2008.04.29

お暇(いとま)中

 ブロ旅中である。といっても、出かけているわけではなく、呆けた頭の中にある旅の欠片をすくい取っている最中である。

チューリップ

 いずれ、また。再開したい。

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2008.04.20

浅草小島町・鳥越「おかず横丁」

 三筋(町)の西隣を小島(町)と謂う。小島の名は、三味線堀といって、鳥越川・新堀を経て、隅田川に注ぐ「運河」を開鑿した際の土でもって、埋め立てた人の名前だという説があり、また、(埋立という)緩い土地のため、大雨が降るたびに、辺りは水浸しになって、小島のようになったという異説もある。三味線堀も鳥越川(現在の蔵前橋通り南辺り)も今はなく、わずかに新堀通りという名を残すのみである。ここ(小島)が旧浅草區の西端でもある。今でいえば清洲橋通りが境になっている。古地図(大正か?)をみると、隣は下谷區竹町とある。一帯は久保田藩佐竹氏の屋敷跡である。佐竹町でなく、竹町というのは、屋敷前に竹門があったことからきているらしい。十数年前、知り合いの事務所を訪ねた帰りに、(稲荷町駅に向かうはずが)迷って、入り込んだのが「佐竹商店街」である。しゃきっとしたアーケードに蓋われた四町弱ほどが続く様に驚いた記憶が今もって、有る。ただし、記憶は記憶のままにしておきたいので、今回は訪ねていない。(商店街の歴史;佐竹商店街振興組合のサイトより)
 そのかわりに迷い込んだのが、「おかず横丁」、もう、先(東)に鳥越神社が控えている。もとは参道または門前だったのであろうか。ただし、そういう雰囲気を感じることは、今はできない。その名のとおり、お惣菜を売る店が多い。
おかず横丁の紹介(小堀グラフィックス株式会社のサイトより)
※佐竹商店街とおかず横丁を紹介しているサイト「ベイタウン旅行倶楽部/俺達のホームページ

[おかず横丁]※拙写
おかず横丁画像0015

おかず横丁2画像0013

おかず横丁3画像0012

 小島・鳥越辺りをそのまま西進すると、三日前(4月4日)に所用で訪ねた御徒町に抜けることになるので、方向を北にとり、上野方面へと向かった。方向音痴のわたくしでも、昭和通りと並歩していれば、大丈夫だろうという過信があった。上野駅というのは存外、見えにくく、いい換えれば、付近に高いビルがないので、的を得ない。そういう状態でもって、二たび、迷ってしまった。おそらくであるが、東上野一帯にゐて、パチンコ産業の会社ばかりがあって、中には内覧会を催していて、わたくしも入ってよいものかとか思ったけれども、だいいち、普段しないのだから、その必要もなく、悉(ことごと)く、通過した。過ぎてきた三筋辺りは軽工業といわれる繊維、衣料を扱う事業所(問屋)が多く、また、蔵前では「まつり・玩具」卸し(問屋)が何軒かあって、覘きはしなかったけれども、これから旬を迎える江戸・下町のご祭禮に備えているのだろうか、どこも、そわそわ、忙しそうにみえた。一方、「小島町」辺りには町工場が点在し、住居兼用の玄関先にある鉄ケバの量で繁華かどうかが少しだけうかがえる(お忙しそうだった)。

 以下は「平成16年商業統計調査報告(卸売・小売業) 」(東京都)である(一部を抜粋)。工業統計とか、事業所・企業調査でも良いが、「卸売」というのが、下町を測るにはちょうど良い。

 衣服・身回品/機械器具/一般機械器具/電気機械器具/卸売業総数(各総数に対する比率)
 [台東区:26.0%/20.3%/7.2%/6.4%(4,361店)]
 蔵前⇒34.8%、12.9%、1.7%、6.7%(178店)
 三筋⇒29.9%、11.2%、2.8%、2.8%(107店)
 小島⇒18.3%、25.8%、16.1%、7.5%(93店) 
 鳥越⇒23.8%、12.4%、2.9%、6.7%(105店)
 台東⇒13.0%、36.3%、11.3%、13.5%(460店)
 東上野⇒8.1%、39.5%、23.1%、8.1%(555店)

 もちろん、のちほど調べたものであるが、町の容(すがた)は数字によっても、多少なりともあらわすことができるようである。それそれの末尾にある卸売業店舗数をみると、さいわい、わたくしが歩いてきた町の繁華さの記憶にほぼ比例していて、少ないほど、可愛い町と、勝手に想っている。
 
 とにかく、上野の雑貨店でグラスを買っているのだから、そこまで、たどり着く必要もある。もう少し、さ迷いに、おつきあいをお願いしたい。

Posted at 22:34 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2008.04.19

塩キャラ(Salty-Character)※しかし、塩は、何故、サルトでなく、ソルトと謂うようになったのであろうか?Soltと書きがちである。

 マーケットで塩系を探していて、求めてきたのが、「明治製菓・アーモンドチョコ 塩キャラメル 70g」である。飾っておくだけなのも、なんであるので、昨夜食べてみたが、芯となっているアーモンドの硬さが一粒一粒異なっていて、中には、歯の悪い、わたくしにはとても噛み切れないモノもあって、少し、がっかりである。確かに、チョコ(コーティング)部とアーモンド部のハザマにある塩キャラ部を舌でもって感じることができるが、どうも以上3層(チョコ・塩・アーモンド)にまとまりがなく、口の中での一体感がない・・・エラソウなもの謂いであるが、仕方がない、わたくしの素直な感想である。(明治さん、ゴメンなさいね)

[塩キャラ]※開ける前
塩キャラ画像0009

[塩キャラ]※食べる前
塩キャラ2画像0011

 塩キャラ(クター)というのは、どのような性格をさすのであろうか。以前、醤油顔⇔ソース顔というのがあったけれども、それに倣えば、塩キャラ⇔甘(糖類)キャラとでも対比すればよいのだろうか。安易にあらわせば、しょっぱいヤツとあま〜いヤツということであるが、まずは、塩の性格(特性)を把握しておく必要がある。足攣りに効果のあるマグネシウム分が豊富ということは擱いても、やはり、万能であるということであろうか。ちょっと、おおざっぱなので、もう少し、加えると、甘(糖類)は人によって好みがあり、たとえば、コーヒーはブラックか砂糖入りかという違いがあり、(砂糖を)入れる場合も量に個人差がある(ちなみに、わたくしは、「入り」派で、しかも大量)。それに、比して、塩については、個人差が大きくない。もちろん、コーヒーに入れることはまずないであろうが、お料理で味付け(隠し味)に含ませる場合でも、あるいは、焼き魚の降り塩でも、「ああ、僕は多め(少なめ)にね」というようなワガママをいうこともあまりない。むしろ、近頃では塩分控えめで、世の中が統一されつつあるぐらいだから、やはり、砂糖ほどの格差がないと考えるべきであろう、と、かなり、無理に引っ張って、お塩の方が、より幅広い支持を受けているという、これまた強引さでもって、塩キャラ>甘キャラという仮説を点ててみると、はたと浮かんだのが、信長と秀吉というキャラ差である(家康は基準外ということで)。もしかしたら、お顔(実際に、ご拝顔したことはないが)からみれば、逆(醤油かソースかのレベルでいえば)かもしれないけれども、キャラ的には、そうではなかろうか、と、ひとり、妄想している。歴史をみれば、秀吉が跡をとって、いっとき甘〜い立場にもあったけれど、存外に塩味が効いていて、斃れた。これから、暑くなっていくけれども、甘味は腐り(斃れ)やすいので、気をつけたい。過度はダメであるが、適度な塩分でもって、食品を保つことだろうか。お漬物、梅干、塩だらなど、保存食というのは長持ちしている。やはり、塩キャラが良いのであろうか。

 現在、ボツポツと書いている蔵前からの徒歩記は、上野で終わる。その際、覘いたお店で、デュラレックスのグラスをみつけ、ウィスキー用にと、2ケを択んで、笊(ざる)やら叩き(はたき)を抱えている外国人観光客の支払いが終わるのを待っていた。

[上野の雑貨店で求めたDURALEXのグラス]※向こうで、サンタさんがボンボンを抱えている

グラス画像0017

(参照)ブログトコラボ4「さしすせそ、の、さしす、まで
 家庭における砂糖とお塩の消費量は、いずれも減っている。ただし、量そのものは、砂糖の方が、断然、多い。

Posted at 22:16 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2008.04.16

浅草三筋町

 どこまで、書いたのであろうか。三筋(みすじ)までかと、一週間ほど前の拙ブロを確認した。「是」である。三筋の由来は町内に三本(筋)の道が走っていた、という、あまり、面白くないことらしいが(週刊新潮コラム「タワークレーン」大成建設株式会社より)、同サイトに山形県上ノ山(かみのやま)出身の斎藤茂吉氏が上京し(明治29=1896年、氏、数え15の時)、「浅草区東三筋町54番地」で医業を営んでいた斎藤家へ養子に入ったとある。そういえば、茂吉氏の碑をみかけた記憶もあるが、ほとんど、忘れている。「三筋町界隈」(青空文庫)は茂吉氏の随筆で、その中に「蔵前の煙突」という箇所がある。方向音痴(これは、わたくしのこと)にとって、どこからも視認できる存在は、それが煙突であろうと、建物であろうと、ありがたいことであるが、氏にとっても「上京したての少年にとってはこの煙突はただ突立っている無生物ではなかったようである。」と、その存在にありがたみを感じていらしたようである。もちろん、氏が方向音痴であったかどうかは分からない。ただし、都に上りたての「小僧」に共通している不案内は昔も今も同じなのであろう、自分が戻るべき場所を確かめながら、ヨチヨチと、這い這いしながら、冒険をする、そういうことの繰り返しでもって、徐々に道なり、街を覚えていく。だいいち、その頃は、自分の塒(ねぐら)すら、どこにあるのか、把握していなかった。もっとも、今も不確かではあるけれども。
 
 蔵前の煙突というのは、蔵前(浅草)発電所のことであろうか。「蔵前タウンガイド」というサイトに紹介されていて、東京電力の前身でもある東京電燈株式会社が建てた。現在の蔵前変電所、すなわち、旧国技館付近にある。茂吉氏の記憶(上京された頃)と同社の「煙突」築造の時間が一致している。

蔵前の煙突](蔵前タウンガイドより)
 
 ちょうど、今頃は、今秋の実りを期待しながら、農家の方々が、種を、苗を、土に託しているのであろうか、昔なら、お牛さんなど、今なら、トラクターか、春季発動(機)である。同じように、「小僧」には春が芽生える時季でもある。それを、茂吉氏は、春機発動期と著した。『三筋町界隈』の終わりは、そういう軽口でもって、〆られている。以下、青空文庫より、引用する。

《まえにもちょっと触れたが、上京した時私の春機は目ざめかかっていていまだ目ざめてはいなかった。今は既に七十の齢(よわい)を幾つか越したが、やをという女中がいる。私の上京当時はまだ三十幾つかであっただろう。「東京ではお餅のことをオカチンといいます」と私に教えた女中である。その女中が私を、ある夜銭湯に連れて行った。そうすると浴場には皆女ばかりいる。年寄りもいるけれども、綺麗(きれい)な娘が沢山にいる。私は故知らず胸の躍るような気持になったようにもおぼえているが、実際はまだそうではなかったかも知れない。女ばかりだとおもったのはこれは女湯であった。後でそのことが分かり、女中は母に叱(しか)られて私は二たび女湯に入ることが出来ずにしまった。私はただ一度の女湯入りを追憶して愛惜(あいせき)したこともある。今度もこの随筆から棄(す)てようか棄てまいかと迷ったが、棄てるには惜しい甘味がいまだ残っている。》

 春気である。

参照;齋藤茂吉氏の「三年」という小品文(青空文庫)にふれて。
 拙ブロ「神町へ(2)〜若木(おさなぎ)山」(08年2月3日付)
 拙ブロ「蔵前四丁目・タイガービル」(08年4月8日付)※蔵前国技館

Posted at 23:18 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2008.04.15

咲くら

 好きでないはずなのに、先週は「桜」ざんまい。山の花(サクラ)は、まだ満開とはいかなかったけれども、つぼみが可愛い。

桜9画像0019

 戻るすがら、その順番に遵(したが)えば、サクラ、ナシ、モモ、色であらわせば、薄墨、淡白、桃と移ろい、ただし、個々の花色は移ろうこともなく、耀いていた。
 眠りから覚めて、ふと、車窓を覗けば、東都は、万華の彩り。はぁ〜。

 無駄に撮った写真を一掃。(4/10〜14)

桜3画像0012

桜2画像0011

桜4画像0013

桜70017

桜8画像0018


Posted at 21:55 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2008.04.08

蔵前四丁目・タイガービル

 榧寺(かやでら)横の狭い脇道をほぼ南下すると蔵前神社にいたる。神社の手前、お寺の向こう隣にみつけたのが、バックパッカー向けの安宿である。中を覘こうと、ふっと、中年のおじさんが出てきて、眼が合った、どうも宿泊者らしい。背広にネクタイ姿であったので、パッカーではないだろう。場所も良いし、安いので、わたくしも、一度と思っている。

バックパッカーズ ホステル ケイズハウス東京
 蔵前近くの安宿画像0009

 外国人向けの安宿といえば、日暮里駅きわの「寿々木旅館」や谷中よみせ通りの「アネックス勝太郎」(安いとはいえないけれども)などを思い起す(ただし、宿泊経験はない)が、カプセルホテルや24時間サウナが減っている状況では、出張などで地方から出て来て、より安く泊りたい向きには良いかもしれない。もっとも、ネットカフェといった新たな宿泊形態も登場しているので、ソッチへ行くのも、もちろん、良い。
 わたくしは相撲に疎いから、あとでサイトなどで気づいたのであるが、蔵前神社は相撲と縁が深いらしい。今の大相撲のもととなった勧進(大)相撲が境内で催されていたらしい。もともと、寺社の普請(建立や修理)をするために募った寄付行為を「勧進」といって、相撲もその一環であったのだろう。同社のサイト(勧進大相撲)によると、1833(天保4)年、回向院が定場所となる以前は、ここで、盛んに行なわれていたようである。以後、大相撲の歴史は回向院から、現在の(両国)国技館に移るのであるが、いっとき、蔵前(国技館)があったことも、そういう事情があるのであろうか。訪ねたことはないが、旧国技館跡地は現在、都の下水道局施設(処理場)になっている。相撲協会はこの用地を都に売却して、新国技館(両国)を造った、と、昔の記憶にある。最近はさっぱりであるが、小さい頃、大鵬、柏戸の、いわゆる柏鵬時代に相撲は観ており、憶えている。それらはすべて蔵前(東京場所)での残像なのである。
 同サイトの「万年青品評会」が面白い。もちろん、植物にも疎い、わたくしなので、眺めているだけである。万年青は(訓して)読むことができない。歌手の一青窈さんがヒントになるが、こちらも、一筋縄ではない。サイトにある万年青(おもと)の画像をみると、ああ、例えば、月島とか、谷中とか、下町によくある光景の一部にこれらがあるのではないかと、納得した。これまで、朝顔ぐらいしか、分からなかったけれど、次回、下町方面を訪ねる際は、気を留めてみたい。
 神社をあとにすると、もう、お目当てはない。したがって、迷うという事態は生じないので、ふらふら、さ迷ってみた。あいにくのお天気で、太陽の方向も分からないが、方向音痴のわたくしには必要ない。道路標識や通りの名称あるいは住居表示案内図などを時おり参照にしながらの「宛て」のない歩行作業である。国際通り(那覇でなく、浅草)になるのだろうか、通りの向こうに古いが、素的な建物を発見した。屋上には樹木が、1階は波斯絨毯屋さんである。戻ってからであるが、ネットで、「蔵前 ペルシャ絨毯」で検索してみると、そのお店が判明した。住所でもって、電子地図に調べていただくと、表示されたのが、タイガービルである。
 ヒトというのは、目のつけどころが変わらないためなのか、あるいは、その存在(同ビル)に誰もが気になる力が在るからなのであろうか。いくつか、サイトでの紹介も見つけた、その筋では有名であるらしい。

 繰り返すけれども、素的。

[古くて、素的なビル]※拙撮
古いビル画像0011

 Take your timeというサイトにキレイな画像があったので、どうぞ。

 蔵前あたりを歩いていると、タイガーさんには及ばないものの、はっとするような建物がいくつもあって、楽しい。

 一瞬、迷った(道でなく、心)が、鳥越神社(6月に大祭がある)はまだだろうと、勝手に解釈して、三筋という町名に惹かれて、体ごと牽かれていった。
 いま、わたくしが立っている場所を大まかに表わすと、浅草の南、隅田川の西、上野の東辺りであって、日本橋や浅草橋からみると、北側に当たる。要するに、下町の中の下町であり、隅田川を除く、以上に記した町に比せば、地味ながら、落ち着いており、雑遝(雑沓、雑踏)もなく、わたくしのような不審者の存在が、なおさら目立つのでもある。が、しかたがない、とにかく、帰るためには、どこかに駅を見つけなければいけない。もう少し、さ迷ってみよう。(続く)

Posted at 22:35 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2008.04.07

蔵前から徒歩記

 所用を終え、都営大江戸線の「蔵前」駅で降りた。ここは、同じ都営の浅草線とは《地上乗り換え》という、訳の分からないアナウンスが聞こえてくる。電子地図上で測ったので、正確ではないが二百数十メートル先に、その駅はあり、しかも、通りを曲がることが必要となるため、もちろん、案内図はあるが、乗り換え客は戸惑う。これでは、JR山手線「御徒町」駅で、東京メトロ「仲御徒町」駅はお乗換えですといっているようなものである、サギに近いかもしれない。いったい、どの程度の人が、アナウンスを信じて、乗り換えているのか、数えてみたい気もする。
 さて、駅を上がると、すぐに、「榧寺(かやでら)」がみつかる。というよりも、手前にある「かやの木会館」が見えて、その先にお寺が。明日は、4月8日、すなわち、お釈迦様のお誕生日である。「花まつり」というが、同寺でも盛大にお祝いがあるという案内が貼られていた。だからといって、わたくしは行くことはないが、いよいよ春という思いをもたせていただいた。榧というのは、どういう木なのか、さっぱり見当もつかないが、言い伝えによれば、ある時、山伏がやってきて、寺の僧と囲碁でもって榧(の実)を賭けた。山伏が勝ち、大木ごと遠江(とおとうみ;おおむね静岡県西部)に持ち去ってしまったらしい。
 以上は、「てらたび」というサイト内の榧寺についての紹介である。また、FUKUSHI’s Go Home Pageというサイトでは、囲碁ゆかりの寺社としても採りあげられている(囲碁ゆかりの地)。いずれのサイトにも共通しているのが、山伏の正体が秋葉大権現であったという点である。只今は浜松市天竜区の一部となった旧・春野町、天竜川とケタ(気田)川にはさまれて、秋葉山(あきはさん)があり、蔵前の榧は、ここへ移植され、囲碁(以後、ね)、たわわな実をつけたという。古くは、どんぐり、しい、あるいは、とちなどの実と同様、食用として、重用されていたわけだから、山伏(大権現)さんも是非ともほしかったのであろうか。わたくしも古い人間だから、どんぐり、しいは、やはり食していたが、たまに、虫入りもあって、往生(困り果てる)したことがある。ただし、秋葉山に榧があるかどうか、わたくしには分からないし、あっても、おそらく、分からない。
 藤枝静男氏の『悲しいだけ』(講談社刊、1979=昭和54年)に、《半僧坊》という小品文が収録されている。その中で、秋葉山にふれられていて、秋葉三尺坊(秋葉神社の南)に集う三尺坊たちが、お清めの火祭りを年一回行ない、(以下、引用)
 《全国の天狗代表が参集して、宴を張り、三宝に山積みされた栗榧椎の実、山芋、生牛蒡、生大根、生人参、生田螺(たにし)の類を非常な速度で噛砕く音だけが、二重の御簾をへだてた次の間の暗黒に控えている神主とその一族の耳に響いてくるだけである。》
 と、やはり、榧があったらしい。これが、蔵前から掠めてきた木であろうか。
 榧は碁盤(あるいは将棋盤)としても上等らしい。
 
 本日は、駅(大江戸線・蔵前)を降りて、たった、数十歩しか、記すことができなかった。ここから、上野まで歩いた(途中、ふらふら迂回)ので、引き続き、と思う。


Posted at 23:23 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2008.04.06

もっけのさいわい

 ある会話中に、とびだした死語(作日は4・5)である。
 ・・・・・どういう意味か?
 と問われて、沈黙した。
 もっけ、のことである。
 戻り、辞書を開くと、
 ・・・・・もっけのさいわい【勿怪の幸】とあり、思いもよらないさいわい、とある。「新明解古語辞典」(監修;金田一京助氏、編者代表;金田一春彦氏)のもっけのページを捲ると、もっけ【物怪・勿怪】とあり、思いがけないこと、意外、とあった。「最新詳解古語」(編;佐藤定義氏)には、以下のとおりある。
 ”垉箸覆海函災害、異変。
 ∋廚いけないこと。予期しないこと。意外。
 (「もっけのさいわい」の略で)思いがけないしあわせ。
 どうやら、物の怪(気)〜もののけ、と、同じようである。2日に、神田淡路町の「幽霊」坂を歩いたが、こちらにも親(ちか)しい存在であるが、両者は明確ではないものの、異なっているのでもあろうか。例えば、お岩さん、お菊さん、あるいは、アカーキイ・アカーキエヴィチは幽霊なのか、ゲゲゲの鬼太郎に登場するファミリー(ヌリカベさんとか;水木しげるの妖怪ワールドより)やコバリョーフの鼻は物の怪なのか、あるいは、ドラえもんは・・・となると、もう、よく分からない。
 「菅江真澄」(著;田口昌樹氏)に修験者(山伏)によって、秋田はじめ東北に普まった「番楽(ばんがく)」という芸能の記述がある。同著によると、神楽、権現舞あるいは能楽とも呼ばれるとあり、例えば、秋田県指定無形民俗文化財にもなっている根子(阿仁町)、仁井田(旧十文字町)、本海(旧鳥海町)などに、残り、継がれている(秋田県サイトより)。山伏といえば、山形県であるが、もちろん、番楽もあるが、ここでは、黒川能という別系統の農民による能楽がある。うっかりしていたが、この3月に東京公演があったらしいが、まったく、知り損ない、見損なった(金山の番楽も同時に行われていたようである)。[山形の芸能at国立劇場より]※すでに終了している
 今、ながめている菅江真澄の描画(スケッチ)は秋田県五城目町の番楽面(めん)である。サイト(五城目町の番楽面/秋田河川国道事務所より)でみつけた「お面」は、いずれも物の怪ぽいが、真澄のほうには、幽霊ぽいのもある。もちろん、わたくしの勝手な判断であり、やはり、双者を分けることはむずかしいのであろう。
 ただし、もっけのさいわいとは、気もち的には、もっけ<さいわい、ということなのであるが、それでは、もっけに申しわけない。もっけ≒さいわい、あるいは、もっけ>さいわい、ということもあるのではないだろうか。

Posted at 22:51 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2008.04.05

花道、散りぎわ

 所用と所用のハザマで人形町〜水天宮を歩いた。人形町通りというのか、両袖に桜の木が満開(やや、散り気味)で、そこをくぐりぬけていると、まるで、花道で見得を切っているような錯覚をする。もちろん、首都高6号向島線、東京シティ・エアターミナルあたりを過ぎると、散り(去り)ぎわを心得て、所用に心を少し傾けようと、勉めた。こういう、落差があるものだから、わたくしは、桜が好きになれない、忙しない、どうしても、そういう気もちになってしまう。(と、記しながら、なんではあるが、この8日には桜まつりが開かれるとあった、今週末・・・本日からだけど、まだ、見ごろかもしれない。よかったら、どうぞ。)
 2件目(所用)を終え、歩こうと思った。すでに、ブルーモーメントもなくなった7時前、暗くなりかけた通りを戻り、水天宮駅も、人形町駅も無視して、ひたすら、北上(やや西側)し、堀留町を通過し、小伝馬町駅まで至った時点で、江戸通りを右折した。うってかわって、木蓮の街路樹が、もう、大きな白い華を路上に落としていた。木蓮かどうかは、わたくしには分からないが、香りがしない、という、ことのみでもって、そう断記している。確かに、目黒でみた「の」より、大ぶりであるようにも。ということは、目黒「の」は、コブシであったのであろうか(拙ブロ;メグロのタヌキ、08年3月15日付)。
 こちら(江戸通り)のほうが、花道もなければ、「きわ」もないから、ずっと、忙しくなくて、わたくしには良い。馬喰町、横山町辺りを歩いている。もう、業務は終了している問屋街を横目に、力尽きて、地下駅に潜った。いつ、再訪しようかと、思案している。

Posted at 00:39 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2008.04.03

幽霊坂(淡路町とぼとほ短記)

 所用でもって、ひさかたぶりに、淡路町(あわじ・ちょう)界隈を歩いた。所用先とは少し離れているが、新御茶ノ水の聖橋方向口を降りることに決めた。これもまた、久方のニコライ堂を眺めに行くためである。思いのほか、そういう方(かた)たちが多くいらして、中には、本格的なカメラを向けている人もいて、もちろん、個人的に使用する以外許されていないけれども、ついでに、わたくしも、携帯で。同堂については、いまさら、記すこともないので、日本正教会のサイトでどうぞ。ひとつだけ、ふれておくと、拙ブロ「黒岩比佐子(くろいわ・ひさこ)さん」(08年2月1日付)で、紹介した黒岩比佐子さんの「日露戦争 勝利のあとの誤算」の中に、「群集」による東京中の焼打ち「騒動」で、ニコライ堂も当然、(欲求不満の)標的となり、狙われることになるが、何故か、難を逃れているとある。警護に当たった軍人に対する配意と同著にはある。その後、ロシヤは暗い70年間を含め、世界と「敵対」するが、その間、ニコライ堂が襲われたという話は聞かないし、旧ソヴィエト大使館のような堅牢な護りはなかったように思う。政教分離と、いえば、それで済むことではあるが、ろくに、宗教を解さない、わたくしどもが、このドームを「護って」かつ「親しんでいる」(この日のように、訪ねる方が絶えない)ことに、先の焼打ちのことといい、不思議な一件である。

[ニコライ堂]
ニコライ3画像0013

 所用を終え、少し、まわり道をして、幽霊坂をのぼった。意味はない。ニコライ堂前を紅梅坂といって、その名のとおり勾配はきついが、幽霊坂はもう少しきつく、しかも寂しい。そういう雰囲気もあって、その名が付けられたようである。もともと、双つの坂は結ばれていて、のちに、本郷通りが縁を割いたと、幽霊坂を案内する千代田区の標識にあった。

[ニコライ堂・弐(ニ)]
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[幽霊坂]
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[幽霊坂の案内識]
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 幽霊坂のある神田淡路町の名は、神田川沿いにあった鈴木淡路守の屋敷に由来するとあるが、これが誰かが分からない。三河由縁の旗本家であるのか?確かに、鈴木は多い(全国的に多いともいえるけど)。今のところ、とっかかりが淡い。
 以上を含めた坂の由来については千代田区のサイトにある「千代田区内の坂」で紹介されており、49.淡路坂、50.紅梅坂、51.幽霊坂をみていただきたい(もちろん、ほかの坂も、どうぞ)。
 この辺りは坂も多いが、橋も多い。金井湛(しずか)はアズマ先生の居宅(神田小川町〜淡路町の南および西隣))から進文学社・舎(本郷)に通うが、坂をのぼり、橋を渡りながら、何を想っていたのであろうか。(拙ブロ「あまねく」08年1月13日付)

 時間をみつけて、もう一度、このあたりをとぼゝ、と、歩いてみたい。

Posted at 23:51 | 雑に | COM(0) | TB(0) |
2008.04.01

まだ冷たい手のひらに

 使うために、しばらく放っておいた手提・肩掛兼用鞄を隅から取り出してきた。ふだんは、バックパックというか、リュックを背負っているだけなのであるが、少し、長くなる旅などにはコッチはパソコン、本、文具、アッチは衣類というように分けて、持っていくこともある。いくつかアッチ鞄があることもあり、戻って、そのまま、納めた状態で「放る」ことも「まま」ある。もちろん、旅の終わりがけになると、アッチもコッチも、旅前と異なり、ゴチャゴチャになっている。今回のアッチを開けてみると、旅先で集めてきた無料誌や地図などがでてきて、それが、琉球の際のものと判った。ハテ、いつの際かと、確かめると、どうやら、05年12月に訪ねた際であると解った。「うない」という琉球新報社が出している冊子の表紙には「新・沖縄おせち」とあって、2006年1・2月号とある、おそらく、前の年(05年)中に配布されていたのである。「NAHA NAVI」という那覇市の中心街を隈なく描いている便利な地図も鞄内にあって、05年11−12月版とあるから、間違いないであろう。このときはよく憶えている、予定が延びて、クリスマスも、大晦日も(ホントは毎日だけどね)、山羊屋さんで過ごして、元日に戻ってきた時である。「うない」にはカフェ沖縄式のことや、渡嘉敷島以外のケラマ(慶良間)が紹介されていて、明日にでも、訪ねたい気分になっている。

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 まだ、いろいろと、飛び出してきて、紹介しきれないが、「びあ ぶれいく」はオリオンビールの冊子、特集は「南国沖縄 鍋料理を巡る冒険!」、唐芋(さつまいも)、木綿、精糖といった産業を興した儀間真常(ぎま・しんじょう)氏の記事も見つけた。裏表紙にある、季節限定醸造<生>ビール 「オリオンいちばん桜」はもう、ないのであろうか。そうだよね、コッチですら、もう桜は散っている、いちばん桜の発売は12月、あるはずがない。空港リムジンバスの時刻表(05年4月〜06年3月)、滞在先のキーカード入れ、そして、何故か、「横濱カレーミュージアム」のパンフ、これは、憶えていなかった。閉館直前に、その前を通ったことはあるが、と、考えてみると、カフェ沖縄式が出店するということでもって、山羊屋さんで頂いたことを!と想い出した。「だいこんの花」という健康食彩レストランの冊子は、どこで手に入れたのであろうか、正月特番公開録画入場整理券・・・・ココにあるということは、行っていないということであろう。
 びっくり鞄から、琉球の香りが漂ってきて、できることなら、と、画策をしている。

 標題は「黒夢」というグループの、拙ブロを書きながら、繰り返し、(壊れかけたMDでもって)聴いている歌曲の一部である。

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