことのほか長くなった、本題にはいる。ただし、オチはない。
吉祥寺を八百屋お七の舞台とする一方で、より白山に近い、圓乘(円乗)寺を、そうだとする向きもあり、そこも訪ねたかった。かなり、迷いながら、みつけた(地図は持参している)。旧白山通りから坂を下り切る手前にある。大きくないので、つい通り過ぎてしまう。わたくしが、寺内を歩いて、通り(坂道)脇にある指ヶ谷(さしがや、さすがや)の碑奥にある「お七地蔵」をながめていると、ご婦人がお二方いらして、ここかい、と、怪訝な感じだったので、奥にありますよと、今、訪ねたばかりの場所の方向を指してあげた、そのぐらい、分かりづらい。10日にうかがった蟠龍寺も家屋、建物がいりこんだ細い路地が短い参道になっていたが、ここは、より狭隘で、どこかのお宅のお庭かという程度の印象である。お七のお墓は三基あり、中央がご住職によるもの、右側はお七を演じた岩井半四郎(五代か)、左は近隣住民が270回忌でもって、建立したと説明にあった。墓というよりはご供養塔(像)なのであろう。
[円乗寺]※旧町名(指ヶ谷〜サスガヤ!)を示す、この奥にお七地蔵、さらに奥まって、お七のお墓

(円乗寺/お七のお墓の由来/文京区サイトより)
円乗寺をあとにして、初めて、白山界隈を歩いたので、少し、とぐろを巻いてみた。都営地下鉄三田線「白山」駅方面に上って、旧白山通り、千石駅までとした、いきなり、みつけてしまったのが立ち呑み屋さん、中を覗くだけにして(何人かもういらっしゃった〜うらやましい)、前へと進んだものの、今度は、「ジャズスポット・映画館」を発見。窺ったが、まだ準備中らしいので、さらに、前へと、と、思ったけれども、左に折れて、白山神社へ。何種もの梅が満開をもう過ぎていて、きわどいけれども、時機を逸しない程度の日に訪ねることができて、よかった。
[立ち呑み屋さん〜16時から]

[JAZZ SPOT 映画館]

※サイトをみつけた・・・JAZZ&SOMETHIN’ELSEとある、16時開店が一応目標(この日は×)
[白山神社の梅]※酔心梅

白山神社というと、堀様(直寄)が築いた新潟を想い起こす。このことは、また、別の機会に記したいと思う。
千石まで、とにかく歩いた。もともと宛てはない、したがって、記すこともなく、地下駅に下り、もう一度、春日に戻って、えんま地蔵をと思った。
間に合った。次回に。
2008.03.15
メグロのタヌキ
西運は、お七の供養のために、日ごと、行人坂・明王院(または目黒不動尊とも)より、浅草観音までの道を歩いたと伝えられている。往復40キロを休まず一万日行(業)したともいわれている。27年間、続けて、ようやく、満(万)願を得たという。只今の最寄りを検めると、東急目黒線「不動駅前」〜都営三田線「三田駅」〜都営浅草線「浅草駅」というのが、駅探(ekitan)による最速経路で、所要時間は34分とある(ちなみに料金は380円)。単純に、往って、復えるとして、ザッパに計算して、1時間で「一日行」、1日で「二十四日行」、約417日、1年と52日で叶う(計算に自信はない)。これですら、行なうつもりはない日数であるけれども、西運はほぼ人生の残りを懸けた。火事(と喧嘩)は江戸の華ともいわれるが、それによって生まれた空(あだ)花も多い。お七もそうだし、振袖火事に伝わる三人の娘たちもそうなのであろう(事実かどうか、そのことは、どうでもよい)。
『黄金餅』というお噺は、五代目志ん生師匠が得意としていらした、らしい。手許の「志ん生の噺4/長屋ばなし」(ちくま文庫)の中にあった。下谷山崎町(現在の北上野あたり)の長屋に西念という僧が住んでいて、隣に、金山時味噌を売って糊口をしのいでいる金兵衛がいた。死に際に、西念はこれまで蓄えてきた金銀を誰にも渡したくない想いが強く、金兵衛にあんころ餅を買ってきてくださいと、頼む。戻って、イッコやニコ、駄賃代わりにくれるかと思った金兵衛の思惑は外れ、西念は一人で食べるつもり・・・不思議がって、壁の穴から覗き込んでいると、西念は餅に金銀を包(くる)んで、そのまま、口の中へと。終いには咽喉を詰まらせて、西念は亡くなる。その夜のうちに、長屋の皆と棺を担いで、麻布絶口(ぜっこう)釜無村の木蓮(もくれん)寺へと向かう。その道筋が細かく、噺の中にでてくる。
《下谷の山崎町を出まして、・・・・・、日本橋を渡りまして、・・・・、まッつぐに新橋を右に切れまして、・・・、木蓮寺へ来たときは、ずいぶんみんなくたびれた。あたし(演者=志ん生師匠)もくたびれたよ、これは・・・・・・。》で、客をぐっと引き寄せていく段(くだり)である。
この経路(かなり省いているが)というのが、明王院の西運がたどった真逆に近いと考えている。もちろん、現在より道路事情が限られているので、当時は、上野・浅草あたりから麻布・目黒(あるいはその逆)へと向かうには、同じようになるのであろうが、下谷の西念と明王院の西運といい、出家前の西運といわれる佐兵衛(お七の恋仲)と味噌売りの金兵衛というのは、考えすぎ、なのであろうか。もちろん、両者の(話の)筋はまったく異なっているけれども、なんとなく、対称に、想っている。
太鼓橋の向こうに渡る。
左角に大東カカオという会社がある。手許の電子地図の一方には、新不二屋製菓とあって、それが、大東カカオの販売会社であったとあとで知ったが、今は、親会社(大東カカオ社)に吸収されている。本館とアネックスがあって、その、いずれかに、オッジ(OGGI)というチョコレート、ケーキおよびジェラートを売るお店がある。螢ッジさんと大東さんは古くからのお付き合いだそうで、原材料を大東さんから仕入れて、販売しているらしい。わたくしは、食べたことがないので、ずいぶん、お店の前でうろうろしていたが、所用前だし・・・、と、訳の分からない理由でもって、やめてしまった。うっかりしていたが、ビルの色がチョコレート色だったかどうか、それを確かめがてら、また、うかがいたいと思う。
山手通り(環状6号)にでた。さすがに交通量が多く、横断歩道は近くになく、陸橋を渡って、向こう岸へ。本日は、あと2か所と思い、頑張った。蟠龍寺(ばんりゅうじ)は奥まっていて、ひっそりとあった。白粉(おしろい)地蔵さんが居て、「地蔵の顔におしろいを塗り、残りを自分の顔につけると美人になるという信仰があり、特におしろいに縁のある歌舞伎役者に信仰された」と、目黒区のサイトにある(目黒の地蔵尊信仰)。このお寺には岩屋弁財天というのが別にあって、みると、隣の敷地に食い下がるように岩屋洞(堂)が拡がっているようである。岩屋というと、例えば、江ノ島であるとか、淡路島を想うが、こういうふうに陸(おか)で見るのも、なんだか、地理感覚がずれて、面白い。(参考;大成建設蟒鬼コラム/岩屋の 弁財天 蟠竜寺)
[蟠竜寺の梅を]

[梅を、弐]

[梅さん]

「蟠」
虫さんが嫌いなわたくしには、やはり苦手な字面である。蟠(わだかま)る、この程度であればよいのであるが、次がイケない、【トグロを巻く】である。以上は、手持ちの漢和辞典の説明に拠る。蟠拠(ばんきょ)、最上徳内について、アレコレ眺めている際に、興味深く読ませていただいた「武家家伝_最上氏」(播磨屋さん)の文中に「・・・蟠拠して」とあった。蟠踞とも書き、トグロを巻いたようにうずくまる、あるいは、広い土地を領有して、城に立てこもる」と漢和辞典にあった。前者(トグロのほう)の状態で、城に籠もられたら、やはり、コワい。蟠蠎(ばんもう)となると、もうイケナイ(虫虫である)。ずばり、トグロを巻いている大へび、とあり、「蠎」は、ヲ(オ)ロチ、ウハ(ワ)バミ、ダイジャと読み訓だす・・・虫偏については、いずれ、書きたくないけれど、記したい。
@@@@@@@@@@@@@@@
さて、最後は、天恩山五百羅漢寺に。もう、そのお隣は、お不動(龍泉寺)さんでもある。頂いた小冊子には、
「元禄8(1695)年に本所(同寺サイトには五ツ目〜現在の大島とある)に建立された」とあるが、明治41(1908)年に当地に遷ったものの、寺運は上がらず、羅漢像は野ざらしのまま、朽ちるばかりの状態に陥っていたそうで、昭和56(1981)年に現在の雨露を凌ぐことのできる安住の地ができたという。したがって、300円は惜しくないと、言いきかせた。
[天恩山五百羅漢のサイト]※由緒など
この「目黒のらかんさん」にまつわる噺もあって、火事で焼け出され親と逸(はぐ)れてしまった年端もいかない女の子の話しである。この火事というのは、行人坂火事(明和の大火)のことであろうか。ただし、江戸時代に羅漢さんは本所(大島)にあったのだから、違うかもしれないし、落語というものは、そういう現実的なコトを考える必要もないので、これ以上、深追いしないが、最後だけ、紹介すると、
ここでも、長屋の衆が活躍して、親子は再会を果たすことになる。
(衆) 「やはり、(五百)羅漢さんのおかげだ〜ねぇ」と、
(住職)「い〜や、今は親子ヤカン(羅漢)だよ」というオチ。
まぁ、これだけでは、何も分からない。
[こぶし?もくれん?・・・]※らかんさんにて

どっちなのであろうか。わたくしにはさっぱり分からない、こぶしであれば、香りがと思うけれども、一輪が樹の最上にあるだけで、匂いが落ちてこない。「もくれん」であるのなら、落ちがないという「黄金餅」ではないが、拙ブロにも下げがつく。
お不動さんにはまた、と思う。それ以前に、自分の体力が限界でもあったし、背腹もくっ付きそうでもあった。山手通りを行き来している最中に気になっていた、おそば屋さんに飛び込み、「タヌキそば」を頼んだ。
「タヌキ・・・はないですが」と、
卓上にある器の蓋を開けてくださって、かけそばにふりかけてくださいと、中の「天カス」が少ないのを確かめて、隣の卓のものと換えてくださった。では、かけそばを、と、もちろん、所用前なので、そば茶を頂きながら、待ち、でてきた、おそばにたっぷりと、かすをかけて、器から、(かすの)おかわりをして、珍しく、たいらげた(お出汁も)。タヌキはメグロに限る、そういう、「落ち」にするつもりは、もうとう、ない。
次回は、駒込吉祥寺から白山に向かって歩いてみる。
『黄金餅』というお噺は、五代目志ん生師匠が得意としていらした、らしい。手許の「志ん生の噺4/長屋ばなし」(ちくま文庫)の中にあった。下谷山崎町(現在の北上野あたり)の長屋に西念という僧が住んでいて、隣に、金山時味噌を売って糊口をしのいでいる金兵衛がいた。死に際に、西念はこれまで蓄えてきた金銀を誰にも渡したくない想いが強く、金兵衛にあんころ餅を買ってきてくださいと、頼む。戻って、イッコやニコ、駄賃代わりにくれるかと思った金兵衛の思惑は外れ、西念は一人で食べるつもり・・・不思議がって、壁の穴から覗き込んでいると、西念は餅に金銀を包(くる)んで、そのまま、口の中へと。終いには咽喉を詰まらせて、西念は亡くなる。その夜のうちに、長屋の皆と棺を担いで、麻布絶口(ぜっこう)釜無村の木蓮(もくれん)寺へと向かう。その道筋が細かく、噺の中にでてくる。
《下谷の山崎町を出まして、・・・・・、日本橋を渡りまして、・・・・、まッつぐに新橋を右に切れまして、・・・、木蓮寺へ来たときは、ずいぶんみんなくたびれた。あたし(演者=志ん生師匠)もくたびれたよ、これは・・・・・・。》で、客をぐっと引き寄せていく段(くだり)である。
この経路(かなり省いているが)というのが、明王院の西運がたどった真逆に近いと考えている。もちろん、現在より道路事情が限られているので、当時は、上野・浅草あたりから麻布・目黒(あるいはその逆)へと向かうには、同じようになるのであろうが、下谷の西念と明王院の西運といい、出家前の西運といわれる佐兵衛(お七の恋仲)と味噌売りの金兵衛というのは、考えすぎ、なのであろうか。もちろん、両者の(話の)筋はまったく異なっているけれども、なんとなく、対称に、想っている。
太鼓橋の向こうに渡る。
左角に大東カカオという会社がある。手許の電子地図の一方には、新不二屋製菓とあって、それが、大東カカオの販売会社であったとあとで知ったが、今は、親会社(大東カカオ社)に吸収されている。本館とアネックスがあって、その、いずれかに、オッジ(OGGI)というチョコレート、ケーキおよびジェラートを売るお店がある。螢ッジさんと大東さんは古くからのお付き合いだそうで、原材料を大東さんから仕入れて、販売しているらしい。わたくしは、食べたことがないので、ずいぶん、お店の前でうろうろしていたが、所用前だし・・・、と、訳の分からない理由でもって、やめてしまった。うっかりしていたが、ビルの色がチョコレート色だったかどうか、それを確かめがてら、また、うかがいたいと思う。
山手通り(環状6号)にでた。さすがに交通量が多く、横断歩道は近くになく、陸橋を渡って、向こう岸へ。本日は、あと2か所と思い、頑張った。蟠龍寺(ばんりゅうじ)は奥まっていて、ひっそりとあった。白粉(おしろい)地蔵さんが居て、「地蔵の顔におしろいを塗り、残りを自分の顔につけると美人になるという信仰があり、特におしろいに縁のある歌舞伎役者に信仰された」と、目黒区のサイトにある(目黒の地蔵尊信仰)。このお寺には岩屋弁財天というのが別にあって、みると、隣の敷地に食い下がるように岩屋洞(堂)が拡がっているようである。岩屋というと、例えば、江ノ島であるとか、淡路島を想うが、こういうふうに陸(おか)で見るのも、なんだか、地理感覚がずれて、面白い。(参考;大成建設蟒鬼コラム/岩屋の 弁財天 蟠竜寺)
[蟠竜寺の梅を]

[梅を、弐]

[梅さん]

「蟠」
虫さんが嫌いなわたくしには、やはり苦手な字面である。蟠(わだかま)る、この程度であればよいのであるが、次がイケない、【トグロを巻く】である。以上は、手持ちの漢和辞典の説明に拠る。蟠拠(ばんきょ)、最上徳内について、アレコレ眺めている際に、興味深く読ませていただいた「武家家伝_最上氏」(播磨屋さん)の文中に「・・・蟠拠して」とあった。蟠踞とも書き、トグロを巻いたようにうずくまる、あるいは、広い土地を領有して、城に立てこもる」と漢和辞典にあった。前者(トグロのほう)の状態で、城に籠もられたら、やはり、コワい。蟠蠎(ばんもう)となると、もうイケナイ(虫虫である)。ずばり、トグロを巻いている大へび、とあり、「蠎」は、ヲ(オ)ロチ、ウハ(ワ)バミ、ダイジャと読み訓だす・・・虫偏については、いずれ、書きたくないけれど、記したい。
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さて、最後は、天恩山五百羅漢寺に。もう、そのお隣は、お不動(龍泉寺)さんでもある。頂いた小冊子には、
「元禄8(1695)年に本所(同寺サイトには五ツ目〜現在の大島とある)に建立された」とあるが、明治41(1908)年に当地に遷ったものの、寺運は上がらず、羅漢像は野ざらしのまま、朽ちるばかりの状態に陥っていたそうで、昭和56(1981)年に現在の雨露を凌ぐことのできる安住の地ができたという。したがって、300円は惜しくないと、言いきかせた。
[天恩山五百羅漢のサイト]※由緒など
この「目黒のらかんさん」にまつわる噺もあって、火事で焼け出され親と逸(はぐ)れてしまった年端もいかない女の子の話しである。この火事というのは、行人坂火事(明和の大火)のことであろうか。ただし、江戸時代に羅漢さんは本所(大島)にあったのだから、違うかもしれないし、落語というものは、そういう現実的なコトを考える必要もないので、これ以上、深追いしないが、最後だけ、紹介すると、
ここでも、長屋の衆が活躍して、親子は再会を果たすことになる。
(衆) 「やはり、(五百)羅漢さんのおかげだ〜ねぇ」と、
(住職)「い〜や、今は親子ヤカン(羅漢)だよ」というオチ。
まぁ、これだけでは、何も分からない。
[こぶし?もくれん?・・・]※らかんさんにて

どっちなのであろうか。わたくしにはさっぱり分からない、こぶしであれば、香りがと思うけれども、一輪が樹の最上にあるだけで、匂いが落ちてこない。「もくれん」であるのなら、落ちがないという「黄金餅」ではないが、拙ブロにも下げがつく。
お不動さんにはまた、と思う。それ以前に、自分の体力が限界でもあったし、背腹もくっ付きそうでもあった。山手通りを行き来している最中に気になっていた、おそば屋さんに飛び込み、「タヌキそば」を頼んだ。
「タヌキ・・・はないですが」と、
卓上にある器の蓋を開けてくださって、かけそばにふりかけてくださいと、中の「天カス」が少ないのを確かめて、隣の卓のものと換えてくださった。では、かけそばを、と、もちろん、所用前なので、そば茶を頂きながら、待ち、でてきた、おそばにたっぷりと、かすをかけて、器から、(かすの)おかわりをして、珍しく、たいらげた(お出汁も)。タヌキはメグロに限る、そういう、「落ち」にするつもりは、もうとう、ない。
次回は、駒込吉祥寺から白山に向かって歩いてみる。
2008.03.14
メグロメグリ(The SANMA limits it to Meguro, he said)
サンマは目黒に限る
、という有名なお噺「メグロのサンマ」は粗筋については、なんとなく理解しているものの、「公式」に聴いたことがない。目黒のお狩場に出かけたお殿様が空腹を訴えたが、あいにく食事の用意をしてこなかった。と、そこらから芳ばしい匂いが漂ってきて、それがサンマの塩焼きであった。当時は庶民(下級)の食べ物とされていたサンマであったので、お伴(家臣)たちは逡巡したけれども、背に腹はかえられない、初めてサンマを食したお殿様はすっかりご満悦で、後日、お城での宴にサンマを所望された。家臣はアレコレと考えたあげくに、河岸から仕入れた「上等」のサンマを(メタボ気味のお殿様のために)脂脱きをし、さらに、骨抜きをしたものだから、身が解(ほつ)れて、ぱさ・ぽさになってしまうが、(構わず)それを器にもって、供した。美味いわけがなく、(お殿様の)冒頭の口上(正直な感想)になった。
只今は年中サンマを食することができるが、やはり、旬は秋である(サンマ=秋刀魚)。降り塩をし、七輪でもって、適当に脂を落としながら、焼くのが美味しさを牽きだすコツらしい。今日の街中では とても難しい所作であるが、当時は、目黒に限らず、江戸のアチコチで、その(美味しそうな)煙が立ちこもっていたのであろう。サンマの煙は善いが、こちらのほうは避けたい。目黒行人坂は上から望むと、もう二度と戻りたくない勾配をもつ。
[行人坂]目黒不動尊への道であったともいう

その途中にある大円寺より出火したのは明和9(1772)年2月29日(28日の説もある)であるという。火勢は芝、日本橋、京橋、神田、本郷、下谷、浅草と拡がり、犠牲者一万数千人といわれる。10万人余の死者があったという「明暦の大火」(振袖火事)に次ぐ被災規模であり、「文化の大火(芝車火事、あるいは丙寅火事)とともに、江戸三大大火と称される。出火当時を現暦であらわせば、4月1日、この数日間、江戸(東京)に暖かさをもたらしている南西風が当時も吹いていたらしく、その影響で、北東へと火が持ち運ばれ、延びた。火元の大円寺には、その被災者を供養する石仏群(五百羅漢ともいわれる)が建立されている。西運堂(明王院)といって、現在の雅叙園〜アルコタワー付近に、お七を供養する目的で創まった廃寺(堂)があったそうである。現在は一部が、大円寺に移設されているそうであるが、西運とは「お七」が駒込に避難した際に心を焦がした佐兵衛のことである(諸説あり)、彼が出家して、明王院(西運堂)を築いたといわれている。諸説があって、以上については、主に「ぼやで身を焼く八百屋お七/消防雑学事典」(東京消防庁サイト)および「」を参考にした。
目黒を離れている。
10日に目黒から、春の日に誘われて、春日駅で降りたことは書いた。が、日暮れにもなり、目的地へいくことは叶わなかったし、だいいち、降りる駅を間違えている。少なくとも、ひとつ先の「白山」であった。
本日(12日)、西日暮里で降り、道潅山通りを経て、一時、迷いながら、動坂を上りきって、しばらく下ったあたりの通りでもって、「きっしょうじ」への道を「地」の方(かた)に尋ねた。「きちじょうじ」かい?、道が違うよ、といわれ、本郷通りに面しているからね、この裏道をいって、「突き当たって左、で右の、次も右」と教えられた。ようやく、たどり着いた。存外な広場があって、そこからながめる本郷通りの両側にビル影があって、界隈を車が走り過ぎていっているのであるけれども、ここだけが、静まりかえっていて、しかも、誰もいない。八百屋お七は、三大大火には及ばないが、天和元(1681)年2月の大火で焼き出され、駒込の吉祥寺に身を寄せた。もちろん、諸説があって、確かめようがないが、そのあたりを歩いてみたわけである。吉祥寺は、江戸城拡張のため、現在の水道橋あたりに移り、明暦大火(振袖火事)で消失、駒込に落ち着いた。ついでに記せば、中央線の吉祥寺はこの寺の門前住人が移り住んだことが由来であるという。第二次大戦で焼けて、今は、山門と経蔵(経典を納めるため)ぐらいしか残っていなく、ほかは、再建された建築物だそうである。
[本郷通り方向を望む](この鐘楼も古そうだけど)

[経蔵]

ただし、八百屋お七の物語は、ここだけで終わらない。もう少し、白山方向へと歩いてみることにする。
二たび、目黒に戻っている(10日)。坂を下り切り、太鼓橋(元名は一円相唐橋)のたもとに立っている。西運が架けたともいわれる。右側には古くからの鰻屋さんがあって、わたくしは所用前でもあるので(呑めないので)、横目でしかないけれども、櫻好きの方にはよいかもしれない。
[太鼓橋]

[鰻屋さん]目黒川の桜を観ながら、食べるのであろうか

次回は、太鼓橋から、お彼岸の方へと渡ってみる。
、という有名なお噺「メグロのサンマ」は粗筋については、なんとなく理解しているものの、「公式」に聴いたことがない。目黒のお狩場に出かけたお殿様が空腹を訴えたが、あいにく食事の用意をしてこなかった。と、そこらから芳ばしい匂いが漂ってきて、それがサンマの塩焼きであった。当時は庶民(下級)の食べ物とされていたサンマであったので、お伴(家臣)たちは逡巡したけれども、背に腹はかえられない、初めてサンマを食したお殿様はすっかりご満悦で、後日、お城での宴にサンマを所望された。家臣はアレコレと考えたあげくに、河岸から仕入れた「上等」のサンマを(メタボ気味のお殿様のために)脂脱きをし、さらに、骨抜きをしたものだから、身が解(ほつ)れて、ぱさ・ぽさになってしまうが、(構わず)それを器にもって、供した。美味いわけがなく、(お殿様の)冒頭の口上(正直な感想)になった。
只今は年中サンマを食することができるが、やはり、旬は秋である(サンマ=秋刀魚)。降り塩をし、七輪でもって、適当に脂を落としながら、焼くのが美味しさを牽きだすコツらしい。今日の街中では とても難しい所作であるが、当時は、目黒に限らず、江戸のアチコチで、その(美味しそうな)煙が立ちこもっていたのであろう。サンマの煙は善いが、こちらのほうは避けたい。目黒行人坂は上から望むと、もう二度と戻りたくない勾配をもつ。
[行人坂]目黒不動尊への道であったともいう

その途中にある大円寺より出火したのは明和9(1772)年2月29日(28日の説もある)であるという。火勢は芝、日本橋、京橋、神田、本郷、下谷、浅草と拡がり、犠牲者一万数千人といわれる。10万人余の死者があったという「明暦の大火」(振袖火事)に次ぐ被災規模であり、「文化の大火(芝車火事、あるいは丙寅火事)とともに、江戸三大大火と称される。出火当時を現暦であらわせば、4月1日、この数日間、江戸(東京)に暖かさをもたらしている南西風が当時も吹いていたらしく、その影響で、北東へと火が持ち運ばれ、延びた。火元の大円寺には、その被災者を供養する石仏群(五百羅漢ともいわれる)が建立されている。西運堂(明王院)といって、現在の雅叙園〜アルコタワー付近に、お七を供養する目的で創まった廃寺(堂)があったそうである。現在は一部が、大円寺に移設されているそうであるが、西運とは「お七」が駒込に避難した際に心を焦がした佐兵衛のことである(諸説あり)、彼が出家して、明王院(西運堂)を築いたといわれている。諸説があって、以上については、主に「ぼやで身を焼く八百屋お七/消防雑学事典」(東京消防庁サイト)および「」を参考にした。
目黒を離れている。
10日に目黒から、春の日に誘われて、春日駅で降りたことは書いた。が、日暮れにもなり、目的地へいくことは叶わなかったし、だいいち、降りる駅を間違えている。少なくとも、ひとつ先の「白山」であった。
本日(12日)、西日暮里で降り、道潅山通りを経て、一時、迷いながら、動坂を上りきって、しばらく下ったあたりの通りでもって、「きっしょうじ」への道を「地」の方(かた)に尋ねた。「きちじょうじ」かい?、道が違うよ、といわれ、本郷通りに面しているからね、この裏道をいって、「突き当たって左、で右の、次も右」と教えられた。ようやく、たどり着いた。存外な広場があって、そこからながめる本郷通りの両側にビル影があって、界隈を車が走り過ぎていっているのであるけれども、ここだけが、静まりかえっていて、しかも、誰もいない。八百屋お七は、三大大火には及ばないが、天和元(1681)年2月の大火で焼き出され、駒込の吉祥寺に身を寄せた。もちろん、諸説があって、確かめようがないが、そのあたりを歩いてみたわけである。吉祥寺は、江戸城拡張のため、現在の水道橋あたりに移り、明暦大火(振袖火事)で消失、駒込に落ち着いた。ついでに記せば、中央線の吉祥寺はこの寺の門前住人が移り住んだことが由来であるという。第二次大戦で焼けて、今は、山門と経蔵(経典を納めるため)ぐらいしか残っていなく、ほかは、再建された建築物だそうである。
[本郷通り方向を望む](この鐘楼も古そうだけど)

[経蔵]

ただし、八百屋お七の物語は、ここだけで終わらない。もう少し、白山方向へと歩いてみることにする。
二たび、目黒に戻っている(10日)。坂を下り切り、太鼓橋(元名は一円相唐橋)のたもとに立っている。西運が架けたともいわれる。右側には古くからの鰻屋さんがあって、わたくしは所用前でもあるので(呑めないので)、横目でしかないけれども、櫻好きの方にはよいかもしれない。
[太鼓橋]

[鰻屋さん]目黒川の桜を観ながら、食べるのであろうか

次回は、太鼓橋から、お彼岸の方へと渡ってみる。
